2000’sTODAY みんなの“いま”を話そっ!VOL.9 MAIL

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 断腸の思いで姉の遺体を野焼きした  私はこの世で地獄を見た
「医師の言葉」に…  医師だけではないはず  医師の言葉  【北風は冷たかった】
【普賢岳を覚えていますか?】  【ちびとも日記】bV  【フリーマーin札幌】  【“生”の終りを…】
【おいしい?】  【ちびとも日記】bU  【親は‥(病棟から)】  【幼い頃の……】
【ちびとも日記】bT  【ちびとも日記】bS  病院(或は医師)に思うこと  【ちびとも日記】【bR】
【いま 母は元気です】  燕尾服の〜  【ちびとも日記】bQ 【ちびとも日記bP】
写真というもの  決断 生体肝移植  ターミナルケア  患者さんは多いです
どうする!“ゴミ”  癌 その時貴女だったら?  インフォームド・コンセント  「かあさん!…」を応援
患者さんを 父を  心が通じなければ  WATASHI  母さん!頑張ろう
父が……  クリニックの今  「WATASHI」読みました  YUN TODAYbQ
YUN TodaybP
              MAIL

間もなく広島に原爆が投下された「原爆記念日」8月6日がやってきます。
あれから 55年、あのおぞましい記憶もだんだん風化しようとしています。
5年ほど以前にM Rジャーナルに寄稿して頂いた今井恵子さんの生々しい原爆体験記をここに再録させて頂いて、
戦争の恐ろしさをもう一度思い起こしてみたいと存じます。
                 富田林市 吉原 肇

      私はこの世で地獄を見た

               原爆体験を語る 堺市在住 今井 恵子

今から五十年前、日本のあらかたの都市は空爆によって破壊され、敗北への道を辿っ ていました。
当時、私は県立広島第一高女に在学中でした。昭和二十年二月、学徒勤 労動員令が発令され、
各地に出勤させられました。私は市内高須の広島航空に出勤しました。
全く素人の私たちは俄か仕込みの訓練で、旋盤やボール盤やプレス機を使っ たり、
ハンマーやヤスリを使う仕上げの仕事に従事していました。
今考えれば、あの 精密を要する航空機の部品がそんなに簡単に作れる訳はないのですが、
物心をついた頃から「勝つまでは、勝つまでは」という教育をされてきた私たちは、何の疑いも持 たずに働いていました。  

そんな日々の中で確か七月二十八日のこと、工場が休みで疎開先の家の庭から海を 見ていると、上空にグラマンが四機編隊で
侵入してきました。多分偵察のためと思い ます。その中の一機が突如高度を落とし、黒煙を吹きながらバラバラになって
佐伯郡八幡村の方向に落ちてゆきました。
敵兵が生きているかもしれないと、捜索隊が編成 されて山狩りが行われ、父も参加しました。
米兵は全員死亡していました。その時、 父がこっそりと、壊れた部品や風防ガラス、落下傘の切れ端を持って帰りました。
そ れを見てアッと驚きました。私たちの作っている物とは全く違っていました。父も呆然として「この戦争は負けたな」と、ポツリと言いました。
私も「もう駄目かな」と 思いました。それより一ヶ月前、沖縄が敵の手中に落ちた時も、詳しいことは何一つ知らされて いなかったので、
まだ勝利を信じていました。イヤ、心の中では「もう駄目かも・・ 早く戦争が終わらないかなあ」と思っていました。
そして戦局は日に日に破局に向 かって進んでいたのです。そんな中で、不思議なことに、近隣の呉や徳山が連日の空襲で焼け野原になり、
大きな被害を受けている様子なのに、広島は空襲らしい空襲は なく、割合のんびりとしていました。

そして八月六日、その日は朝から雲一つない快晴でした。この日は電気休み(電力不 足で工場は順番に休業した)でしたが、
建物疎開で不要になった木材を貰って、工場 の増築をするために学生も市の中心部に行くことになっていました。
当時は七時出勤 で、同じ工場に動員されていた県立一中生は七時半頃に出発しました。
私たちは寄宿 生の弁当が届くのが遅れたため、まだ工場にいました。 八時頃空襲警報が鳴り、全員防空壕に入りましたが、
間もなく解除になったので、工 場の中に入り、防空頭巾を脱いで「ああ、暑かった」などとおしゃべりをしていると、外にいた人たちが
「落下傘が落ちてくる!」と声を挙げました。その声で、フッと窓の方を振り返った瞬間、壁の裸電線が火を噴くと同時に、向かいの工場の上に、
ピンクともオレンジともつかぬ色の、昇る太陽のような火の球が、アッと言う間に空一杯に広がりました。同時に光が破裂して目がくらみました。
フラッシュを何千発も 一度に焚いたように感じました。
お話しすると、長く感じられると思いますが、本当にアッと言う間の出来事で、次 の瞬間には窓ガラスは吹っ飛び、天井の梁が落ち、
建物が崩れて下敷きになっていました。幸いなことに私は机などで空間ができたので、押し潰されませんでした。
近く にいた友人たちも軽い怪我をしているようですが、何とか無事な様子です。近くにい る人たちと力を合わせて、
少しずつ隙間を作りながら潜り抜けて、やっとのことで、 屋根の上に脱出しました。
火が出なかったのと、平屋建てで入り口に近かったことが 幸いし、外部からの助けもあって、全員脱出できたことは何よりでした。  

一時間ぐらいは経っていたと思います。
外に出て改めてびっくり、自分たちの建物 だけと思っていたのに、工場の建物全体がメチャメチャに壊れています。
先に脱出で きた人たちが、まだ下敷きになっている人たちを助け出そうと、必死で作業をしてお られました。私たちもそれに加わりました。
外にいて火傷をした人たちやひどい怪我 をした人たちは、既に裏山に非難しているとのことでした。一緒に脱出した友人の中 にも、
大怪我をして血だらけの人もいます。幸い私は軽傷でした。少々の怪我など傷 のうちに入りません。下敷きになっていた人たちも全員救出され、
みんなで山へ逃げ ました。 道路に出ると、そこには信じられない光景が広がっていました。市内から逃げてくる 人で一杯です。
その物凄いこと、みんなボロボロなのです。着ている衣服はズタズタ で、まるでハタキのようになり、それに火傷をした皮膚が垂れ下がって、
まるでボロ 布が歩いているようでした。火傷といっても、筆舌に尽くし難いほどひどいもので、 顔は真っ黒に腫れ上がり、
目も鼻もわからないくらいになっています。腕が焼けただ れ、皮膚がペロンと垂れ下がって、指先までゴム手袋をぶら下げたように、
手の先に ぶら下がっている人、身体中焼けただれて、普通なら歩けないような状態の人が、
みんな歩いて、次から次へと命からがら逃げて来られます。  
中でも、強烈に印象に残っているのは、殆ど前身に火傷をした上に、爆風で飛んで きたのでしょうか、
一メートルぐらいの棒が目に突き刺さったまま、抜くことも出来 ず、火傷をした手でそれを支えながら逃げてくる女性でした。
また、火傷をして裸同 然の身体にムシロを巻き付け、前後を支えながら逃げてくる人、そして、逃げてくる 人たちはみんな重傷を負い、
その人も「爆弾が私の目の前に落ちた」「私の家を直撃 した」と言うのです。
本当に何が何だか判らず、ただ安全な場所を求めて逃げて来ら れるのです。
私たちも「自分たちの工場が直撃された」と思ったので、唖然とするだ けでした。  

山の避難場所に着くと、そこではすでに多くの人たちが、ある者は火傷をし、ある者は切り傷を負って逃げてきていました。
元気な者が看護に当たり、横穴に隠して あった薬品類で応急手当をしましたが、薬品類もすぐに底をつき、残ったものは食用 油だけになりました。
当時は、火傷には油が良いと言われていましたので、少しでも 痛みを和らげることが出来ればと、食用油を傷口に塗るのが精一杯でした。  
その間にも次々と亡くなってゆきます。お名前や住所の判った方は、ノートに書き 留めました。
そんな中で、一人のおばあちゃんが
「嬢ちゃん、洗濯をする時にセルロ イドの石鹸箱を傍に置いたらいけんよ。焼夷弾の火がそこに引火してこうなったん じゃけん」と言って
息絶えられました。そう信じて亡くなっていったのです。
まさか 自分たちの上に、あんな恐ろしいものが爆発したとは夢にも思わず、多くの人たちが 亡くなっていったのです  

お昼前だったと思いますが、真っ黒な大粒の雨が降り出しました。「重油を撒いて火を付け、皆殺しにするつもりだ」と言う人もあり、
一時騒然となる一幕もありまし たが、やがて雨も止んで、少しづつ落ち着いてきました。一度市内を見てみようと、 山の頂上近くまで登って見渡すと、
川向かいの三菱重工の建物が全く見あたらないの です。よく見るとペッチャンコになっているようです。さらに市内中心部に目を移すと、
あちこちで火の手が上がっています。
この時になってやっと「これは大変なこと になった。きっと今までに全く聞いたことも見たこともないような爆弾ではないのか ?」と思いました。
原爆なんてものを、今まで全く聞いたこともなかったものですか ら。

やがて市内全域が火の海になり、黒煙が空一杯に広がってきました。市内に家があった友人は、父上が戦死され、母一人子一人であったので、
母上を案じて「お母さ ん、お母さん」と泣き出しました。私も他の友人も不安でたまりませんでしたが、
逃 げてくる人は増えるばかりでそんなことは言っておられません。次々と力つきて亡く なってゆく人もあります。
中には、探しに来た家族に引き取られてゆく遺体もありま した。
こんな状態の中ではこのように家族に引き取られる方はまだ幸せな方でなかっ たかと思います。  
私たちも看病や炊き出しで走り回っていて、家のことは考える余裕もありません。 ただ私の家の疎開先が宮島寄りなので、
多分大丈夫だと言い聞かせておりました。

夕暮れになり、火は更に燃えさかり、空は真っ赤に染まっていました。その夜はそこで過ごしました。
あたりは亡くなった方や重傷者のうめき声で一杯ですが、どうしてあげることもできず、マンジリともせず一夜を明かしました。
朝になると、軍隊や在郷軍人や一般の人たちが救援に来られ、遺体が運び出されて 行きました。
午後になり、先生から「宮島沿線で歩いて帰れる者は帰宅しても良い」 と、お許しが出ました。残っている人たちに心を残しながら、
駅にして五つほど宮島 寄りの我が家まで歩いて帰宅の途につきました。途中、草津の永田病院まで来る と、
入り口から奥の廊下まで多くの人たちが倒れていました。殆どの方は全身の火傷 で、すでに亡くなっておれられました。
同じ所に動員されていた県立一中の生徒も亡 くなっていました。彼らは炎天下で作業をしていたので、
六十名中僅かに五、六名が 助けられただけだと、後になって聞きました。
やっとのことで、家に辿り着きました。屋根瓦はめくれ、窓ガラスは吹っ飛び、ひ どい有様ですが、何とか形を留めていました。
母は家から出たり、入ったりしなが ら、私を案じていてくれたようで、私を見るなり、まるで幽霊でも見るように上から 下まで見上げ、見下ろして
「アア、生きとったんね」と、私を抱きしめてくれまし た。
母は、逃げてくる人、逃げてくる人、みんなが大変な火傷や怪我をしているの で、きっと死んだか、
二目と見られないぐらいの大怪我をしている、と思っていたのでしょう。
その夜、母が作ってくれた水団(すいとん)のおいしかったことは忘れら れません。  

八月九日になって、市内の火もかなり治まったようなので、工場へ行きました。
山に泊まり込んでおられた先生が「アア、丁度良いところへ来た。
あんたら傷も軽い し、家の方も無事だったのなら、学校の焼け跡へ遺体を探しに行くので、一緒に来て くれ」と言われ、
太田さんと二人で同行しました。(四十八年間も誰と行ったのかど うしても思い出せなくて、そこだけが空白になっていたのですが、
平成五年の同窓会で、太田さんに「私と一緒に行ったじゃない」と言われて記憶を取り戻したのです。 申し訳ありませんでした。)  
学校は爆心地から直線距離で五百メートルくらいの位置にありました。

三日三晩燃 えるだけ燃えて何もなくなった広島は、まるで大きな箒で掃いたようでした。
炎は治 まっていても、まだくすぶっていて、まるでオーブンの中にいるようでした。
橋も あっちこっちで墜ちているので、迂回しながら進みました。川の中には、赤剥げて三 倍くらいに膨れた死体が無数に浮かんでいました。
男女の区別も定かではなく、救援 に入った兵隊さんが「二十二、三才ぐらいの女の死体らしいでーす」などと叫んでい ます。
川原では、次々と遺体が、お棺も無く、露天でポンポンと焼かれていました。  
胸に付けた名札で判読できるところまでを、板切れに書き付けて、それを一人分ず つ瓦の上に載せて、ズラーッと並べてありました。
その骨が時おり崩れて、カサコソ と音を立てます。悲しさがこみ上げてきました。
何百とも何千とも定かでありません が、次々と焼かれてゆく光景、それはまるで地獄でした。
ビルの残骸の前にも焼けた だれた遺体が積み上げてありました。それは近くから集められてきた遺体で、後で焼 くのだそうです。
電車道に出ると、市電が脱線してレールに直角になり、乗客はその ままの姿で焼け死んでいました。  

学校に着き、焼け跡で遺体を探しました。学校に残っておられた先生や生徒はそん なに多くはなく、二、三カ所にまとまっておられたようで、
教員室の跡から数体の遺 体を見つけましたが、みんなきれいに白骨になっていました。落ちていた鉄兜に遺骨 を入れて、
穴を掘って、もう一度埋め直し、仮の墓標を立てました。夕方まで作業を してトボトボと帰宅しました。  
帰宅後、長崎にも新型爆弾が投下されたことを知りました。「こんなものを落とさ れてたまるか。何クソ!」と思う反面で、
「早く戦争が終わればよいのに」と、願っていました。

翌日も学校に行くことになっていましたが、夜中から下痢がひどく、血便も出たりして行けなくなりました。  
その頃から、無傷や軽傷の人、救援の兵隊さん、また近くの町や村から救援に来ら れた方たちがバタバタと倒れて、
中には、そのまま亡くなる人たちが出始めました。 何か得体の知れない物が漂っているのではないか、という噂も飛び出しました。
私も 身体がだるく、下痢が続き、八月十二日からは、四十二度近い高熱が続きました。終戦の詔勅も夢うつつで聞いたような気もします。
「手が消える、手が消える」と言い 続けていたそうです。高熱なのに手だけは氷のように冷たかったそうです。
後で、母 が、「手の先から死にかけていたのかもしれないね」と言っていました。  
その間、ろくな薬もないのに、父と母は必死で看病してくれました。
やっと四国に いる叔父と連絡がとれたので、父は私をオンブして四国まで連れて行ってくれまし た。
叔父は、「ストロンチュウムの燃える現象に似ているから、もしかすると、血液 に影響が出るかもしれない。」と、輸血など、
当時としては出来る限りの治療をして くれました。
お陰で熱は下がりましたが、歯茎から出血はするは、髪の毛は抜ける は、ひどいものでした。
医学的に立証されているかどうか判りませんが、輸血のお陰 で今日まで生きていると信じています。  
後から、このような症状はすべて放射能の影響だと判りました。

十月から学校は三 カ所に分散して再開されました。何とか元気なった私も登校しました。
校長先生を始 め、先生方が十七名、生徒は二百七十名ぐらい亡くなっていました。
その年に入学し たばかりの一年生は三百名中二百四十名近くが亡くなった、と聞きました。
建物疎開 の作業に出ていて炎天下にいた人たちは、殆どの人が助からなかったそうです。学校 にいても同じ運命ではあったと思いますが、
その春憧れの第一高女に入学して、僅か 四ヶ月で花と散った彼女たちを思うとき、ひとしお哀切の思いが募ります。  
また恩師の中で、私たちがともすれば敬遠しがちであった物理の先生が、ご自分も 内蔵が露出するような重傷を負いながら、
瀕死の生徒二人を両脇に抱えて辿り着き、 「私は第一高女の栗田です。この二人は生徒です。どうぞ家へ連絡を!」と言って絶 命されたそうです。
その後、逃げてきた友人達が、あまりにも無惨なご遺体に、自分 たちの鉢巻きを外して、その傷口を隠してさしあげたそうです。
この話は二十年以上 も経ってから林さんから伺いました。今もその先生の姿が目に浮かびます。
もちろ ん、他の先生方も、あの混乱の中で生徒の安全のために努力して下さったことは、言 うまでもありません。  
今も尚、納骨堂には七萬あまりの方の遺骨が、引き取る方もなく眠っておられま す。このような多くの犠牲があっての今日の平和です。
何時までも続いて欲しい願っ ています。
今も世界のあちこちで内戦が起きて、犠牲者が出ております。また、中国 に続いてフランスも核実験を再開すると言っています。
今一度、あの原爆の悲惨さ を、各国の首脳達に見て欲しい、と願っています。そして、政府は世界で唯一つの被 爆国として、
早く、もっと激しく抗議して欲しい、と切に願っています。なお、原爆 のみでなく、全国の戦死なさった方や戦没者の方々に哀悼の意を捧げます。
犠牲者の 方々の御霊よ、安らかれと、心から祈っています。                    


この今井さんの体験記をお読みくださった、富田林市在住の井守さんから
「私も被爆した一人です」との連絡をいただき、その体験記をお送りくださいましたので、
ここに掲載させていただきます。
              富田林市 吉原 肇

        断腸の思いで姉の遺体を野焼きした
              
                  原爆体験を語る
     富田林市 井守 能成

昭和20年8月6日 私達、広島県立広島工業学校2年機械科乙組の約40名は、学徒動員 で、
爆心地の南西約2キロの三菱造船・広島機械工場へ、いつもの通り8時に「出動」 し、工場建物の中で朝礼を行っていた。
そのとき、北の方角で白い光が閃いて、工場の中を貫いた。あの工場は鉄板の切断や 溶接をガスで行っており、
平素から、「ガスボンベが爆発したらその威力は凄まじ い」と聞かされていたので、「これはてっきりガスボンベが爆発した」と思い、
反対方向へ走り、窓を飛び越えて逃げようと窓の敷居に飛び上がった。
次の瞬間、地面に 叩きつけられ、木の柱や梁の下敷きになっている自分を発見した。
木造工場が半壊状態になったため、あたりは一面土埃りで煙幕のようであった。私は 木の下敷きになりながら、土埃りが晴れて周囲を見渡すと、
いち早く逃げて工場の外 にいた学友を見つけたので、助けを求め、木の下敷きから開放された。
幸いにも ちょっと打撲しただけで、たいした怪我もなかったので、学友達と一緒に防空壕に 入って暫くの間退避した。
(学友のうち何人かは硝子の破片で怪我をし、出血のため 医務室で手当を受けた) 防空壕から広島市の中心部を見ると、巨大な入道雲があり、
その下で火災の炎や煙が 見えた。
その時点では、その入道雲が「原爆雲」であることなど知る由もなく、ただ 「市の中心部に火災が発生したな、大変な事態だな」とだけ感じて、
呆然と見ている だけであった。

防空壕で昼頃まで退避しているうちに、少し情報らしきものが入ってきた。
1、米軍が水雷を空中で爆発させたので、広島の中心部は壊滅的な打撃を受けた。
2、市の周辺部は火災を免れて残っている所が多い。
3、電車は動いていないが、歩いてならば周辺部の橋は渡れるようだ。
ということであったので、広島市東南部の段原山崎町に家のある私は、徒歩で家に帰 ることを決意し、先生の許可を得て、
同方面の学友と5人連れで約4キロの道程を徒歩 で帰路についた。

途中の状況は正に悲惨そのものであった。辺り一帯は火災で焼け落ち、小さな炎がメ ラメラと上がり、煙が立ち込めていた。
死体はゴロゴロ転がったままだし、火傷をして動きのとれない人が呻いていた。私達5人はどうしようもなく、ただ黙々と歩い た。
約4キロの道程を3〜4時間かけて家に着いてみると、家は大きく傾き、半壊の状態 であったが、幸いにも潰れることもなく、焼けずに残っていた。
家族は、父母と上の 姉2人は無事で家にいたが、兄1人と次姉1人の消息が不明であった。兄は国鉄の広 島管理部に勤務していた。
夕方連絡があり、「硝子の破片で怪我はしたが、無事」と のことで一安心した。

次姉は爆心地に近い広島逓信局に勤務していた。
前日は夜勤で朝帰りの予定であっ た。夕方暗くなってから「お宅の娘さんが火傷を負って東警察署に収容されている、 重傷だそうだ」との連絡を受けた。
とるものも取り敢えず、父、母、長姉、兄と私の 5人が担架を持って現地へ急行した。(下の姉は体調不良のため留守番していた) 
東警察署は爆心地から1キロ位の所に位置していた。途中、橋が落ちていて遠回りし たり、難行した。
警察に近づくと、もう燃え落ちていたが、まだ焔がメラメラと上が り、一面火の海であった。
警察署に入り、父が「井守淑子はいるか」と叫ぶと、「はいここです」と応答があった。早速、担架に担せて家路を急いだ。
顔や手などの露出している部分は全部火傷を負っていて、淑子姉さんの形相はすっか り変わってしまっていたが、
こちらの呼びかけに応答があったから、本人と確認できた。もしも、迎えに行った時点で姉さんに応答する体力がなかったら、
我々家族とい えども、本人であると確認は難しかったのではなかろうか。姉さんが応答してくれな かったら、父母や兄弟に会えたかどうか判らなかったと思う。
(後で判ったことだ が、被服で覆われた部分でも大部分は火傷を負っていた。体全体の8割ぐらいは火傷 していたようだ)

途中、淑子姉さんは「夜勤明けの帰途、紙屋町あたりの電車の中で被爆した。火の無 い所を求めて逃げて歩いた。
苦しかったので持ち物は全部捨てた。ごめんなさい」などと母に話していた。

15分か20分たった頃、「水が欲しい」というので、タオル を水に濡らしてあげると、美味しそうに「チューチュー」と吸った後、喋らなくなっ た。
間もなく我が家に着くという頃、母が「もうすぐ家に着くよ」と話し掛けたが、 もう応答がなかった。
我が家の隣は段原中学で、その体育館が臨時野戦病院になって いた。そこへ運び込んで、軍医さんが注射をうってくれたが、
喉をピクピクと2度ほど動かしたきりで、あの世に旅立った。
思えば、濡れたタオルを「チューチュー」と 吸ったのが「末期の水」であったようだ。

父は大工の棟梁であったので、翌日、自分で娘の棺桶を作るべく、板をカンナで削り かけたが、涙で仕事が進まない。
これを見た父の友人が「自分の子の棺桶は作れんわ な」と言って、父に代わって棺桶を作ってくれた。
このような事態なので、葬式は勿 論出来る筈もないし、市営の火葬場は機能を停止していた。
やむをえず、我々家族だけで、約1キロ先の川端で荼毘にふすことにした。人家の離 れた場所で焼いていると、比較的近い家の人が来て
「こんな所で焼くな、火葬場へ行 け」と言う。当方は「火葬場は機能を停止している、この辺りで焼かないと仕方がな い」と言うと、
渋々ながら了承してくれた。
しかし、人体を野焼きするなんて大変な ことだということを思い知らされた。いくら火勢を強めても、表面は焼けるが中まで は焼けない。
体をつついて崩さなければならないのであるが、私たち家族には到底で きない。父の友人が私たちの代わってして下さった。

半日かけてやっと「お骨」にす ることが出来た。「断腸の思い」とは、こんなことを言うのだろう。
半世紀以上経った現在でも、まだ脳裏にこびりついている悲惨な経験であった。

火傷を負って皮膚がダラリと垂れ下がった人達が何人も、隣の段原中学校にある臨時 野戦病院を目指して、家の前をよたよたと歩いて行った。
家の中へ入ってきて「水を 下さい」と言う人もあった。庭の井戸水を汲んで差し上げると、本当に美味しそうに飲んでおられた姿が忘れられない。
(水道は断水していたが、井戸のポンプがあった ので、私達はその井戸水を飲用水として使っていた)
その野戦病院では次々と死者が出ている。始めのうちは死体を外部に搬出していたが、2,3日すると、外部への搬出が間に合わなくなって、
校庭で焼くようになっ た。その臭いが近隣の住宅街を覆い、被爆の悲惨感を増幅させた。

私の家では姉が被爆死したものの、意識のある間に両親や兄弟の手で引き取ることが 出来て幸いであった。
姉さんも安心してあの世へ旅立ったことであろうと思う。しか し、近所では、家族が帰ってこないので、被爆後何日も何日も、市内だけでなく、
瀬戸内海の島にも探しに行ったが消息がつかめない、気の毒な家庭がたくさんあった。
このような人達は「今でもあの子が、『只今』と言って帰って来るような気がしてな らない」と、諦め切れない、断腸の思いで居られるようである。

このようなことで、被爆体験者にとっては、原爆の悲惨さは何時までも風化することのない体験である。

被曝時住所  広島市段原山崎町
被曝時年齢  15歳
被曝場所   広島市江波町  三菱造船所・広島機械製造所



あれから半世紀以上の歳月がたちました。
富田林市にお住まいの 吉原 肇氏のホームページに掲載された、
原爆体験記を転載させていただきました。


吉原 肇氏のホームページ 史跡を訪ねて楽しく歩こう
E−mail hayowara@gold.ocn.ne.jp



 昨年掲載いたしました下記ページ(ヒロシマ)もご参照ください  

 Gallery ヒロシマ    ヒロシマ記bP  ヒロシマ記bQ


広島市のホームページ

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