木山捷平 きやま・しょうへい(1904—1968)


 

本名=木山捷平(きやま・しょうへい)
明治37年3月26日—昭和43年8月23日
享年64歳(寂光院寿蘊捷堂居士)
岡山県笠岡市山口生家裏山 木山家墓地 



詩人・小説家。岡山県生。東洋大学中退。昭和4年詩集『野』、6年『メクラとチンバ』を自費出版、8年太宰治らと『海豹』を創刊。14年処女小説『抑制の日』が芥川賞候補となる。『大陸の細道』で芸術選奨賞を受賞。ほかに『河骨』『苦いお茶』『耳学問』『茶の水』などがある。







 しかしいざ筆をとってみると、筆はなかなか進まなかった。「霰」という字が分らないで行きつまったり、煙草がきれて捜しに出たり、風邪をひいて寝たり、短い原稿なのに意外な難渋をきわめた。私は自分の不才に愛想をつかした。もう六年も畳替えをしない借家で盛切飯を食べながら、二十年前、「お前は自家で農科をやれ」といった父の言葉が、ひしひしと胸によみがえって来た。考えてみると、父がそういう言葉を言った年に、自分もぼつぼつ達しようとしているのであった。「親子二代はひどすぎる」
 私はなんということなく、こんなことを独り言で呟いて、夜もろくろく睡れなかった。十年前、勘当状態のまま幽明境を異にした父のために、いつかは永井荷風氏に手紙を出して、岩渓裳川先生の墓地の在り処を尋ね、しみじみとした墓参がしてみたいと考えながら、長い間うっちやりになっていることが後悔された。
古言に、子は父のために隠す、というのがあるが、あんなうら恥ずかしい文学修業記を書いて、亡父の秘密まで世間にさらすより、父の旧師のお墓参りでもした方が、どんなに真実がこもっているか知れない、と私は悔恨で枕をぬらした。
                                                                  
(春 雨)



 

 木山捷平が煩悶しながら郷里笠岡と東京で行ったり来たりを繰り返していた20代半ばの一時期、私の郷里兵庫県飾磨郡(現・姫路市)にある小学校(母校ではない)の訓導として勤務していたことがあると聞いてなお一層親しみを覚えたものであった。
 昭和43年、捷平は、20代になった私が勤めるデザイン会社近くの東京女子医科大学病院に食道がんのために入院する。捷平が病床で書いた『オホーツク海の鳥』という最後の詩がある。
 〈——そりやあぼくだつて無論 くたばりたいのは山山だけど 今ここでくたばるわけにはいかないまでのことさ ぼくは明日は東京へ帰らなければならないんだ〉。
 数か月後の8月23日午後1時23分、捷平は蕭々と還った。主人の居ない無門庵の縁側に-------。



 

 新緑の若葉が5月の風になびいて涼やかな匂いを放つ。村の入口には常夜燈が立っている。その辻から、かつて井伏鱒二も訪問したという、今は無人の生家が目の先に見える。庭に歌碑があった。
 〈ひんがしの 島根のなかつ きびつくに きび生ふる里を たがわすれめや〉。
 土塀に沿って裏山に続く細道をのぼっていく。〈自分が死んだ時自分の遺骨が、自分の家の祖先の墓に埋められることを、この世におけるたった一つの希望にしていた〉捷平の墓は、長尾山の竹藪の中、細長く拓かれた墓所の一番奥にあった。病床で詠んだ〈見るだけの妻となりたる五月かな〉にある妻ミサヲを合わせ葬った碑は、竹葉の上の方から真っ直ぐに降りてくる澄んだ光を、心おきなく受け止めていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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