木下杢太郎 きのした・もくたろう(1885—1945)                  


 

本名=太田正雄(おおた・まさお)
明治18年八月1日—昭和20年10月15日
享年60歳(斐文院指学葱南居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園16区1種12側3番 



詩人・劇作家・医学者。静岡県生。東京帝国大学卒。明治40年『明星』の同人となり、短編『蒸氣のにほひ』を発表。41年石井柏亭らと「パンの会」を創立。北原白秋とともに『スバル』派詩人として知られ、大正8年の詩集『食後の歌』を発表。戯曲『和泉屋染物店』『南蛮寺門前』、小説『唐草表紙』などがある。







美しい瓶なりしかど、暗い心を盛って、
まだ少い時であった、森の中に埋めた。
二月の末の幹の漏れ日に
斑な雪は輝き、そして川の縁に、
黄にまじる緑の草がやうやうに頭をあげる。
草は心は無いけれども----地の底から----
もしやその草の芽が暗い心を
ひょっとして人の目に立てはせぬかと
案じた日があった---覚えてゐる。

今日となり 同じ憂が
来るものか。淡雪ふる日。
                                        
(『苦患即美』もしや草の芽が)



 

 北原白秋や吉井勇、石井柏亭、山本鼎らとともに文学と美術の交流を図るために結成した「パンの会」最初の会合は、明治41年12月、両国橋近くの矢ノ倉河岸にあった西洋料理屋「第一やまと」で行われた。のちに高村光太郎も参加、ときには上田敏、永井荷風、小山内薫なども顔を出していたが、杢太郎の『食後の唄』に結晶した異国文化、異国情緒への憧れも明治の終焉と共に消え去った。
 「耽美派」の旗手として、北原白秋らと親交を結んだが、30歳で詩と訣別する。以降は随筆家として筆をふるっていった。また、森鴎外と同じく医学上においても貢献した。昭和20年6月に随筆『すかんぽ』執筆の後、東京大学医学部附属病院柿沼内科に入院。10月15日午前4時25分、胃がんにより永眠した。



 

 木下杢太郎には「百花譜」と自らが呼んだ水彩による植物写生画がある。昭和18年3月10日から20年7月10日まで、がん治療のため入院する直前までの間に描いた872枚の写生画。詩を、歌を、自分の命を、心残りなく写し取るかの如くに毎晩丹精込めて描いた。いま私が佇んでいる墓前には、杢太郎がスケッチした枇杷の画が角石に印されてあり、墓域の隅っこには、ムラサキシキブの子株がしなだれている。
 詩人木下杢太郎と医学者太田正雄の二つの世界を持った彼が(あるいは遺族が)、墓碑銘として選んだのは医学者としての名前であった。将棋の駒を平たくしたような墓石に数本の横線を配し「太田正雄之墓」と中央に小さく刻されていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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