本名=金田一京助(きんだいち・きょうすけ)
明治15年5月5日—昭和46年11月14日
享年89歳(寿徳院殿徹言花明大居士)
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種22号5側
言語学者・国語学者。岩手県生。東京帝国大学卒。大学在学中よりアイヌ語研究を始める。明治39年以来たびたび北海道・樺太へ渡り、アイヌのワカルバ、コポアヌ、知里幸恵、金成マツらの協力を得て、ユーカラおよびアイヌ語資料の筆録・収集をする。ユーカラの研究で学士院賞を受賞。昭和29年文化勲章受章。

滅びゆくアイヌというと、(中略)死滅する運命にでもあるもののように連想される弊がある。いう人は、同情をもって、かつ感傷的に詠嘆的に、美的に優婉に表現している気でしょうけれど、いわれる人だちにとっては、死の宣告のように無惨にひゞくのです。すなわちそのたびごとに、暗い運命に吐胸を突かれて憂鬱になるのであります。しかしながら、大和民族古来の対アイヌ政策は決してそういう絶滅を期したのでも、実行したのでもありませんでした。これは植民史上いさゝか世界に誇りうる成功です。血をもって血と合して来たもっとも人道的な解決方法だったから(中略)もっとも長い間には、全くよいことぱかりではなく、いつの世、どこの世界にも、乱暴者もいれぱ、悪人もいる。すまないことであるが、アイヌの人に対しても、ずいぶん、無法な狼籍、不埒な乱暴を働いては、さんざんいじめぬく悪党もなくはなかった。
アイヌ民族は(中略)北日本の若い国民の血潮の中にとけこんで新日本の運命を背負って立とうとしているのであります。こうして太古以来、たいせつな日本民族の構成要素として融合したアイヌ(中略)……ですから、私どもの願いますことは、滅びゆくというような余計な刺激的な語は避け、いたずらに感情をそゝらないよう。そうでなくてさえ人種的感情というものは非常にデリケイトなもので、こちらで何とも思わずに使ってる語が、案外にちくりちくり心をさいなんでいる………
(あいぬの話)
〈亡びゆくその瀬戸際にとらへ得てこの五十年百冊のノート〉。
〈添うものはつらかっただろう世間体はやさしく見えてもやさしからねば〉。
——アイヌ民族に伝わる叙事詩のユーカラ研究と旧制盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)以来の親友石川啄木との交友、この二つのことが金田一京助の妻静江とその家族に与えた辛苦は計り知れなかった。石川啄木に関しては周知の通り、金銭的にも精神的にも支え続け、ユーカラ研究の過程ではアイヌの若い女性知里幸恵を心臓発作で失ってしまった。
年老いて研究から解放されていった京助の晩年において漸くの安らぎが訪れたが、63年連れ添った静江夫人と家族や友人、弟子等がその最期を看取ったのは、重苦しい闇の漂う昭和46年11月14日の夜のことであった。
川端康成は盟友横光利一の死に際し、〈君の名に傍えて僕の名の呼ばれる習わしも、かえりみればすでに二十五年を越えた〉と追悼したが、金田一京助と石川啄木の関係も同じような経緯をたどっているようだ。石川啄木のあるところ、金田一京助の名はつねにあったのだ。京助の献身が一方的であったことを除けば。
——〈道のべに咲くやこの花 花にだに えにしなくして わが逢ふべしや〉、墓誌に刻印された京助の歌を一語一語、噛みしめるように口づいてみると、来し方を想い、何かしら胸に染み入ってくるものがあった。死に際して京助の愛した庭の錦木の一枝が棺におさめられ、遺骨は本郷の喜福寺に埋葬されたが、後にこの雑司ヶ谷の地に移された。
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