北田薄氷 きただ・うすらい(1876—1900)                     


 

本名=梶田尊子(かじた・たかこ)
明治9年3月14日—明治33年11月5日 
享年24歳(孤月院浄光妙観大姉)
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種イ4号2側 



小説家。大阪府生。東京府高等女学校(現・白鴎高等学校)
中退。女子文芸学舎(現・千代田女学園)で学ぶ。尾崎紅葉の門下。明治27年処女作『三人やもめ』を発表。31年画家梶田半古と結婚、一児をもうけたが腸結核で夭折した。『乳母』『黒眼鏡』『白髪染』などがある。







 それより人形町通りを、一人の狂女徘徊ひぬ。いと悲しげに聲を絞りて、神様、佛様、聽えませぬ。何故あのお可愛しいお嬢様を助けまして上げて下さりませぬ。お嬢様は立派に奥様とお成り遊ばす筈の所を毛唐人の爲に清様に捨てられて御病気になり、死ぬ死ぬと仰有っては、日増しに重くなってお在成されます。あゝお可愛想な。此儘に捨てゝ措いては、終には屹度お逝去遊ばしませう。おゝお嬢様、お泣き遊ばすな。乳母やが今に毛唐人を殺して、清様と御夫婦にお成りなさるやうに爲てお進げ申しますから、お気を強く持って、少しの間死なずにお待ち遊ばせ。それ其方へお出なすっては、大川で水が一杯にあって怖う御座んすに、何處迄も私の袖の中へ這入って居て下されまし。あれ又お嬢様が井戸端へお出なさる。誰か抱留めてお呉れなされ。眞箇に毛唐人さへ居なければ、何も彼も都合よく行きますに、えゝ口惜しい口惜しい、と狂ひ廻る姿の憐れや、袖は千切れて肌もあらはに、きょろきょろと四方をみまわしつ、巡行の巡査の袖に縋りて、毛唐人を殺して、お嬢様をお助け成されて下されまし。えゝ聽えませぬ聽えませぬ、と聲を舉げてぞ打泣くなる。されど巡査は振拂ひて過ぎぬ。見物人ハ面白げに弄りて笑ひぬ。あはれ此狂女に涙を濺ぐ者はなきか。
                                                               
(乳 母)

 


 

 大阪で生まれたが、弁護士を開業するために上京する父に従って移住、小説家を志して尾崎紅葉の門をたたいた。
 明治31年に結婚した画家梶田半古との新婚生活は病がちで、一男を出産した後の健康はすぐれず、2か年を経た明治33年11月5日、腸結核で死去した。
 明治27年、18歳で師尾崎紅葉から授かった「薄氷」の号で処女作『三人やもめ』を『近江新報』に掲載して以来、5、6年の期間での作家活動ではあったが寡作にして、貞節な妻を婦人として守り行うべき道とする封建的な社会の仕組みの中で、自己の意志を押し殺して、しがらみにもがき苦しむ哀感の女性世界をえがいた20篇前後の作品のみが残された。



 

 北田薄氷は葬儀の後、谷中の天王寺墓地に葬られたが、明治44年に染井の墓地に合葬された。
 この染井霊園はもと上駒込の建部邸跡地であったのを明治7年に染井墓地として開設されたもので、都営霊園としては最も小規模であるが、染井という名の通り染井吉野桜の古木が散在し、閑静な墓原風景を展げている。薄氷の死によって残された一子博兄も疫痢のため5歳で死亡、母の傍らで眠っている。
 泉鏡花晩年の作『薄紅梅』では、女主人公の閨秀作家月村京子のモデルを薄氷にもとめて描いているが、光彩を避けるように建っている古色とした「梶田家之墓」にある薄命な閨秀作家の胸の内には、かつて噂された鏡花とのロマンスも消え失せてしまったであろうか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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