木々高太郎 きぎ・たかたろう(1897—1969)                       


 

本名=林 髞(はやし・たかし)
明治30年5月6日—昭和44年10月31日 
享年72歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園10区1種6側3番



小説家・生理学者。山梨県生。慶應義塾大学卒。大脳生理学者で、慶應義塾大学教授をつとめた。海野十三のすすめで昭和9年『新青年』に処女作『網膜脈視症』を発表。刊『人生の阿呆』で11年度直木賞受賞。『新月』で探偵作家クラブ賞受賞。探偵作家クラブ会長も務めた。『四十指紋の男』『光とその影』などがある。






 

 「普通の人では堪えられぬような、骨の痛みを、あなたはよく堪えていられますね」
 「先生、痛みなどはなんでもありません。私は初めて人生を生きたいという希望に燃えて来ました。芸術というものは、私の生涯を苦しめ、懊ませましたが、それがために人生を愛しました。文学というものは、なんという、人を苦しめ、引きちぎり、それでも深く生命の中へと入って、消すことが出来ないものでしょう。でも、私はもう七度も生まれて来て、文学の懊みを味わいたいのです。私は、骨の髄まで、文学少女なのです。先生」
 大心池博士はうなずいた。
 寂しいミヤの死の床には、ミヤの懇請により、大心池博士が死に水を取る綾子の後見をなした。
全国の読者からの惜別の電報は山と積まれ、花束は部屋に溢れたが、死の床からすっかり取り去られて、きわめて寂しい部屋で死にたいというミヤの希望は遂げられた。
 「綾子さん。お母さんの心をすっかり奪ったものは、恋愛でも、名声でもありませんでした。夜、机を出してその前に坐って、原稿用紙に向ったときに起ってくる、あの文学への思慕、文学への懊みでした。こんなにも思慕深きもの、こんなにも懊み多きものが、人生にあったことを、お母さんは身をもって経験しました。あらゆる痛み、苦しみ、懊みにもかかわらず、お母さんは綾子さんに、禁ずるためにこのことを言うのではないということを、覚えて置いて下さい」
                                                           
(文学少女)

 


 

 木々高太郎はそれまでの「探偵小説」という呼び方を「推理小説」に変えるよう提唱した。また〈意気高太郎〉という渾名が示すように積極果敢に攻める性格は八方に視野を広げることになった。その一方、少なからずの不協和音も呼び込んで、毀誉褒貶は相半ばであった。
 現職の医学者による探偵小説として、昭和11年当時としては異例の直木賞を受賞した彼の探偵小説芸術論は、探偵小説非芸術論者の甲賀三郎とのいわゆる甲賀・木々論争を通して有名になったが、時代を先んじて少数者の意見でしかなかった。
 昭和44年10月31日、聖路加国際病院で心筋梗塞により死去したが、彼の影響を受けた松本清張によって、その理念は一つの道を定めた。



 

 『週刊朝日』の懸賞小説に応募した松本清張の『西郷札』が入選、当時『三田文学』の編集主幹だった木々高太郎がその才能に着目し『或る《小倉日記》伝』を『三田文学』に発表したことによって芥川賞受賞に導いたという話であるが、木々高太郎本人は海野十三によって探偵小説の道を勧められている。その海野の墓所があるこの霊園に、木々高太郎の墓もあった。
 松の木の多い塋域の奥隅に平置きされた「林家之墓」。刻字の中にも枯松葉が散っている。山梨の六代続いた医家に生まれ、慶応義塾大学医学部教授まで務めた、「推理小説」作家の墓碑に光と影は相半ばして休息している。碑側面に「第七代 林 髞」の刻があり、影から這い上がってきた小さな蜘蛛が足摺をして時間を留めていた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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