木下夕爾 きのした・ゆうじ(1914—1965)                 


 

本名=木下優二(きのした・ゆうじ)
大正3年10月27日—昭和40年8月4日 
享年50歳(淳誠院釈夕爾)❖夕爾忌 
広島県福山市加茂町字下加茂 稲月共同墓地 




詩人。広島県生。名古屋薬学専門学校(現・名古屋市立大学)卒。家業の薬局をつぎ、経営に当たりながら昭和15年処女詩集『田舎の食卓』を刊行。抒情的な短詩に優れた才能を示し詩誌『木靴』を主宰。久保田万太郎に師事、句集『遠雷』など。ほかに詩集として『生まれた家』『昔の家』などがある。







僕は涙もなくて
涙の多い歌をうたう
僕は愛も夢なくて
愛と夢の歌をうたう
僕は満ちあふれることもなくて
のこされた干潟をうたう
僕は光る種子もやわらかな土壌もなくて
ひらき匂う花をうたう
詩よ 美しいものよ
ペン軸からインク壺にころがり落ちる
ペンさきのように残酷なものよ

                                                        

(僕は涙もなくて)



 

 〈孤絶で、数里四方にただ一人の詩友もなかった〉郷里の御幸村。母が再婚した養父(父の弟)の死によって、意に反して家業の薬局を継がざるを得なかった木下夕爾。生家近くを流れる加茂川沿いの道を散歩しながら聞いた密やかな瀬音、寂しく揺れる芦の花に自らを重ね合わせて幾たびため息をついたことか。日暮れには薬局の戸をおろし、夕餉のあとにこもる新鮮な書斎の孤独。現実に背を向けて机にうずくまる日々。含羞の人であり続けた詩人は昭和40年5月、腸閉塞の診断をうけ岡山医科大学付属病院で手術、6月に退院したが病状は悪化をたどり、8月4日午前1時30分、横行結腸がんで死去するまでの生涯を草深い故郷から離れることはなかった。



 

 遠い昔の故郷に誘うかのごとく、乳色の朝霧が深く静かにたちこめている。福山駅と塩町駅を結ぶローカル福塩線の〈誰も乗らない 誰も下りない〉と詩人が歌った無人駅万能倉。旧街道を加茂川に向かって、川の西北にある丘の稲月共同墓地にたどりつく。湿った土道をようやく上りきったあたりに詩人の墓はあった。〈墓地を歩くのが好きになった。(中略)田舎のそれは路傍に数本の樹木にかこまれたり、小高い丘の松籟の下に静かにならんでいる〉と「夜ふけの客人」に書いている墓畔のたたずみ、霧に浮かんだ丘に「倶會一處」と刻された墓碑、傍らの墓誌に法名と俗名、没年月日、享年が記され、最後の行に平成26年に96歳で亡くなった妻都の名がある。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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