北村初雄 きたむら・はつお(1897—1922)


 

本名=北村初雄(きたむら・はつお)
明治30年2月13日—大正11年12月2日 
享年25歳(真行院英明文雄居士)
神奈川県横浜市鶴見区鶴見2丁目1―1 総持寺中央ホ7-17(曹洞宗)



詩人。東京府生。東京高等商業学校(現・一橋大学)卒。三木露風に師事し、「未来」に属する。大正6年詩集『吾歳と春』を、9年『正午の果実』を刊行。卒業後は三井物産に入社。明るい青春の象徴詩で注目された。遺稿詩集に『樹』がある。






 

人ひとり立ち上がる部屋のうちの
静かなとよめきを心に映す 路のうへの
一樹は
定まる形を己れに興へずしとやかに
風の来るままに 俛し また 伸び上がり
日を息しながら
蒼い時から蒼い時まで 聳え立ち
静けさに静けさを掘る動きに沿うて
押し移る
その色は
眺める眼うちの充ゆる風光を生かさせる。
生を女の睫毛よりも かげ深く樹姿にと見出す
遥かなる眼差のひと時こそ
身は
立ち
額は上る 水より宏く空を映して━━。

 
                             
( 樹 )   



 

 北村初雄は関東大震災を知らずに逝った。結核という病に襲われ、大正11年の4月からは床に臥すことをよぎなくされた初雄は、病状の悪化にともなって大森・木原山の住まいから転地療養。明治・大正・昭和初期の多くの文人たちが逗留し、「文人宿」の異名もある鵠沼海岸の割烹旅館「東家」で、12月2日、わずか25年の生涯を閉じた。10月18日、死の床にあって一篇の詩を書いた。本を伏せ籐椅子の中に身を深く沈め、静かに目を閉じて命の限りを歌うのだった。「死への想い」、二十行の詩の終段三行に黙する。〈見る事に始り見る事に終る私の生活の最後の日を/祝ふがため 努力に充ち充ちた日の裡からのみ 祈る/私の貧しい血と肉とに依つて 死の穏かに花さく事を〉



 

 大正11年春、病に伏してから、秋も終わりの11月に至るまでに作った三十八篇の詩をまとめ、没後、友人柳沢健、日夏耿之介、熊田精花によって刊行された遺稿詩集『樹』の中にある「碑銘」という詩に〈響もなしに生まて来たこの碑銘の主も/響もなしに死むで行くこの碑銘の主も/静かな身ぶりと蕭(しめ)やか眼ざしとの中に/汗を流し得る小さい土地を持つて居る〉と記した北村初雄の墓は、横浜市鶴見区の鶴見が丘にある曹洞宗大本山総持寺佛殿裏の墓地に、まぶしいほど強い西日に照らされて建っていた。大正12年5月に父北村七郎が建立した「北村家之墓」、側面に末の妹八重と並んで初雄の戒名と俗名、生年、没年が刻まれている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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