木下尚江 きのした・なおえ(1869—1937)                   


 

本名=木下尚江(きのした・なおえ)
明治2年9月8日(新暦10月12日)—昭和12年11月5日 
没年68歳 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園立山地区1種ロ4号2側2番



社会運動家。信濃国(長野県)生。東京専門学校(現・早稲田大学)卒。明治26年信府日報主筆。30年普通選挙運動で検挙される。32年毎日新聞社に入り、足尾鉱毒事件の論説などで活躍、34年社会民主党の創立に参加。小説『火の柱』『良人の自白』、自叙伝『懺悔』小説『霊か肉か』などがある。







 「---其晩の説教の題は『基督の社会観』と云のでしてネ、地上に建つべき天國に就て、基督の理想を御述べになつたのです、今の社会の組織は全く基督の主義と反對の、利己主義を原則とするので、之を根本から破壊して新時代を造るのが、基督教の目的だと抑しやるのです---初め私は、現在の社会の罪悪を攻撃なさる議論の餘り恐ろしいので、殆ど身體か戦慄へる様でしたがネ、基督の午和、博愛、犠牲の御精神を、火焔の様な雄辯でお演べなすつた時には、何故とも知らず聴衆の多くは涙に暮れて、二時間許りの説教が終った時には、満場只酔へる如き有様でした、---彼の時の説教は私、今でも音楽の如く耳に残って居ますの---其晩は私、一睡もせずに考へましたの、そして基督の十字架の意味が始めて心の奥に理解された様に思はれましてネ、嬉しいとも、勇ましいとも譯らずに、心がゾクゾク躍り立つて、思ふさま有りたけの涙を流したんですよ、インスピレーションと云ふのは、彼様した状態を言ふのぢやないか知らと思ひますの、其れからと云ふもの、昨日迄の無情の世の中とは打て変て、慥に希望のある楽しき我が身と生れ替つたのです、----」
                                                           
 (火の柱)



 

 普選運動、廃娼問題、足尾銅山鉱毒問題などの社会問題に活躍、また社会民主党を結成に参画して、堺利彦、幸徳秋水らと日露非戦論を展開していったが、日露戦争終了後は社会主義から離れ、宗教へ傾倒していった。
 小説家としての木下尚江と、〈幸徳の筆、木下の舌〉と幸徳秋水に並び称されたほど演説表現の巧みさで才能を示した、いわゆる社会運動家としての尚江。25歳で松本美以教会の中田久吉牧師より洗礼を受けた真摯なクリスチャンとしての尚江は、晩年に及ぶ大正・昭和の数十年を孤として過ごし、昭和12年11月5日秋のこの日、胃がんのため東京・西ヶ原の自宅で息絶えた。
——辞世〈何一つもたで行くこそ故さとの無為の國へのみやげなるらし〉。



 

 昭和11年8月1日、愛妻操子が63歳で死んだ。その年の11月29日、明治39年に死んだ母久美子の自宅に守っていた遺骨を青山霊園立山地区の墓に納骨した。12月6日は操子の納骨だった——。
 外苑西通りに架かる青山陸橋を渡ると桜の老木が茂る窮屈な青山霊園立山地区の霊域が翳っていた。蜘蛛の巣が縦横に張り、枝折れた桜木の残骸が、落ち葉の積もった細く湿っぽい参り道をさえぎっている。立ち止まるとヤブ蚊の群が容赦なく襲ってくる。
 方形の小さな墓碑の面に文字はない。淡い陽をうけた頂に家紋が透けているのみである。裏面に母久美子、妻操子とならんで「昭和十二年十一月五日永眠木下尚江行年六十九歳」と刻されたおぼろげな文字が読みとれた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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