江戸歴史散歩第12号



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江戸歴史散歩メールマガジン    第12号   2003年6月13日
                                      
                      発行部数2057部
                     
江戸歴史散歩    http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-enmt/

発行人        榎本民夫 jt7t-enmt@asahi-net.or.jp

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◆足で見付けた大名藩邸の屋敷神◆===========================================

◇私のサイトの中で、一番マニアックなものは「藩邸の神々」という項目です。
歩いていて偶然見付けたり、地図の名前から現地に行って確認したものです。
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-enmt/kami/kami.html

◇大名が将軍家から屋敷を拝領すると、外様、譜代に係わらず、国元より御
分社を勧請しました。屋敷の一隅、特に鬼門(東北隅)に社を設けたようです。
藩邸内にあった社ですが、18世紀後半から、江戸庶民に開放されるように
なりました。お賽銭が想いの外多く、名所になり江戸屋敷の運営が楽になっ
たそうです。有名な場所も由来をひも解くと面白いものです。

◇絵図を見て、藩邸跡の路地裏を歩くと思いもかけないところに社があるも
のです。地元の人は昔からある物ですから、不思議ではないのですが、私は江
戸時代の証人のようで、記録をしています。

◇掲載されていない都内の社や廃絶社をご存知でしたら、間違い、ご指導が有りましたら、ご連絡ください。

尚、このメールマガジンの内容はサイトと同文です。


江戸の名所 ===========================================================


◆日本橋 水天宮【筑後・久留米藩上屋敷】
 
 文政元年(1818)三田赤羽の有馬藩上屋敷に有馬頼徳公が領地久留米水天
宮の御分社を神主に命じ勧請しました。江戸時代の水天宮は藩邸内に有りました
が、毎月5日の縁日に限り、上屋敷が開放され参拝を許されました。安産と水難
よけの神として有名であり、壇ノ浦で滅んだ平家の霊を祀ります。
中央区日本橋蠣殻町 

◆赤坂 豊川稲荷【三河・西大平藩下屋敷】
 
 愛知県豊川市の豊川閣の東京別院で、西大平藩藩祖の名奉行大岡越前守忠相の
領地は三河国豊川稲荷に近かった。彼はダキニシンテンを信仰し,赤坂一ツ木に
あった下屋敷に祠堂を造って分霊したダキニシンテンを祀っていた。大岡家では
下屋敷を開放して一般の参詣も許可するようになった。今日、ダキニシンテンは
福徳の神として広く一般に信仰されています。明治20年にもと赤坂一ツ木の大
岡邸から現在地に奉還し、愛知県豊川閣の直轄の別院となりました。 
港区元赤坂1−4 

◆上野 東照宮【伊勢津藩・藤堂家上屋敷】 

 元和2年(1616年)2月4日、見舞いの為に駿府城にいた藤堂高虎と天海
僧正は、危篤の家康公の病床に呼ばれ神君より三人一処に末永く魂鎮まるところ
を造って欲しいと遺言をされた。そこで藤堂家の屋敷地であるこの上野の山に、
寛永4年(1627)に東照社を造営した。けれど三代将軍家光は、この建物に
満足出来ず、慶安4年、江戸の象徴、金色殿として改築した社が現在のものです
。三代将軍家光が吉野山から桜を移植させ、江戸第一の桜の名所でした。
上野公園内 

◆新宿 花園神社【尾張藩下屋敷】 

花園神社は古来より新宿の総鎮守として、寛永以前の社地は現在の株式会社伊勢
丹の地域にあり、朝倉筑後守がこの地に下屋敷を拝領すると、境内が囲い込まれ
たので、現在の社地を代地に拝領したと伝えられています。江戸時代は三光院稲
荷と呼ばれ、かつては尾張藩下屋敷の花園に社地があったと伝承があります。尾
張藩下屋敷は隣接して6,000坪程の屋敷があり、尾張侯の崇敬は篤く元禄9
年(1696)より明和3年(1766)に至る7代70年間に崇敬されていま
した。後に、大鳥神社を花園神社境内に鎮座し、開運出世はもとより、財福招来
の信仰とした。 
新宿区新宿5−17−3 

◆新橋 塩釜神社【陸奥・仙台藩上屋敷】 

 新橋駅烏森口から500m程の所にある、新橋唯一の緑豊かな杜で、かつての
仙台藩中屋敷の場所です。この社は元禄8年(1695)、四代藩主伊達綱村公
が奥州一宮の塩釜神社を上屋敷に勧請したのに始まります。当時の上屋敷は汐留
にありました。安政5年(1858)に十三代藩主・慶邦公によって、江戸庶民
にも参拝を出来るように現在地に移して開放されました。以来、安産の神として
信仰されています。 
港区新橋5−19−7 



徳川将軍に由来=========================================================


◆広尾稲荷神社【将軍御殿】
 
元禄のころ、将軍別荘の麻布富士見御殿鎮守として勧請されたと伝えられる。別
説、慶長年間に2代将軍徳川秀忠公が、鷹狩りのおり、この地に稲荷を勧請した
といわれる。麻布御薬園富士見御殿鎮守富士見稲荷の神像を安置している。 
港区南麻布4−5−61 

◆御蔵稲荷 御主殿稲荷【将軍御殿】 

徳川二代将軍秀忠公が鷹狩りの際に中原街道を経て平塚中原御殿への中宿として慶
長13年(1608)に街道の北川に12,000坪の御殿を建てた。建物が取
り払われた後に、主殿跡と蔵屋敷跡に稲荷が建立され、今も社が残っています。 
川崎市中原区小杉御殿町 

◆腰掛稲荷神社【家光公の腰掛】 

家光公鷹狩りの折この地にご休息され、切株に腰を掛けられ、傍の小祠を拝して
立ち去られた。後年、里人集まり、この伝来を世に伝えんと社殿を建立し、鳥居
を築き、腰掛稲荷と称し、さらに篤く崇敬してきました。 
文京区目白台3−26−1 

◆御宿稲荷神社【家康公の宿泊地】 

徳川家康公が関東移封のおり宿泊した、郷士の庭に社があり、後に幕府より足跡
の記念に境内を賜った。 
千代田区内神田1−7 

◆轡神社【家康公乗馬の轡】 

徳川家康公の乗馬のくつわを祀ったともまた、馬蹄を祀ったともいわれる。古来
百日咳の神様として信仰厚く、社に奉納した馬のわらじの片方と、麻をいただい
てまじないをすると霊験があり、全快後、新しいわらじ一足をお返しする習慣が
ある。 
板橋区仲町46−3 

御三家・松平関連=======================================================

◆青山熊野権現【和歌山藩】 
元和5年(1619)徳川頼宣公の邸内に奉斎されていた御宮を町民の請により
正保元年(1644)現在地に移遷し、翌年、本殿拝殿その他造営し完成し、青
山の総鎮守となる。社紋が三つ葉葵です。
渋谷区神宮前2−2−22 

◆春錦稲荷大明神【水戸藩】 
水戸家上屋敷の小石川後楽園、表鬼門に位置する。近年造営と思われるが社、参
道が残る。 
小石川後楽園 

◆出世不動尊【一橋徳川家】 
一橋徳川家の表鬼門除けとして祭られた、智証大師作の不動尊が祭られている。 
千代田区内神田二丁目 

◆田安(世継稲荷)・鎮護稲荷神社【田安徳川家 及び 大和柳生藩】 
 田安徳川家は江戸城北の丸に上屋敷を構え、宝暦6年(1756年) 四谷大
木戸(四谷4丁目交差点)内に下屋敷を拝領しました。下屋敷に屋敷神として田
安稲荷神社を祀り、代々の当主の崇敬深く、子孫繁栄、天下泰平を願いました。
明治維新後、下屋敷を明治政府に上納、明治4年5月に広大な屋敷を撤去しまし
たが、稲荷社だけはそのままにしてありました。翌年跡地に町家が出来、四谷永
住町と名付けられ、以来130年、代々この町に住む人達により祀られてきまし
た。
 鎮護稲荷神社は鎮火招福の守神として祀られ、この地に徳川将軍家剣の指南役
をつとめた、大和柳生藩の下屋敷があった頃、柳生家の稲荷神社でした。
 戦後田安稲荷と鎮護稲荷は合祠し新宿区四谷4丁目22番地内に祀られました
が、その後、平成14年、四谷4−15のマンション緑地帯の一部に稲荷社を還
座しました。 
新宿区四谷4−15 

◆銀杏岡八幡神社【越前松平・福井藩】 
 創祀は康平五年(1062)源義家はここに太刀一振を捧げ八幡宮を勧請したのが
始まりだと伝えられています。
 越前福井藩67万石、藩主松平忠直公の時代、元和4年(1618)に拝領し
た屋敷に邸内社として勧請しました。元和9年には忠直が不品行を理由に隠居さ
せられた。享保10年(1725)この地が公収され町屋となり、享保十五年(
1730)、町奉行大岡越前守によりこの辺りは福井町と命名され、願いにより
この神社は産土神として崇敬され、今日まで信仰されてます。 
台東区浅草橋1−29 

◆杵築大社【出雲松平・松江藩】 
 慶安年間(1648〜51)に松平直政公が将軍家より12町四方を拝領し、
出雲の杵築大社(現在の出雲大社)を勧請しました。御用屋敷を設けて鷹狩りを
して遊ばれました。 
武蔵野市境南町2−10−11 

◆金丸稲荷神社【美濃・高須藩】 
 天和3年(1683)美濃高須藩藩祖の松平摂津守義行が、現在の新宿区荒木
町一帯を幕府より拝領し、上屋敷としました。義行は尾張家徳川光友の次男であ
り、徳川御家門であった。藩主の守護神として建立された金丸稲荷神社は、現在
も残り崇敬されています。 
新宿区荒木町 

金刀比羅宮============================================================

◆竹町金刀比羅神社【讃岐・高松藩→生駒騒動】 
 高松城を築城し、城下町の建設に着手したのは、豊臣秀吉より讃岐国を与えら
れた生駒親正 (1526〜1603)である。この社は慶長年間に高松藩17万
3千石の生駒家二代藩主一正が拝領した竹町中屋敷に領国の讃岐象頭山・金比羅
大権現から勧請をしました。東京に金比羅神社はいくつか有りますが最古の神社
です。生駒一正の後、正俊、高俊と続き、高俊の時代に生駒騒動が発生し、改易
され、出羽国由利郡矢島1万石へ減転封されました。生駒家やがて8千石の交替
寄合となりましたが、社は産土神として残りました。 
台東区台東2−24 

◆虎ノ門金刀比羅宮【讃岐・丸亀藩】 
  創祀は万治3年(1660)丸亀藩主京極高和が讃岐金刀比羅大神を邸内に
勧請した。以来、毎月10日市民に邸内を開き、参拝を許しています。 
港区虎ノ門1−2 

◆水道橋金刀比羅宮【讃岐・高松藩】 
  寛政5年(1793)高松藩松平公の上屋敷に讃岐金刀比羅大神を勧請され、
祭礼日には社が開放されて、江戸庶民の崇敬を集めました。戦後間もなく、松平
頼明氏の屋敷跡地を金刀比羅宮に寄進し、社殿は昭和39年に完成し、現在は金
刀比羅宮東京分院となっています。丸金紋も金刀比羅宮本宮と同じものです。
文京区本郷一丁目 

出羽・久保田藩========================================================

◆佐竹稲荷神社【出羽・久保田藩上屋敷】 
 佐竹稲荷神社は寛永12年(1635年)に2代目藩主の義隆公の時に、藩邸
の鬼門除けのために勧請したのにはじまる。久保田藩佐竹氏はその祖先、清和源
氏の源頼義の第三子、新羅三郎義光が元服の幼名を義美と称していたころ、自ら
を「稲荷氏」と名乗り、「稲荷三郎」と称していた事に端を発しています。その
後、天和2年(1682年)いわゆる「八百屋お七」の大火により、藩邸は下谷
に移ったが、稲荷神社は再建され、佐竹家の家紋「扇に月」を神紋とし、火伏の
守護神として江戸市民の信仰を集めてきた。神田駅の西口商店街に有り、「湯沢
絵どうろうまつり」を模して「神田絵どうろうまつり」が行われている。 

 ●湯沢絵どうろう● 
   湯沢に佐竹南家が入湯し、佐竹南家7代義安公に元禄15(1702)年
      に、京都の公卿鷹司家から「おこし入れ」された姫君が、京都への郷愁を
   五色の短冊に託し、青竹に飾りつけたのが始まりといわれています。各家
   々では青竹に五色の短冊や吹き流しなどをつり下げて門前に飾るほか、浮
   世絵美人が描かれた大・小数百個の絵どうろうが通りに下げられます。 
千代田区内神田3−10 


◆佐竹秋葉神社【出羽・久保田藩上屋敷】 
 江戸時代の台東区台東4丁目周辺は出羽久保田藩佐竹公の上屋敷でした。上屋
敷は『武鑑』から見て元禄2年(1689)若しくは翌年に拝領しています。こ
の神社は佐竹氏12代義堯(よしたか)の時代に秋葉権現を勧請し屋敷神としたも
のです。明治に入り屋敷撤去され、佐竹ケ原と呼ばれ、見世物小屋が集まり明治
の半ばからは商店街となりました。現在、町会名と商店会に佐竹の名前を残して
います。 
台東区台東4丁目 

◆向陵稲荷神社【出羽・久保田藩下屋敷】 
 日暮里の佐竹藩下屋敷は元禄16年(1703)水戸藩と相対替を行った。道
灌山に隣接した、風光明媚な地形を利用して衆楽園を造営した。
 向陵稲荷神社は屋敷神として祀られ、現在も氏神として信仰されています。 
荒川区西日暮里4丁目 

江戸城内由来============================================================

◆紅葉山東照宮遺構【江戸城・紅葉山→上野東照宮】 
 上野東照宮池之端参道 石鳥居:寛永3年黒田忠之奉納。江戸城内紅葉山東照
宮にあったものを、明治7年5月に移築したものです。建立当時の黒田家の領地
であった福岡県糸島郡志摩町の可也山の石です。 
上野公園内 

◆千代田稲荷神社【江戸城・紅葉山→渋谷宮益坂】 
 長禄元年(1457)太田道灌が千代田城を築城のおり、千代田郷に古くから祀
られていた千代田神社を城内に遍座し守護神としたのが始まりです。その後、徳川
家康が慶長8年(1603)入城し、紅葉山に移して江戸城の鎮守とし、江戸城拡
張に当たり、渋谷村宮益坂に遍宮し、神領を寄進したので、江戸城守護及び万民斉
仰の神社として、広く参拝を集めました。以後、徳川家の信仰厚く、皇女和宮の行
列が東下する守護をして、石鳥居と桜樹一本の寄進を受けています。 
渋谷区道玄坂2−20 

◆千代田稲荷神社【渋谷宮益坂→裏高尾】 
 長禄元年(1457)太田道灌が千代田城を築城のおり、千代田郷に古くから祀
られていた千代田神社を城内に遍座し守護神としたのが始まりです。その後、徳川
家康が江戸開府の時、三方が原の合戦以後加護を得た白狐の遺骨を祭り、城内紅葉
山に移し歴代の将軍家にも鎮護の神とした。幕末の動乱時に大奥に仕えこの稲荷を
信仰してきた奥女中の一人がご神体は託され、江戸城を脱出したとされる。以来、
大正12年の関東大震災までその子孫の屋敷に祭られていました。現在の地に昭和
4年に遍座されました。 
八王子市裏高尾町957(清明園の裏手) 

◆千代田稲荷神社【渋谷宮益坂→市村座】 
 明治25年(1892)下谷二長町1番地と言ったこの地に市村座が開場しまし
た。市村菊五郎・吉右衛門が信仰した、千代田稲荷神社分社を勧請して、繁栄を祈
願することになり、正面表口に祀られました。以後、市村座と共に有ったが、昭和
7年5月、自火消失し消滅し、千代田区有志により、市村座跡に再建されました。 
台東区台東1−5 

◆吹上稲荷神社【江戸城・吹上】 
 元和8年(1622)2代将軍徳川秀忠が日光山から稲荷の神体を賜り吹上御殿
内に「東稲荷宮」と称したのが始まり。5代綱吉のころ、江戸城内から一ツ橋に移
遷し、その後、水戸徳川家の分家松平大学頭が拝領し、邸内(現在の教育の森公園
)に移した。宝暦元年(1751)に大塚の鎮守として松平家から拝受し善仁寺(
小石川4丁目)に移し、今日の社名に改名した。その後、護国寺、薬師寺等に移遷
し明治45年に現在地に移った。 
文京区大塚5−21−11 

幕府関連施設由来=======================================================

◆七倉稲荷神社【幕府・米蔵】 
幕府の米倉にあった。 
台東区池之端2−5 

◆稲生神社【幕府浜御殿】 
 旧浜離宮庭園内に天明の頃建立された鳥居と、屋根の崩れた小祠が有ります。 
中央区 

小さな社============================================================

◆多武峯内藤神社【高遠藩・内藤家】 
 新宿御苑は高遠藩下屋敷跡であり、多武峯神社は内藤氏が藤原秀郷の末流であ
ったことから、藤原氏の氏神である大和多武峯神社を勧請し創建した屋敷神で、
祭神は藤原氏の祖鎌足です。
 境内には白馬堂があり、内藤清成の伝説に関わる堂で、徳川家康は江戸入府後
に清成を呼び、「馬で一息に回れる土地を与えると」語ったといい、清成の乗っ
た駿馬は南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、疲れ果てて
死んでしまい、大樫の下に埋めたという。後に内藤家の森林の管理役となった中
家休昌が文化13年(1816)に樫の古木の跡に塚を作り、駿馬塚と白馬堂の
碑をたてた。 
新宿区内藤町 

◆秋葉神社【若狭小浜藩・酒井家】 
 寛永年間まで牛込寺町に鎮座され、火除の神として崇められていた、同所の住
民の願いにより、矢来町の酒井若狭守の下屋敷へ遷座し、以来、酒井家の邸内社
でしたが、昭和27年に酒井家より無償贈与された。
 寛永5年(1628)に酒井忠勝が徳川家光からこの地を拝領した。屋敷周り
を土手にしていたのを、明暦の大火後に将軍を迎え、竹矢来垣(竹を縦横に粗く
組んだ、仮の囲い)を結び、矢来町の由来となりました。 
新宿区矢来町 

◆有楽稲荷神社【摂津・高槻藩・永井家】 
永井飛騨守が天下泰平と子孫繁栄を祈念して、幕末の動乱期、安政6年(185
9)に上屋敷であった当所に建立しました。社の傍らにある手水鉢は萬延元年(
1860)に奉納されています。昭和54年に複座されました。 
千代田区有楽町2−7 

◆八幡神社【伊予大洲藩・加藤家】 
伊予大洲藩加藤家の屋敷跡の一角が御徒町公園で八幡神社が残っています。大正
年間までこの地にあり、御徒町中学は加藤藩邸の跡地に出来ました。
台東区台東4 

◆清正公寺【熊本藩・細川家】 
浜町公園は熊本藩下屋敷でした、加藤清正を祀る清正公堂は、文久元年(18
61)に熊本藩主細川斉護が、熊本日蓮宗本妙寺から勧請し、江戸町民の参拝
も許されていました。 
中央区日本橋浜町2−59 

◆朝日弁財天【常陸・下館藩】 
 常陸下館藩水谷伊勢守勝隆は寛永元年(1624)不忍池に弁財天を建立す
ると、下屋敷があった水の谷の邸内の池にも弁財天を祀り、姉妹弁財天として
西方の不忍を夕日に、東方の水の谷を朝日弁財天と称した。 
台東区竜泉1−15−9 

◆駒止稲荷神社【旧安田庭園】 
家光公の時代、隅田川が氾濫した時、江東の地を視察を命じられた旗本阿部豊
後守は名馬を伴い隅田川の濁流を渡りました。名馬を止めたのがこの場所であ
り、駒止稲荷神社、駒止石、駒止井戸、駒止銀杏が残っています。この視察の
成功により、豊後守は一万石を賜り、大名に昇進しました。 
墨田区横網 

◆五十稲荷(ごとういなり)神社【下野・足利藩】 
 慶長の頃この地に鎮座していた。その後正徳の頃、戸田長門守邸内に奉祀さ
れ、栄寿稲荷大明神と崇められる。毎月五と十の付く日に門戸を開放し、人々
の参拝を許していたことから五十稲荷と言われている。 
千代田区神田小川町3−9 



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