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********************************************************************** 「街角お散歩ガイド」メールマガジン99/04/02 創刊号 まぐまぐ548 部 Pubzine 10 部 江戸歴史散歩 発行人 榎本民夫 jt7t-enmt@asahi-net.or.jp ********************************************************************** ==================「街角お散歩ガイド」について ======================= 558名のご登録いただいた、皆様に心より感謝申し上げます。 街角お散歩ガイドの御購読ありがとうございます。 購読お申し込みに従いまして、貴方のメールボックスにお届け致します。 購読は無料です。 このマガジンは東京で江戸時代の面影を残す各地の史跡、神社、大名庭園など を駅ごとや土地ごとに紹介したいと思います。 ★御購読及び登録解除は で行うことができます。 ご登録戴いた、メールアドレスは忘れないようにして下さい。 目次 ============================================================== 江戸の由来 地名の話 江戸っ子の話 武家地、町人地について 一二三四五六七八九の色々 相互リンクの紹介 江戸の由来 ================================================ 世田谷区喜多見に慶元寺があります。ここに江戸氏の墓所と、重長の銅像が有 ります。この寺は江戸重長が江戸城紅葉山に創建したと伝えられていて、平安 から鎌倉時代にかけて、江戸城周辺を支配していたのが、江戸氏でした。 室町時代にはいり、太田道灌が江戸城を中心に勢力を伸ばしました。そして、 都内には、道灌にまつわる、伝承が多く残っています。 当初、江戸は非常に狭い範囲を指しましたが、開幕による都市の拡張と共に、 江戸の範囲は拡大ていきました。 地図上でハッキリとした江戸の範囲を示したのは、文政の朱引図であり1818年 に出来ています。このときまで、常に拡大を続けた都市としての江戸の範囲は 決められてはいなかったようです。 地名の話 ========================================================== ◇銀座 出雲町、加賀町、尾張町等と言われ、それぞれの地域の人々により、総ての地 域が町人地として造成されました、江戸期から続く老舗が多い。 造成された当時は、井戸掘っても塩辛く、潮風が吹く三等地だったと言われて います。 ◇新宿 高井戸に対して、新しい宿場として1698年に開設された。かつても、今も盛り 場である。太宗寺には、新宿御苑を下屋敷としていた内藤家の墓があり、江戸 六地蔵の三番目があります。 ◇番町 江戸城防衛の為、旗本集団の1〜6番組を配置した事による。今日でも、区画 的にはほとんど変化はない。 ◇赤坂見附 見附とは江戸城の外堀の城門であり、番人が監視の目を光らせていたことから 見附と言われ、多くは遠見遮断の食い違いの道と、枡形門となっていた。石垣 は蔦に覆われているが、往時はお堀からの落差があり素晴らしい眺めだったと 感じます。左右の衆議院議長公邸は松江藩松平家、赤坂プリンスホテルは紀州 徳川家が、配置されていました。 武家地、町人地について ========================================== 江戸切り絵図を見ると、家紋が書き込まれているのが上屋敷であり、その他に 大名の中、下、抱え屋敷があり、名前が記載されているところは旗本、御家人 の屋敷です。神社、寺院は赤色で記載され、町人地が非常に狭い範囲であるこ とが分かります。 都内にある公園の多くは、かつての大名屋敷の跡であり、庭園や区画にその名 残を見ることが出来ます。 また、屋敷の鬼門には、社を勧請していました。今日、虎ノ門金比羅宮、水天 宮などを始め発展した屋敷神の幾つか、庶民の信仰の対象となっているところ があります。 先日、新橋の塩釜神社を訪れたところ、庭で落ち葉掃除をしている方がいまし たので、声を掛けたところ宮司さんの奥様でした。やはり、かつては伊達家の 屋敷神として仙台の塩釜神社より勧請されたとのことでした。宮司さんは伊達 家譜代の臣で有るとのことでした。今では、新橋地区唯一の杜と言えます。 「火事、喧嘩は江戸の華、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われたほど、下町には 稲荷が多くありました。これは、発展したものと合祀されたものに分かれ、そ の多くが痕跡すら有りません。 江戸っ子と浅黄裏 ================================================== 江戸っ子と言う言葉は明和8年(1772)に、初めて川柳に使われて、これは、家 康の江戸入府の182年ごと言うことになります。当初は、大旦那衆を指してい ましたが、徐々に町人までに拡大していったと言われています。 浅黄裏は地方出身の武士をあざける言葉として使われました、羽織の裏が浅黄 木綿で出来ていたためです。 一二三四五六七八九の色々 ============================================ ◇天一坊 吉宗の御落胤を名乗った。大岡忠相に見破られ、鈴が森で処刑された。 ◇二本榎 芝上行寺の門前に二本の榎があった。 ◇三社権現 浅草神社を三社様と言い、土師真中知、檜前浜成・竹成を祭神としていること から言う。 ◇四谷 四谷見附より新宿の大木戸までの甲州街道の町屋の名前。 ◇五百羅漢 目黒行人坂大円寺には明暦の大火(1772)の焼死者供養の羅漢像がある。羅漢像 の一つは必ず自分に似ていると言われています。 ◇六本木 麻布竜土六本木町、門前、寺院などあり、墓地は整理統合され、六本木墓園と なっています。 ◇本所の七不思議 置いてけ堀、片葉の蘆、一つ提灯、狸ばやし、足洗い屋敷、津軽家の太鼓消え ずの行灯等 ◇八丁堀 南北両奉行所付きの与力と同心を、八丁堀と呼んだ ◇九軒屋敷 駒込の地名 =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- 次号メールマガジンもう少し、まとまりがある内容ににしたいと思います。 4月22日を予定したいと思います。ご指導の程宜しくお願いいたします。作者 榎本民夫 jt7t-enmt@asahi-net.or.jp =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- --------------------------------------------------------------------- 『まぐまぐ』を利用して発行しています。 http://www.mag2.com そのために 「ウィークリーまぐまぐ」が週3回届きます。解除は上記URLで出来ます。 --------------------------------------------------------------------- |