街角お散歩ガイド第4号



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「街角お散歩ガイド」メールマガジン    第4号   1999年10月20日
                          まぐまぐ1024部
                          Pubzine 155部


江戸歴史散歩

日経ネットナビ主催「ホームページ大王2000」にノミネートしました。
           ぜひ、投票を御願いします。
     

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発行人        榎本民夫 jt7t-enmt@asahi-net.or.jp
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久々のメールマガジンです、
今回は非常にマイナーな藩邸の石垣に注目してみました。
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目次  ==============================================================

▼紀尾井散歩
       ▼二本榎散歩
              ▼霞ヶ関散歩
                     ▼六本木散歩
                           ▼溜池散歩
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▲紀尾井散歩  尾張藩の石垣
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 紀尾井町の由来は、紀伊家、尾張家、井伊家の屋敷があったことに由来しま
す明治になり、それぞれ北白川宮、皇宮用用地、伏見宮家などの用地になった
ため区画は江戸時代と、殆ど変わりません。
 四谷駅降りると、見附跡である石垣が一部残っていて、駅前の広場の床タイ
ルは枡形の配置をかたどっています。
 聖イグナチオ教会前を、半蔵門方向行き、上智大学の東門の所には、尾張家
の石垣が残っています。三段程度の石垣ですが、小さな民家の用壁として使わ
ています。大学の中にも多くの、石が無造作に並べられています。
 石垣は撤去するのが、大変ですし消えて無くなるものでもありませんので、
大名藩邸跡に残っているものが多いものです。

 東門の坂を下ると、紀尾井坂の手前には、十段100m程の石垣がありま
す。おそらく、当時は薄暗く、藩邸と藩邸の間は、淋しい限りだったはずで
す。
 今では、ブランドの店舗が並ぶこの通りを過ぎて、しばらく行くと清水谷公
園です。池の裏には、築山の跡があり、紀伊家の庭園だったところと思いま
す。明治の地図では、池の位置が少し違うようです。
 ニューオータニの庭園は、井伊家の庭園を利用した物と思います。弁慶橋を
渡り、出雲藩の上屋敷跡の衆参議長公邸過ぎ、お堀際を赤坂見附跡を見ます
と、堀から高さがあり、往時の偉容を今に伝えています。
なだらかな諏訪坂の東京プリンスホテル側には、丁寧に積まれた、石垣があ
り、紀伊家の表家門に連なっていたことを感じさせます。
 【文芸春秋ビル】入り口の石垣は、非常に見事で、位置的には紀州藩の御長
屋があったところですが、形と材質から江戸時代の物では、無いようです。
【知っている方はご連絡を戴けると幸いです。】
文芸春秋社を左に曲がると、紀尾井坂です。


       ▲二本榎散歩 細川藩邸の石垣
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 品川駅前の第一京浜沿いに、高山神社があります。大名家と何か、謂われが
ありそうなので、行ってみることにしました。社前の由来を見ますと、明治初
期には毛利公爵家の邸宅があり、土地を寄進されたとありました。当時は広大
な屋敷を構えていたと思います。
さて、
 ホテルパシィフィク前のザクロ坂を進み、(ここは女性が美人に見えます)
第一京浜と平行に進む道に出ます。徳川家康が五街道を整備するまでは、こち
らが東海道だったそうです。高野山東京別院や、二本榎の由来の碑、味の素記
念館があり、高松宮邸前添いには、細川藩邸時代の石垣が残っています。当時
は御長屋があったと思われます。また、高層都営住宅の裏手には、大石内蔵助
切腹の場所を整備されています。
 桜田通りに降りると、加藤清正公が李朝朝鮮より連れ帰った王子が創建し
た、覚林寺があります。



             ▲霞ヶ関散歩 福岡藩黒田家の石垣
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 東京の都心部は、公園が多く、官庁街を始め広大な敷地を、意外にゆったり
と使用しています。
 これらの区画は、元をただせば、明治維新後に、荒れ果てた大名藩邸跡を活
用したものです。当初は軍事施設や練兵場が多かったのですが、丸の内を岩崎
家に払い下げたのを始め、華族、公家の邸宅として利用し、霞ヶ関は官庁街と
なりました。
 福岡黒田家の上屋敷跡は明治より、外務省となり、戦災で焼失するまでは御
長屋が残っていました。現在でも見事な石垣が残っています。江戸時代の石工
の技術が伺えます。 

                  ▲六本木散歩 松代藩真田家の石垣
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 乃木坂から六本木交差点方面に暫く歩き、防衛庁前を右に曲がると、一方通
行の道があります。約200M程、3>4段の石垣が続きます。
 意外なところに、藩邸の跡があるものです。後で調べてみましたところ、肥
前蓮池藩の上屋敷の後と分かりました。

真田家の石垣
 赤坂の南部坂アメリカ大使館宿舎よりは、御影石の石垣が見事です。江戸時
代のものかは、分かりませんが区画的には当時のままです。氷川神社前では、
陸奥中村藩との境もハッキリしています。また、南部坂は忠臣蔵で有名です。


 
                             ▲溜池の石垣
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 赤坂見附しばらく外堀通りは、山の手には珍しく平坦な道が続きます、ここ
が、溜池跡であり、今は交差名と地下鉄駅名に名前を残しています。江戸時代
は風光明媚な行楽地だったそうです。私も、痕跡すら無いと、思っていました
が、今回、虎ノ門まで歩く間に、特許庁の向かいで、石垣の角の部分が残って
いました。文化庁の標識が有りましたので、保存されているようです。
▲番外 
 近くには、虎ノ門金比羅神社があります。銅鳥居があり、寄進者を注目する
と、新吉原の置屋が多いことが分かります。どの様な関係があったか、これか
ら調べたいと思います。

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 東京には280藩が、上、中、下屋敷を構えていましたので、今でも多くの
所に、江戸時代の痕跡があります。これを街並みとして、復元できれば、先人
の努力を活かすことが出来ると思うのですが、皆様は如何ですか。





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皆様のご意見を戴きたいと思います。宜しくお願いいたします。
これからも、ご指導の程宜しくお願いいたします。
     ◆作者◆   榎本民夫 jt7t-enmt@asahi-net.or.jp
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