日本の智慧:鍛冶屋さんに日本古来の鍛造法でナイフを作って貰った
 火 造り 打ち 刃物 製作過程レポート`98 + 

  日本の刃物と鋼の智慧 

補遺

【考察とお願い】後半

Contents
●心の弱い人間を動かすレトリック
●経済成長しなくても庶民は困らない
●都会人と日本国の共通項:お金を持っていなかったら・・・
●自分勝手な国民が集まった自分勝手な国
●自己確立と自己責任による気づき
●世界の常識、日本人の無知
●形態共鳴:意識の底はつながっている
●職人の作品とエンジニアの商品
●魂の粗い人間に同調しないために
●閃きや体の状態は深い部分からの信号
●自分が創造主(けれども意識の奥のネガティブなものを消化できていないとそのネガティブなものも創造して自分を傷つけてしまう見習い中の創造主)
●バランス
●希望的理想と現実との接点
●不安につけ込もうとする甘い罠を吹っ飛ばせ
●スピリチュアルな価値観への転換
●お願い
●道具考
●痛い目に遭って解る人、痛い目にあっても解らない人、痛い目に遭わなくても解る人



●心の弱い人間を動かすレトリック
 科学や技術の進歩、経済の成長などといわれているものはみな力というものへ指向している人間の心を操るキーワードです。よく考えて下さい。
 今の科学というのは智慧のない人に対して証明するには良いかも知れません。大昔から伝えられてきた真理が、科学というものが進歩することによって、やっぱり本当だったのだと解っただけのことが沢山あります。昔の人間は、経験的に、または閃きによる直感智によって真理を掴んでいました。智恵のソースへアクセスする精神的、生理的な手法やセンスを持っていたといえます。神とか高位の宇宙意識とかいわれるものとつながっていたと言えるでしょう。動物は食べて良いもの悪いもの、体の具合が悪いときに食べたら良いものが知識としてでなく直感的に解っています。または何も食べないで絶食することによって血を綺麗にして身体を癒すということも本能的に知っています。人間もそういう能力がありました。

 例えば阪神淡路大地震の前には自然現象に異常なものが幾つも見られました。夜明け前に西の空が赤く染まったり、動物や魚など生物の動きが異常だったり、沢山の異常現象が起きています。これらの信号に対して受け取った方々はどう考え、その様な行動を起こしたのでしょうか。
 これを科学で原因を解明したりしていますが、問題は解明されたから地震から解放されるわけではないことです。今後、他の地域で同様のことが観測されたら、人々はどういう行動をとるのでしょう。
 このような現象が起きても、否定して何もアクションを起こさない人は幾らでもいるでしょう。警報を発令する側もパニックが起こることや予測が空振りを想定すると迂闊には行動できません。大衆には怯えて必要以上に取り乱す人もいれば、そんな恐ろしい事実を認めたくないが故に、非科学的だという言葉に頼って真剣に考えることを放棄する人も居ます。こういったことを考えると、情報とはあくまでもひとつの参考値でしかないのです。それをどう使うかは、個人の経験値と智慧と閃きに依ります。

 ですから、心を閉ざしていない人、身体のセンサを閉塞させていない人には、意識の奥や身体の反応によって大事な出来事が起こるときには信号が来るし、解決方法、それから答えもイメイジとして閃くのです。また、他人の口を通して伝えられるかも知れません。そういった本当に必要な信号というのはTVやラジオ、マスメディアから伝えられるものではありません。様々な現象や不思議な出合い、身の回りのちょっとした異常などの出来事、その受け取った大事な信号を濾過して、メッセージのエッセンス、本質を引き出す能力が大切なのです。そして、それは能力以前のものなのかも知れません。結局、最終的には死にたい人は死ぬのです。本人の意識には上らなくとも(自分の言語意識では認識は出来なくとも)現実、肉体を失うことを望んでいる魂達かも知れません。これは理性やエゴの部分の想いとは別次元の話です。メディアから流される権威有る情報が全てみたいな、何かを奉って権威化する以前に、人間の心や霊的なものを大事にして育て、その上で科学すべきなのです。そうでなければ、問題を先送りしているだけでしかありません。

 いまの実証主義的科学の学問的発見のケースには、科学者達の頭の中に、最初に答えが閃き、その後にその答えを説明をするための理論を構築していくというステップを踏むのはよくある話です。アインシュタインの相対性理論は何十年も掛かって閃きを数式に置き換えたのでした。釈迦滅後の初期大乗仏教に於ける人間に意識、心理に対する分析と理論はいまの心理学がやっと追いつきつつあるレベルです。その他、古代の建築物や工芸品などでいまの科学をもってしても、作れないものはいくらでもあります。

 日本の手作り刃物のレベルは未だに世界最高峰であることを科学をもってあらためて証明しただけで、千年の昔から古人は既にその手法を作り上げて、実用品として使っていたのです。前項で取り上げた薬師寺の建築技法は、いまの時代の宮大工が逆に学ぶレベルを先数百年前に実現していたのです。何れも科学的手法をもって分析研究をした学者が作り上げたものないことは確かです。
 科学が進歩することは大変結構なことですが、必要以上に奉り力を譲り渡してしまうことがどうなるか、というのが今の世の中が表して答えを示してくれているわけです。

 技術の進歩というのは、人間が持っていた能力が、今は無くなってしまったので、代わりに物理的に行えるようにしているとも言えましょう。例えばテレパシーの能力が衰えたから、通信に置き換わっているだけですし、自然を無駄にしたり破壊して、例えば魚が少なくなってしまったから、魚群探知機などのレーダーが必要になったのでしょう。
 人間が自然を大切にしてバランスが取れていたときには必要がなかったものが多いでしょう。他との競争や、力で押さえつけるために発展した技術が殆どでしょう。
 そこに働く技術者達が、哲学や霊的素養が無く、力を求めるために行った技術開発が多いのが問題なのです。または会社や組織に責任を委ねてしまうような姿勢であることも同様です。
 勿論いうまでもなく、純粋に人類の発展のため、もともと人間のエネルギーの方向はそういう拡張的なものですから放っておいても技術は進展していくのですが、高い精神性の裏付けが無いのが問題なのです。
 技術が進歩して現状は改善されても、精神的霊的進化の無い限り、いずれ問題は起きてくるでしょう。西欧的な力で抑える病気の治療方法が象徴的です。新薬を幾ら飲んでも、一時的な回復はみられても、免疫力を落としたり、また違う病気になったりします。モグラ叩きみたいなものです。
 かといって、食事療法や東洋的な体質改善だけでもダメなように、意識化のプログラムのバグフィックスや、霊的な部分で磨くことなど、バランスよく統合された状態を得る必要があります。
 ですから、技術的進歩より以前にやることがあるわけです。気違いに刃物より質が悪い、気違いに核というわけですから、その場凌ぎみたいな人の目をそらす技術の進歩を歓迎することは、自己責任を伴わない自己確立されていない人間がやることです。

 経済の成長は何かの犠牲の上に成り立っています。地球上の環境や資源であったり、他国の人間であったりします。それは競争原理によるもののため一番犠牲になっているのは人間性そのものでもあるかも知れません。

 余計なもの無駄なものを沢山作っているから経済が成長しなければ成り立たないように見えてしまうのです。会社組織が他社と競争するから、拡張のための投資をするから、博打的なことに手を出すからでしょう。その為に短期で利益を上げるために長く使えない消費サイクルの短いものをわざと作っている企業があるからだし、そこで働いて給料を貰っている人間や、仕事を下請けしている会社が多いからでしょう。共犯者というわけです。
 ですから会社勤めの人間の多くは今の世の中のありかたに真っ向から意義を唱えられないし生き方も変えられないのです。まんまとはめられています。勿論、購入している我々も幇助罪といわれるものにあたります。
 悪いと解っているものでも、つい便利さに負けて買ってしまいます。またお店で売っている最新のものが無いと生活が成り立たないような嘘のイメイジをプログラムされ消費に走るようにマインドコントロールされていることもあります。不安感と顕示欲を上手くコントロールされているわけです。何を怖がり、何を縁(よすが)に生きているのですか?

●経済成長しなくても庶民は困らない
 提供する側の会社も買う側のユーザのどちらも不安感恐怖感と顕示欲で動かされているので今の消費型経済が成り立つ構造です。
本当のところ我々は経済が成長しなくたって、長持ちするいい道具や調度品、生活用具さえ手に入っていれば、すぐに生活に困るわけではありません。給料が増えなくたって、経済が安定していれば、取りあえずは困らないはずなのです。

 過去、経済が成長してきたから、これからも成長するだろうと、何も考えないで長期のローンを組んだ人以外は。それ以外に直接困るのは世界を裏で操っている人間達だし、直接的には金融関連の会社でしょうし、それに乗せられて設備投資をしてしまったメーカなどもそうでしょう。当然、そこで働いている人間もそうです。
 でも、実業でなく金を動かすだけで利益を得ている虚業に携わる人間が一番困るのです。人の懐を狙って商売をしている連中や、それらに自分のお金を膨らまして貰おうと運用して貰っている人間が、飛んでもない目にあったりする事件が相次いでいますが、それには同情の余地がありません。それはそういう波長を持った世界なのですから、そんなことがあって当たり前なのです。

 また、それと同様に、人の不安につけ込んで商売をする保険業も同様です。知り合いから大手保険会社の役付きの人のドロドロした裏話を聞いてみても、類は友を呼ぶじゃあないですが、結局は“取ったり取られたり”がキーワードになるような縁の人が集まって来るようです。
 それはそうでしょう、保険を掛ける側は、悪いことが起こるということを自分の意識にインプットし、ネガティブなことを前提に契約する訳だし、保険を勧誘する人は、顧客の将来の不安というネガティブなことに対してフォーカスし、悪いことが起きるかも知れないというイメイジを掻き立てて契約を取るわけです。人生は一つ何時悪いことが突発的に襲ってくるかも知れないというプログラムを組み込んでいるわけです。逆にそういう周波数の所には、保険金をだまし取ってやろうと考える人間が多く出るのは当たり前です。そういう土壌なのです。不安をキーとするフォースフィールドで取ったり取られたりする世界が不安定でバブリーなものであるのは、ちょっと視点を変えれば誰でも解ることでしょう。

 そうじゃない、堅実な考え方で真っ当に生きている人達は経済が成長しなくても、生活が滅茶苦茶になることはないはずです。もし、そうなるとしたら、どこかの見栄とか体面とかの部分で消費経済に乗せられてしまったのでしょう。または、高度成長経済のまま世の中が進むと安易に考えて自分自身を鍛えてこなかったか、真の意味で世の中の役に立つ商売に転換しなかったのではないですか。
 勿論、世の中が荒れてきていますからみな影響は受けています。でも、それは根本的なところで世の中のあり方がおかしいからだし、それを許してしまった人が多いからでしょう。それに気づいて方向転換しようという動きになってきたのが今の世の中です。
 それには単なる受け身的な被害者的発想に基づく行動でなく、偏った世の流れに荷担し(受け身で何もアクションを起こさずに其の状態を許していること自体が荷担していることになりますからね)、一員として現在の風潮を成り立たせているという、其の自分の意識下と我々の集合意識のテーマを認識した上での行動でなければ“誤努力”を繰り返すばかりになってしまいます。
 賢そうな人でも、随分と偏った“間違った信念”を持っている人が多いのに驚きます。そして、本人はその間違った信念を心底思い込んでいるものですから、引き寄せる現実は其の間違った信念を実現するものになるので、益々ドツボから抜け出せないと言うわけです。人の意識の現実化の力は非常に強いです。自分自身と共に他者をも巻き込むことが往々にしてあります。其の、巻き込まれる側の人は自己確立されていない他者依存の意識が強い人間であることは言うまでもありません。何れにしても、偏った世の流れ、文化を構成している一分子、要因(要員)としての自分を自覚するところから始まります。自分の意識の在り方は全て周りに伝播しますから。

●都会人と日本国の共通項:お金を持っていなかったら・・・
 お金がないと生きていけない世の中の構造にいつの間にかなってしまっています。また、消費を沢山しないと経済が回って食べていけない構造に仕組まれて、さらにそれが身動きが出来ないほど深刻化しています。それを仕組んだ人間達の思うつぼです。経済の変動によって膨大な利益を上げている連中がいます。仕組んで変動させているのです。

 仮に経済が破綻して、お金の価値が下がったら、一番困るのは、帰る田舎のない土地のない都会人です。都会の人間はお金が無いと食料を手に入れる術はありません。
 地方では、食糧の自給率が高いのは当たり前ですよね(現金が少なくても割と豊かに暮らせるのが地方の良いところなのですが冠婚葬祭など付き合いに膨大な費用が掛かるとか。でも、バブルがはじけた後、東北旅行したときに津軽半島の付け根の小泊村の飲み屋で一緒になって家に泊めて貰った村役場に勤める同年代の人は、こっちはバブルの前も後も何も影響無かったモンねと津軽弁で言っていました。それで乗っている車は高級車、家は広い良い家に住み幸せに暮らししています。地方ではそういう家が多いですよね)。
 世の中の状況が悪くなったら、都会ではよりお金を持っていることが必要になります。何か大きな災害とか経済の破綻起こったと仮定して考えてみましょう。地方に縁故があれば取り合えず食料は手に入れられるでしょう。疎開する事も出来るかも知れません。しかし、そういう条件が調わない人達は現金が無ければ食べること生きていくことさえままならないのです。そしてお金を多く持っている人は何とかなるかも知れませんが、無い人はどうなるのか、結論は簡単です。

 日本の国はこれと同じ状況に置かれているわけです。食糧の自給率が年々低くなっているというのは愚か以外の何者でもありません。異常気象が年々深刻化しているこの時代に、そんな体制を転換できなかったら、今の食糧輸出国が自国の分だけしか調達出来なくなったときに困るのは日本です。お金があるうちは食料が高騰してもまだ手に入るかも知れません。でも、いまは日本の個人の貯蓄を海外に引き出そうと、みな仕掛けを作って躍起になっているのです。金融のビッグバンもそうです。ちょっと以前にイギリスが同様に仕掛けられて骨抜きになってしまったことを忘れてしまったのでしょうか。また郵貯に入っている貯蓄だって随分以前から流れ出しているそうですが、果たして回収可能なのでしょうか。

 もしあなたが、お金がないと生きていけないと言う意識が強いんだったら、それはマインドコントロールに填った隷属的な意識に堕ちていることの反映と考えた方がよいのでは無いでしょうか。それまでの人生を全部お金で済ませてきたと言うことの証でしょうね。お金を稼いでお金を使って物事を実現してきたと言うこと以外何も無いということを言っているのと同じでしょう。そういう人生に疑問を感じなかったですか?
 感じたかも知れないけれど、受け容れてしまったということでしょうか。それはどういう形であれ選択したということです。そういった選択が人生の積み重ねになります。
 お金がなければ何もできない何も実現出来ないような人間になってしまったとしたら、それは他でもない自分自身の責任です。社会が何時までも安定していて、自分の将来は国や自治体が守ってくれるというそういう理屈で単純に考えてきたのでしょう。わたしには其れが続くと良いですね、としか言い様がありません。

●自分勝手な国民が集まった自分勝手な国
 他国の資源を食い潰し、環境を汚染させ、過去に白人種程でないにせよアジアの他国に侵略的な過ちを何度も行ってきたことの凝りがクリアになっていない日本の国(日本人は自虐的な傾向があるので政治的経済的手段として過去の行いとその意図を歪められて脅す手段にもされている場合もあるので、やるべき事は行い、明らかにし、そして次のステップに入る交渉をしっかりと行うことが大事に思えるのだが...)は、世界中がパニックになったときに他国から助けて貰えると思いますか。自分のところが精一杯なのに、地球の環境破壊の片割れである日本に対して援助しようという慈悲深い国はどれだけあるのでしょうか。
感性が鈍いから、こういうことが解らないのです。言語処理脳である左脳ばかり使っているから、左脳意識の得意な思考方法、自己肯定や自己保身の論理に走って現実から目を背けてしまうような人間が多くなり、現実が見えなくなってしまうのです。
 記憶力の優劣や、答えが決まっていることに対して解答をするような受験戦争のための教育が、左脳偏重の人間性を阻害されたロボットのような頭でっかちで感受性の低い人間をつくり出していることを誰もが承知しているはずです。東大を頂点とする教育システムはそういう心のないロボット人間を作り出すためのものでした。いまの様々な事件は、そういう教育システムを生き抜いてきた、優秀な経歴の持ち主達の知性の貧困さ魂の未熟さを明らかにしています。そういう事実を突きつけられても、別の世界の話のようにしか受け取れない、自己肯定能力の高い、自我を守ることに長けた人々が多いのに驚きます。

 もちろん立派な方は幾らでもいます。しかし、総体的に人間性や心の豊かさ、また地球上さらに宇宙の一員としての在り方の智慧は、そのような社会的レッテルとは次元を異にするということがよく解ったのが今の時代です。クリスタルを通すように情報が多面から素通しにっている時代になったからです。またフィルターが掛かった情報も、智慧と経験が深ければ逆フィルターを掛けて操作されたノイズを除去できます。
 権力やお金、情報に価値があるのではなく、それらとどう関わって、その持つエネルギーを他の存在に生かしていくことが出来るかという人間性が問われている時代なのです。その器でない人間は、逆にそれらのものに振り回され、自分自身を傷つけることになっています。

 またストレスが多く精神エネルギーがコンプレッションされた世の中なので、その人の持つ潜在的な人間性が何かきっかけがあれば簡単に浮き上がってきて自身の本性が表に出てしまう隠し事の出来ない時代になったのです。自分が為した行いが、自分自身に返ってくるレスポンスの早いのが特徴でしょう。時代が悪いように見えても、良い方向に伸びている人は沢山います。その人達は自分の本当の心を大切にしてきた人達でしょう。我々は増幅器(ジェネレータ)に掛けられている状態です。良いものを持っている人は更に良い方向に、ネガティブなものを抱え粗いものにしがみついている人は、さらに粗い状況にエスカレートします。

 我々日本人も白人種程でないにせよ、侵略的な過ちを何度も行ってきましたし、そして現在では資源の無駄遣いと汚染に関してはトップクラスの実績を誇ります (^^;;; 日本人の我々が日々使用して捨てているものが、東南アジア諸国、南米諸国の資源を食い潰し環境を汚しているか自覚しているのでしょうか。自分の蒔いた種は自分が刈るのです。そういうことを自覚せず、また知ろうともせずに安穏と暮らしていること自体が依存心の塊であることの証ではないでしょうか。つまり無責任なのです。知らなかったとか、教えられなかったというのは幼稚な論理です。知ろうとしないだけです。つまり責任を持って生きていくという姿勢とはほど遠い状態でしょう。知ろうとしないことの罪はあると思われます。それは、誰が行うのでもない、自分自身の奥底でうっすらと出も気づいていれば、頬被りして見て見ないようにする行為自体、巡り巡って必ず自分自身に関する物事に於いて現象として起こります。それが人の心、意識の恐ろしさです。学びのステージは自分が自分自身に与えるものです。神の罰などではありません。自分の意識下のこと、感情の部分の覆い隠したものが、身の回りの現象として顕れます。

●自己確立と自己責任による気づき
 しかし、気づき変わっている人達はどんどん増えています。時代は螺旋状に進みながら試行錯誤して、右に左に振れて様々な経験をしてきました。もう、統合されないと、地球自体が空中分解しかねない状態なのは多くの人が認識している通りです。
 日本人に関して言えば、前の項に書いたように自己確立と自己責任の意識が高くなる必要があります。そうなれば、国土はまだある程度余裕があるのですから、生活圏をもっと分散して自立性のある地域経済をある程度確立した上で、分かち合い助け合う分散型のネットワークが出来るでしょう。
 全てはホロニックに、相似的に出来上がります。個人個人が確立されていなかったら、高度な分散型のネットワークなんか出来っこありません。わたしも、自分の仕事の中(企業研究所や大学の研究室相手の計測システムインテグレーションの仕事)でそのようなネットワークが出来るかどうか実験してみて解りました。現状でハイテクに世界にいる人間達は、お金が絡むことで、シェアしたり助け合うのは無理のようです。もっと、個人的なところから復活させていかなければならないのかも知れません。気づき目覚めつつあるもの同士のネットワーク、波長が合うもの同士のネットワークを作ることが大事なのでしょう。異なる世界で生きながら、価値観や方向性が同じものを持っているもの同士でWebを織っていくということです。

●世界の常識、日本人の無知
 また、農業をやりたい若者が増えている中で、規制するような法律を取り払えるような政策に変わらなくては自給率を高めることもできません。それと逆行することを行っている今の政府は、世界を裏で操っている闇の組織の手先となっているとしか考えられません。
 その闇の組織というのは夢物語でなく現実の話です。多くの皆さんがご存知の通り、穀物を例に挙げれば、F1種(first filial hybrid:一代雑種)という世代交代が出来ないトウモロコシなどの穀物の種が穀物メジャーによって牛耳られ、毎年穀物メジャーから、種を仕入れなければいけなくなっている構造もそうだし、石油メジャーによる価格操作も同じ、通信マスコミ関係ではアメリカの3大TVネットワークのNBC,CBS,ABCや通信社が情報操作の大本となっているために日本のTV新聞各社に入る情報はフィルターに掛けられた後のものであることは有名な話です。勿論、ハリウッド映画を始め様々なものや軍事産業も同様ですが、これはアメリカだけの話ではなくヨーロッパも同様の仕組みになってしまっています。

 これらのことに立ち向かっていくのは、政治的な革命や権力闘争では無理なのは過去の史実から明らかでしょう。変革の希望に燃えた人も、一旦組織の中に入ってしまうと段々汚濁されて行ってしまうものです。それよりも、一人一人の意識や行動が変わり、身近なところから変革していくのが一番の早道です。自分自身が変わらなくて、世の中が変わるわけがないのはあたりまえでしょう。
 それを国が政治が会社が他人が悪いからと言って他人のことばかりあげつらっている人間のことを自己確立できていない自己責任のない人間と言います。でも、我々のヒューマンリレイションはホロニックな構造ですから、一人が変わることによって連鎖的な伝播によってダイナミックな動きとなるのです。形態共鳴(Formative Resonance)の理論から言っても当然です。最近の言葉で言うと100匹目の猿現象という方が分かり易いかも知れません。

●形態共鳴:意識の底はつながっている
 それを分かり易く書くと、意識の底はみな繋がっているので、そのグループの総数に対す個々の経験や意識変化の臨界閾値が充たされると、その形態が共鳴共振して自然障壁を飛び越し、さらに他のグループの現実のデータベースとなるため、種として量子的飛躍を遂げる、かつ共時性を持って、という言い方になるでしょうか。

 だから、一人一人の意識や価値観が変わる必要があるのです。それは上っ面だけでなく、根本的に変わる必要があります。根本的に変われば、その行動のパターンも変わります。行動パターンが変わっていなければ意識が変わったとは言いません。人間、性格キャラクターは根本的には変わりにくいものですが、意識や視点は幾らでも変えられます。でも、これらは目先だけでなく、芯(心)から変わらなければ、すぐ揺り戻されますが・・・。逆に行動パターンを変えれば、意識を変えられる?かも知れません。

【形態共鳴に関する詳しい内容は、別ページの・手打ち鉈他、造林用の良い道具類を手に入れる`01/2に詳しく書いたので、以下に一部引用転記します】


 いま明らかに時代の流れが変わっており、価値観や生き方が変わって来ている人達が居る。魂のレベル、つまり人格レベルでなく霊格のレベルで進化した人達が増えている。それは子供だろうが大人だろうが関係ない。ただ歳だけ食った様な爺や中年の親爺共なかに其の流れから取り残されている人間が多い。
 先日もNHKの番組で日本のサル学の研究者の先生が出ていたが、この人達のやったこと日本中の猿のフィールド調査で、欧米の猿の個体についての個性を見ないロジックから個々の猿に個性があることを研究としてあからさまにしたことなどがある。その中の一つとして、幸島という離島でサルの行動を研究して世界中の研究者に影響を与えた研究である。此の研究は有名な話なのでご存じの人は多いと思うが話がずれたついでに概略を書いてみよう。詳しくは色々な本で書かれてるので詳しくは其方に譲る(“生命潮流”来るべきものの予感 ライアル・ワトソン著 工作舎刊、“なぜそれは起こるのか”過去に共鳴する現在、シェルドレイクの仮説をめぐって 喰代栄一著サンマーク出版刊などなど)ので興味ある人は其方を。

 その内容だが1950年から始められた九州宮崎の南に浮かぶ幸島という無人島のニホンザルの餌付けに泥の付いたサツマイモを上げていたことから始まる。最初は活発で賢い十八ヶ月の雌の小猿が何かの拍子で、真水の水たまりで泥を落として洗って食べることを学んだ。それを若いサル達が真似、やがて母ザル達も真似ていった。1953年のことである。そしてその4年後の1957年には群の3/4に当たる15匹がイモを真水で洗って食べるようになったそうだ。そして次に一番最初にイモ洗いを始めた此の雌ザルが、今度は小川にイモを放りこんで転がして洗っていた。そしてそれも群全体に拡がった。
 次には、ある時小川の水が涸れてしまったときに、今度は海の波打ち際で最初にイモ洗いを始めた同じく其の若い雌ザルが海水でイモを洗うようになったら、其の塩気との微妙な味が良かったらしく、それも群全体で拡がった。此の過程を監察官は常時見張っていたので、その文化が拡がっていくのが手にとるように見えたらしい。そして若いサル達が全員、汚れた食物を洗う習慣を身に付けた頃、五歳以上の成熟したサルでは、子供達から直接真似して覚えたサルに限られてその文化を受け容れたとのこと。
 また別の本では十二歳以上の大人のサルで特にオスザルはイモ洗い文化が群に定着して十年以上も経つのに、頑なに受け容れなかったそうである。これは笑えるくらいに人間の社会も同じでありましょうぞ。まあ、こういった事は我々の社会に於いて、悪い方に働くと諸悪の根元になりかねない現象と思えるのだが如何?

 此の続編には二つあって、一つはイモ洗いを始めた雌ザルは、次に革新的な行動として、餌の容器から飛び散って砂の中に入ってしまった砂混じりの小麦を海に投げ入れ、浮いた小麦のみ食べる智慧を三歳の時に行ったそうである。
 そしてもう一つは、幸島のサルの群にイモ洗い文化が浸透したところ、今度は離れたところにある高崎山のモンキーセンターのサル達が同じイモ洗いを始めたというのだ。勿論サル同士の行き来はない。こういった行動様式が群の総数に対する臨界値を越えたときに、自然の障壁を越えて他の群にテレパシックに伝わっていくメカニズムをライアル・ワトソン氏は「100匹目のサル現象」と呼んだという内容だ。

 また似たようなメカニズムが働いた例として、イギリスの四十雀は1920年頃に見付けられた各家に配達される牛乳の蓋を開けて飲むことを覚えた智慧が、1947年にはイギリス中の他の四十雀に伝わって行き、やがてデンマークやオランダ、スウェーデンなどでも観察されるようになったという。此の事例などを含む、生物に於ける形態形成場や形態共鳴(Formative Resonance)の研究については、「生命のニューサイエンス」「世界を変える七つの実験」(共に工作舎)の著者であるルパート・シェルドレイク博士の本に詳しい。氏は大問題を解くのに大きな実験は要らないとして「世界を変える七つの実験」の序文に書くほどアカデミズムに固まった科学界とは違った歩み方をしている生化学生物学の研究者であるそうだが、逆に量子物理学のデビット・ボーム博士が内在秩序(Inpricate Order)の理論を持ってシェルドレイク博士の形態形成場の仮説に注釈を加える展開となっているらしい。種の進化、文化の生成に関して形成場が見えないところで構築されていくと、或る閾値を超えたときに爆発的に伝播するという現象が証明されつつあるようだ。

 長々とした引用になってしまって恐縮だが、自分自身で物事を考える力があり工夫して自分の手で何かを創り出して他の人々を喜ばせてきた人、それは会社員であれ、或いは農家であれ、受け身でない人生を歩んできた人の頭と精神は歳をとっても柔軟であり心もたおやかであるが故、我々が其の智慧と経験に学ばせていただくことが限りなくあるが、見栄と体裁と権威に凝り固まって他人を利用してきたようなメンタリティの、モノをコレクションして満足しているような年寄りは、凝り固まっていて過去の自慢をするだけしか能がない、今の人間界に起こっている100匹目のサル現象の流れから落ち零れた存在でしかないということ。早々に心入れ替えて行動を変えないと此の大変革の時代、既に流れが二極化している内の、其の片方である堕ちていく方の流れにしか乗れないぞということである。

 なぜ、こんなことを書くかというと、自分の所の仕事ではフリーダイアルを設置しているのだが、其の番号が某大手飲料食品メーカとほぼ同じらしく、よく間違い電話が掛かってくる。其処のカスタマは老人達ばかりのようで、間違い電話を掛けてきたことを知らせた後の態度が10人中7人くらいまでは横柄であり、自身が間違えているのにも関わらず一言も謝らず、他者に電話料金を負担させている最中にも関わらず其方の番号を教えろだとか詰問したり(自分で調べろっちゅうの...)、何度も同じ事を繰り返し聞き、自分が間違えていることを何時までも認めようとしないからだ。中には間違っていることを伝えた途端にガチャンと電話を切るような無礼きわまりない質の悪い年寄りも多い。
 本当に嫌な気分になること甚だしい。こういうろくでもない年寄りが多く居るっちゅうことは、其の子供である今の社会の中堅の人間のレベルも知れたもの。まあそれらは私の年代の男共だし、下の年代もあり、また我々より上の団塊の世代の連中も然り。彼らの同性として客観的に観ても今の男共は、上っ面は兎も角、中身の伴わない腐った男が多いのは実感するし、団塊の世代の人と話をすると、同年代には嫌な奴らが多いと自らも言う。
 もっと例をあげれば山や近隣の散歩で行き会った年寄り達に挨拶をしても挨拶が返ってこない事も良くあるのだ。それは決して耳が遠いのではなく狭い道で行き会っての話なので一様の傾向であることは間違いない。隣人として付き合えば悪い人ではないのかも知れないが、全般に人間の質が悪くなっているようにしか思えない。
 他のページにも散々書いているが、山菜キノコが採れる山の中に捨ててある飲み物の缶や瓶、菓子の袋、コンビニ弁当の器などのゴミは、あまり若い連中が行くような所ではないので年輩の人達が捨てていったとしか思えない。なんで山にゴミを捨てるかなと思う。そして田舎ほど生活ゴミが山に捨ててあるのを目にする機会が多い。通りすがりの人間のゴミではなくて住んでいる人達のゴミだ。
 また、年金貰って閑で金がある人達が多いのか平日から各地に年寄りの旅行者の多いこと。山菜キノコ山も平日から代わる代わるゴソゴソ余所もんの年寄り達が入り込み、みんな根こそぎ持って行ってしまう。タイミングを外して採りに行った日にゃあ嘗てキノコの宝庫だったところで何も採れずにボーズで呆然なんてことが起きる始末。

 話が大きくずれていて全然違う話に思えるかも知れないが、此のページでわざわざこんな事を書いたのは、他の所(例えば南米や東南アジアの森林資源だってそうだ)から奪うことばっかり考えていないで、自分達の周りの山を手入れして生き返らすことに金と労力と知恵を使ってくれよと言いたいからだ。一昔前の人達は自然の摂理の中で生きていたから獲ることのみに偏ることは少なかったと言うことだね。そしてその山は、此のページの道具が活躍する場でもあるし、また山から頂いた木を活かすも此等の道具であるからだ。
 で、思うに、今の年寄りは戦後直ぐは確かに大変だったかも知れないけれどその後右肩上がりの成長経済の中で生きてきて、いま年金を貰って(若い人が支えている訳ではない自分らで積み立てた年金だからやましい気持になる必要はない、役人共が無駄金使ったり返ってくる見込みのない海外に流出させたり、また自分達が良い思いをするようにして年金基金が足りなくなっているのが事実だからね。国の言うことに騙されないように...)老後を謳歌している訳だ。ところがあなた達がやってきた仕事には、貴重な自然を破壊してきたり公害を垂れ流してきたり、金儲け優先で子供達を食い物にしたりして、日本の自然と精神の破壊に荷担している場合が多くあったはずだ。孫子の代の貯金を自分達で浪費したわけだね。

 だったら、せめて自分達がいま足下で出来る事を探して役に立ちながら感謝されて死んで行けよと思うだが如何だろう。死に様が生き様だ。我々日本の知恵を伝授されなかった者達は、いまの年寄り達の持つ経験と深い知恵を惜しむ気持と、自然の中で生き、様為してきた人に対する尊敬の気持がある。まだまだ今だったら後の世代のに残すチャンスはあるし、実際に各地で実際的なことが行われている。しかし、法的な制限もあるし財産に関する事も絡まって日本の森林資源は膠着したままだ。今日日は裕福な年寄り達の懐を狙って、国が税制を変えて吸い上げようとしているようだし、また外国の勢力も躍起になって仕掛けを作って年寄り達の箪笥預金を引っぱり出そうとしている。
 だったら、財産があって其の争いをするような子供らに残すくらいだったら、年寄り達で基金を作って山の保全の場と其の保全のノウハウを残し、自分達の眠れる資産を有効活用する実験場として活きた山にする活動を出来る現場として、有志に開放するようなものに運用しても良いのでは無いかと貧乏人は考える。運営は独立独歩の他者の介在を受けないNGOの中でも精神性も高いところがやってくれればよいと思う。権威意識や既得権などに聡いところはだめだ。またお金を出す側も山のことをしっかりと勉強をして現場にも行き、現場の人間と相対して人柄ややっていることを具に観て其の都度必要な分だけ助けていく位の手間も掛けないとダメだろうな。よっぽど心の修行が出来た人じゃ無い限り、また高いヴィジョンがある人達では無い限り無償のものは無駄には使ってしまうものだから。道具を貸すにしても何にしてもタダというのはダメね。借りる側もお金なり労力なり、何かを差し出さないと。

 さて、戦争で石油がストップしたり、日本経済やアメリカの経済が破綻したり、天変地異に近いものが来たら、今のような植林(補助金欲しさで植えて放ったらかしになった)の山だったら、山の幸は採れないし、山の動物の住処にもならない、そして針葉樹の根と葉のでは保水力が無いので土砂が直ぐに流出し、また其の浅い根のために台風で木が直ぐに倒れるものだから、放ったらかしの手入れされない植林針葉樹の単層林では我々の生活を助けるものには何もならないものであることは少し考える力がある頭を持っていれば誰でも解ることだ。其の保全をやるかやらないかで今後の日本の運命も変わってしまうのでは無いかと思う。少しでも我々が尊敬できる、そして経済力のある年寄りが残っているんだったら日本の将来のため地球の未来のためにその位のことをやって欲しいと思う。日本は世界の雛形という人もいる。日本は良いところもあるが悪いところも沢山ある。だがやりようによってはアジアのパイロットケースとして良いサンプルになれるだけの伝統と底力を持っているのも事実だ。
 我々の仲間のNGOでは東南アジアの農業援助したり、また国内の一地域で森林再生のNPOで活動している者もいるが、もっと国内も大規模に色々な壁を取っ払って山の再生を行っていかねばならないでしょ。日本の文化は木の文化。いまのコンクリや石油製品の構造物では地球を破壊し汚すだけ。家を潰したら処分に困るゴミばかり。そんなのおかしいでしょうが。頼むぜ爺さん婆さん達、あなた達が日本の文化を此処まで変えてしまったのでしょう。他国の良いところを受け容れて学ぶのは良いけれど、自分自身の考えや哲学をもって必要なところだけ受け容れないと汚染されるのよ。身を守ることばかり考えて生きているんじゃあ踊らされるばかり、自身の身を削って誇りや文化を残すってえ位じゃないと他者(他国)の言いなりで身ぐるみ剥がれてしまうわけ。
 世の全体の流れだったとはいえ、受け容れてしまったこと、質の悪いものを買ってしまうことによって、そういう使い捨て文化を受け容れたというカルマ的責任は生じているんだよね。質の悪い使い捨てのものを消費者が買えば、それは食い潰し文明を増長させていると言うこと(私ら夫婦も役に立つものは100円ショップでも買うことはあるけれど、長時間いると気持ち悪くなってくる。仲間にも同じく感じる者も多い。つまり身体に有害なものが多いのか、其れとも石油製品が多くて静電気が多くて体調が今一になるのかも知れない)。

 一般論で言えば世の中本当に悪い奴の数なんて多寡が知れているはず。でも、善男善女ぶった人間で、本人自身は法を侵すことはやらないかも知れないけれど、やがては自分達を破綻させる文化や違法を知って見過ごしていたら同罪だよね。他人は知らなくとも自分自身の心は知っているし、それが自分自身に言い訳して自分を騙したとしても、必ず自分の魂の中に潜勢力として残っている。それがカルマの種ともなる。また現実としては文化が変容していったり環境が悪くなっていくことが実際に起きてしまう。
 みんなが保身のために見過ごして仕舞った結果が今だよね。今頃気が付いたって遅いんだけど、先ずは気づかないことには何も変わらない。そしてあとは何処まで復興出来るか最後の花道を自分達で用意して頂戴な。そうでないと、歳とっているからと言って、カルマの連鎖から抜け出られるわけじゃない。霊的な浄化、自分自身の尻拭いは自分達でして欲しい。魂を磨いて死んでいかないから皆成仏せんで、今の世の中どんどんおかしくなって亡者のような人間ばかり増えて行ってしまう。つまり無責任に生きて、死ぬときに自分で覆い隠してきた深い情の部分で悔恨の念を残していくから、現世の形態形成場に暗ーい影を残して行くんだよね。生きている人間の思考にもネガティブな影響を与えるわけ。
 敏感な人はわかるでしょ。自分の思考でないパターン、自分の意識パターンとは違うエネルギーに囚われることがあることを。そういうのを祓い浄めて汚れを落としていくのには、執着しているものを先ず捨てるということ(物でも精神的なものでも、つまり間違った信念や思い込み等も含め変なプライドも)から始まるんだよね。現状を維持しながらなんて事を考えていたら道は開けません。でも、みんなが同じように気づいて、先ずは一旦捨て去って、それから新しく創造を始めたら大きく変わって行くんだと思う。

 それにしても、こういうことは貧乏だと良く見えるんだよね。勿論、貧乏だからって他人様に頼って生きているわけじゃない。年寄り達が此の我々の想いをどう受け取ろうが、残りの人生をどの様に歩もうが、残された我々は自分達の人生を自分達で創っていかなければならないわけだから、我々が出来る方法で足下から変革していくし、お金に踊らされない人生も歩んでいく(別に稼ごうと思えば稼げるだけのものは持っているので負け犬の遠吠えでは無いので悪しからず)であろう。
 今までの生活の在り方とは反対に、今までのようにメディア(其の裏に居る連中)や企業や国などにマインドコントロールされて仕舞って居る様な、お金や経済中心の拝金的な思考方法じゃあ無くなってしまっている人達が段々と増えているというお話し。当たり前の感性を持っていれば今の世の中の在り方はおかしいのは誰でも解るからね。ただ、その気が付いている人ではあっても、その生き様は自己欺瞞によって自分の魂と身体を売り飛ばすか、それともその様にしないかの違いがその後の人生に反映しているだけ。
 だから、何れはそういった自分自身の魂の在り方を大切にする人達が自然と縁が出来て集まり、やがてコミュニティが出来、その上で進化した人達が多い自治体を選び、その土地で自分達の手で安全な食事を得る手だてをしたり、大自然の循環サイクルの中で少ないインパクトで暮らしていく智慧を高めていったり電気やエネルギーを外に依存しないシステム(しても少量に留め)を構築していくのであろうと思われる。昔の日本の良いところを復活させるのだが、違うのは其処に住むかどうかは自分で選べるということ、それ以前に日本人の深層部分で持っている排他的で陰湿で幼稚なメンタリティも乗り越えられていないと同じ事の繰り返しカルマ的な出来事をなぞってしまうことになる。また破壊的なテクノロジーではなく、創造的共生的エコロジカルなテクノロジーは積極的に運用していきたい。

 それは、何も昔に戻ろうとか古代のような生活をしようというわけではない。代替エネルギーや農作物の栽培についても既に画期的な技術は幾らでもあるのだから後は我々の生活態度で消費に傾いている様なものを少しでも多くの人が矯正していけば今のような無駄なエネルギー消費やカロリー消費をしなくて済むしね。
 貧乏暮らしをしているとそう言うことが実感として理解できるようになるものよ。都会でお金がないと二進も三進も行かない生活をしていると、不安感恐怖感ばかりでそんなヴィジョンも閃きも自身も出てこやしないでしょ。だからつまらないことで行き詰まって精神はおろか身体まで破壊してしまうことになるわけね。自分自身で人生をコントロールしていないと、ドツボにはまったら自らをも助けることが出来なくなるのはあたりまえ。他者に踊らされて虚ろな生活を自由と勘違いさせられた挙げ句はそういうこと。国も会社も自治体も病院も助けてはくれません。神様仏様もです。神は自らを助けるものを助くと言うのでしたっけ、それが平等です。いい加減にマインドコントロールから覚めたら如何ですか?恐れと不安ばかりで生きている人達は一番マインドコントロールが掛けやすいんですよ。そして十中八九引っかかっていることでしょう。詐偽的に作られた社会の仕組みに絡め取られている訳。

 平等は、その人の心の在り方行動の仕方がそのまま自分自身や周りに返ってくるというもの。差し出すものが還って来るものという法則を実感できるかどうか。その辺からも魂のレベルが解りますね。おおっと!かなり話がずれてしまったけれど、此のサイトはこういった事も含めての話を書いているので(他にも散々書いていますが書いている人間は何処の宗教にも何処の団体にも関係ありませんのでご安心を)ご了承願いたい。というのも世の中を変えていくのに政治経済のシステムを幾ら変えたって人間のレベルが同じだったら何も変わらないことが一般庶民にもとうの昔に解ってしまっているわけ。其処にやたらなテクノロジーの発展によりキチガイに刃物状態なわけでしょ。だったら何か欠けているかといったら哲学とか理念とか節制とか謙譲とかで、其のバックグラウンドにある霊性が何もないわけですわ。逆にそういうものを貶める仕掛けばかり蔓延っているんだよね。

 人間地に足が付いていないと、自然に近いところで暮らしていないと、身体も魂も腐ります。だったらどうするかというのが此のサイトのテーマ。受け身で他人のせいにして生きていないで、我々一人一人の意識と行動が少しずつでも変わって、其れが形態形成場をつくり、同じ波長の人達と縁が出来て表には出ずに水面下で静かに波及していけば良いのよ。表に出てもてはやされると隙が出来ておかしくなっていくのが常だし、また其処へは腐ったものに蠅が集るように有象無象が集まってくるし、他人を利用したり美味しいところだけ持っていこうとする善人面の人達も集ってくるからね。メディアなんてのも、自分達で創り出すわけではなく他人の資産を利用して話を作っていくのが殆どだしね。そんな連中が書くものなんて、後追いだからメジャーなTV、新聞、雑誌等のマスメディアに出たときには、もう既に多くに認知されている内容と思ったら間違いない。
 そんなん相手にしているより、市井の可愛い素直な人達と縁を作って静かに輪を広げていった方がよっぽどしっかりとした根を張るものでしょ。賢い凡人が増えていくのが大きな力となると思うんだけどね。自給と自足とエコロジカルなテクノロジーとでね。此のエコロジカルなテクノロジーについては自分の仕事に関連することなので此のサイトには書かないけれど、不思議な事って沢山有るんだよね。ってことで、貧乏な、凡人が、いや凡人以下だな、、、普通の人になりたいって想いで偉そうな能書き書いちゃって、、、居るわけです。はい。身の程は知っています。でも、自分の足下から出来る一歩ということで足掻いているだけなので、賢い方々は温かく見守ってやって下さいね。。。。。う〜ん。段々丁寧な腰の低い言葉遣いになってきたわ。。。謙虚なポーズをとっていても、、、、ホントは怪しいなコイツ・・・・なっちって。

【以上で転記文終了】


●職人の作品とエンジニアの商品
 さて、本題に戻ります。職人は神仏の領域に入る可能性を持っていますけれど、エンジニアにとってそこは無縁の世界でしょう。高められた職人の作品は神々しいものを感じさせたり、魂の入った力を感じることが出来ます。しかし、エンジニアといわれる人達の作品は役に立ちこそすれ、我々の精神を高めることは出来ません。なぜなら、それは知の作品だからです。

 大事なのは知識や分析を超えた、魂の奥底から湧いてくる智慧、閃きなのです。それが人間の肉体を通して表現されたときに作品に魂が入るのだと思います。頭の中をこねくり回しただけのものでなく、高められた魂が物理次元の肉体を通して表現されるのです。あるべきものがそこにある、完璧な創造性があるのです。職人にはその道が開かれています。

 頭の中でのみ処理しようとするとエゴに走ります。身体を使わずに現場(また地球上の様々な恩恵によって生かされているという認識)から遊離してしまったエンジニア達(や研究者、学者など:仕事で博士号を持った沢山の人達と付き合ったのですが、魂のレベルからいくと、山奥の学問の無さそうなおじいさんおばあさんの方がレベルの高い人達が多かったです。おじいさんおばあさんの話を伺っていると、頭の下がる、自然と手が合わさる思いで満たされることが多いのですが、博士達の話にはエゴイスティックなことが多くて、眼が天井に向かってしまうことが・・・)が陥りやすい罠です。

 人間の心が乱れ、地球環境の悪果を招いているのは、この近代文明のエンジニアリング、悪くいえば机上のシミュレーションゲームのヴァーチャルな世界にのみはまってしまい、肉体を通した表現や、魂を磨くことを忘れてしまったからです。知のみだと目先しか見えないので、人間や地球に悪影響を及ぼすものも平気で生み出してしまいます。智恵から生み出されるものは過去未来永劫の真理の表現ですから創造性を持ってます。
 日本に限らず、職人の世界には、畏怖すべき対象に向かって高められようとする魂があります。エゴを超えた、精妙な世界に周波数を合わせようとする心の向きを持っているのです。エゴを越えた精妙な世界からくる閃きを智恵といっています。

 そういう魂の向きを持つ人が居なくなって、我々の使う道具が心のこもらない、ただの“もの”になったとき、我々は道具に使われるだけの消費者に成り下がるのです。消費のために働く経済優先社会の奴隷に。マインドコントロールされ粗い心しか持っていないことに自分自身が気づかない、消費のためのロボットのような人間達の世界に・・・。そして、すでにそうなってしまっているのが今の時代でしょう。

●魂の粗い人間に同調しないために
 そこで、そういうことに気づき、世の中を変えていこうとしている人達が、気を付けなければいけないのは、言葉の上や理屈だけで判断し、同調したり実際の行動に移したりしないようにすることです。そういう経済優先の、魂の粗い消費ロボット人間達は、知識や論理だけはたっぷり持っているので、頭だけ知識だけの知的な作業は得意です。自然と共生だとか、奉仕だとか、分かち合い、エコロジカルなネットワークなど、挙げ句の果ては、神や仏という言葉を使って美しいことを言います。尤もなご高説を仰るのです。ロボットだから記憶力がよく、他人が経験から導き出した理論や言葉を単にオウム返しするのは得意です。
 しかし、その裏にはエゴや自己存在を充たすための欲、他人を利用しようとする欲などが潜んでいるのです。でも、その本人の知の部分、顕在意識、理性といわれる部分は、本気で世の中のためなどとそう思いこんでいる(または思い込もうとしている)場合があるのですからタチが悪いのです。ヴァーチャルな世界に生きているから、他人の経験を自分の経験と思いこめるのですね。

 そういう連中は自分の思いの中(意識している自分、顕在意識、言語的分析的認識意識)では世の中の流れを分析して、これからはそういう生き方が主流になっていくかも知れないし、実際のところこのままでは、自分がやっている商売では生きていくことすら危うい、だからそういう仕事をしなければいけないと、先ず商売のための理屈で考え始めたことを他人に受け入れられるために、人のため世の中のためと繰り返し言ううちに、自分が本当に自分がそう思っているのだと勘違いするのです。
 しかし、自分で認識しにくい意識下のエゴの部分では、もっと違う意識、行動原理が蠢いています。例えば、こっちの市場の方がホットで商売のネタがあるし、いまこれをやれば絶対儲かるに決まっている、儲かるところまでいかなくても食うのに困らなそうだ、この人間にはこういう風な言い方がセールストークとしては良いだろう、などとゲームのように美しいことを唱えているだけなのです。(商売の前に宗教の文字を入れてもいいかも知れません
 このような世の中になった本当の原因や根本解決に対する問題意識より、自己拡張、自我の満足の為のネタに対してフォーカスしているだけなのです(宗教者、信者も同様ですが、神や仏の名を借りて、他人を裁き、他人をコントロールして、自我を満足させる人間が多いです。やたら正義を振り回す人は、つまり神の名を利用して自分自身の欲求を満たすため、または不満の捌け口として居ることが殆どです。愛有る魂を持った人は正義を表に翳しませんから)。でも、言っていることややっていることは表面上ご立派に見えるから困るのです。

 昔は悪い奴はそれらしい悪い顔や格好をしていました。いまは見分けが付かないことが多くなっています。逆に突っ張ったニイチャンネエチャンの方が純真だったりする場合も多いのです。オウムの連中や和歌山保険金詐欺事件の林夫妻だって、すぐ隣にいそうな感じの人間ですよね。
私の知り合いだった人間にも何人かいます。バシャールだとかなんとかセミナーだとか好きで、立派なことを仰るけど、やることは売名行為みたいなことや、行動しないで棚から牡丹餅が落ちてくるのを待っているような人間が。
 もっと酷いのは、土地持ちの農家に婿にいったのが、夫婦で親から財産を取り上げ土地を処分し、親には毎月些少のお金だけ渡し、自分たちは精神世界のコーディネータが主催する海外の聖地のツアーにばかり行っているとかがあります。本人達はアセンションだとか、チャネリングだとか、これらの知識は沢山あり、建て前は何処の星からやって来たのかと思うようなことをお話ししますが、生活はだらしなく、他人を利用することに長け、美味しいところだけつまみ食いしたりするような行動をし、全てに亙って無責任で地に足が付かないものです。わたしはバシャールも好きですし、わたしの周りには、バシャールの本を読んだだけで気持ちが軽くなり、意識が変わって人生を前向きに生きるようになった人が沢山います。
 でも、言葉の上だけで同じようなことを話していても、本質は全然異なる、巻き込まれると危ない連中は何処の世界にでもいるものです。そのようなことから、自己を高めることによって、自分の中の奥に潜んでいるもの欲しそうな心が、何か力のあるものを自分の外に頼る意識を自分自身で認識して、そのような心を解消昇華していかないと、何処かでそのような他人を利用しようという危ない連中とつながりが出来てしまうのです。ドツボにはまる前に自分の意識下を浄化しましょう。

 ちょっと言い過ぎかも知れませんが、健康食品や健康器具、精神世界などと言われるものの流れを二十数年間見てきて思うことです。勿論、そういったものには限りなく質が高まって良くなっているものも大いにある反面、そういうものとは価値観が全然違う、儲け優先、人のためより自分のためという世界の人間達が多くなってきて、不味いことにその手口が巧妙になりリスクが大きいものが表面では良質な皮を被っているため、なまじのことでは見分けのつかないことが増えているからです。

 純真ではあるが経験や智慧が浅い人達(未熟で若い魂の人)や、自分の意識の中で消化し切れていない欲が心の奥隅に抑えきれない程あったりする人、または自分の生き様に自信が無く、不安感や恐怖感をコントロールできない人達が、すぐ同調しそうな表面上美しいけれど危ないものが沢山あります。
 人間は常に意識下の深い部分を自分自身で認識し行動しているわけではありませんし、また他人を観察してもその部分が表に出てきて表現されているわけではありません。実際のところは、人の顔つきや目の中、言動や行動、持ち物や物の扱い方などの所作全てに、その人の内的なものが現れているのですが、自分の持っている周波数が低く粗いと、それらの意味することを見抜いて認識出来ないだけなのです。かく言う私もしょっちゅう勉強させて貰っていますが・・・

 我々というのは常にエゴのフィルターが掛かり、意識下ではそれぞれの人が自分自身でインプットしたバグの多いプログラムが走っています。自分自身の根本的本質は、何かを失うとか自己存在が危うくなるなどの極限状態にならないと浮き出てきません。ですから金銭的、精神的に余裕があるとき、理性が働いているときは、幾らでも世間的に良い行動や、美しい言動が出来るのです。世の中のため、人のためといっている人が、いざ自分が犠牲になって何かをしなければならなくなったとき、また自分の所有する物的なものや、権威、権力、体面などが失われようとするときにどの様な反応をするかで、その人の本質が現れます。
 自分自身や自分が信じるものを否定されたときに、その人の肝の座り方や、もっている理念の高さ、懐の深さや本当の意味での愛の深さが解ります。 魂のレベルが滲み出てしまうわけですね。

 でもそんな極限状態に追い込まれていなくてさえ、いまの世の中の持つエネルギーに押しつぶされてしまって、自分のちっちゃな心の中で折り合いが付かず、言うこととやることが統合されていないアンビバレントな状態で頭がおかしくなっている人が急激に増えています。心が飽和状態に達してしまっているのでしょう。それは、自分自身の本当の心の声を無視して生きてきた人がなる結果です。物質的なことばかりにフォーカスしていたために、自分の魂を磨きもせず垢をベッタリと背負い込んでしまったのでしょうね。自分自身の本当の心をどれだけ裏切ってきたかということが問題です。

●閃きや体の状態は深い部分からの信号
 極限の状況の中に追い込まれている周波数の粗い人に共に巻き込まれないよう、また自分自身が極限状態に追い込まれないように誰にでもある能力、それは危険回避のための直感や閃きをもたらす精妙な意識へのパスが、どんな人でも自分の中に開かれています。
 でも、このパスは、欲や恐怖、不安感が強いと塞がってしまうのです。信号が発信されているのにもかかわらず受け取れなくなるし、受け取ったとしても無意識のうちに拒否してしまうのです。
 それは微細な信号です。我々が意識の奥にプログラムしてしまった社会通念から外れるようなこともあります。ちょっとした閃きかも知れないし、頭の中で何か勝手にしゃべっている言葉が本当の心の声ということもあります。また体の不調かも知れません。鳩尾の辺り重くなったり、胸が苦しくなったりする事があなたへのメッセージであることが多いのです。
 または全く外的なものかも知れません。あなたの使っているコンピュータが、いきなり具合が悪くなってしまうとか、それも一台だけでなく二台も一緒に。例えばネガティブなことを考えた途端に運転しているバイクの電気系統がおかしくなってしまい、気持ちを入れ替えた途端に元に戻ったなどということもあります。また、ある日出掛けていった先で偶然知り合った人が、以後の人生の方向付けをするきっかけになったなどというものもあるでしょう。
それとも仕事上の連絡を取りたいが、何人も何件も連絡しても誰にも連絡が取れない、しかし後日気が付いてみたら連絡が取れないことで仕事がGOにならなくて正解だった、という一見ネガティブだが実はその方がハッピーだったということはありませんか。逆にそういう流れの良くないときに、無理矢理契約などを決めてしまったが、長い目で見ると失敗だったということもあります。
 ですから、単に自分のエゴからくるイメイジを実現するのが幸せとは限らないのです。祈りというものイメイジングといものを心得違いしている結果です。よく居るでしょう、信仰とかやっているのにも拘わらず、何時まで経っても幸せにならず人相も悪いままの人達が。エゴで祈り、目先の小利を得る代わりに大きな不徳を積んでいる人達です。

 意味を持った偶然性であるシンクロニシティは身の回りで常に起きています。ただ、心をオープンにしていないと見落としてしまい易い微細な信号だったりしますし、固定観念の強い人には無視して然るべき自分の理屈に合わない出来事だったりするかも知れません。でも、実は自分にとって大事なことを伝えようとしているメッセージだったりします。その意味に気づき、その後のあなたの取る行動如何で展開が変わるかも知れません。目先の欲が強くて、急いで結果が欲しい人には、機が熟すまでの時間が待てない為に、盲動して流れを乱してしまうので、折角のチャンスまで辿り着けない事もままあります。
 病気になるのは、あなたの生き方が何処か勘違い心得違いをしているぞ、ということの現れです。社会や他人に合わせることにプライオリティをおいて生きてきたり、エゴを優先させて、本来の自分自身を活かさず、自分の本当の心の声を無視し続けると、身体か精神か、またその何れもが破綻します。自分の中にある何階層もの意識の統合が出来なくて心を傷つけ、葛藤が肉体を血を汚すからです。

 そのようなわけで、自分自身のエゴの部分がピュアになってなく粗い人、魂が磨かれて強くなって居無い人は、自分の中の高い部分から来る信号に気が付かず、逆に一見美味しそうなジャンク情報に波長が合い、それに踊らされて良いカモになってしまうか、恐怖心や不安感をあおられてコントロールされてしまう状況に陥るのです。

 それは、ある意味で言えば、自分の心の状態が、鏡として外界の状況に反射されているのですから、自分自身がそういう体験して、さらにそういう関係を乗り越えるまでは、同様の状況が自分の回りで起きることは仕方がないことと言えるでしょう。自分で思っているほど賢くなく、美しくない心を持つ自分自身に気が付くまでです。そして美しくない自分も受け入れて上げて下さい。それも自分自身なのです。周りを見れば全て自分の心の反射です。

 でも、もうそういう世界は必要ない、充分体験したし、自分自身の潜在的な部分もよく解ったから、もっと違う高められた世界、また自分自身を作りたい、と心から願うなら自分の意識と行動パターンを変えなくてはなりません。先ず自分自身が変わることです。
 相手を非難したり、補償を求めたり、攻撃していないで、そういう状況を避けきれなかった自分の不徳を省みるべきなのです。自分の中に同調するものがあるから縁が出来てしまいます。縁という言葉で解らなければ、自分の持っているエネルギーの周波数が共振してしまうと言いましょう。ですから、その問題となる周波数を変えない限りは、そういった連中や状況に縁が出来てしまい、いつも巻き込まれてしまうのです。逃げてはダメです。人間関係が嫌で会社を変わっても、そこにはなぜか必ず前と同じような状況が再現されます。何事も、逃げるのでは改善されません。向かっていって乗り越えることしか解決の方法はありません。
 状況は自分が持っているものが変わらない限り繰り返されます。周りに変わることばかり求めていても、それは何時まで経っても充たされません。求めるのは自分の中です。自分の意識下を認識できることから変化の道が開かれます。自分の持っている周波数を変えることです。そして、周りは常に鏡です。

●自分が創造主(けれども意識の奥のネガティブなものを消化できていないとそのネガティブなものも創造して自分を傷つけてしまう見習い中の創造主)
 被害者意識、不安感恐怖感からは何も生まれません。自分の中の意識下にあるそれらのネガティブな意識が、外的なネガティブな現実に呼応し、状況を呼び込んで(または自分自身をそこへ連れていって)イメイジを実現しているだけなのです。弱者の振りをして他人をコントロールしていませんか。被害者の振りをしているけれども、実は加害者という事はよくあります。そういう行動パターンを繰り返していると、自分自身の本当のパワーを失い、邪な悪魔的なエネルギーに憑依されてしまいますよ。
 では、あなたは感謝の気持ちを持って生きていますか?どのくらい感謝の気持ちを持って生きているか、それが魂の一つのバロメータと思って良いでしょう。
 またまた、筆(キー入力)が走りすぎますが、ついでいうなら自分が現実を創り出しています。そして、同じような周波数を持った魂が集まって、それぞれの、 または集合体(組織、会社、国、民族、家族、知人)の、周波数に応じた状況を縁によって生み出しているわけです。
 感謝を持って暮らしているなら同じく感謝の気持ちを持った人が引き寄せられます。恨みの念を強く持っているなら、恨みが強い人達と縁が出来ます。自分を大事にしないなら、自分を粗末に扱ってくれる人と一緒になるのです。自分自身を大事にしない人が、他人に大事にされるわけが有りません。身も心も軽い人は身も心も重たい人の中では浮き上がってしまいます。近寄ろうとしても近寄れないのです。縁を作ろうと思っても不思議と巡り合わせがその様に働かないのです。
 ですから、物事を前向きに解決しようとしない人達、同様に病気も根本は心にあることに気づき、そして自分自身で治そうとせずに医者が薬“のみ!”に頼っている人達は、同じ様な人達と悲しい状況を話し合い、傷を舐め合うことで自己の確認をします。そしてそれだけだったらまだ良いのですが、他人がちょっと具合が悪くなると、大袈裟に大変だという事を言い聞かせて、自分と同様の境涯に引き込むことを無意識の内にも行います。そういった人達の、心の奥のメッセージは、世の中は抗しがたく悲しいことが沢山あって、自分も“それなりに”努力したんだけど、ダメだったんだよ。生きていくのは大変なんだよ・・・と言うものです。此の宇宙の本質に気づこうとせずに、何時も逃げ口上言って狡してきた人の膠着した意識状態です。そういう種類の人は、何かあると、「出来ない理由」ばかり一生懸命訴えます。または、「人間食べなくちゃイカン。」と、不正をしたり狡したりすることを肯定して、自分の生きる権利という物を主張します。こういった処から抜け出さない限りは、集まる人は同様の周波数の人達だけ。そして其れがこの世の真実だと再度改めて思い込むのです。つまり亡者状態ですね。

 昔話にこんなものがあります。下駄屋の息子と傘屋の息子を持った婆さんが、雨が降ると、「こんなに雨が降っちゃあ下駄が売れずに下駄屋の息子が可愛そうだ。」と嘆き、お天道様が出て晴れると、今度は、「こんなにお天道様が出ていちゃあ傘屋の息子が不憫でならない。傘が売れなくてさぞかし困っているこったろう・・・」と嘆くのだそうです。日本人の多くの人が此のパターンですよね。お互いの大変なことを喋って、如何に自分の人生が大変なのかを自慢し合うのが常です。こんなに頑張っているのに報われないんだという心の発露です。間違った信念で誤努力を繰り返している事を自慢するわけですね。其処へ、ある時坊さんが来て、「婆さん、それはそう考えるんじゃ無くてこう考えるんだ。」「晴れたら下駄屋が儲かるし、雨降れば傘屋が喜ばれて息子が商売になるではないか。」。そう教えられたら、素直な婆さんはコロッと意識の集合点をずらして、目に見える現実が変わったんですね。
 その後は感謝の気持で暮らせたので人相も良くなり、周りの人も楽しくさせて天寿を全うしたそうな。この世に、そのまま地獄と天国が有るんです。焦点を合わせるところが違うだけで結果が異なります。合わせるのだったら光の方が、楽しく楽でしょう。そして出来る理由を話し、どうやって工夫するかに焦点を当てて少しずつでも先に進むのです。そうするとその過程で道標となるものが見えてきます。一歩でも進まないと道は開けないんですね。

 こういった事は、小さな事でも良いから自分自身に打ち勝ってきたり、自分で自分に決めて与えたテーマに対して乗り越えてきた人には当たり前の話です。世の中に流されて、それなりに社会的に成功した程度の人、意識的に自分の心を修めてこなかった人は、何かネガティブな事があれば、其れを乗り越える心構えや智慧や経験が身について居ないから、ちょっとしたことであたふたして、悪いことばかりを想像するだけで行動に移さないという妄想の中に落ち込んでしまうわけです。そして心のパワーを失い、実際に身体のエネルギーも消費して、どんどん悪い方に堕ちていきます。ですから社会的な物質的な成功というのは、あくまでも一面であって、そういった事が人生を幸せに送らせてくれる絶対条件では無いという事です。ですから依存心から脱却して自己確立をし、自己責任の意識の下に生きていくことが大事だと思うのです。そういう人が増えれば、この世は天国です。逆の亡者的な人が増えればこの世は地獄です。

 また体質的なことに関して言えば、例えば化学物質過敏症の人を見ていて思うのですが、精神的特質というか傾向があるようにも思えます。我々にとって過敏症の方は、誠に失礼な言い方なのですが、カナリア的で経済優先に依って歪められた環境の程度を教えてくれるパイロット的存在です。
 ただ、見ていて思うのは精神も過敏なのではないかということです。どちらが卵なのか解りませんが、相乗的に過敏になっているようです。化学物質以外にも、あれはダメこれはダメと、ものに留まらず人間関係などにも“受け入れない”という傾向が見られます。親が潔癖で恐怖感や不安感が強い人間だと、子供に対し、土に触ったら汚れるとか、あれはバイ菌があるから触っちゃダメとか小さいうちからプログラムします。子供の菌に対する免疫力は3、4歳のうちに出来上がり、それ以降では身体が学習できないとと言います。そのようにプログラムされた人が大人になったらどういうことになるのでしょうか。
 人間は口の中にも大腸菌がいます。菌の存在が悪いわけではないのです。免疫機構の能力が落ちるときがあるから、その時に菌が増えてしまい身体が負けてしまうだけなのです。そして免疫機構の働きが落ちるのは心が活発に動いていないときです。ですから心が健康でなければ、排他的過敏なマインドのプログラムは菌以外にも働きそうです。必要以上に自分自身のポテンシャルを下げ、自分自身を傷つけるように働かないように祈るばかりです。
 でも、それに気づいたら、自分自身のプログラムを書き換えなければいけません。自分自身が発信している振動数を変えない限り、自分の周りの環境は何も変わらないのです。全て自分自身が原因です。自分が変われば周りが変わります。その周りが変わらなければ、縁が変わり自分の周りのものが入れ替わります。自分が世界を作っています。それに気が付けば自己責任の言葉の意味が心から納得するでしょう。
 自分自身がどの様にして変わるのか、それは他のWebページにも書いていますから、波長が合いそうだったら読んで頂ければ幸いです。また世の中にはいろいろなメソッドがありますから、自分の心の奥からの声や閃きを大切に、自分が心から納得いくものを行じてみればよいと思います。
 そのひとつとして、このような肉体を通して表現される精妙な世界を大切にすることにも道があるのかも知れません。頭ばかり使っていると妄念に陥りグルグルとはまって抜け出れなくなります。皆それぞれ、自分に合った道があるでしょう。とにかく意識を高いところ変え、みんなが幸せになることに合わせて具体的に行動してみて下さい。続けているといつの間にか自分が変わっているのが解ると思います。わたしも不徳ながらいろいろ実験してみてつくづくそう思います。

●バランス
 でも、気を付けなければいけないのはバランスです。極端に走りそうになったら、一歩立ち止まって深呼吸しましょう。真実というものは極端なものの中には無いと思われます。閃きも勘も大切ですが、アレッと思うことがあったら理性をフルに作動させてバランスをとりましょう。
 わたしは知とか理性を蔑ろにしているわけではありません。何事もバランスが必要であり、いまの時代はバランスが取れていないと申し上げています。勉強中で解らないことだらけですが、未熟な頭でそう考えています。如何でしょうか。

●希望的理想と現実との接点
 そして、もう一つ。自分が変わったからといって、周りから全ての問題が無くなってしまうというわけではないこと。今の地球に生きている限り、いろいろな問題が起こります(だって、どう考えたってレベル低いですよねえ)。
 ただ、その問題が起きたときの対処が、必要以上に無駄なエネルギーを使ったり、心がざわめいたりしないのです。もちろん、その問題がトラブルに発展する前に気が付いて処理してしまうこともあるでしょう。今までの自分に比べて、諸々の問題の真の原因が理解できることや、その時に為すべきことがよく解るようになることが最大の違いでしょうか。時間軸に対する周波数が上がると共に、ダイナミックレンジが拡がる、といった言い方が理解しやすい方もいるかも知れません。
 自分の懐、心の巾、ゆるみの巾が広いといえばいいのでしょうか。許容能力と共に認識できる世界が拡大し、それに対してフレキシブルに対応可能ということになるのでしょうか。
 頭の回転が速く世の中のことが良く解っているようであっても、得意分野でなかったり人間関係の感情が入るような解のない問題、またお金や権威に関わる問題だったりすると、途端にノイズが入って飽和し、日頃の論理的な部分はどうしてしまったのかと思う人は沢山います。その人の許容できる現実は狭い範囲でしかないわけです。然るにその人の持てるレンジが広がって行くように新たなるテーマが人生の上で現れることになるわけです。
 そこから考えると時間軸似に対する周波数が上がることが幸せなのではなく、ダイナミックレンジが広がって精妙な分解能、センシング能力と緩みを巾がある方が幸せなのかも知れないですね。時間軸上で周波数が高いということは、他人と比較するという競争論理の上での能力ですから、悪く使えばこれはエネルギーを取ったり取られたりするカルマの原因を作るような行為の元になりそうです。

●不安につけ込もうとする甘い罠を吹っ飛ばせ
 よく耳にしたり目にしたりしますが、今の地球が変わるためには、自分たちが言っていることをみんながやらなければいけない、自分たちの信奉する教えだけが真実で、それに従わないものは救われないだとか、意識変革する人間だけが救われる、自分たちだけでも変わって良いところに行き救われよう、なんていうエゴイスティックな考え方は止めておいた方が無難かも知れません。
 そういうことを言って勧誘する団体は数限りなくありますが、自分たちが為してきた負の行いをそのままに、自分たちだけハッピーなところへなんて行けるのでしょうか? 本当に自分の魂の歴史の中で、他の存在に対してネガティブなことを自分が気づかないうちにでもやってこなかったのでしょうか。それらを解消することなしに逃避することで本当の自己改革は有り得ないでしょうし、逃げた先は自分の意識下にあるネガティブな記録に対応する現実が待っているだけだと思うのです。
 ましてや、そういうことを乗り越えてしまっているなら、そんなことは考えず雄々しく現実に向かっていくはずです。その上で、得る結果だけだとおもうのですが・・・、ささやかな経験しか持たない自分でさえそう思えます。

 真理というものは見る側の器量に於いて多面的に、映し出されるものだと思います。自分の器量を知らずして、自分の知っている世界だけが真実だと考えるのは、如何に自分の魂が成熟していないか、それを計るひとつの尺度になります。宗教にありがちな、その独断的な狭量な思想に惹かれるのは、自己が確立されていない不安と恐怖の意識が強い人です。そして、その不安と恐怖を煽るものには、裏に何かしらの意図が隠されているというように考えるのが自然です。心をかき乱した上で美しいことを言うのであれば、あなたをそのコントロールゲームの中に引き入れようとしているとしか考えられません。

 ですから、そんな甘い言葉に誘われて魂を売り渡してしまったら、ど壺にはまって・・・ 悲しいことに沢山のそういう人を見てきました。何で気が付かないのだろうと思います。でも、本人達は失敗を認めるのが嫌で、とにかく自己肯定を繰り返します。もう、殆ど亡者状態です。それもそのはず、だって魂を売り渡してしまったのですから。

 ちょっと重たくなってしまいましたね。スミマセン、最近どう考えても頭がおかしいというか、美しいことを言っている割に、やっていることがとんでもない人が多いので書いてしまいました。自分もえらそうなこと書いていてそんなことにならないように気を付けなくてはと自戒します。

●スピリチュアルな価値観への転換
 それにしても、この膿が溢れ出ているとしか思いようのない今の世の中。これを変えるには、自分たちの行動の基準や価値観を、物的権威的権力的な拡張とか上昇志向でなく、もっと今までと違う質のものに転換できなくてはなりません。物質的なものが悪いわけでもお金が悪いわけでもありません。それらに関わる我々の精神的霊的レベルの問題です。

 古代は霊的な方に偏りすぎて、迷信的なもの、また霊的なものが権力などに悪用されていた時代でした。今はその反動で物質的なものに頼りすぎている時代です。もうバランスを取らないと地球が身震いをしそうです。
地球にとってガン細胞といわれる人間達にとって分かれ目が来てしまいました。今の人間の精神的霊的レベルに対して、各人が扱う物質的エネルギーの出力が大きすぎます。地球に対して暴力的なものが多すぎます。金儲けのために行う事業は特に酷いものです。前出のよりより座の主宰者が言っていました、飛行機で東京近郊を見ていると、ゴルフ場と霊園ばかりだと。
 今の日本人の精神レベルの表れです。死ぬときにはせめて墓に自分の名を残そうとするのか、大した生き様じゃあなかったから子孫に自分のことを覚えておいて欲しいと思うのか、墓に執着する愚かな人間が多すぎます。このメンタリティは遺跡や観光地の木などに自分の名前を落書きとして残すのと同じレベルのさらに延長線上のものです。わたくしめの場合は骨を海か山のてっぺんで撒いて墓など残さず消えていきたいと思います。

 また、先祖を供養したり感謝することは大事だと思いますが、それと墓とは無関係です。だって、成仏していないのが多いから今みたいな世の中になっているわけでしょう。立派な墓が魂を救うわけではありません。自分の魂を救うのは自分の生き様です。そして、その生き様に共鳴してくれた人達の心の底から手を合わせてくれるあたたかい気持ちが魂のレベルを引き上げるのです。
 自分が不遇なのは自分自身の中にあり、前世から引き続いて持ってきたテーマから逃げていたから、その生で満足いく人生を送れなかったのです。生き様というのは社会的業績を上げるということではありません。自分の持てる条件の中でどれだけのことを行ってきたかということです。

 ハンディを背負っていても、それを超えた方々の姿勢や行動、考え方は全ての人を照らす光です。人類の集合意識の貴重な掛け替えのないデータベースになるとともに、意識の底を押し上げるパワーとなります。
 しかし社会的に見て裕福だったり能力があっても、自分のキャパシティの殻を超えようとしなかったのなら、自分の深い部分にある良心は納得していません。心底からエネルギーを発信していないものは人の道を照らす明かりにはなりません。それよりも権威や物質を指向する魂達を引き寄せる誘蛾灯みたいな存在になるでしょう。今、社会で起きている数々の事件に象徴されているではありませんか。

 そして、自分のことを幾ら自己肯定して立派に言おうとしても、その生き様に対して本当のことを知って記録している自分の深層意識が納得していないから成仏しないのです。社会的物質的に成功した人が魂が磨かれ人生を全うしたと思えるかどうかは、物質社会とは次元を別にする精妙な世界のレベルでです。
 死ぬときには走馬燈の如く自分の人生を振り返るというではありませんか(因みに1960年代の脳の実験でペンフィールド博士が、被験者の脳のある部位に電気ショックを与えると、その被験者の意識は肉体感覚を持ったまま、若い頃の時代を再体験したそうです。人間には過去の記憶が全て残っているということを表すエピソードです)。

 エゴが考える自分と、深い意識の良心が認識しているものが違うと往生際が悪そうですね。その魂が輪廻して、またろくでもない生き様を繰り返すのです。そういう魂の人間にはそれなりの子供が産まれてきます。自分自身の深い部分を気づかせてくれる相手が現れるのです。自分自身の持って生まれた殻を壊し成長する努力をしていないから、子供の持って生まれてきたポテンシャルを生かしさらに伸ばすような環境を作ってやれないのです。遅いということはありません、気がついたところで方向転換することが大事です。人生決められたゴールというのはあるわけではなくいつでもスタートです。
 一つの生に押し込められたものでなく魂の歴史の中でどう生きるかです。そしてその魂というのは多面体の一部分を表すものですから、ポジティブなものであるかネガティブなものであるかは別問題として自分の人間関係の中に表れてくる登場人物によって有機的に連鎖して出来上がっていることを見せてくれます。ただし、自己肯定ばかりしている人間には、その流れは見れません。悪いことが起きれば、他人や社会のせい、上手くいったときは自分の力、そういう考え方しかできない人間には物事の連続性や、真の原因が見えるわけもありません。
 また、魂のつながりというのは時空間を超えて影響しています。自分も先祖として生きていて、今の自分自身の在り方に影響を与えているかも知れないのです。よく、夫婦や親子などは前世の敵同士が成るといいます。前世にやり残したテーマを今生でチャレンジするのです。他人に理不尽な仕打ちを受けるのは、前世で同様のことを自分が行った側だからかも知れません。そこで、やり返すことは、また同じことを繰り返すだけなのです。そして行ってしまったら、さらにエネルギーが大きく重くなります。これは、個人間でも国家間でも同様です。だから歴史は螺旋状に繰り返すのです。
 今の日本の物質社会の反映は、太平洋戦争で物資が乏しかったこと、物質的パワーで連合軍に負けたという一念の反動かも知れません。物質的に豊富な世界を単純に望んで集合意識にプログラムしてしまったことが、現実化してしまったでからしょう。自分たちの魂に責任があるのです。いわれもない理由で自分がとんでもない目に遭うわけではありません。その流れを断ち切りリセットするには、このようなエネルギーの流れを認識し、自分の行いを償い(人の為、世の為に尽くす)、相手を許すことからです。

 人間の意識の底が繋がっているということを前に書きましたが、人間の意識の深い部分というのは、初対面の人間でも、また極端な話ですが道ですれ違う人間でも、相手がどんな人間か解っているのです。ですから、その相手の人間の潜在的な魂の記録に対して無意識的に自動反応で態度を表します。突発的事件が起こり、そこで危害が加えられるのは闇雲に行われるわけではありません。自分の中に因がなければ、外的な危害を加えられる縁が出来ないのです。ただ、今の世の中は全体的にネガティブな方に振れていますから、くれぐれも自分の意識をクリアに強く保つようにしたほうがよいでしょう。

 だから、幸せな世界に生きたかったら、自分自身の深い部分のプログラムと、行動パターンを変える必要があります。仏教では諸行無常といいます。日本人はなぜか暗い方にとってしまいますが、これは釈迦の“縁起の法則”に則ったもので、“不変なるものは無く、全てものは縁によって生起し、また消滅する。”ということです。ですから良い縁を与えれば良くなるし、悪い縁を与えれば悪い結果を得られるということです。物事は不変ということはなく縁によって幾らでも変わるということです。ですから自分自身に因を変え縁を変えれば、得る結果は幾らでも良くなるわけです。でも、その前に自分自身の魂の掃除をする事が前提です。前世からの負のエネルギーが解消されているか、それを認識していないと、いくら善行を行っても良いことが何もないと嘆くばかりになります。美味しいことばかり望むのは、今までの自分たちの行いを省みてから考えた方がいいでしょうね。

 価値観と生きる楽しみに対して智慧深くなり、各人が身の回りの出来ることからいますぐ行動に移さないと、生きる場所さえなくなってしまうでしょう。生き様を変えることです。その為には一旦多くのものを捨てなければいけないかも知れません。自分自身の魂にこびりついた垢を捨てるのには、物質的なものを“一旦捨てる必要がある”かも知れません。あれもこれもとしがみついていて魂は磨かれません。日本人はそういう潜在能力はあると思うのですが如何ですか。社会的な働きかけとともに瞑想と陰徳を積むことを大事にしましょう。

 今回レポートした鍛冶の世界、また引用させていただいた木を扱う大工の世界、これらの日本の伝統的な智慧と技術が、その切り口のひとつとなることと、多くの人が思っているのではないでしょうか? 自然から奪うことで成り立ってきた文化でなく、自然と共に分かち合いながら生きてきた日本人の智慧。これらを後世に伝え活かしていかなくては、消費のための環境破壊に蝕まれている地球の未来がないことは確実と思いますよね。

●お願い
 その為には、われわれがこういった世界の価値と良さを知り、他人に伝えることです。伝統を受け継いだ良い鍛冶屋さんが、食べていけるような環境を取り戻すことです。それには、先ず自分が身銭を切って、良い刃物を購入して使いこなすようになることでしょう。妥協して安物の使い捨て製品を購入しないようにすることもありますね。先ずは身近な簡単なことから試してみればよいのでは。これらが、先に気づいた人達とわたしからのお願いです。

 今は自家菜園も盛んですから、道具もちょっと奮発してみればいいのではないでしょうか。鍛冶屋さんに頼めば、自分の身体にあったものがオーダーメイド作れます。鍬が鍛造のいいものだと泥切れよかったり、持つバランスが良かったりで作業が随分楽になります。使いにくい道具ってのは、疲れるだけじゃなく危険ですものね。いい道具だと大事にするし、また大事にした道具ってそれに応えてくれるんですよね。
 それに、刃物で色々な材質のものを加工してみると、その自然が作り上げた創造物の豊かさを身体で理解できます。自分の手で、堅い木や軟らかい木、魚や植物を切ってみると、それらのものを雑に扱うことが出来なくなってきます。バーチャルな世界でなく現実に生きている実感が味わえるはずです。また、いい刃物があると、自分の身の回りのものを、自分で作ってみる気にもなります。創造的な気分になれるんですね。
 規格化された同じ形の、身体に悪い薬品を使ったマスプロダクションの品物を使いたい人はそれでもいいでしょう。他人と同じものでないと安心できない弱い心の人って沢山居るんですよね。その上、その同じものの中でも、他人より値段の高いものを持ちたいっていう変わった人達が・・・。選択基準が常に他人との比較で、実際自分の道具としてのものの良し悪しじゃあないんですわ、こういう人達・・・。 こういう人に限ってその道具を使うシビアな状況に自分をもっていくのが怖くて、高い道具を持つことだけでライフスタイルを演出して安心しているんですよね。<--------これってわたしのことです。

 でも、気がついた人(そう、わたくしめ気がついちゃったんです、オバカな自分に・・・やっと)は、プランターで野菜を作ることからでもいいですし、家具を自分で材料を選ぶところから始め、自分だけの家具を作ってもいいと思います。そんなことをやっていると、いい刃物がこんなに役に立つのかとか、こんな使いやすいものなのだとかが気がつきます。植物の茎を切ったときも、切れる刃物で切ったときは、直りが早いですものね。

 自分の価値観を、行動基準を、上記のようなことにフォーカスして意識を高めていくと、マスプロダクションの食料やまずさや危険性、身の回りの製品などの粗さが見え(例えば、相対的な問題だけど、これを見ている人がパーソナルユースで使っている、オペレーションソフトの窓95とか98とかね。業務用ならともかく、創造的なことに使う自宅用に自腹切って買うなんて、なんて太っ腹!そういう人がパソコン用品の低価格化を押し進めた陰の立役者です、ありがとう)、そのあとには、世の中のおかしさと自分の未熟さが見えてくるのではないでしょうか。マスプロダクションは競争と拡張の原理の中でしか生きられないように見えます。それは修羅の世界で拡張と収縮を繰り返す輪廻そのものでしょう。

●道具考
 手打ちの刃物はマスプロダクションのものと違って、隅から隅まできちっとピカピカに作られているわけではありません。人の手で作った雰囲気が其処かしこににじみ出ています。中には手打ちなどといって高く売っている包丁がありますが、何処が手打ちか見ても全然解らないものもあります。高級鋼使用とか表示された胡散臭いものが沢山ありますので、買うときは気を付けましょう。
 おやじさんの作るものは手打ちの中の手打ちです。手打ちといわれているものの多くは動力ハンマが作業に使われて、仕上げだけを手で打つものが殆どです。みな鍛冶屋は専門に別れている場合が多く、その道で食べて行くには動力の設備の導入により効率化されていないと厳しい状況だからです。しかし、おやじさんのところは設備投資されておらずに、昔のままでやっているわけです。フイゴも動力によるものではなく手で押して風を起こす三代前からのものを使っています。回転水砥石などもありません。そのような状況ですから、打つのは全て手です。おまけにグラインダは小型の石のちびったものだし、刃を研ぐのは砥石を使い手で砥ぎます。
 そのようなわけで、あちこち結構凸凹しています。場合によっては刃も真っ直ぐ付いていなかったりします。だから、自分で更に研いで真っ直ぐにしたりします。要するに“商品という完成品”ではなく道具の素材であるわけですね。“素性の良い素材”ということになるでしょうか。道具というものはそういうものだと思います。私の場合は、車でもコンピュータでも、自分の使いやすいように自分センスにあったものにみんなカスタマイズしてしまうのです。そうやってカスタマイズしていくと、その素材の良否がよく解ります。お金に振り回されたただの消費者には成りたくないので、リーズナブルなものやリサイクルしたものを上手く使えるのが楽しいです。
 おやじさんの作品は荒々しい外見であるし、私の作った黒檀の柄はひび割れていたりします。でも、性能や使い易さは文句ありません。自分も本を読んだり、自分で手を掛けたりして勉強し、おやじさんにもあれこれ注文したり、自分でもやらせて貰ったりしました。ユーザとメーカがお互いを育て合うといっては言い過ぎですが、ユーザが具体的な要求を持っていなくては、メーカが作ったものをそれなりに使っているだけで発展性は何もありません。
マスプロダクションになる前はこのようなコミュニケーションで商品が売れていったのでしょう。昔はこのような小さな単位で製品に反映されその風土の中で文化というものが作られていったのだな、とあらためて考えている次第です。
 今の大手メーカのユーザサポートにトラブルについて電話をしてもマニュアルにある対応しかできず、かえって自分たちで工夫した方が直ることがよくあります。やはりもっとユーザが賢くなって、マスプロダクションでしか出来ない商品と、手作りもしくは手作りに近いものとを使い分け、いい加減なものや過渡的な製品を排除して資源の無駄を少なくしなくてはいけないと思われます。
 またユーザは、住環境や道具類に対して、労力を厭わずメンテナンスを自分で行う癖をもっと付けなくては無駄な消費のサイクルから抜け出れません。住むところの内装外装を作り直すこと、ちょっとした家具などを自分の手で作ることがチャレンジの良いワンステップになるでしょう。化学物質が充満している家の中、大した規制もされずに野放しになっているこの国は世界の中で非常に低レベルの住環境なっているのが現状です。メーカや国が対応しないのなら自分たちで工夫すればよいのです。大してコストを掛けずにやっている人達は大勢います。そしてメンテナンスということを考えると道具というものが非常に大事です。

 そう、考えると道具というものは文化そのものなのですね。道具は時代の質を表していると言えるのかも知れません。とすると、今の時代は人間が地に足が付いていない、産業機械や電子機器に逆に人間が使われ踊らされている人間性不在の時代と後世では云われるのでしょうか。
 もっと、自分たちの手と身体を使って表現することが喜びになる文化にならないと、感受性の低い心の不活発なロボットのような人間が増えるだけです。お金を沢山得てマスプロダクションの製品をどれだけ多く持っているかが、自我の満足のスケールになっている人間達は、自分のコンプレックスから目を背け自分の人生から逃げているために、経済優先社会の優秀な奴隷として地位が保証され、商品を買っている限り、また今の世が続く限り消費者として大事にされるでしょうね。

●痛い目に遭って解る人、痛い目にあっても解らない人、痛い目に遭わなくても解る人
 今年の夏(`98)は局地的な集中豪雨だらけですが、その雨が降るのはしかたがないとして(これだって、地球環境を悪くしたしっぺ返しだと思いますけれど)、その雨が洪水になって被害を被るのは人災としか言いようがありません。
 これは粗くなってしまった我々の心の反映と思えます。早く方向転換をせよという警告の信号でしょう(今からでは大分遅いと思いますが)。自然環境の中で自然と共に生きるのには刃物が必要です。刃物が必要ない生活になってしまっていることが問題なのではないでしょうか。自然に畏敬の念を持って使える最小限の道具である手に持って使う刃物でなく、出力の大きい暴力的な機械を使って自然を征服しようとした、粗い考え方への答えが、いま現実に示されているのだと思われます。

 そして、つくづく生物として生きる力のないのが、我々都会人であると、あらためて思わされる次第です。
 日本の古代はもっと豊かな平和な時代だったのです。縄文時代に戻ろうとは言いませんが、もう必要のないものをこれ以上作り出すより、豊かな自然と美味しい食べ物が取り戻せた方がどんなに幸せか解りません。

 わたしが思うのには、日本の中で住むところがもっと分散化して、それぞれがある程度の土地をもって、野菜とかを作れるといいなあと思うのです。勿論、作りたくない人はそれでよいのですが、全部が全部でなくても家族がある程度、食べられるくらいのものを作るのは、土地もそんなに広く要らないし、手間もそんなに掛からないものです。それより薬を使っていないので安心して食べられるし、ちょっとおかずが足らないなと思ったら、直ぐ近くの畑から採ってこれるのは凄く楽です。
 山には山菜木の実キノコ昆虫、岩魚山女魚アマゴをはじめ美味しいものが沢山います、海にはいうまでもなく豊富な幸が限りなくあります。山も海も豊かで、農作物や酪農製品の自給率が高かったら、現金がそんなに無くても幸せに生きていけるではないですか。
 これは、ちょっと以前の日本の原風景みたいなものですが、知らないものの単なる憧れなのでしょうか。鍛冶屋さんは過去の遺物なのでしょうか。わたしにはどうもそう思えないのです。
 また、ここでは智慧の定義について述べていませんが、Webの別の頁で詳しく書いてみたいと思います。合掌

 我々の気づきのためにこのレポートが何らかのお役に立てれば幸いです。乱文、能書き失礼いたしました。m(_ _)m
 しかし、長い! 稚拙な内容と文書をここまで読んで下さる方っているのでしょうか。もしいらっしゃったら、ありがとうございます。



kajiya-mb 1998.9/v6.0
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・【番外編】にわか鍛冶ワークショップ
・【更に番外編】フイゴで炭を熾し、炭焼きバーベキュー

・ある日の小山製作所`01/2
・手打ち鉈他、造林用の良い道具類を手に入れる`01/2---刃物は使ってなんぼ。使わなければ良さは解らない
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・“山仕事の道具と技術、智慧は、自給と自衛の基本”(社)全国林業改良普及協会刊 森と暮らすNo.2「ノウハウ図解山仕事の道具」(`08/6/10発行)のお薦め-----自給自足、半農半X、田舎暮らし、農的生活指向の方々に必須? 自然と共に暮らそうと思ったら山と木々があってこそ。本書は、山主や林家向けの入門編の本だが、山の作業と道具に関わることから安全管理まで全てを網羅している。当サイト管理者も、鍛冶屋の智慧や、道具類の修理修復、熱可塑性樹脂カイデックスを使った鉈や道具類の鞘(シース)作りのページを70頁ほど書かせて貰った。実践的な智慧が籠もった本なのでお薦めする。---`08/6/11
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