■BANGAI-2002E■
京都・嵐山 紅葉最中、超小型舟?手こぎボートで大堰川を行く


写真 嵐山・大堰川 南ボート乗り場

●航海 京都・嵐山 渡月橋上流の大堰川遊覧
@★★★★★ 遊覧手こぎボート 一時間1400円<最終貸し出し受付15:30頃迄
●2002年 秋真っ直中11月中旬

 

 思い立ったのは昼下がり、出かけたのはおやつタイムを過ぎていた。ちょっと散歩のつもりで行き当たりばったり、まずは大堰川での大航海?と決め込んでのことであった。(笑)
 なんと言っても天下の名勝として紅葉の美しさを極める嵐山。紅葉最中とあれば平日といえどもかなり賑わいを見せている。けれども黄昏時迫る頃になると結構静けさが漂い始める。喧噪を避けるには狙い目の時間帯でもある。案の定、阪急電車嵐山駅を降りる乗客は大したことはなかった。乗り込み帰路に向かう人々はホームに溢れていたが・・・。

写真 中之島からの渡月橋、右手橋越しにこんもりとした小倉山は夕陽に映えていた。
 しめしめ、これならのんびり嵐山散策もと思いつつ中之島を経由して前方に渡月橋を眺めながら渡月橋南詰めに至り左折して小橋を渡って右折すると大堰川南岸沿いに上流へ向かう散策路に至る。

●大航海の始まり?(笑)
 南ボート乗り場に到着したのは15:35であった。港のターミナルビルならぬ乗り場の貸出窓口は小さな小屋で係のおじさんがひとり居られた。
 見るからに店じまいしていそうな様子であったが・・・。
「いいですか?」
「はい、ええけどなぁ一時間もあらへんでぇ。もう終わりや。」
「何時まで?」
「四時半までやから。」
「千鳥ヶ淵までちょっと行きたいんやけど。」
「そうどすか、それやったら充分やな。五分前までに戻ってきてや。」
「はいはい。」
 最後の客であったわけだ。快く送り出され手こぎボートでの大航海開始。

写真 左:離岸して直ぐのボートから望む南ボート乗り場 右:下流方向には渡月橋、橋越しに比叡山を遠望する。

写真 左:黄昏の小倉山を背に 中・右:岩田山の紅葉
 のんびりオールを漕ぎ乗り場を後に上流に向かう。後方には渡月橋越しに比叡山を遠望する。行く手前方右手に百人一首で知られる色づいた小倉山が見える。左手にはすっかり紅葉した岩田山がゆっくりと移ろい行く。
 行楽の秋真っ直中の嵐山とは思いもよらない静けさの中、のんびりとオールを漕ぎ続ける。所々には鴨が群れをなして遊泳している光景がなんとものどかである。

写真 左:千鳥ヶ淵を行く保津川下りの遊覧船 中:千鳥ヶ淵 右:我がボートの舳先越しの千鳥ヶ淵
 行く手左手には保津峡下りの舟の下船場がある。上流からは時折に観光客を満載した舟が下ってくる。先週の方で水面に長い丈竿を突き立て船を進める漕ぎ手、船尾では船頭が舵を操っている。
 水面は既に黄昏時を迎え陽射しは山陰になっているが見上げる山々にはところどころ陽射しが注がれていて紅葉が色鮮やかに映えている。
 船旅というより束の間の船遊び。扇面を水面に浮かべ優雅な一時を過ごしたであろう古人の面影がふと脳裏を過ぎる。そんな趣を今に伝える「三船祭」が行われる場もここ大堰川である。夏場には鵜飼いが行われ、屋形船で食事を楽しみながら見物見物することも出来る。
 上流の山麓にある料亭「嵐峡館」へはボート乗り場近くからの連絡船も就航している。冬場には雪化粧した景色を眺めながらの僅か十分足らずに過ぎない航海だが、そんな静寂の中の楽しむことが出来る。 ボートは自分で漕がなければならないが面倒だと思えば屋形船もある。こちらはに名まで3500円、ひとり増えるごとに1000円程度の追加で渡月橋近くの乗り場から出て千鳥ヶ淵界隈までゆったり船頭さんを独占して遊覧できる。
 嵐山は何時でも来られる距離に住む小生としては取り立てて名勝という意識などはないのだが、たまにこうして大堰川を行くのは大いにリフレッシュ出来る思いを堪能できる一時である。さすが名勝嵐山と言うべき所以なのだろうか。
 途中、左岸の岸辺に屋形船を浮かべ桟敷を設けた茶店がある。蕎麦やうどん、すき焼きや川魚の天ぷらなどを供し浮かべた屋形船はキヨスクよろしく飲み物や菓子などを売っている。香ばしい香りを漂わせ焼きそばやイカ焼きなども売っている。小生はここへ来ると好物のゲソ焼きをボートの上で食するのが好みだ。それで、その茶店へ接近してみるとどうしたことか行楽シーズン最中というのにこの日は休業していたようであった。ちょっと心残り。
 のんびりさらに上流へ向かうと程なく千鳥ヶ淵に至る。保津峡の流れが緩やかになり一気に川面が広がる辺り。前方には今は観光路線として人気高いトロッコ列車が走る旧山陰本線山肌を這う。
 岩陰に鴨が群れる辺りでちょっと一服。燻らせる煙草が美味い。

 ここまで僅か二十分余りしか経過していないのだが充分に時の流れは緩やかで色づく紅葉に囲まれた秋を心ゆくまで堪能できるのは何とも不思議な思いがする。
 一服の後、舳先を翻しのんびり元来たところを戻る。心なしか下りはオールも軽い。
 悠々16:30に十分前の16:20南ボート乗り場に帰着。桟橋からおじさんが差し出した竿に引かれて接岸、小一時間の大航海を終えて無事上陸。(笑)

 

●余談 清滝&嵯峨鳥居本の平野家
 上陸してぶらり渡月橋に戻ると先刻まで渋滞していた車の流れが案外に流れ始めていた。たまたま北行するタクシーが近づいてきた。とっさに手をあげ止めた。そうだ清滝へ行こう・・・。
「運転手さん、清滝までいいですか? もう混んでないでしょうかねぇ?」
「どぞ、大丈夫ですよ。行けますよ。」
 気のよさそうな地元嵐山タクシーの運転手さんであった。
「ここはあきまへんけどね、最近は清滝へは滅多にお客さんがありませんよ・・・。」
 つまり嵐山は観光シーズンの間はもうどうしようもなく混雑することを、あきまへん・・・と言い清滝へのお客さんは非常に少ないと言うことを言っているのである。
 清滝は実は小生は四十年ほど時の彼方では毎週のように愛宕山登山をしていた頃の登山口であり、その頃は結構京都の奥座敷と言うか、嵐山の奥座敷とでも言うべきか、いずれにしてもかなり四季折々に賑わっていた記憶のある清滝川沿いに料理屋や旅館、茶店などが建ち並んでいた景勝地であった。
 以来、長年ご無沙汰していて十年余り前のことと記憶しているが山陰線の新線ができ保津峡添いに走る旧線が民営化に伴い観光路線として民営化されトロッコ列車が走り始めた頃に清滝経由で清滝川沿いを下り保津峡駅に至るハイキングをした時にちょっと立ち寄ったのだが、それですら十年も前のことである。そんなに訪れる人たちが少なくなったのかとちょっと不思議であった。
 大した渋滞もなく幾つかの信号を過ぎ山陰線を跨ぐ高架橋を越えて釈迦堂(嵯峨清涼寺)を越えると一筋道で清滝へ向かう道路は殆ど行きかう車もなくすいすいと山裾へと向かった。
 清滝へはトンネルをひとつ越えて行く。タクシーではものの10分程度で清滝に至る。嵐山も間違いなく景勝地ではあるがトンネルを越えると・・・と、かの大文豪ではあるまいがトンネルを越えるとそこは正しく絶景の渓谷美に迎えられる別天地なのである。
 トンネルを越えての感動は数十年の時を越えて脳裏に甦ってきた。細い下り路を歩いて降りてもものの五分余りで清滝川に掛かる橋に至るのだが乗車したまま坂道を下ってもらい橋を渡ったところで下車した。「旅館ますや」の前であった。聞けばいまでは清滝唯一の旅館となっているようであった。愛宕参りの茶店から出発、300年の歴史がある老舗で歌人与謝野晶子が鉄幹と歌会を開いたのも、徳富蘆花が失恋の心をいやすため、読書と思索の日々を過ごしたのもここますやであったと聞く。
 黄昏時、道行く人もない家並みの間をほんの少し散策。

 そうだ、舞い戻ればトンネルを抜けると嵯峨鳥居本。懐かしいお店がある・・・。

写真 平野家の女将さん
 女将さんの手作り「お志んこ」でお茶を一服。嵯峨鳥居本の「平野屋」は元来は四百年の歴ある霊峰愛宕参りの門前茶屋である。今では鮎茶屋として鮎やヤマメ、鯉などの川魚、山菜など主とした会席料理や嵯峨豆腐の老舗「森嘉」の豆腐で湯豆腐などを供するひなびた素朴な趣の漂う料亭としてすっかり有名になってるが小生にとっては懐かしいお店である。
 始めてこのお店に立ち寄ったのは確か四十年ほどの前のことであった。小生が山男に憧れていた中学生の頃である。毎週のように日曜日になると大きなリュックに石を詰めて愛宕山に登っていた。当時は阪急嵐山駅・清滝間を運航するバス路線がったので普段はそのバスを利用していたが時々には、その間を歩いていたこともあった。
 歩く機会での帰路に軒先に掲げられていた「おしんこ・お茶五十円」の札を見て立ち寄ったのは始めてことであったと記憶する。手作りの「お志んこ」が三つほどに黒砂糖をまぶしたきなこが振りかけてあり、それにお抹茶を添えて赤毛氈の敷かれた表の将棋に腰掛けていただいていた。当時中学生の小生にとってはお抹茶は何とも馴染みのない代物であったが甘さと苦さが微妙に口中に広がり大人気分を味わっていたような記憶がある。
 以来、暫く高校生の頃までは愛宕登山の折に帰路に徒歩の機会立ち寄っていた。高校時代、二年生の時に訳ありで今では著名な登山家の大御所となられた先生に騙され(笑)立山で開催された日本山岳連盟主催のプロの山岳指導員を養成する山岳指導員養成講座とかに連れて行かれ図らずも山の怖さを知った小生は登山を止めた。それで暫くご無沙汰していたのだが大学時代、日本全国から集まっていた同級生たちはことあるごとに京都へ来ることが多く、その機会に何時も仲間内で集う場が「平野屋」となっていた。
 卒業後は集う機会も疎らなになり何時しかご無沙汰していたのだが再び多忙を極めていた十年余り以前、時折遠雷のお客さま方を接待したりしていたこともあったのだが、以来、またもや暫くご無沙汰していたのであった。
 何だか私的な前置きが長くなったが、そんなこんなで非常に懐かしいお店である。
 で、舞い戻り久々に「平野屋」へ寄ってみようと清滝の町並みを後にして来た路を戻る。トンネルの手前バス停まで結構厳しい上り坂が続く。息を切らせながら何とか戻ると五時ちょっと前。トンネルを通れば越えて間もなく鳥居本に至るのだがトンネルの上に「試し坂」と呼ばれる昔愛宕参りに来た人たちが試しに越えた峠を越え、越えられれば愛宕参りも叶うと言われた路を行くことにした。
 四十年前ならいざ知らず今この年になってのこの選択は今となっては後の祭りとなるが大いに間違いであった。(笑)息せき切ってようよううにして峠を越えるには越えたが僅か二十分余りのことであったが最早限界。二度とこの峠を歩いて越えることはないだろうと思いながらやっとの思いで「平野屋」に到着した。すっかり日暮れを迎えていた。
 開け放たれた玄関から暖簾越しに中を覗く。右手、表の間に湯豆腐の鍋を囲むお客さんの姿が見える。左手奥にへっつい(四口ほどのかまどが並ぶ)のある台所が見える。
 そこに女将の姿があった。
「こんばんわ。」
「あ、お久しぶりどすなぁ・・・。」
「ご無沙汰です。何か豆腐でも食わせてくれます?」
「はいはい、どうぞ、どうぞ。」
 安堵した。いきなりでは追っ払われるかと少々心配していたのだが、女将はしっかり覚えていてくれたようであった。奥の座敷に通され懐かしい「お志んこ」とお茶をいただく。ゆっくりと山菜の盛り合わせの皿、ヤマメの刺身と鯉の洗いの盛り合わせ、京野菜の炊き合わせなどを供されながら湯豆腐の鍋が沸いてきた。温かい豆腐を器に取り絶妙のたれをかけ九条ネギ、すり下ろした土生姜、刻みのりの薬味をのせて食する、美味い・・・。
 ひろうす(ぎんなんや湯葉などが入った豆腐の加工品でまんじゅうのようなかたちで揚げられている)の炊き合わせを供される。淡泊な湯豆腐とコクのある美味さと食感のひろうすの炊き合わせ。この組み合わせこそが嵯峨豆腐の味わいと思い知る。たかが豆腐、されど豆腐なのである。
 最後にこれまた手作りの漬け物、千枚漬けにたくあん、ご飯をいただいてすっかり満足満腹。水物は旬の大枝の富有柿、さすが女将のこだわりなのだろうか京の秋を極める心尽くしであった。
 のんびりゆったり食事を終えた帰りがけ。
「久しぶりに釈迦堂(嵯峨清涼寺)まで久しぶりにお歩きやすか?」
「そうだな、それもいいか・・・。」
「ほな、ちょっとお待ちやしとくれたす。提灯ご用意しまっさけ。」
 女将は提灯ぶら下げ歩いて帰れと言うわけだ。タクシーを呼んでもらって帰ろうと思っていたのだが、この際女将の言葉に応えて同意した。京都では古来「白足袋には逆らうな」と言う言葉がある。つまり白い足袋をはいた人たち、お坊様や女将たちには・・・と。(笑)
 嵯峨化野の夜道を「平野屋」と書かれた可愛い提灯をぶら下げ釈迦堂まで歩いた。この際、夜道に日は暮れまいと結局釈迦堂からもまた歩き続け本当に久々四十年ぶりに清滝から阪急嵐山駅まで歩いた。

 清滝でも、鳥居本でも懐かしさと感激のあまりにすっかり写真を撮るのを失念していた。「平野屋」を出がけにふと思いだし女将さんの姿をお店を背景に唯一一枚シャッターを切った。

 

2001 H13
■FR−015■  ■FR−016■  ■FR−017■  ■FR−018■  ■FR−019■  ■FR−020■  ■FR−021■  ■BANGAI-2001■
2002 H14
■FR−022■  
■FR−023■  ■BAGAI-2002A■  ■BANGAI-2002B■  ■BANGAI-2002C■  ■BANGAI-2002D■  ■BANGAI-2002E■
■ORANGE ROOM■
next02.gif (38489 バイト)■FR−024■  ■FR−025■  ■FR−026■  ■FR−027■  ■FR−028■

思い立っての船旅 今世紀・2001-200X