草 枕 2022
Wandering in 2022
帰宅
1月7日、鏡開きには早いが、お供えの餅を下げて切り餅にして冷蔵庫へ。仏壇の花も下げて、咲き残っているものは干してドライフラワーにする。
9日、年末年始にできなかった東山の墓掃除をした後、神奈川に帰る準備をする。半年ぶりだ。
22日深夜に日向灘で地震が発生して、大分は震度5強とのこと。明け方に実家の隣人から家に被害はなかったとの知らせがあり、一安心。
31日、4か月かかったマンションの大規模修繕工事が完了し、eーTaxでの確定申告も済ませた。
相模川の水を横浜まで届けている通称「水道みち」を南町田まで歩く。
南町田の水道みち |
いつか
2月24日、いつか読もうと思っていたロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」をようやく読み終わった。買ったのは20歳のときだから半世紀も実家の本棚に置きっぱなしだった。「いつか」というのは、あてにならない、ということだ。
並行して、学生時代の英語の副読本だったサマセット・モームの「人間の絆」も読んだ。英文ではなく、昨年出版された新潮文庫の新訳で。副読本は「いつか」読もう。
ともあれ、気にかかっていたことが一つ減った。
杉花粉が飛び始めた。これから鬱陶しい日が続く。
副反応
3月3日、コロナワクチンの3回目の接種をした。夜中に悪寒がして37℃半ばの熱が出た。平熱が低いので僕にとっては高熱だ。頭も痛い。翌朝は食欲もなく、母の朝食を作り、テレビでプーチンの顔を見ているうちに吐き気がしてきた。終日横臥。
隣家から稲荷ずしを差し入れてくれた。有難い。
昨日から携帯電話が起動しない。SIMカードが壊れたようだ。とりあえず母の携帯を使うことにした。
5日夜、パソコンのメールをチェックしていて、うっかりフィッシング詐欺メールのURLを開いてしまった。翌朝、カード会社に連絡したら、深夜に数件の不審なログインがあったとのこと。こんなメールを一生懸命作る人もいるのだ。実害はなかったが、こちらもぼうっとしていた。副反応のせいにはできない。
8日、携帯ショップでSIMカードを交換したら携帯が復活した。3Gの終焉まであとわずか。
花曇り
3月28日、米アカデミー賞の国際長編映画賞に濱口隆介監督の「ドライブ・マイ・カー」が選ばれた。
原作は、8年前に出版された村上春樹さんの短編集「女のいない男たち」の中の一篇で、喪失とそこからの再生が描かれている。
映画には、原作の行間いっぱいに濱口監督の世界が書き込まれているようで、短編小説だったものが3時間の長編映画になっている。
29日、花見に出かける。今年はソメイヨシノと山桜が同時に咲いている。
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国東市大恩寺の富来川 |
カレンダー
4月9日、入院中の母に必要な物を買いに大分市に出かける。帰りの電車まで時間があったので、中央町の「カランドリエ」に寄ってみたら、看板が違っていた。店は喫茶店ではなくなっていた。
近くの店の方に伺うと、45年間続いたけれど、3年前の秋に閉店したとのこと。
マスターのIさんがサイフォンで淹れてくれたコーヒーを最後に飲んだのはその年の6月だった。その時も母は骨折で入院していた。
カランドリエとはカレンダーのことで、365日という意味もある。いつでも開いていると思っていた店がなくなったのは寂しい。
デパートにあるコーヒーチェーン店でコーヒーを飲む。ここにはマスターとの会話などはないが、これはこれで悪くない。
「病む母の見舞ひを早く切り上げし自責もちつつデパートに寄る」
何十年も前の母の歌だ。この歌のおかげで僕の後ろめたい気分も少し薄らぐ。
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カランドリエ(2016年5月) |
最後の子育て
2011年以来、地震に備えて就寝中もNHKラジオをつけっぱなしにしている。ふと目覚めたときにジュリーの「勝手にしやがれ」が流れていたりする。
5月3日、夜明け前のラジオ深夜便で、映画監督の信友直子さんが、認知症の87歳の母とその介護をしていた98歳の父を撮ったドキュメンタリー「ボケますから、よろしくお願いします」について語っていた。母が「何もかも忘れてしまうのが怖い」と訴えたら、父は「心配するな。俺が全部覚えておいてやるから」と言ったこと、父は95歳で初めてリンゴの皮を剥いたことなど。
信友さんは番組の最後で、親の介護をした先輩から言われた言葉を紹介した。「介護っていうのは親が命がけでしてくれる最後の子育てなんですよ」
もしそう思うことができるなら、介護は献身だけでなく、享受でもあるのだろう。
シンスケのビールグラス
5月28日、週刊文春連載の平松洋子さんのエッセイ「この味」を読んだ。瓶ビールのうまさを最高に生かすコップを長い間探し求めたが得られず、ついにはそれを自分で作った居酒屋の四代目亭主矢部直治さんの話だ。
矢部さんが求めるグラスは、薄すぎず厚すぎず、軽すぎず重すぎない、ベストな仰角の、ふつうに置いてふつうに注げる、小瓶なら2杯、中瓶なら3杯で飲み切れる大きさの、飲む人に緊張感を与えないデザインのコップだ。高度な技術を持つベテランガラス職人にとっても厄介で歩留まりの悪い仕事になり、グラスは2年間の試行錯誤を経て2015年に出来上がった。
「手に持ってスイっと傾ければ、冷たいビールが喉の奥に滑りこむ絶妙の角度や薄さ。とても繊細なのに、不思議なほどの安心感。しかも、飲んでいるうち、ガラスの存在感がふっと消える。」(週刊文春6月2日号から引用)平松さんは随筆の名手だ。
この店は入ったことはないが知っていた。湯島天神への上り口にあって、佇まいがいいのでずっと以前から気になっていた。
いつか立ち寄って、このコップを手にしてみたい。
正一合の店 シンスケ(湯島・天神下 2018年4月) |
夏至も過ぎて
6月24日、庭のクチナシの花が咲き始めた。眼で見るよりも早く、香りでそれと気付いた。今日のような暑い日に甘い香りは少し息苦しい。
木槿の蕾も膨らんできた。この花も白い。畑のカンナとグラジオラスが咲けば本格的な夏になる。
川上未映子さん訳の「絵本ピーラーラビット」シリーズ全23巻が3月から刊行されている。再来年の3月に完結予定なので、2年間の楽しみができた。
川上さんの小説は読んだことがないのに、先に翻訳を読むことになった。
28日、九州北部も早々に梅雨が明けた。朝、隣家からレタスを、夕方、友人のKさんからサヤインゲンをいただいた。早速インゲンを茹でて
レタスとともに夕食のサラダにした。美味でした。
奈良
7月12日、10年ぶりに奈良を訪ねた。再建された興福寺の中金堂を拝観するためだったが、堂はあいにく閉堂中だった。建物を外から拝見し、南大門跡、猿沢の池を巡って餅飯殿商店街へ出る。以前三条通りにあった食堂を見つけたが、ここも休み。近鉄奈良駅で柿の葉寿司の昼食。
大修理が終わった薬師寺東塔も拝見したいと思っていたが、雲行きが怪しくなってきたので京都行に乗る。木津川を渡る頃、激しい雷雨になった。
18日、長年愛用していたノートパソコンを更新した。96年にデスクトップタイプを使い始めてから5台目だ。3台目までは5年ごとに更新したが、4台目は11年使った。DVDドライブやファンを交換しながらなんとか持たせてきたこともあるが、仕事で酷使することがなくなったからだろう。まだ動く。
5台目は起動時間が短く、途中で考え込んでしまったり、投げやりになるようなこともない。薄くて軽い。先代同様に長持ちしてほしい。
猿沢の池からの中金堂 |
再び副反応
8月3日、コロナウイルスワクチンの4回目の接種をした。3回目ほどではなかったが、翌日まで高熱と関節痛が続いた。5日の朝平熱に戻る。
7日、大分に帰省。宇佐からバスに乗ると終点の伊美まで激しい雷雨が続いた。実家の玄関を開けると、留守にしていたひと月分の空気の匂いがした。夏野菜を植えなかった畑には6月に植えたサツマイモ、紅あずまの蔓が傍若無人にはびこっていた。たくましい。
11日、東山の墓掃除とミカン畑の草刈り。カボスの実が青い。そういえば昨年漬けたカボス酒の瓶をまだ開けていない。
12日、母が一か月のショートステイから帰宅。入所前よりも元気そうで安心した。
20日、骨折で入院中の同級生Kさんから連絡があり、術後の経過は順調でリハビリに励んでいるとのこと。来月には退院できそうだ。
イチジク
8月28日、畑のイチジクが熟れはじめた。昨日まではまだ少し青かった実が今日は臙脂色になっている。果頂部が割れると食べ頃だが、アリやハチにも食べ頃になるので、機先を制して採る。彼らには完熟した実を一つ残しておいてやるが、それをカラスが横取りすることもある。
丸ごと煮込んでジャムを作る。皮をむくというレシピが多いが、勿体ない。完熟手前なので砂糖はイチジクの40%、レモンの代わりにカボスを少し絞り入れた。今年は4キロほどは作れそうだ。
靴と心
9月25日、ブレイディみかこさんの「他者の靴を履く」を読む。副題が「アナーキック・エンパシーのすすめ」。イギリスに住む著者の息子が、中学のテストで出された「エンパシーとは何か」という問題に答えた、「自分で誰かの靴を履いてみること」という言葉がタイトルになっている。
エンパシーとは、他者の感情や経験などを理解する能力のことで、共感・友情・理解などを意味するシンパシーとは違い、親しくもなく、考え方も違う相手の立場になってみることだ。「他者の靴を履く」とはうまい表現だ。他人の靴を履くのは違和感があり勇気もいるが、履くことによって自分の無知に気づき、新しいものの見方ができるかも知れない。もちろん、自分の靴は必要だ。
東畑開人さんも同じようなことを語っていた。「心はどこにあるのか。脳にも、心臓にも心はない。顕微鏡を覗いても、X線を使ってもそこに心は映らない。心を見ることができるのは心だけだ。心はもう一つの心の中でのみ存在することができる。(中略)だから、私の心に彼の心を置き、それから彼に戻す。一旦預かるのが大切だ。」(「心はどこへ消えた?」文藝春秋)靴も心も二つ必要らしい。
収穫
紅あずま |
皆既月食・天王星食
今年の漢字
千燈寺護摩堂跡 |