
とりあえずビール 2004
First of all, beer! 2004
赤根
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赤根の入口、渓泉研修センター |
那覇
赤坂
みなとみらい線開通
南禅寺展
雪舟
古文書解読
蓮弁散華
山桜
人事異動
ハルジョオン
妙見祭
- 5月1日、旧千灯寺の仁王像をスケッチ。立ったまま約2時間で阿吽二神を描く。この間、ホトトギスがしきりに啼く。口笛で返事をしてやると、何か言い返してくる。これをしばらく続けたが、意思の通じない会話はやはり飽きる。午後、地域の妙見講のお祭で西山の岩窟にある妙見社に参拝。当番の方が準備を終えた頃、千灯寺のご住職他の方々が息を切らして登って来られた。社は四畳半ほどの広さの板敷きで、子供の頃に知っていたなら格好の遊び場になったものを。読経では妙見さんは「北斗・北辰・妙見大菩薩」と称され、最後に妙見さんの二つの真言が唱えられた。白米のご飯を掌に受け、イリコを肴にお神酒をいただき、祀りは無事終了。夜は当番のお宅で直会。Sさん、Iさんとともにわが家で二次会。流れているテレビドラマ「冬のソナタ」で「ポラリス」のペンダントが見えた。今日は北極星の日だった。
福岡天神
- 5月5日、連休の最終日は福岡へ出張。夕方、明日の仕事の準備をすませた後、天神を歩く。デパートでネクタイ、コンビニで缶ビールを買って、ライトアップされた旧日本生命の赤レンガの建物を眺めながら隣のホテルに戻る。空気が少し冷えてきた。
今度こそ
- 5月13日、興福寺さんに予約していた第2回勧進能のチケットが届いた。7月24日夜、曲は「松風」。言わずと知れた本鬘物の名曲、とあるが、悲しいことに言われてもなかなか分らない。昼の部は「景清」。どちらにしようかと迷ったが、夜の部のお話に歌人の馬場あき子さんがおいでになる「松風」にした。景清を親しみを込めて「逃げ上手」と揶揄した歌をお作りになった馬場さんが「景清」の方においでになれば良かったのだが。歌はかつて東大寺転害門のページで引用したことがある。転害門は別名「景清門」。昨年はチケットを入手しながら海外出張でふいにしてしまったので、今年はぜひ見たい。
夜の新宿
- 5月21日、友人のC氏と新宿で会う。昨年横浜の日吉でお会いして以来。夜の新宿は久しぶりだが、東京の他の街とは違う活気がある。名前だけ知っていた店に入る。昨年もそうだったが、予定通り痛飲した。氏の見識と酒量には一目置かないといけない。そういえば20代の頃、何目も置いた碁で勝った覚えがない。23時、小田急で帰宅。
1969年
- 5月23日、村上春樹さん訳のティム・オブライエンの”July,July”(邦題は「世界のすべての七月」)を読了。1969年の卒業生たちが2000年7月の同窓会に集まって物語が始まる。69年頃の青春がそれ以前やそれ以後にくらべて特に価値があるわけではないと思うが、面白い時代だったことは間違いない。世界がかなりのスピードでカーブにさしかかっていたからだ。読後感は悪くない。
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京都 木屋町通・四条小橋付近のクラシック喫茶 |
果実酒
- 6月5日、グミと山桜の実の果実酒を作る。ジャムの空瓶に皮を剥いたレモンを切って入れ、グミと山さくらんぼをそれぞれ入れる。35度の果実酒用の焼酎を注ぎ、氷砂糖は入れない。桑の実酒はすでに2週間前に仕込んで、色はきれいなロゼになっている。2ヶ月は待たないといけないが、少し飲んでみると、香りはもとの桑の実よりも高く、味は佳。あとは本命のヤマモモが熟れるのを待つだけだ。
天神下
- 6月10日、Kさんに湯島天神下の店をご紹介いただいた。縄のれんをくぐると落ち着いた雰囲気のお店で、カウンターにご主人、台所は奥さんが切り盛りしている。酒は岩手の「酔仙」。酒のお代わりをする度に突出しのサービスがある。Kさんによると、芸大や動物園、弁護士さんなどの常連客が多いとのこと。歯切れのいい会話を聞いていても楽しい。大江戸線で新宿に出て小田急で帰る。地元で二次会。
チェリーヒーリング
- 6月12日、山桜の実の酒の様子を見る。色は出ているが、順調に育っているだろうか。見ただけでは分らないので、ちょっと飲んでみる。桜の香りがして、微かな渋みと苦味がある。レシピを読むと、上手に作るとデンマークの有名な「チェリーヒーリング」にも優る名酒になる、とあった。なるほど。だが、優るかどうかは「チェリーヒーリング」を飲んでみないと分らないではないか。課題がまたひとつ増えた。
オープンリールテープ
- 7月3日、梅雨が明けたかのような晴天だ。午後、先日友人から託されたオープンリールのテープを持って沿線の音楽録音スタジオを訪ねる。テープの記録をCDにコピーしてもらうためだ。テープには小学校6年生のときの、卒業を前にした同級生全員の声が入っている。この夏の同窓会で皆さんにCDをお渡しすることにしている。これを録音された恩師はすでに他界されたが、時を超えた贈りものになるはずだ。帰途、音がきれいに残っていることを祈りながらCDのデザインなどを考えてみる。
恩師
- 7月11日、朝から暑い。散歩道には石榴や木槿、百日紅の花が咲き、多摩丘陵の向うには積乱雲が力強く湧き上っている。雲は今日はどうもやる気満々のようだ。予想どおり家に帰り着いてすぐに大雷雨となった。辺りを揺るがす雷鳴に邪魔されながら、先日のテープからデジタル化したCDを聴く。テープは無事だった。先生のお言葉と卒業生への餞の詩吟も残されていた。「男児志を立てて郷関を出ず 学もし成らずんば死すとも帰らず 骨を埋むる豈墳墓の地のみならんや 人間到るところに青山あり」。幕末の周防国の勤皇僧、月性の詩、「将に東遊せんとして壁に題す」だ。もちろん、聴いた当時は誰の詩かは分らなかった。「学もし成らずんば、死すとも帰らず」これでは私はいつになっても故郷に帰れないではないですか、先生。
新著
- 7月19日、吉澤鶴彦さんから、氏の新著「親鸞と道元の同異相」(文芸社)を贈っていただいた。近くに住んでいながら、20年以上もお目にかかっていないが、お元気のご様子だ。氏は「天の夕顔」の中河与一さんに師事し、詩や評論で独自の世界を拓かれた。都立高校の校長や大学教授を経て、今は悠々自適の筈だが、創作意欲は旺盛だ。そういえば昨年の年賀状は「親鸞は、」で始まっていたから、その頃から構想を考えておられたのだろう。礼状は読んでから出すことにしよう。
酷暑
- 7月21日、明日の大暑を控え、もういい、というほどの暑さだ。今朝の日経と読売の朝刊のコラムに、偶然にも、俳人鬼城の句、「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」がそれぞれ引用されていた。読売の「編集手帳」は、芥川龍之介が命を絶ったのは、あまりに暑いので腹を立てて死んだのだろう、という内田百閧フ「河童忌」の紹介にはじまり、この句で締めている。一方、日経の「春秋」は、冒頭にこの句を挙げて、こんな日は17世紀オランダの室内画家フェルメールが描いたような静謐な室内で過ごしたい、と続け、フェルメールの代表作の一つ、「真珠の耳飾りの少女」の話に続く。少女の青いターバンはフェルメールの青と呼ばれ、何ともいえず美しいが、不安な眼と口元が気になる。最近封切られた映画では、この少女は画家とほのかな思いを交わすようになったが、画家の妻の嫉妬に怯えているというストーリーだそうだ。そういえば表情はそう見えないこともない。何だか少し涼しくなった。
松風
- 7月24日、千駄ヶ谷の国立能楽堂で興福寺勧進能「松風」を観る。三番目物の名曲だ。興福寺多川貫長のご挨拶と歌人馬場あき子さんのお話の後、狂言「魚説法」、10分の休憩後「松風」が始まる。シテは浅見真州氏。須磨の浦で、旅の僧の前に在原行平の寵愛を受けた松風、村雨の姉妹の霊が現れ、亡き行平への恋慕の情を語る。姉と妹の動と静が対比的だ。松風が次第に狂乱するのをじっと見ていた村雨も、姉が行平の形見の狩衣を着て乱舞し、松を行平と思いすがりつこうとするに至って、姉を制止する。大鼓、小鼓が乱打され、ぐっとくるところだ。朝、二人は消えて夢から醒めた僧も須磨の浦を去る。この曲は田楽「汐汲」を観阿弥が改作して「松風村雨」とし、世阿弥がさらに手を加えたものだそうだ。日本人形「汐汲娘」はこの物語に由来すると馬場さんのお話にあった。深い余韻が残った。
夏祭
- 8月8日、地元の夏祭り。以前はそうでもなかったが、最近賑やかになってきた。久しぶりに暑さが薄らいだ夏の夜を阿波踊りの連が次々に繰り出して熱く踊る。明日から帰省。
夏の帰省・恩師の喜寿祝い
- 8月9日、午後の便で大分へ。
10日、明け方は膚寒いほど涼しい。7時にクマゼミが力強く鳴き始めた。庭の伸び過ぎた木の枝を伐る。この春から千燈寺に扁額と寺碑を設置する話が進められており、昨日石碑が建てられた。拝見したら「天台宗 六郷満山 千燈寺」とある。山号は補陀落山の筈だが。発起人代表のSさんに尋ねたら、国東の天台寺院の総称「六郷満山」を使いたかった由。揮毫は夷の実相院ご住職の青山師。扁額はまだできていない。夜、K氏来訪。同窓会の事前の相談をする。
11日、夜明け前の三日月が明るい。1時間余り遅れて昇ってきた金星も強く輝いている。午前中墓掃除。昨夏と同様、周囲の雑木を切り払う。夕方母はいつものメンバーとゲートボール。居間で仕事のメールをチェックして返信と電話2本。ヒグラシとツクツクホウシがしきりに鳴いている。
12日、今朝も涼しい。赤根の畑(はた)まで散歩。陽が昇るとやはり暑い。赤根の店で飲み物を買おうと立ち寄ったが、誰も出てこない。この前は10回ほど呼んだらおばあさんが出てきたが、今日は駄目だ。やむなく赤根の郷に寄り道して、水分を補給し、畑社まで登る。社殿前の水道の冷たい水で顔を洗うと元気が出た。もう少し登り、国東町との分水嶺、犬鼻峠の手前、級友の実家のあたりまで行き、引き返した。散歩にしてはややハードだった。
13日、明け方の月の出が金星よりも少し遅れるようになった。あとわずかで新月になる。昼前、伊美から姫島に渡り、島に在住の小学校の恩師の長寿を同級生と共に祝った。現役を退かれた今も教育への情熱は些かも褪せていない。終始先生に励まされた一日だった。数年後に再会する約束をして島を離れた。夜、K氏から早速同窓会の写真がメールで届いた。先生を中心に美男、美女が揃っているではないか。
14日朝、Rさんからメール。午前中に母の代りに地区の初盆参りをする。夜8時から盆踊り。K氏、千燈寺のご住職、身内の初盆でおいでになった中学時代の先生とお話をして、結局踊りの輪には入らなかった。
15日、未明に雷雨。ときどき驟雨あり、夏も終りか。
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喜寿の記念 |
熟成
- 8月22日、5月末から6月上旬に仕込んだ果実酒がそろそろ熟成を始める時期になった。ヤマサクランボと桑の実は実とレモンをともに引き上げて濾す。グミも同じ。ヤマモモとユスラウメはレモンだけを引き上げて実はあと2、3ヶ月残しておく。ヤマサクランボ、桑の実、グミは実がなくても色で分る。視覚で分らないときは味覚に頼れば良い。レモンを絞って濾し、ガラス瓶に詰め替え、酒に水が混入しないよう、瓶や手の水を拭ったりしないといけないが、こういう面倒はさほど苦にはならない。欲とは恐ろしいものだ。5つの瓶を棚に戻して、熟成を待つ。先日の同窓会の写真ができた。明日発送予定。
光と闇
- 8月28日、台風の影響で曇時々雨。傘をさして2時間の散歩。メヒシバやエノコログサが目立ち始めた。台風が気になるので気象庁の衛星画像を見たら、16号が接近、18号が南太平洋で発生している。衛星画像を見て、NASAのホームページのAstronomy
Picture of the Day にあった地球の夜景Earth at Nightを思い出して開いてみた。光があるところとないところが天空の神にでもなったかのように鳥瞰できる。光は富の、闇は貧困の象徴のようにも思えたが、それ以外にもいろんなことを考えられる、面白い画像だ。日本列島はまばゆい光に包まれていた。
かたち
- 9月3日、8月の同窓会に参加できなかった数名の方からいただいたお便りへの返信を出す。手紙を書く万年筆は国産の極太のものと、ずいぶん前に上野のアメ横で買ったドイツ製の細字のもの二本を使っているが、どうも線が良くない。弘法は筆を選ばないのだが、凡人は筆にしか頼れない。字は人を表わすと思ったのは、いただいた手紙の文字がいずれもすばらしかったことにもよる。「形ではない。心が大事だよ。」とは思うが、反語として「姿ハ似セガタク、意ハ似セヤスシ」という本居宣長の言葉もあるではないか。世阿弥の「風姿花伝」を引き合いに出すまでもあるまい。形は疎かにできないと、級友からの手紙を拝見して襟を正した。心は言葉や形にして伝わるものだと。
陶器市
- 9月12日、晴。まだ暑い。相模原公園までやや長距離の散歩。公園では陶器市が開かれていた。会場を巡って気に入ったビアカップと丼鉢を買う。ビアカップは白地に藍と朱で椿が描かれたオーソドックスなものだ。どちらも有田で、散歩から帰って、家にある他の有田を見たら同じ窯元のものがあった。嗜好が偏っているのか、それとも進歩がないのか。一度有田の陶器市に行ってみたい。●13日、風はやや強いが、蒸し暑い。明日から一週間出張。
ハッティンゲン
- 9月14日、フランクフルト経由でデュッセルドルフ着。アウトバーンで30分ほどの小さな町、ハッティンゲンのホテルに投宿。朝夕は15度前後で上着がないと寒い。15日は曇後晴、夜、銀河をはさんでヴェガとアルタイルが輝き、銀河の中の十字形の白鳥座がきれいに見えた。中国や日本ではヴェガは織姫だが、ギリシア神話ではオルフェウスの持つ竪琴だ。16日は晴。6時を過ぎてようやく空が白みはじめる。
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ハッティンゲンのホテル |
バルト海
- 9月17日朝、7時30分の便でデュッセルドルフからヘルシンキへ。低気圧が近づいてきているので空模様はやや不機嫌だが、機窓からバルト海が穏やかに広がっているのが見えた。対岸はエストニアあたりだろう。
ヘルシンキの朝
- 9月18日、仕事をようやく終え、帰国のフライトまでの間、ヘルシンキの朝の街を歩く。風が強く、ときおり霧のような小雨。ドイツよりも更に寒く、日本の初冬を思わせる。殆どの人がコートを着ている。そういえばホテルのロビーの暖炉には火が入っていた。大聖堂・元老院広場からエスプラナディ通りへ。フィンランド国歌の作詞者で詩人のJ.Lルーネベリの像が立っている。作曲家シベリウスもそうだが、この国の人々の矜持をかたちにした英雄だ。港まで歩こうかと思ったが、スーツでは寒さが防げない。本当に体が冷えてきたので途中でひき返す。19日朝東京着。気温31度、上着は要らない。
雨月
- 9月28日、列島南岸を秋雨前線が走り、九州には台風が接近しているので、今日の中秋の名月は現われないものと諦めていたが、帰途、思いがけず中天に輝いていた。夜更けの道が月明りで淡く浮かび、街路樹の影が濃く沈んでいる。歩きながらの月見もいいものだ。故郷は残念ながら雨とのこと。名月が雨のために全く見られないことを「雨月」というらしいが、誰が名づけたのか、見えない月を雨月と呼ぶ感性は並ではない。
台風
- 10月9日夜、台風22号が通り過ぎて、窓の外は静かに霧雨が降り、先ほどまで止まっていた小田急江ノ島線の電車の灯りが見える。虫の声も聴こえる。夕方の嵐が嘘のようだ。伊豆半島に上陸したときにもまだこの辺りはさほどのことはなかった。それが相模湾に入ってから、いきなり雷を伴った激しい様相に変わり、暴風雨は台風が葉山、横須賀を経て、東京湾を抜けるまで続いた。2時間後には風雨はぴたりと止み、吹き返しもない。まるで夏の夕立のような台風だった。ともあれ、今年はこれを最後にしてほしい。午前中の散歩の途中で雨に濡れたヒメリンゴの実を齧ってみたが、まだ熟していなかった。6月に仕込んだヤマモモ酒を一杯飲んでみた。
しつらえ
- ユビキタスという言葉を初めて聞いてから20年近くになる。最近ようやく人口に膾炙されるようになった。この世界に空気や水のように遍く存在するもの(こと)、という意味だ。松下幸之助さんの「水道の哲学」(商品の供給量が増大すれば物の価値は限りなくゼロに近づき、人は欲しいときに欲しいものを水道の水のように手に入れることができる。)もユビキタスという理念と無関係ではないと思う。但し、ユビキタスの本体は家電製品などのハードウエアから情報に変わってきた。先日京都駅の総合案内所で、無線LANを利用できるエリアがないかと尋ねたら、「みあこネット」を紹介された。公衆無線インターネットを無料で提供するプロジェクトだ。その場で一週間使えるユーザー名とパスワードをいただき、パソコンに接続設定して早速利用してみた。京都駅、京都市内、京都以外のスポットで無線LANが自由に使える。「みあこネット」の精神は「しつらえ」、つまり、もてなしだ。ボランティアである基地局のオーナーには何の見返りもない。「客間の亭主モデル」ということだ。茶室の掛軸や花、お茶を準備してお客をもてなすのが亭主の役目だが、こういうことができるのは京都しかない、という明確な意思表示でもあろうか。「みあこネット」は「一見の客、歓迎」なのだ。提供するものは異なるが、故郷の国東や四国に残っている弘法信仰の慣習「お接待」がこれに近い。旅人の誰にも飲み物や食事などを無償でふるまうしくみだ。両者に共通するのは、地域で完結するのではなく、地域外に広く開かれた仕組みだということだ。「しつらえ」も「お接待」も、外に開かれなくなったらその存在価値は無くなる。既知、未知にかかわらず人々に開かれた心のあり方が「ユビキタス=遍く存在する」世界が実現するかどうかは知らないが、「しつらえ」や「お接待」を実行している人は確かにいる。
掃除日和
- 10月17日、雲ひとつない晴天。晴れた日曜日は神奈川では一ヵ月ぶりだ。境川の河原の薄が風になびいて銀白色に光っている。午後、居間などの照明を取り替え、換気扇の油を拭い去り、不要なものをまとめる。粗大ゴミはインターネットで市に申し込み、収集シールを近くのコンビニで買って貼った。Mailの返信で指定された日に出せば良い。今日は掃除日和だ。年末の大掃除が儀式程度で済むような楽しい仕事を残しておいた。窓拭きと本棚整理だ。窓はガラスが無いのではないかというまで磨き上げてみたいし、狼藉の限りを尽くした本の散乱の中に坐って朝から晩まで合法的に本が読めるようにもしたい。今日の苦しみは年末の楽しみと引替えなのだ。夜、明るくなった部屋で五木寛之さんの「百寺巡礼」第六巻・関西を読了。
興福寺国宝展
- 10月23日、晴。上野の藝大で興福寺国宝展を観る。北円堂の特別開扉の機会を逃してこれまで拝観できなかった、無着・世親像にようやくお目にかかった。少し離れて両像の視線が交差するところに立つと、二人の眼差しを同時に受けることができた。また、金剛力士像の迫力はすばらしい。東大寺の執金剛神像に比肩できる、世界でも稀有の彫刻だと思った。惜しいのは手足の一部が欠損していることだ。無着・世親像の場合もあきらかに人為によると思われるだけに残念だ。明治維新の廃仏毀釈の際の蛮行によるものだろうか。今回、千手観音菩薩立像の像内納入品の一つの、小さな観音菩薩立像に眼を奪われた。二十センチほどの優しい顔立ちの小さな観音様で、実に古雅なお姿をしている。上野の山を下りて御徒町までアメ横を歩く。松茸が安いが、イリコも安い。御徒町の駅前のパン屋でいつものコッペパン。一個80円也。
物 語
- 11月4日、今抱えている仕事を完結させるためのストーリーを考えている。結果が大事なことは誰も否定しないが、ストーリーはそれ以上に大事だ。人は幸せになるのにも不幸せになるのにもストーリーを求めるからだ。物語のない幸せは一種の不幸せであり、物語のある不幸せは一種の幸せだろう。但し、仕事のストーリーは面白ければ良いというものでもない。やれやれ。モーツアルトは彼の作品、例えばシンフォニーの全体像があたかも一枚の絵画のように完成したイメージで浮かび、彼は頭の中のそれを譜面に写し取るだけだった、と言っている。つまらない会話をしながら、一つの間違いもなく完成したと聞けば、つい溜息の一つも出てしまう。彼の40番ト短調を聴きながら夜が更ける。ストーリーはまだ出来ない。
モノクローム
- どういう気紛れによるものか、モノクロームの写真を撮ってみたくなって、フィルムを買った。遠い学生時代にモノクロにこだわった時期があった。現実にはない白黒の世界が、欠落した色彩を想像させるからか、あるいは煩わしい色彩から自由になれると感じたからだろうか。当時、「モノクロはカラーのように、カラーはモノクロのように撮るべきだ」などと嘯いていたことを思い出したが、今思えば言葉で遊んでいたようでもある。ものは言いようだと思えば、恥かしさも少しは薄らぐ。それは別にして、これからモノクロの美しさが見直されるような気もする。
赤い鳥
- 11月13日、未明に今年初めての木枯らしが吹き、朝は少し冷え込んだ。散歩の途中、ところどころの家の塀や垣根から赤い常磐山査子(ピラカンサ)のつややかな実がのぞいている。そういえば春から初夏にかけては白い可憐な花が咲いていた。この仲間を欧米ではメイフラワーと呼んでいる。初夏の白い花がその数だけ、そのまま赤い実になったわけだ。北原白秋の童謡の赤い鳥が食べそうな実だと思ったが、これを小鳥がついばんでいるところはまだ見たことがない。
上海近郊
- 11月18日、中国出張。朝5時に家を出て渋谷から成田へ。上海には正午過ぎに着く。東シナ海から関東まで長く伸びた前線の真上を飛んだため、飛行機は面白いように揺れた。といっても面白かったわけではない。午後7時まで仕事、懇談会を終えて夜の11時。今日は20時間以上起きていたことになる。よく働いたような錯覚がする。それにしても二間続きの部屋というのは広すぎて落ち着かない。●19日、晴。街全体が石炭の粉でも舞っているかのような匂いのスモッグに覆われて、灰白色に煙っている。「多少の楼台煙雨の中」という杜甫の詩があるが、そういう季節でも風情でもなかった。ホテルへの帰りには上弦の月が中天に輝いていた。月はいま西に傾き、それかどうかも分らないほど輪郭が失せて夜空に薄明く滲んでいる。この出張の成果を表わしているようでもある。明日は帰国。
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浙江省昆山市 |
審美眼
- 11月23日、晴。上野に日展を見に行く。今回はやや不埒な方法で鑑賞した。もとより審美眼などというものは持ち合わせていないので、作品の良し悪しがよく分らない。そこで、無理に分ろうとはせず、買いたいかどうかを基準に観ることにしたら、かなり楽になった。これが正しい見方かどうか、また、買えるかどうかは別にして、欲しいか否かは考えるまでもなく決まる。今回は曽剣雄さんの油彩の女性像「窓辺」が印象に残った。
師走
- 12月13日、今日からコートを着る。駅前の欅の葉は半ば以上散ったが、銀杏はまだ黄葉していないものもある。冬が始まるこの頃も好きな季節だ。コートを着ると、何とはなく、これまでのことを考え、これからのことを考えたいような気分になる。本気で考えるかどうかは別にして。初コートの楽しさというのは外気の冷たさと、我が身のささやかな温もりにあるようだ。
雪の大晦日
- 12月31日、今朝は故郷で雪の朝を迎えた。昨日帰郷、夕方から母の長寿をささやかに祝って夜遅く床に着いたが、朝方の寒さと障子の意外な明るさに、もしやと外を見ると、既に雪が積り、なおも降っていた。重く湿った牡丹雪だ。庭先に出るとときおり東と西の山からパーンと孟宗竹が割れる音が響いてくる。千灯岳も降る雪に隠れて見えない。玄関に注連飾りを付け、遅い朝食の後で餅撞き。大晦日に餅を撞くのは異例だが止むを得ない。鏡餅が固まるのを待って家の内と外の神仏に供える。雪は雨に変わり、夕方には雲の間に青空ものぞいた。気温が下がり、風が強くなった。思い出の年も終る。

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