草 枕 2020
Wandering in 2020
良弁椿
1月11日、ご近所から煮豆をいただく。一昨日もお隣から新鮮な鰤をいただいたばかり。普段の一汁一菜の食事が一汁二菜になり、有難い。
庭の椿が咲き始めた。白い八重の花だ。品種はよくわからない。
椿といえば、来月の下旬には、東大寺二月堂で行なわれる「お水取り」に備えて、「花ごしらえ」が始まる。練行衆によって、良弁椿を模した造花が鮮やかな赤・黄・白の和紙で作られる。
二月堂で授与される絵馬に描かれている須田剋太さんの良弁椿は、力強く美しい。須田さんは司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の挿画も描かれ、文中にも度々登場した。若い頃には東大寺の塔頭に寄寓されていたとのことだ。
絵馬は奉納せずに持ち帰って、ときおり眺めている。
庭のもう一本の椿の花は赤の一重で、これは藪椿のようだ。3月に咲く。
八重椿 |
ベテルギウス
2月10日、未明に目覚めてカーテンを開くと、外は満月に照らされて庭も木も山も明るい。オリオン座は西に沈んでいた。
気になるのは、オリオンの左肩の星ベテルギウスが昨年よりもかなり暗くなっていることだ。右下のリゲルの白とは対照的に赤く輝いているので、平家星とも呼ばれる星が、その最後を迎えていると言われている。
地球とは数百光年離れているので、既に超新星爆発が起きて消滅しているかも知れない。明日にでもまばゆい光が届いたら、それは応仁の乱のころの爆発ということだ。あるいは今なお存在しているのかもしれない。今の姿は分からない。光のスピードは歯がゆいほど遅い。
11日、自転車で姫島の南岸を走った。伊美港発11時のフェリーで渡って、港近くの「かのや」で昼食。「エビ・タコ丼」が旨い。
港から灯台までのブルーラインを往復した。もう少し距離が長ければいい運動になるけれど、景色は申し分なく、気分転換にはいいコースだ。13時発のフェリーに間に合った。
ブルーラインからの国東半島 |
「ムクロジの木」
3月1日、町の書店で小林秀雄さんの未読の本を注文する。帰って畑のヤーコンの根を掘り出し、花が咲き始めた小松菜の薹を摘む。
5日、Kさん宅へ。電子申告した確定申告書の写しをコピーさせてもらい、しばらく懇談した。
一昨日捥いだ甘夏でオレンジマーマレードを作ったが、少し煮詰めすぎた。もう少しでオレンジ味の飴になるところだった。
10日、庭の梅の花が散った後、紅白の椿、福寿草、水仙、ヒヤシンスが咲き始めた。3月はいつも神奈川にいたので、福寿草があることを初めて知った。ヒヤシンスは野生種だろうか、小さくて花数も少ない。
NHKラジオ「すっぴん!」でダイヤモンド ユカイさんの歌「ムクロジの木」をライブで聴く。今日がユカイさんの最終出演日で、この番組は今月で終わる。歌を聴いたアナウンサーの藤井さんが声を震わせていた。とてもいい歌だ。
11日、東日本大震災から9年、黙祷を捧げながら、あの大きな揺れと原発崩壊事故を思い起こす。復興も事故の終息も、気が遠くなるほどの時間と努力が必要だ。我々は自分でコントロールできないものを造ってしまったことを思い知った。
庭のヒアシンス |
花の山
3月19日、東山の墓掃除をする。ヒノキとアラカシ、コナラなどに覆われているので、雑草が生えない代わりに落ち葉が多い。
掃いた後からはらはらと落ちて来る。常緑樹は年中葉を散らしているような気がする。先祖墓に米と水、花代わりの樒(しきみ)を供える。
帰り道でヒサカキの花の強い香りがした。里山に春が来たのだ。
初めてこの香りを意識したのは中学生の頃、文殊仙寺の春の大祭のときだった。境内で目にしたのが岩についた苔か地衣類で、つい最近までそれが香りのもとだと思っていた。
ヒサカキは姫榊とも書き、榊とともに神事に使われる。お世辞にもいい香りとは言えないが、生活感のある、懐かしい春の匂いだ。
20日、親戚からお彼岸の牡丹餅をいただく。
龍神社の谷の大木の枝が、県道の石橋から手が届くところまで伸びていた。枝先に白い清楚な花が咲いている。
帰宅して調べたら、モクレン科のオガタマ(招霊)の木だった。霊魂を招く依り代の木で、神前に供える本来の榊だったとのことだ。
アメノウズメノミコトが天の岩戸の前で踊った時にこの枝を手にしていたという説もあった。そうなのかと古事記を見たら、彼女が手にしていたのは「天の香山の小竹葉」だった。日本書紀では「茅を巻いた鉾」とあり、オガタマは出てこない。
神話との関係はよくわからないが、龍神社のオガタマは故なく育ったわけではなく、先人が神木として植えたものだろう。
26日、千燈岳、黒木山、鷲ノ巣岳の三山の麓から山頂近くまで、植林が及んでいない岩場や尾根筋の至るところに山桜が白く煙るように咲いている。これまで他の樹々の間に入り混じっていたものが一斉に自己を主張しているかのようだ。
裏の畑
4月29日、畑にトマト、ナス、ピーマン、オクラ、ヤーコンを植える。去年と同じ。キュウリとカボチャはとても消費しきれないので作らない。持て余した誰かが必ずくれる。
11月に植えた玉葱は葉が倒れ始めたので、もうすぐ収穫できそうだ。玉葱とジャガイモさえあれば生きていける。空いたところにはリーフレタスと小松菜を植えることにした。これはいくらあってもいい。
30日、すっかり葉が落ちたクロガネモチの小枝を剪定して、咲き始めたクレマチスの支柱を立てる。芍薬のつぼみが膨らんで、庭も賑やかになった。ツバメが軒先をしきりに飛び交い、巣作りの場所を探している。
5月5日、耕作していない川岸の畑の草を刈り、茨を伐る。アザミとキンポウゲの群生は刈り残した。
8日、畑に蒔いたリーフレタスの芽が出ないので、残った種をガーゼに包んで水に浸けた後、冷蔵庫で2日冷しておいたら、白い芽が出てきた。これを夕方畑に蒔きなおした。こんな小さな種が無事に育つのだろうか。
夏は来ぬ
5月15日、雨の中で橘の花が咲いている。鼻をつんとつくシトラスの香りで、夏が近いことを知る。
「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」という歌を思い出した。古今集の読み人知らずの歌だ。
午後、ラジオのFM番組で春をテーマにした合唱曲が流れていた。中でもアイルランド民謡の「春の日の花と輝く」を懐かしく聴いた。
堀内敬三が訳したトマス・ムーアの詞は、花橘の歌と通じる懐旧の相聞歌だ。
春の日の花と輝く
うるわしき姿の
いつしかにあせてうつろう
世の冬は来るとも
わが心は変わる日なく
御身をば慕いて
愛はなお緑いろ濃く
わが胸に生くべし
「残された夏の薔薇」(庭の千草)もムーアの詞だ。
18日、夜更けにホトトギスの鳴き声を聴いた。今年の初音。旧暦ではまだ卯月三月だから、「忍び音」ということになる。
梅雨
6月11日、九州北部も梅雨入りした。花が咲き終わったハコネウツギの枝を剪定する。梅は実が大きくなって徒長枝が伸び放題だ。
夜になって雨。遠くで雷鳴がする。
12日、午前中に実家の田植えが終了。耕作をお願いしているSさんにご挨拶する。
上空から聞き覚えのある轟音がして、見覚えのある機影が鷲ノ巣岳の上を飛んでいた。厚木から岩国に移転した米軍の艦載機のようだ。周防灘は訓練空域ではないはずだが、国東半島でもときおり爆音が聴こえるようになった。神奈川は静かになったけれど、岩国は迷惑だろう。
14日、豊後梅が熟してきたので、熟した実を塩で漬ける。梅雨明けに干すのが楽しみだ。青い実は焼酎に漬ける。
16日、去年仕込んだ梅酒の梅を取り出してジャムを作る。モズクのような色合いで見かけは悪いが不味くはない。ついでに最後の甘夏もジャムにする。これは見た目も良い。
似ている
6月22日、梅雨の晴れ間が心地良い。
畑の小松菜がほぼ全滅していた。昨日はまだ半分ほどは大丈夫だったが、全ての葉が穴だらけで、葉脈だけ残っているのもある。喰ったのは小さな黒い虫で、隣人に聞いたらカブラハバチの幼虫とのこと。青虫もいて、これはモンシロチョウの子どもだ。共にアブラナ科の野菜が好物だそうだ。
すぐ隣の、先月種を蒔いたリーフレタスは無事だ。彼らはレタスが口に合わないようで、虫なのに好き嫌いが激しいのだ。
午後、ラジオでロッシーニの「音楽の夜会」の「約束」を聴く。初めて聴いた曲なのにどこかで聴いた気がすると思ったら、出だしが「♪命短し恋せよ乙女」(「ゴンドラの歌」)のメロディに似ていることに気付いた。黒澤映画の「生きる」では志村喬さんが公園のブランコを漕ぎながら口ずさんでいた。「上を向いて歩こう」がベートーベンの「皇帝」第一楽章に似ている(と言われている)のと同じくらい似ている。それがどうした、と言われても困るけど。
うなぎ
7月1日、クチナシの花が萎み、木槿やグラジオラスが咲いてきた。今日から「香港国家安全維持法」が施行される。
以前香港に出張したときに会ったAさんから頂いた名刺には、中国語の名前と英国風の名前が併記されていた。他のメンバーの名刺もそうだった。英国風の名前、例えばJamesとかMaryという「ニックネーム」を添えるのが香港人のビジネス習慣なのだろうと思っていたが、聞いたところ、彼らは英連邦のいずれかの国籍を取得していて、名刺の名前は両方とも正式な「本名」だった。香港返還から10年後のことで、それから13年経った。
「何かあったときには香港から離れるつもりだ」と言っていたAさんはうなぎが好物で、来日の度に今ほどは高くなかったうな重のランチを食べながら歓談した。今もお元気だろうか。
梅干し
8月3日、6月に漬けた梅を取り出して竹筵に並べて干す。丸い竹筵は地元では「ばら」と呼んでいて、もとはこの上に桑の葉を敷き詰めて蚕を飼っていた。ここから絹糸ができたことになるが、今は繭の代わりに梅干しを載せている。
豊後梅は実が大きいので、少し長めに干してみたい。
イチジク
8月30日、庭のイチジクの実が熟れはじめた。6月に作った甘夏ジャムがもうすぐ切れるので、1キロほどになったらジャムにするつもり。それまでは冷蔵庫で凍らせる。
村上春樹さんの短編小説集「一人称単数」を読む。主人公が過去を回想する8編の物語が、「僕」「ぼく」「私」という一人称で語られている。その中の「ウイズ・ザ・ビートルズ
With the Beatles」に「ノルウェイの森」と同じような空気を感じた。一人称単数=自分とは、とても曖昧で輪郭が見えない存在のようだ。
31日、裏の排水溝の掃除をしていたら、暗渠の中からアナグマが出てきた。しばらく睨み合った後、丸い尻を揺らしながら逃げていく。隣家の倉庫まで追い詰めたけれど、逃げたから追いかけたまでで、別に捕まえたいわけでもない。こちらの気持ちを読んだのか、今度はゆっくりと歩き去った。イチジクは食わないでほしい。
古いレコード盤
9月30日、レコードプレーヤーの針がすり減ってしまったカートリッジを交換したら、雑音が消えて何とか聴けるレベルの音になった。ただ、左右のスピーカーの音量バランスが悪いので、調整が必要だ。FM放送を聴くときには問題ないから、Phono回路のどこかの部品が劣化しているのだろう。父が50年前に購入したステレオだから、聴けるだけでも有難い。
遺された100枚ほどのレコードは殆どが歌謡曲と民謡で、その中で好みが合う盤を探して掛けてみた。五木ひろし、ちあきなおみ、八代亜紀。「なみだ恋」は好きな歌で、2度聴いた。
1枚だけ、レコード店「エトウ南海堂」のテープが貼られたまま開封していないドーナツ盤があった。佳山明生の「氷雨」で、私が就職して3年後に流行った曲だ。父はなぜ聴かなかったのか、あるいは聴けなかったのだろうか。その頃の私の親不孝のせいだったのかも知れない。
収穫
10月7日、庭の百日紅と木槿の花はまだ咲いている。金木犀が香りはじめた。
今年も水田の耕作をお願いしているSさんから収穫した米をいただいた。
久しぶりに干し柿を作りたくなって、稲刈りが終わった田圃の向こうにある柿を竹籠一杯に捥いできた。皮を剥いて紐でつなぎ、熱湯にくぐらせ、倉庫と井戸の軒下に干した。美味くできるかどうかはお天気次第なので、明日からの雨が気になる。
ついでに、穫れ過ぎた茄子を輪切りにして干す。キクラゲのような形に干しあがったら保存しておいて、味噌汁やパスタなどに入れる。
![]() |
日記
10月20日、町の書店で母の来年の日記を買う。2、3年前から書かない日が増えているが、それでもときおり時間をかけて何か書いている。来年も気が向いたときに書くだろう。ついでに自分用のシステム手帳の週間ダイアリーを注文した。出来事だけ書くので1日に3、4行、3分以内で終わる。日記というよりメモだ。
29日、神奈川の自宅に頼んでおいたレコードが届いた。マイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」を聴く。1959年の演奏で、どの曲も美しい。ライナーノーツはピアノのビル・エヴァンスが書いていて、これも面白い。
「国見物語」
11月17日、国見町郷土史研究会の役員のNさんから「国見物語」第40集をいただいた。先月活動を終えることになった同会の会誌もこれが最後とのことだ。終刊号は、創刊号からの全ての表紙の写真と目次、会員と読者の寄稿文で構成されていた。
実家に十数冊のバックナンバーがあり、1982年発行の第2集に初代会長の末綱杵一先生の巻頭言があった。
「私たちの記録=物語は泥臭く、陳腐で、かつ因習に満ちたものであるかも知れない。しかしこうした過去の積み重ねの上に今日の文化がある。何を棄て何を残すかは若き世代の選択である。郷土の歴史を凝視することによって新しい創造が生まれるものと、私は信ずる。」(前後略)
廃刊は読者の一人として寂しいけれど、「国見物語」が故郷の人の深い知恵と風土の豊かさを教えてくれたことに感謝したい。同誌は国東市の各図書館、大分県立図書館、国立国会図書館などで閲覧できる。
旧千燈寺散策
12月10日、運動不足なので、思い立って旧千燈寺まで歩いた。護摩堂跡のイチョウは散り、モミジはまだ残っていた。堂跡の裏の谷筋を登って普賢岩屋へ。ここに来たのは初めてだ。岩屋には扉が壊れた祠と小さな五輪塔があった。
尾根に出て少し登ると奥の院の岸壁の上に出た。東の不動山から北の琵琶崎まで見渡せる。休憩後尾根を辿って一旦林道に出て、奥の院に下り、護摩堂に戻った。
14日、昭和63年発行の「国見物語」第8集の特集「千燈寺の歴史と文化」(今熊豪正住職著)を読んでいたら、「金剛童子祭」のことが書いてあった。
「金剛童子の祭は竜神社の祭と同様千灯区の祭で毎年二回執行されている。(中略)祭が終了すれば金剛童子を神輿に乗せて次の当場の寺まで運んでいた。現在神輿は旧千燈寺奥にある普賢岩屋に納められている。」
10日に普賢岩屋で見たのは祠ではなく、金剛童子の神輿だったのか。
さらに、「竜神社の鳥居の額ははずされているが、額は「金剛童子」であり、はずされた額は寄神様を祀ってある左端の方へ置かれている。金剛童子は現在千灯寺に安置されている。然も八大竜王金剛童子の木の額が千灯寺に保管されている。」と書かれている。
龍神社に行ってみた。鳥居は新旧2つあり、大きい鳥居の額は「龍神社」で、古い鳥居に額はなく、豪正住職の言葉通りの場所に置かれていた。「金剛童子」と読めた。神仏分離令によって阿弥陀仏の化身である金剛童子は八大竜王と切り離され退けられたが、その後も龍神社の二番祭の祭神として祀られていたことになる。神仏習合の本場はしぶといのだ。
初詣の折には金剛童子像を拝見したい。それにしても金剛童子の神輿はなぜ普賢岩屋に置かれたのだろうか。八大龍王岩屋はあるのに、金剛童子岩屋というのはない。
![]() |
護摩堂(本堂)跡 |
![]() |
普賢岩屋 |
奥の院上の岩場からの不動山 |
餅つき草枕
12月23日、暇なのでチーズケーキを2つ作る。今年3回目だが、レシピ通りに作っても出来不出来があって、今回は不出来だ。生クリームを入れ忘れた方が、ちゃんと入れたものより美味いのは何故だろう。
28日、餅を3升搗く。米を浸(か)しすぎたせいか、仕上がりはやや悪い。神仏の鏡餅二重ねと庚神、水神、竈神、弘法さんへの平餅を丸めて、あとは簡単に伸し餅にする。
山の麓で餅飾りのウラジロと橙を採ってきて、新年を迎える準備ができた。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |