
とりあえず、ビール 2005
First of all, beer! 2005
正月
- 1月1日、昨日と今日は2日続けて雪だった、と言うとにべもない。昨年は雪で終わり、今年は雪で始まった、と言うべきか。雪は未明から降りはじめ、元旦の朝は水墨画のような雪景色だった。夕方になって陽が射し、千灯岳の山頂と山腹の岩峰群が白く輝いている。「新(あらた)しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと)」(万葉集巻第二十
4516 大伴家持)万葉集の最終の歌が年の始めの歌というのが面白い。編者家持の遊び心か。●2日、久しぶりの晴天。雪景色がまぶしい。箱根駅伝往路をテレビで観戦。午後、千燈寺へ新年のご挨拶に伺う。ご住職夫妻と歓談、檀家の方々が三々五々お参りされ、ご一緒に話が弾み、つい長居をした。雪はようやく融け始める。●3日、伊美で雑用を済ませ、買物をして帰る。小雨。●4日、未明からの風が強く吹いている。帰京の日はいつも心が急かれる。
水道みち
- 1月9日、快晴。正月の運動不足を解消しようと、いつもより長い距離を散歩した。北里大学病院、相模原中央公園を経て水道みちを辿って帰る。「水道みち」は明治20年に完成した、日本最初の近代上水道の上に作られた相模原から横浜の野毛山まで続く遊歩道だ。水道は今でも機能している。1月は花の少ない季節だが、散歩道にはアオキや南天の赤い実、蝋梅の黄色い花が見える。明日は次男の成人式。
松の内
- 1月15日、関西と違い関東では7日で松飾がとれるので、季語は「松過ぎ」とすべきか。朝は雪まじりの雨が降っていた。仕事のストーリーができたので、思い立って上野に出かけ、博物館で「唐招提寺展」を見る。金堂の諸仏を拝観し、瓦、隅鬼、天井の支輪板などを見て、鑑真和上像にお目にかかった。鑑真さんは東京都美術館の「鑑真和上展」以来3年ぶりだ。一度もお住まいの奈良で拝観していないのが申し訳ない。東山魁夷さんの御影堂の全障壁画と厨子絵も時間をかけて拝見した。平成館や本館の通常展示も見て上野の山を下りる。不忍池一面を覆う枯れた蓮の茎がまるで葦の原のようだ。岡埜栄泉の本店で豆大福を買って、西郷さんの銅像から石段を下ったところの「銀座ライオン」で野菜サラダとビール。
春節前
- 2月1日、夜の便で上海から瀋陽へ。空港から市街地へ向う高速道路は除雪されているが、夜目にも白く雪景色が広がっている。氷点下20度。渾河に架る橋に近づくと市街地の南端に黄金色に聳えるマリオットホテルの特徴ある建物が迫ってくる。青年大路から寒空に大きな打ち上げ花火が上っているのが見える。今日から花火や爆竹が解禁されたそうだ。新年の準備で街も華やいでいるようにみえる。
半島
- 2月5日、帰国の日。朝早くホテルをチェックアウトして空港へ向う。寒さは少し和らいではいるが、それでも氷点下10度。瀋陽空港を予定どおり発ってしばらくすると、眼下に無数の山襞が広がる。山も、複雑に入り組んだ谷や湖も白い雪で覆われて、朝日に眩しい。陰影のくっきりした自然の造形に見とれて飽きることがない。中国と北朝鮮の国境の鴨緑江が大きく蛇行している。朝鮮半島の付け根を横断して日本海に出る。この辺りは地表の雪も消えていた。半島の脊梁、太白山地が南に伸び、やがて見えなくなった。海には雲が広がり、ときおり雲間に細かい皺が寄った海面が現われては隠れた。少しまどろんで目覚めると、右手は太平洋で、足下に御前崎、続いて伊豆半島南端が見えた。出張も無事終了。
道草
- 2月12日、来週の仕事に備えて休日出勤。午後1時過ぎに退社。このまま帰るのももったいない。今日は上野の博物館や日本橋の人形町という気分ではない。新宿から小田急で江ノ島へ。自宅近くを通り過ぎるので、道草を食っている気分になる。片瀬海岸から腰越漁港まで往復。風は冷たいが、寄せる波の砕ける音と引くときの砂の音の単調な繰り返しが心地良い。今日は仕事をしたのか、遊んだのか。
夜空
- 2月22日、晴。夜10時を過ぎて家路を辿ると、月が南中している。明日は満月。オリオンが西に傾いている。オリオン座の右肩のペテルギウス、子犬座のプロキオン、大犬座のシリウスが作る「冬の大三角形」が久しぶりに見えた。正月の頃に比べるとかなり西に動いて、春も近い。東にひときわ明るい星が昇っている。おとめ座のスピカだろう。地平線に近いので、今日は赤みがかって見えたが、4月から5月には南の夜空に白く輝く。野尻抱影さんはスピカを、「春の静かな黄昏に、この星が柔い純白な光にきらめくのを眺めると、胸の底まで浄められたような気持がします。広い天上にもこれほど純潔な印象を与える星はありません。」(「新星座巡礼」)と表現している。シリウスについては、「この星を見ず知らずに生きている事は人間の幸福をむざと捨てる事である。」(同書)と、最大級の賛辞を捧げている。冬の大王シリウスや春の女神スピカに限らず、全天の無数の星の中から自分の好きな星を見い出すのも人生の幸せの一つだ。
奈良・西の京
- 2月最後の休日、薬師寺を訪ねた。近鉄「西の京」駅から玄奘三蔵院に向う参道ができていた。以前は破れた築地塀があった辺りが見違えるようにきれいになっていた。人によっては壊れたままの塀に風情を感じるかも知れないが、廃墟に美を感じるのならともかく、生きた寺には修復や再建が必要だろう。薬師寺の周到な天平伽藍の再生には敬服する。参道の梅の花が満開だ。
花は桜のみにては
- 4月19日、今日も暖かい一日だった。仕事や花粉症と格闘していたら、3月は瞬く間に過ぎ、4月もあとわずかになってしまった。半年がかりの仕事が明日でひとまず終わる。と言っても「始まりの終わり」に過ぎないが、美酒が飲めれば不足はない。2月に訪ねた京都の青蓮院の写真もまだ整理していない。連休の楽しみに残しておこう。桜は八重を残して散り、ユスラウメ、山吹、杏と咲いて、今はヒメリンゴの花が可憐だ。今年はサクランボの実の成りも良い。それにしても、吉野の桜が見たかった。上の千本はまだ散っていないかも知れない、などと未練がましく思う。ふと見れば楓の小さな花が咲いている。若葉には花と同じ紅色の縁取りがあり、秋の紅葉を予感させる。花は桜だけではない、と言っているようでもある。
連休のこと
- 4月29日、豊後高田から伊美に向うバスが真玉の海岸を通る時に陽が落ちた。太陽は干潟の縞模様の水の帯に光を反射させながらオレンジ色の円形から熟柿のような色と形に変って、青灰色の澱に似た空気の層に沈んだ。6時50分。●4月30日、暖かい。東の山麓で鶯がきれいな声で啼いている。庭の白牡丹が開き、蜂が花粉を付けては飛び去る。隣家とともに5月の妙見祭の当番役になっているので、その相談をする。山上での祀りの手筈や直会の膳のこと、11軒になった講の今後のことなど。午後母が親戚の葬儀で外出。風が強くなる。●5月1日、未明の雷鳴で目が覚めた。雨が窓を叩き、風が家や木を鳴らしている。庭の牡丹もこれまでか。今日はすることがない。風雨が止んだら散髪にでも行こうか。夕方、高校の同級のA氏から近況の連絡があった。便りのないのは良い便りとは言うものの、やはり嬉しい。良い事もある。●2日、午前中東山の墓掃除と庭の草むしり。午後は昨日歩いた道をバイクで街まで買物。夕方、幼なじみのS君が子犬を連れて来る。●3日、母と有田へ。伊美で同級のYさんと遇う。昨年夏の同窓会以来。良い事は続く。有田では妹夫婦が迎えてくれた。●4日、伊万里大川内山の鍋島藩官窯跡の窯元を巡る。虎仙窯、魯山窯、畑萬陶苑が印象に残った。午後、有田陶器市へ。有田駅から上有田駅までの道の両側にずらりと陶磁器の店が並ぶ。これほどの規模とは思わなかった。最初は眼の保養と思って冷やかしていたが、だんだん眼の毒になってきた。源右衛門窯でついに足が止った。黄色の草花を輪郭のはっきりした線で描いたコーヒーカップがあった。買おうと思ったが思い止まった。これでインスタントコーヒーというわけにもいかない。小林秀雄のように彫三島の抹茶茶碗で牛乳を飲むような度量は持ち合わせていない。陶磁器は己を写す鏡のようでもある。応分の、それでも私を待っていたかのような気のする湯呑を購入して、夕方博多へ。●5日、博多駅で母を見送り、帰京。
黄桃
- 5月8日、午前中は散歩。いつもとコースを変えて少し長く歩く。境川ではカルガモの雛を見かけた。遠目には茶色の毛糸のかたまりのようだが、眼のところは白と黄色を黒が縁どっていて、ミツバチのようにも見える。緑道にはサクランボの実が色づき始めた。明日から出張。
滑走路の昼食
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瀋陽 マリオットホテル |
ビアガーデン
- 東北の方角に残照の比叡山が見え、眼下を鴨川が流れている。対岸の先斗町には床が出され、観光客や仕事帰りの人々で賑わい始めている。四条大橋の東詰めのレストランの屋上からの眺めだ。柵が低いので風が気持ちよく吹き過ぎる。ビールと野菜サラダを注文する。一階のレストランでは弦楽四重奏を聴きながら食事ができるとのことだったが、そういう雰囲気での食事には耐えられないので、今日から営業開始の屋上に上ってきたのが良かった。空が群青に変わり、対岸の座敷や床の明かりの強さが増してきた。足元の四条大橋の雑踏や車の騒音はさほど気にならず、おそらく風の音以外は殆ど何の物音もしていないだろう遠くの北山の方を眺める。時にはこんな春の宵もあっていいか。
六月の雨
- 6月4日、高曇りの蒸し暑いなかを散歩。陽射しこそ強くはないが、日焼けしそうだ。先週も良く焼けていますね、と言われたことを思い出す。「いえ、ゴルフではなく、散歩です。」と答えるのはこちらも聞いた相手も面白くはないが、仕方がない。雲がやや黄色みがかって、エネルギーを感じさせる。桜の実が色づき始めて、黒褐色に熟したものもちらほら見える。2、30粒ほど摘み、潰さないようにハンカチに包んで持ち帰る。今年の果実酒はヤマサクランボだけにしよう。夕方、予報どおりの激しい雷雨。小椋佳の「六月の雨」も雷鳴で始まったなあと思いながら、採ってきた実を洗って水気を拭い、皮を剥いて輪切りにしたレモンと一緒にガラス瓶に入れて35度の焼酎を注ぐ。実はもう50粒ぐらいは欲しい。来週の散歩での宿題だ。また日に焼ける。
坂の上の雲
七夕
- 7月7日、今年は天の川は見えない。琴座のヴェガ(織姫)と鷲座のアルタイル(彦星)も。晴れていたら二つの星の間に長い首を伸ばす白鳥座が見えるはずだが。子供の頃、八月の盆踊りの夜に、空の真上にあった星をつないで、それが白鳥座だと知ったときの喜びを思い出す。北斗七星と冬のオリオン、夏の白鳥を、見慣れた日常の風景の一つにできれば、豊かな気持になれる。
友人の訃報
- 7月12日、K氏の訃報が届いた。T局の名ディレクターであった氏のことは以前このコラムでも書いたことがある。一年ほど前には湯島天神下の店を紹介していただいた。歌舞伎が好きで玉三郎の贔屓でもあった。今年の年賀状には、「1月、初芝居『浮世柄比翼稲妻』、連句会、初懐紙。2月、博物館で南禅寺展。4月、ホームズ全作品読了。5月、サハラ砂漠に日の出を見る。7月、歌舞伎座で玉三郎の義経千本桜、桜姫東文章。・・12月、秩父夜祭。」とあった。先輩だが、友人と言っても許してもらえるだろう。ご冥福を祈る。
人形町
- 7月16日、三連休の初日を会社で過ごした。大小の雑用を片付けるのは嫌いではない。洗濯や食器洗いやアイロン掛けが嫌いでないのと同じだ。帰途、久しぶりに日本橋人形町を歩く。重盛の人形焼と三原堂の最中とどら焼きを買う。甘酒横丁の柳屋の前を歩いたらいつものように行列ができており、三代目ではなく若い方(四代目か?)が汗をかきながら鯛焼きを焼いていた。これも買うと地下鉄の車内に鯛焼きの香りが甘苦しく漂うことになる。帰宅したら中学の同窓会の案内が届いていた。5年ぶりだが、今年は出られそうにない。梅雨明けも近い。
人民元切り上げ
- 7月22日、4時半に起きて早い朝食をとり、新横浜6時18分の「のぞみ1号」で出張。寝不足だがこういうときに限って眠れない。日経の一面に大きく「人民元切り上げ」と出ていた。2%という割には見出しが大きすぎると思ったが、本当に一日0.3%の変動を許容するのなら理論的には100日で30%の切り上げという事態もありうるが、そういうことはないだろうなどと思っているうちに眠ってしまった。理解の範囲を超えると眠くなるのは子供の頃からの体質だ。仕事を終えて夕方の「のぞみ64号」で帰る。金曜日とあって、混んでいる。単身赴任の頃を思い出す。明日から6日間の海外出張。こういうこともある。
瀋陽・東陵にて
- 7月27日、瀋陽での仕事を終えて明日は帰国。夕方までの時間を利用して東陵(福陵)を訪れた。清王朝の太祖ヌルハチの陵墓だ。広大な敷地いっぱいに松が植えられている。殉死者の代わりだそうだ。楼閣には松の木が良く似合う。少数民族が圧倒的多数の漢民族を支配し中国全土を統一したのはそれほど昔ではない。ヌルハチが後金を建国したのはシェイクスピアや徳川家康が世を去った1616年、太宗ホンタイジが国号を清と改めたのは島原の乱の前年、日光東照宮が完成した1636年のことだ。当然、古代の習慣だった殉死の弊風が生きていたはずはなく、松の木の謂れは太祖・太宗の徳を称える叢話にすぎないとは思うが、それよりも現代の中国で最後の王朝の為政者の寛大さを伝える故事を聞いたことの方に軽い驚きを覚えた。石の回廊の外に赤いサンザシの実が生っていた。食用になるとのことだ。蒸し暑く、市街に戻る頃に激しい雷雨になった。
雰囲気は東大寺南大門辺りに似ている 中央の敷石は特別な人以外は歩いてはいけない |
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太祖ヌルハチの陵墓は左後方の建物の背後にある |
木槿
- 8月7日、暑い。木槿の花がところどころに咲いている。今日見たのは白い花の中心が紅色で、帰って調べたら宗旦(ソウタン)という品種だった。夏の花は木槿に限らず、なぜかどれも儚い感じがする。それは街の呉服店のショウウインドウで見かけた、この「ゆかた」と通じるものがある。夏の花は、ゆかたがもともと室内着であったように、本来は表ではなく家の裏や中庭などに咲くべきものであったのかも知れない。春の桜や秋の楓が正装または訪問着を思わせるのに比べると危うさと儚さがある。そして可憐である。
夏休み
- 8月12日、夜来の雨は止んでいたが、空気にはまだ降り足りないような気配が残っている。おそらく午後にはまた夕立があるのだろう。のぞみ17号で帰省。急ぐことがないときは列車の旅が楽しい。午後3時に実家着。故郷も暑い。●13日、昨年の小学校の同窓会から早くも1年経った。9時、今年初盆を迎えるお家を弔問。午後買物、帰って墓参り。山のヒグラシの声が涼しい。家の門で迎え火を焚く。家の軒先にスズメバチが巣を作り始めている。近寄ると羽音も高く威嚇してくる。友好的な態度ではない。お盆の間は殺生は控えたいが、そちらがやる気ならこちらにも考えがあるぞ。だが怖い。●14日、炎天下庭の草むしりと掃除。夕方、赤根で恩師も交えた中学の同窓会。殆どのメンバーはこの数年のあいだにお目にかかったが、30年来の方も数人いる。はしゃいでいるうちに夜も更け、11時過ぎに再会を約して帰宅。●15日、午前中2時間ほど散歩。晴れたり翳ったり、ときおり強い風が吹く。午後街へ買物。伊美港を廻って帰る途中、通りで昨夜の同窓生の一人に遇う。午前様だったとのことだ。若いではないか。夕方K氏を訪ねる。千燈岳を雲がかすめ、遠くで雷鳴が聞こえたが、雨は降らない。来客あり。明日は帰京。●16日、好天。千燈寺のご住職に盆の供養をしていただく。しばらく歓談。寺のホームページ作成を薦めようと常々思っていたが、言いそびれた。5日間母の食客だったので、今日は昼食を作ってみた。K氏に宇佐駅まで送っていただいた。途中天念寺背後の岩峰を撮影。「無明の橋」が天空に架かっている。
ドレスデン美術館展
- 8月20日、酷暑と言って良いほどの厳しい残暑だ。それでも秋が近くなったせいか、風景の陰影がくっきりとしてきた。午前中に出社して雑用を片付ける。夕方、西洋美術館のドレスデン国立美術館展をのぞく。ザクセン選帝候のコレクションを7つの構成で展示している。オスマントルコの武具、伊万里・有田とマイセンの磁器、フェルメールやレンブラント、イタリアのベルナルド・ベロットの風景画に惹かれた。意外にも、ドイツロマン派のダーヴィット・フリードリッヒの代表作「雪中の石塚」に出会った。1978年の「フリードリッヒとその周辺展」以来27年ぶりの再会だ。そのときは「雪の中の巨人塚」という、ゲルマン神話を思わせるような題名だった。クラウゼン・ダールの「満月のドレスデン」も好きな絵だ。この月明かりの夜景は切なく美しい。まだ暑さが残っている上野の街に出て、満月を眺めながら帰宅。
秋篠焼
- 奈良の秋篠寺を8年ぶりに訪ねた。伎芸天さんは初めて拝見したときと変らないお姿で佇んでいた。中指と薬指を軽く折り曲げた手の形が美しい。本堂前の松の木も成長して、幹も逞しくなっていた。境内の庭の苔が木漏れ日に鮮やかな緑に輝いている。東塔跡の礎石を見た後、南門を出て少し西へ歩いたところにある「秋篠窯」に立ち寄った。少し開いた門から入り、展示室のガラス戸を開けて作品を拝見する。二代目のご当主である今西方哉さんの奥様に秋篠窯の成り立ちなどを伺う。初代の今西洋さんはこの地の土を使って「秋篠焼」を始め、当主はそれを受け継ぎながら、染付磁器に取り組んでおられる。白磁に紺の薊を描いた皿が美しい。この土地の土でできた灰緑色の釉薬がきれいな秋篠焼の器をもとめた。
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秋篠寺本堂 |
石光真清
- 10月1日、以前この欄に書いた石光真清の手記4部作をようやく読み終えた。6月末から読み始めて、3ケ月かかったことになる。時間がかかったのは内容の重さによる。第一巻「城下の人」は明治初めの神風連の乱と西南戦争、次の「廣野の花」は日清戦争、「望郷の歌」は日露戦争、そして最終巻「誰のために」はロシア革命後のシベリア出兵が背景になっている。人生の殆どを戦争とその舞台となった中国大陸で過ごした筆者はその代償を手にすることなく波乱の生涯を終えた。この本には戦争と民族と家族がそれぞれ等身大にきちんと描かれている。桑原武雄さんが高く評価した所以だ。この手記に書かれているのは過去の事実だが、現在の世界と異なるものは何一つないことに思いあたる。仕事で中国を幾度か訪れながらこの本を読み進めるには、いくらかの気力が必要で、そのためには時間をかけて読まねばならなかった。
下顎左側第1小臼歯
- 10月8日、痛くはないが、この夏から下顎の歯茎が少し腫れて気になっていたので、久しぶりに歯科医に出頭する。神戸の地震のとき以来だから11年ぶりだ。レントゲンで診てもらうと、歯根がおかしいとのこと。どうするのかと思ったら、歯茎を切開して歯根の患部を削り、削り跡を金属で補填して、歯茎を縫合してしまった。この間約1時間。化膿止めの薬をもらい、呆然として帰宅。来週は抜糸。
簡素化
- 10月16日、小雨。夕方震度4の地震があった。最近地震がないなと思っていた矢先だった。本棚に横積みにしていた本が数冊落ちた。整理しないといけない。先週、95年以来使っていたデスクトップパソコンをリサイクルに出したのを手始めに、家庭内で権限が及ぶ範囲のものを処分した。この削ぎ落とす感覚がなかなかいい。思い出など溜めてどうする、これから作るのだと嘯いてみる。机とその周辺がすっきりした。権限の及ぶ範囲はここまでだ。整理の次は整頓。先週の歯の治療に続けて、腕時計を調整に出した。高校入学の時に父に買ってもらったものだ。きちんと動いてはいるが、往時のようにきれいになれば言うことはない。さて、あとは日常生活の簡素化だ。幸田露伴先生の言葉に従おうと思う。「為すべきを為し、為すべからざるを為さず。」
上海明月
- 10月19日午後、上海に出張する。今年最後の出張にしたいが、どうなるか。街にはF1レース開催の余韻が残っていたが、気になるような雰囲気はなかった。テレビでは鳥インフルエンザに罹った鶏の処分の様子などが流れていた。ホテルから歩いて10分程のレストランで夕食。初めて上海蟹を食す。1杯75人民元也。今夜は月が冴えている。
播州室津
- 10月28日、姫路からの新幹線の車中で司馬遼太郎の「歌人の印象」を読む。「人の世は、少年の日々を過ぎればあとは余生でしかない。」人の感性は二十歳を過ぎると厚い皮をかぶり、ついには退化してしまうが、氏の知己である歌人の安田章生さんは稀有なことに終生その感性を失わなかった。「街道をゆく」の「播州揖保川・室津みち」では安田ご夫妻との旅の様子が楽しく描かれている。室津の宿で船溜まりを眺めながら須田画伯の花の話題に興じるくだりは物語の一場面を見るようだ。私も室津の港を今年の6月に訪れたが、水面が西日に光る美しい湾を眺めながらも、僚友とは仕事の話に終始した。瓦葺の家並みを縫うように折れ曲がる石畳の細い坂道や三味線の音色が似合う街で、せっかくの時間を無粋に過ごしてしまった。「花は桜に尽きるし、桜は山桜に尽きるのではないでしょうか。・・桜が陽の中で散ってゆくさまを見ますと、花びらの一枚ずつが最後には光に化ってしまうようで、ああいう花はほかにあるでしょうか。」(「街道をゆく」)「日照雨(そばえ)つつ山桜の花咲きゐたり岬の丘の春のしづけさ」
安田さんの歌は新古今の香りがする。
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6月24日 兵庫県室津港の夕景 |
秋の夜空
- 11月10日、帰宅途中に見上げる空には、今年大接近している火星が明るく輝いている。西に傾いている上弦の月が明るい。星といえばおうし座のアルデバランが東の空に光っているのが辛うじて見えるだけで、天頂のアンドロメダは見えない。もう少しすれば冬のオリオンが現われるが、秋の夜空は思いの外寂しい。昨年亡くなられた種村季弘さんの随筆「雨の日はソファで散歩」を読了。
移ろい変るもの
- 「時が過ぎ去って行くのでは無く、私たちが過ぎ去って行くのである。時は永劫に不変不動であり、私達を含めて、この世の全てのものが変化し、流動していく。永久に変わらぬものは死であり、移ろい変るものこそ生であるとは、日頃の私の感懐である。」(東山魁夷「唐招提寺への道」)1月の上野の唐招提寺展で東山さんの障壁画を拝見したときに、まだこの本を読んでいなかったことに気づいて、この夏の帰省の往き帰りに拝読した。障壁画製作中の74年に書かれたもので、前半は大和古寺と鑑真和上、後半が障壁画制作の道のりが記されている。冒頭の言葉に始まる最終章「道遥か」で、氏が祈りの画家と称された理由が良く理解できた。また、私がずっと抱いていた、時は風のように自分の傍を吹き抜けていくものだという観念が覆り、時は死んだ大地であり、私はその上を歩いているのだということが腑に落ちた。東山さんの祈りは厳しく、深い。
百寺巡礼
- 11月16日、五木寛之さんの「百寺巡礼」の最終巻「四国・九州」を読了。大宰府の観世音寺や国東の富貴寺を巡り、最終の百寺目は羅漢寺で締め括られている。二年前に始まったこのシリーズの第一寺は奈良の室生寺だった。五木さんに導かれた楽しく長い旅がひとまず終わった。「五木版百寺」の中で私が実際に拝観した寺院を数えてみれば四十二寺だった。まだ半分にも満たないが、古寺を巡る楽しみがまだ多く残っているという事でもある。中尊寺や毛越寺、山寺、瑠璃光寺など、いずれ訪ねてみたい。
年賀状
- 12月11日、年賀状の挿し絵を描いた。家に玩具のような松飾りがあったので、これを描いてみた。藁束に2,30本のミニチュアの縁起物が刺されたものだ。描いていて楽しいような、そうでないような。年賀状の準備も終わり、あとは仕事を仕上げられるかどうか。これも楽しいような、そうでないような。
松林図
- 長谷川等伯の「松林図屏風」が2年ぶりに公開されるとのことだ。東京国立博物館で27日から来月の29日まで。仕事納めの午後にでも観に行こうか。京都の智積院にある等伯一門の華麗な障壁画を見たことがあるが、それとは対照的に、彼の故郷の能登半島の風土を思わせる幽玄な世界が描かれている。年の終わりに、過剰な美を拭い去ったこの絵を見れば、一年の間に降り積った心の塵も落ちるかもしれない。

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