二条院讃岐 にじょういんのさぬき 生没年未詳(1141?-1217以後)

源頼政の娘。母は源忠清女。仲綱の異母妹。宜秋門院丹後は従姉。
はじめ二条天皇に仕えたが、永万元年(1165)の同天皇崩後、陸奥守などを勤めた藤原重頼(葉室流。顕能の孫)と結婚し、重光(遠江守)・有頼(宜秋門院判官代)らをもうけた。治承四年(1180)、父頼政と兄仲綱は宇治川の合戦で平氏に敗れ、自害。その後、後鳥羽天皇の中宮任子(のちの宜秋門院)に再出仕する。建久七年(1196)、宮仕えを退き、出家した。
若くして二条天皇の内裏歌会に出詠し、父と親しかった俊恵法師の歌林苑での歌会にも参加している。建久六年(1195)には藤原経房主催の民部卿家歌合に出詠。出家後も後鳥羽院歌壇で活躍し、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)の新宮撰歌合、同二〜三年頃の千五百番歌合などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保四年(1216)百番歌合の作者にもなった。家集『二条院讃岐集』がある。女房三十六歌仙小倉百人一首にも歌を採られている(この歌によって「沖の石の讃岐」と称されたという)。千載集初出、勅撰入集計七十三首。

  5首  6首  4首  2首  8首  5首 計30首

前大納言経房家歌合に

風かをる花のあたりに来てみれば雲もまがはずみ吉野の山(新千載95)

【通釈】花のけはいを漂わせる風をたよりに、桜が咲いているのはこのあたりかと来てみると、雲と見紛うこともなかったよ、吉野の山の桜は。

【語釈】◇前大納言経房 藤原経房(1143-1200)。権大納言正二位民部卿。◇風かをる 染井吉野と異なり、山桜の花群はほのかな芳香をたてる。尤も、「かをる」は匂いのみを言う語でなく、なんとなく気配を漂わす、といったニュアンスを帯びる。◇み吉野の山 「み」は美称。奈良県吉野郡の山々。桜の名所。「見よし」(見て美しい)の意が響く。

【補記】風によって花の気を感じ取りながら桜の在り処をたずねたところ、雲と見紛うことはなかった、ということ。「桜を雲と見紛う」というありふれた趣向にひねりを加えた。建久六年(1195)一月二十日の前大納言経房家歌合(民部卿家歌合とも言われる)、題「山花」、三番右勝。藤原俊成の判詞は「右歌、風かをる、とおけるより、姿詞優なるべし、勝とすべし」。

【参考歌】崇徳院「千載集」
尋ねつる花のあたりになりにけりにほふにしるし春の山風

題しらず

咲きそめてわが世に散らぬ花ならばあかぬ心のほどは見てまし(続後拾遺999)

【通釈】咲き始めた花が、私の生きている間ずっと散ることがなかったなら、いつまで飽きずに花を眺めているものか、自分の心の程も知られように。

【参考歌】藤原元真「詞花集」
桜花ちらさで千代も見てしがなあかぬ心はさてもありやと

百首歌たてまつりし時、春の歌

山たかみ(みね)の嵐に散る花の月にあまぎる明け方の空(新古130)

【通釈】高い山にあるので、峰の嵐によって散る桜――その花が、月の光をさえぎり、曇らせている、明け方の空よ。

【語釈】◇嶺の嵐 嶺(山の頂)から吹き降ろす嵐。◇月にあまぎる 月に大量の落花がかぶさって光を見えにくくしているさま。この月は有明の月。「あまぎる」は「天霧る」で、天が霞む意。

【補記】正治二年(1200)、後鳥羽院に奉った百首歌。

【他出】三百六十番歌合、定家八代抄、女房三十六人歌合

【鑑賞】「落花を曙の薄明のうちに見るのは、当時愛されていた心である。また、自然を広く捉えようとするのも、当時の心である。更にまた、静的よりも動的なところに趣を感じるのも、当時の風である。この歌はそのすべてを持っている」(窪田空穂『新古今和歌集評釈』)

【主な派生歌】
み吉野の月にあまぎる花の色に空さへにほふ春の明ぼの(後鳥羽院)
春ふかみ峰のあらしに散る花のさだめなきよに恋つまぞふる(源実朝)
にほひもて我がはやをらん春霞月にあまぎる夜はの梅が枝(飛鳥井雅有)
ふりかすむ空に光はへだたりて月にあまぎる夜はの白雪(伏見院)
梅の花それにはあらでさえかへり月にあまぎる雪の山風(正広)

建保四年内裏百番歌合に

いにしへの春にもかへる心かな雲ゐの花にものわすれせで(続後撰82)

【通釈】昔の春に還るような心持がすることよ。雲居に咲く花に、恋しい気持を忘れることなく。

【語釈】◇雲ゐの花 文字通りには「山の高いところに咲く桜」の意になるが、「宮中の花」の暗喩として言っている。◇ものわすれせで 下記本歌より、「恋しいという気持を忘れずに」の意になる。

【補記】建保四年(1216)、順徳天皇の内裏歌合。讃岐は七十代半ばにして参加した。

【本歌】紀貫之「古今集」
いにしへになほ立ちかへる心かな恋しきことに物わすれせで

千五百番歌合に

枝にちる花こそあらめ鶯のねさへかれゆく春の暮かな(玉葉285)

【通釈】枝から散ってゆく花もあるのに、鳴き疲れた鶯の声さえ離れていってしまう、春の終りの夕暮であるよ。

【語釈】◇枝にちる花 これは「春の暮」の歌であるから、この「花」は桜。◇かれゆく カレは掛詞。鶯の声が嗄れゆく、鶯が枝を離(か)れゆく。◇春の暮 「暮」は季節の終り。夕暮の意を掛けるか。

【補記】「枝」「花」「ね(根)」「かれ(枯れ)」は木の縁語。建仁元年(1201)、後鳥羽院の命で出詠した千五百番歌合、春四、二百九十三番左持。

建仁元年三月歌合に、雨後郭公といへる心を

五月雨の雲まの月のはれゆくをしばし待ちける時鳥かな(新古237)

【通釈】梅雨を降らせる雲の切れ間の月――雲が晴れて、月の光が照り出すのを待っていた時鳥であるよ。

【補記】詞書に「建仁元年三月歌合」とあるのは、通称「新宮撰歌合」。後鳥羽院主催、俊成判。作者の名を隠して評定し、激しい論戦の跡が見られる。上の歌は十番右勝。「殊に宜也。(中略)判者同以右為勝」とあり、評価の高さが窺える。

正治百首歌奉りける時

あやめふく軒端すずしき夕風に山ほととぎす近く鳴くなり(玉葉347)

【通釈】ショウブで葺いた軒端に涼しく吹き寄せる夕風のおかげで、山ほととぎすがすぐ近くで鳴くように聞こえるよ。

【語釈】◇あやめふく 五月五日、ショウブの葉を軒にさして邪気を払った。「ふく(葺く)」は「吹く」と掛詞になる。

【補記】結句、流布本は「近くなりけり」とする。

蚊遣火つきぬ

さもこそは短き夜半の友ならめ臥すかともなく消ゆる蚊遣火(二条院讃岐集)

【通釈】それだからこそ、夏の短か夜の友なのだろう。床に臥したかと思う間もなく、消えてしまう蚊遣火は。

【補記】「蚊遣火つきぬ」はおそらく歌会などで出された題か。次の歌の題「泉にむかひて友を待つ」も同じく。

【参考歌】紀貫之「古今集」
夏の夜のふすかとすれば時鳥鳴く一声に明くるしののめ

泉にむかひて友を待つ

ひとりのみ岩井の水をむすびつつ底なる影も君を待つらし(二条院讃岐集)

【通釈】ただ独り、岩間から湧く泉の水を掬いながら、泉の底にうつっている人影も、あの人を待ち焦がれているようだ。

【語釈】◇岩井 岩間から湧く泉を塞き止めるなどした水飲み場。

【補記】水底に映った影を眺めると、寂しそうな顔をしていて、自分の影も友を待っているのかと思い巡らす。

【参考歌】「土左日記」
ひさかたの月におひたる桂川そこなる影もかはらざりけり
  藤原基俊「金葉集」
夏の夜の月待つほどの手すさみに岩もる清水いくむすびしつ

百首歌たてまつりし時

なく蝉の声もすずしき夕暮に秋をかけたる森の下露(新古271)

【通釈】蝉の鳴き声も涼しく感じられる夕暮――木々の繁みの下葉には、秋を思わせる露が置いている。

【語釈】◇秋をかけたる まだ夏であるのに、秋を兼ねた。「かけ」は露の縁語。

【補記】爽やかな納涼詠。正治二年(1200)の後鳥羽院初度百首に奉った歌。「秋をかけたる」は藤原家隆の文治三年(1187)の百首歌に前例があるが(下記参考歌)、新古今集に採られた掲出歌によって広まり、少なからぬ模倣歌を生んだ。

【参考歌】藤原家隆「壬二集」
かげ清き河べのひさ木風こえて秋をかけたる御祓をぞする

【主な派生歌】
夕すずみ大江の山の玉かづら秋をかけたる露ぞこぼるる(藤原定家)
夕立の名残の露のかごとにも秋をかけたる小野の篠原(藤原俊成女)
清水くむ袖のしづくやまだきより秋をかけたる露のしら玉(飛鳥井雅有)
さゆり葉に玉ゐる露の花かづら秋をかけたる夏の夕風(木下長嘯子)

〔題欠〕

風そよぐ楢の木陰にたちよればうすき衣ぞまづしられける(二条院讃岐集)

【通釈】そよそよと風の鳴る音がする楢の木陰に立ち寄ると、着ている夏服の薄さがまっさきに感じられた。

【補記】風の涼しさに夏衣の薄さを改めて知り、秋の近いことを感じている。

【参考歌】恵慶法師「恵慶法師集」「続後撰集」
紅のいろどる山のこずゑにぞ秋のふかさはまづしられける

千五百番歌合に

あはれなる山田の(いほ)のねざめかな稲葉の風に初雁のこゑ(玉葉598)

【通釈】仮庵で山田の見張りをしている夜中、目が覚めた。なんてあわれ深い寝覚であろう。稲葉を吹く風の音に、初雁の声が重なって…。

【語釈】◇山田の庵 「山田」は山裾などの田。「庵」は、収穫期に田のそばに拵える臨時の見張り小屋。

【補記】建仁元年(1201)頃詠進した「千五百番歌合」出詠歌。秋三、七百十三番左負。

【参考歌】式子内親王「正治初度百首」「玉葉集」
我が門の稲葉の風におどろけば霧のあなたに初雁の声

正治百首歌奉りける中に

秋の夜はたづぬる宿に人もなしたれも月にやあくがれぬらむ(玉葉670)

【通釈】秋の夜、知合いを訪ねて行ったけれど、家には誰もいない。月に誘われて皆外出してしまったのだ。

【語釈】◇あくがれ もとは「魂が肉体を抜け出る」意。ここでは「(月に)心を誘われ、さ迷い歩く」ほどの意。

【補記】共に月夜を賞美したいと友人の家を訪ねたが、どこも留守で、皆自分と同じく月に「あくがれ」出てしまったと知る。

経房卿家歌合に、暁月の心をよめる

おほかたの秋の寝覚の露けくはまた()が袖に有明の月(新古435)

【通釈】大抵の秋の寝覚が露っぽいものなら、私のように他の誰かの袖にも、有明の月が映っているのだろうか。私ほどひどく袖を涙で濡らしている人などあるまいと思うが。

【語釈】◇経房卿 前出。◇有明の月 明け方まで空に残る月。ふつう、陰暦二十日以降の月。

【補記】初句、「おほかたに」とする本もある。建久六年(1195)正月二十日、権中納言兼民部卿藤原経房の家で催された歌合に出詠した歌。題「暁月」、三番右勝。俊成の判詞は「秋の寝覚の露けくは、とおきて、又たが袖に、といへる心、殊にふかくも侍るかな」。

【他出】定家八代抄、題林愚抄

【参考歌】
大かたの秋の寝覚のながき夜も君をぞ祈る身を思ふとて(藤原家隆[新古今])

百首歌奉りし時

散りかかる紅葉の色はふかけれど渡ればにごる山川の水(新古540)

【通釈】山峡の谷川の流れに散りかかる紅葉の色は深いけれど、そこを渡ってゆくと、澄んでいた水はたちまち濁ってしまう。川は浅いので。

【補記】「ふかけれど」は川の縁語になる。川面に浮かぶ紅葉の色の深さと、浅い山川の水の濁りの対比の面白さ。正治初度百首。

【他出】定家八代抄、時代不同歌合

千五百番歌合に、冬歌

世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな(新古590)

【通釈】世の中を、人と関わり合いながら生きてゆくのは、苦しいものだ――そんな思いで冬の夜を過ごしていると、槙で葺いた屋根を叩いて初時雨が通り過ぎていった。辛い思いをしている人の家の上を、まあやすやすと過ぎてゆく雨だことよ。

【語釈】◇世にふる 「世」は世間・人生・恋愛関係など、様々なニュアンスで言われる語。また「夜」が掛かる。「ふる」には「降る」が掛かる。◇槙の屋 槙(杉檜の類)の板で葺いた屋根。粗末な家であることを示す。

【補記】恋愛に鬱屈しているところへ、恋人は訪れず、代りにしぐれの雨が過ぎていったとも読め、恋歌の風情が纏綿する。自然と人事を重ね合わせ、小野小町の流れを汲む風体。千五百番歌合冬、九百八番左勝。

【他出】定家十体(有心様)、定家八代抄、三十六人歌合、三百六十首歌合、六華集、落書露見

【参考歌】
まばらなる槙の板屋に音はして漏らぬ時雨や木の葉なるらん(藤原俊成[千載])
さゆる夜の槙の板屋のひとり寝に心くだけと霰ふるなり(藤原良経[千載])
世にふるもさらに時雨のやどり哉(宗祇)

題しらず

難波潟みぎはの葦は霜枯れてなだの捨舟あらはれにけり(続後拾遺444)

【通釈】難波潟の水際に生えている葦は霜枯れて、水路の難所に捨て置かれていた舟が見えるようになった。

【語釈】◇難波潟 淀川下流域に広がっていた干潟。いまの大阪市中心部あたりには、水深の浅い海や、葦におおわれた低湿地が広がっていた。◇なだ 灘。航行上の難所。波が立ちやすい場所や、岩礁のある場所など。

【補記】寿永元年(1182)成立とされる賀茂重保撰『月詣和歌集』に「題しらず」として見える歌。因みに正治初度百首には同じ作者の類想歌が見える。「難波潟みぎはの風も寒(さ)えぬれば氷ぞつなぐなだのすて舟」。

【他出】月詣集、讃岐集、万代集、歌枕名寄、拾遺風体集、夫木和歌抄

【主な派生歌】
あまのすむうらみにくちぬいたづらに年をのみ積むなだのすて舟(藤原経朝)
おしてるや海人の捨てたる難波舟浦の潮干に朽ち残りつつ(衣笠家良)

寄石恋といへる心を

我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間ぞなき(千載760)

【通釈】私の袖は、潮が引いても見えることのない、沖の石のよう。人は知らないが、いつも涙に濡れて乾く暇もないのだ。

【語釈】◇沖の石の 沖の海底に生えている岩のように。「沖の石」はいわゆる「離れ岩」。香川景樹は『百首異見』で、父頼政の所領である若狭国遠敷郡の矢代浦に実際あった大石のことだという。この説に基づき「じつは『潮干に見えぬ沖の石』というのは父頼政の日陰の身を気遣う心を寄せているのであろう」(安東次男『百首通見』)という独自の解釈もある。

【補記】百人一首などは第五句「かわく間もなし」とする。

【他出】讃岐集、百人一首、女房三十六人歌合、題林愚抄

【参考歌】和泉式部「和泉式部集」
わが袖は水の下なる石なれや人にしられでかわくまもなし
  藤原俊忠「千載集」
我が恋は海人の苅藻に乱れつつかわく時なき波の下草

【主な派生歌】
我が袖は海人のおくてふ浮けの緒のうきても波にかわくまもなし(藤原為家)

恋の歌とてよめる

みるめこそ入りぬる磯の草ならめ袖さへ波の下に朽ちぬる(新古1084)

【通釈】水松布は満潮になれば波の下に隠れてしまう磯の草だけれども、私の袖もまた、ひたすら隠した恋心でいつも涙に濡れ、ぼろぼろになってしまうのだ。

【語釈】◇みるめ 海藻の名。「見る目」を掛け、「見た目には朽ちてゆくのもわからない」意を暗に含めている。

【本歌】作者不明記「万葉集」巻七・坂上郎女「拾遺集」
潮満てば入りぬる礒の草なれや見らく少なく恋ふらくの多き

百首歌たてまつりし時

涙川たぎつ心のはやき瀬をしがらみかけてせく袖ぞなき(新古1120)

【通釈】涙は川のように止めどなく溢れ、恋に激しく沸き返る激流のよう。柵(しがらみ)を設けて塞き止めようにも、そんな袖があるわけはない。

【語釈】◇涙川 流れてやまない涙を川に喩える。◇しがらみ 川などの流れを塞き止めるための柵。杙を打ち並べ、竹や木の枝を渡した。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
足引の山下水の木隠れてたぎつ心をせきぞかねつる
  紀貫之「拾遺集」
涙川おつる水上はやければせきぞかねつる袖のしがらみ

【参考歌】
せきかぬる涙の川のはやき瀬は逢ふよりほかのしがらみぞなき(源頼政)

二条院御時、暁帰りなむとする恋といふことを

明けぬれどまだきぬぎぬになりやらで人の袖をもぬらしつるかな(新古1184)

【通釈】もう夜は明けてしまったけれど、お互いの衣を着て別れることがどうしてもできなくて、あの人の袖まで濡らしてしまった。

【語釈】◇きぬぎぬ 衣々。後朝とも書く。恋人同士は、脱いだ互いの衣を重ね合わせて同衾するという風習があった。そして翌朝、それぞれの衣を着て別れたのである。その別れの時を「きぬぎぬ」と言った。

恋の歌とてよめる

ひと夜とてよがれし床のさむしろにやがても塵のつもりぬるかな(千載880)

【通釈】あの夜、寝床を浄めて待っていたのに。「今夜一晩だけは」と言って訪れの絶えた寝床の敷物には、そのまま塵が積もってしまった。

初疎後思恋といへる心をよめる

いまさらに恋しといふも頼まれずこれも心のかはると思へば(千載891)

【通釈】今更恋しいと言われても、あてにできない。心変わりがしてそう言うのだろう。今度もいずれ心変わりすると思うので。

【補記】題意は《最初はおろそかで、後になって思いを募らせた恋》。

題しらず

今はさはなにに命をかけよとて夢にも人のみえずなるらん(新後撰1164)

【通釈】今はそれでは何をたよりに生きよとて、夢でもあの人と逢えなくなってしまったのだろう。

【補記】『二条院讃岐集』にも見えるが、やはり題を欠く。

千五百番歌合に

あはれあはれはかなかりける契りかな唯うたたねの春の夜の夢(新勅撰979)

【通釈】ああ、ああ、なんて儚い契りだったのだろう。春の夜、転た寝して見た夢にすぎなかったのだ。

【語釈】◇契り 約束・縁・情交などの意がある。

【補記】建仁元年(1201)詠進の千五百番歌合、恋三、千三百四十三番左負。顕昭の判詞は「あまりによろづをむなしくおもひとられてたふとくや」。

山家

山里は野原につづく庭の(おも)に植ゑぬ(まがき)の花を見るかな(正治初度百首)

【通釈】山里の住まいでは、野原に隔てなく続いている庭に、植えてもいない垣根の花を見ることになるのだ。

【補記】野の花が庭の地面にも自然に咲いて、野と庭に区別がなくなる秋の山家。

呉竹にねぐらあらそふ村雀それのみ友と聞くぞさびしき(正治初度百首)

【通釈】呉竹にねぐらを争って鳴く雀の群。そればかりを心慰む友と思えば寂しいことよ。

【語釈】◇呉竹 呉渡来の竹。葉が細く節が多い。

百首歌たてまつりし時、秋歌

昔見し雲ゐをめぐる秋の月今いくとせか袖にやどさむ(新古1512)

【通釈】昔眺めた、雲の上をめぐってゆく秋の月――今は袖の涙にその光を映して、ひとり眺めるばかり――そんな月も、あと何年見られるのだろう。

【語釈】◇雲井をめぐる 「雲井」は宮中・内裏を暗喩。

【補記】年老いて後、宮仕えしていた昔を回想すると共に、残り少ない余生に思いを馳せる。

【参考歌】橘為仲「為仲集」「秋風集」
かくしつつ世をへてみつる秋の月今いくとせかあらむとすらむ

千五百番歌合に

身の憂さを月やあらぬとながむれば昔ながらの影ぞもりくる(新古1542)

【通釈】我が身の辛さを晴らそうと、「月やあらぬ」(月は昔のままでないことがあろうか)とばかり窓を眺めれば、昔そのままの澄んだ月明りが漏れて来た。

【補記】初句、「身のうさに」「身のうきに」とする本もある。

【本歌】在原業平「古今集」
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

【補記】】新古今集の排列では、月に寄せた述懐の歌であり、老年述懐の歌が並ぶ所にあるので、「身のうさ」は年老いての憂悶と解される。千五百番歌合でも雑の部に載るが、源通具の「暁は独り寝覚に思ふことあはれ数そふ鴫のはねがき」と合わされ、恋情にまつわる憂鬱を詠んだ歌になる(千四百三番左勝)。業平の本歌との関係からして、恋にまつわる懐旧の情を詠むことに作者の本意があったと考えるべきだろう。

【他出】千五百番歌合、定家十体(幽玄様)

入道前関白家に、十如是(じふによぜ)歌よませ侍りけるに、如是報(によぜはう)

憂きもなほ昔のゆゑと思はずはいかに此の世を恨みはてまし(新古1965)

【通釈】こんなに辛い思いをするのも、やっぱり前世からの宿縁のせいなのだ――そう思って諦めなければ、どれほど現世を恨みながら死んでゆくことになるだろう。

【語釈】◇十如是 天台宗により定められた十の仏の教え。この歌はそのうちの「報」(因縁にもとづく報い)の教えを詠んだもの。◇恨みはてまし 「恨みはて」は、恨みきる。死ぬまで恨みつづける。

【補記】「入道前関白」すなわち九条兼実の家の歌会で詠んだ釈教歌。結句の「まし」はいわゆる反実仮想。現実に反する仮定のもとで、こうなるだろう、と予想すること。実際には「報」の教えを受け入れることによって、現世を恨んではいないのである。現世の辛さを歎きつつ、逆説的に「如是報」の教えの有り難さを詠んだ歌と言える。

【他出】定家八代抄、十訓抄、古今著聞集、沙石集


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年12月24日