第17章 夫婦は死後も夫婦のままか
死後の世界では肉体がなく、従って肉体的な欲望つまり性欲はない。地上で素晴らしい快感を味わわせてくれたかも知れないが、それも所詮は肉体ゆえの原始的快楽に過ぎなかった。死後ではその肉体はもうない。が残念がることは無い。それに代る楽しみ──地上では想像も及ばなかった次元の高い喜びが用意されている。肉体の死とともに官能その他の地上的性格の感覚を捨て去ったのであるから、死後も地上的意味での夫婦のままか否かは、もはや意味を持たなくなる。

霊界でも男女の結びつきはあるが、それは愛による結びつきである。愛と言う言葉は地上では肉体的表現を伴う。確かにそれも愛の一種かもしれないが、霊界で言う愛とは霊的親和性の働きの表現を意味する。従ってもしも地上での結婚がその親和性を伴なったものであったなら──と言うよりは、その場合にのみ──霊界でも夫婦のままでいられることになる。

たいてい夫婦はどちらか一方が先立つ。すると親和性で結ばれていた二人であれば、先立った方は地上に残された他方のその後の生活をずっと見守り、再会の日を待つ。やがて他方が地上を去って霊界へ来ると二人は再び結ばれ、今度は二度と離れ離れになることはない。

但し繰り返すが、これは親和力という霊的な愛によって結ばれた夫婦に限っての話である。愛が、愛のみがすべての基準となる。

結婚式を教会で挙げようと、あるいはただの入籍だけで済まそうと、そんなことは何の関係もない。牧師や導師による祝福の言葉も、祈りの言葉も、誓いの言葉も、何の効力もない。大聖堂での厳粛な挙式の方がアマゾンの奥地での素朴な儀式よりも幸福を約束してくれるかというと、そういうものでもない。二人の間の霊的親和力さえあれば、それが何よりも強く二人を結びつけ、それは死後にも続く。

もしもあなたの結婚式がそのレベルのものでなければ、死後は夫婦でなくなることになる。よく知りあった二人に過ぎないかもしれないし、新しい環境への順応の期間中は一緒にいるかもしれない。が時の経過と共に、いつかは別れる時が来る。そしてお互いがそれぞれの親和力の同じ相手を求めることになる。

真に結ばれるべき相手であるかどうかは簡単に知れる。霊界へ行くとそれが自然にわかるのである。霊界にはウソも見せかけもない。邪悪も無い。あなたはあなたそのものになり切るからである。すると自然に〝わかる〟のである。

二度、三度と結婚した人も別に問題はない。親和力による真の結びつきは一度しかあり得ないし、相手は一人しかいないはずである。死後あなたは結ばれるべき人と結ばれるのである。

第18章 あなたがもしも今夜死ぬとしたら
かつて私は、ガンで死の宣告を受けた若者と一時間ばかり話をしたことがある。自分の病状についてすべてを知らされ、あと二か月の命であるとも言われた。私は彼に、残された道は二つしかないと説いた。

私の治療によって治るか治らないかである。もし治らなかったら、二か月先の死と言う大冒険の準備に取り掛からねばならない。いずれにしてもあと二か月すればその病気とは縁が切れる、と私は述べた。

もしあなたがこの青年と同じように余命いくばくもないと知らされたらどうされるだろうか。かりに今夜死ぬと分かったらどうされるだろうか。

物的準備は簡単である。財産家なら遺言状を整理することだ。財産という財産を残らず記録し、執行者が間違いを犯さないよう、できるだけ多くの情報を用意しておくことだろう。もし財産がなければ、そんなつまらぬ面倒も手間も省けるというものである。

が霊的な準備はそう簡単にはいかない。死ぬということは大変な冒険だ。この世からあの世への旅立ちをあなたはどう準備するか。

仮に火星へ旅行することになったとしよう。まず誰もがするであろうことは火星についてできるだけ多くの知識を集めることだ。図書館へ行って本を借りて来るかも知れない。ガイドブック、天体写真集、専門書などで火星の状態を勉強するだろう。あるいは火星へ行ったことのある人を探し出して、火星とは一体どんなところか聞きたいと思うだろう。

が、火星へ行ったら二度と地球に戻ってこれないと知ったらどうだろう。多分その勉強にいっそうの熱がこもるであろう。さらに、火星についた時から火星人になってしまうと知ったら、火星人とはいかなる人種かについても知ろうとするだろう。

実は、人間の全てが、こうした火星旅行など近くの海岸への日帰り旅行にしか匹敵しないほどの大旅行に向かって日一日と近づきつつあるのだ。霊界への旅立ちである。われわれはその旅行の準備をしなければならない。

ではどう準備したらいいのか。一体何が準備なのか。実は「死」呼ばれている旅立ちまでの「人生」こそが準備なのだ。その人生についてのガイドがほかならぬ霊的真理(スピリチュアリズム)だ。これについては多くの本が出ている。霊界旅行から一時的に地上に戻って、霊媒を通じて、霊界とはどんなところか、死後どんなコースを辿るのか、どういう心がけで生きればいいかについて語ってくれたことが本になってたくさん出ている。

但し一つだけ分からないことがある。いつ死ぬかということである。実際には寿命は決まってる。霊的にはそれがわかっている。が脳を通じての意識(顕在意識)にはそれが分からないようになっている。百歳まで生きるかもしれないし、今日中に事故で死ぬかもしれない。霊界への旅立ちはいつ始まるか、誰にもわからない。

結局われわれが為すべきことは、いつ死んでもいいように心の準備をしておくことだ。毎日を今日が最後かもしれないという覚悟で生きることだ。

過去はもう過ぎ去ってしまった。過去に起きたことは何一つとして変えられない。愚かなこともし、バカなことも言い、過ちを犯し、しくじりもした。が今さらどうしようもない。出来ることは、そうした体験から教訓を学ぶことだ。

悔やんだり残念がったりして、あたら時間を費やし心を痛める愚かさだけはやめることだ。教訓だけを学んであとは忘れてしまうことだ。

成功から学ぶことなら誰にでも出来る。難しいのは失敗から学ぶことだ。過去はいろいろと教えてくれる。過去の体験によってあなたは道徳的にも霊的にも成長した。同時にあなたの間違っている点も教えてくれた。因果律の働きも教えてくれた。だから過去には大いに感謝しなければならない。

過去がなかったら今のあなたも存在しないのだ。良いことや楽しいことも為になったが、失敗や不幸もためになっている。が、その過去の出来ごとは一切忘れて、教訓だけを忘れないようにすることだ。

未来はまだ来ない。どんなものをもたらしてくれるかは誰にも分からない。果たして自分の未来があるかどうかも分からない。未来についてわれわれ人間はどうしようもないのだ。大いなる未知、素晴らしき冒険、それが未来だ。そのどこかで死が待ち受けている。人生のどこかの曲がり角であなたを待ち受けている。

分かっていることは現在だけだ。今日は正真正銘の今日だ。その今日という時を精一杯生きることだ。明日のことを思い煩ってはいけない。「神を信じ、一日一日を大切に生きよ」──死に備える現在の生き方の心得はこれしかない。過去の教訓のもとに現在に最善を尽くすのだ。

一日が終わったら、無事に終わった一日を神に感謝する。二度と同じ日は来ないであろう。明日はまだ来ない。もしかしたら、あなたは明日という日はないかもしれない。今夜でおしまいかもしれない。それは分からない。はっきりしていることは、いつかは死ぬということだ。だから一日一日をこれが最後と思って大事に生きることだ。悔いなくこの世を後にできるように。

人生を達観すると、あなたの心身を蝕んで来た挫折も蓄財も欲望も嫉妬も後悔も、ことごとく無意味であることに気づく。今日限りそうした低級な感情と訣別し、平静と愛と同情心と理解と寛容と笑いの人生に置き換えることだ。

心霊治療家としての経験から私は、永遠の生命に目覚めることこそ人生の万能薬であることを知った。すべての心身の病を癒すだけでなく、予防にもなる。全人類がこの事実に目覚めた時、病院のベットはガラガラになり、医者は時間にゆとりが出来、西洋社会の経済問題も解決されるであろう。

所詮、地上は宇宙学校の幼稚園に過ぎない、せいぜい気ラクに明るく、心にゆとりをもって生きることだ。

そう悟った今夜から、あなたの霊的成長の旅が始まる。