第11章 なぜこの世に生まれて来るのか
実はこの世とまったく同じ別の世界が存在するのである。スピリットの世界である。あなたはそこからやって来た。そして、またそこへ戻っていくのである。この世とは違うと言っても時間とか距離的に違うのではなくて、物理学で言うところの振動の波長が異なるのである。

仮にリップ・ヴァン・ウィンクル(日本の浦島太郎と同じアメリカの伝説上の人物)が百年後のいま戻ってきたとしよう。あなたはさっそくリップにこう教えてあげる。

「あなたの身のまわりには無数の音楽が流れているんですよ。交響曲あり、ダンス音楽あり、行進曲あり、歌もあるし、しゃべっている人もいるし、劇もやっていますヨ」と。

それを聞いたリップは多分あなたを気狂い扱いにするであろう。そこであなたは、やおらポケットからトランジスタラジオを取り出しスイッチを入れる。なるほど、いろんな声、いろんな音楽が聞こえる。リップはキツネにつつまれた気分になるであろう。

実はスピリットの世界もこれと同じなのである。われわれの身のまわりに常に存在している。ただ波長が異なるために感応しないだけである。従ってその世界の実体を知ろうと思えばトランジスタラジオのような特殊な受信器が必要となる。それがいわゆる霊媒または霊能者と呼ばれている人たちである。

霊媒を通じてわれわれ人間も霊界のスピリットと交信することができる。もっとも、交信はできても、霊媒の身体をのぞいて霊界が見えるわけではない。ラジオをのぞいても放送局のアナウンサーは見えないと同じで、要するに霊媒も受信機に過ぎないのである。それが条件さえ整えば、霊界の波長をキャッチする。

その時霊媒は無意識の状態(入神状態)にあるかも知れないし、人によっては見たところ平常と変わらないこともある。その状態で霊媒はスピリットからの波長をとらえて地上の人間に感応する波長に変えてくれる。無線の波長をとらえて人間の耳に聞こえる波長に変えてくれるトランジスタラジオと本質的にはそう違わない。

こうした霊界との交信は交霊会という形ですでに確実に定着している。霊界との交信が始まると、もはや霊媒をラジオに譬えるのは事実にそぐわなくなる。

なぜかと言えば、ラジオはこちらから送信することは出来ないが、霊媒の場合はそれが可能だからである。スピリットと会話を交えることができるのである。かくしてわれわれはこうした交霊を通じて死と死後の世界について驚くべき知識を手にすることを得ているのである。

スピリットは常に進化を求めて活動している。このためには経験と教育と悟りが必要である。地上というところは地上でなければ得られない特殊な体験を提供するところである。言ってみれば特別の教育施設、それも極めて基礎的な教育を受ける場である。

あなたがこの地上に来たのはその教育を受けるためである。あなたの魂の進化の今の段階で必要とする苦難と挑戦のチャンスを求めてやってきたのである。

地上生活中は霊界から何人かのヒルパーが付く。いわゆる背後霊である。あなたと同じ霊系に属するスピリットで、困難や悩みに際してアドバイスをしてくれたり慰めてくれたり援助してくれたりする。実はあなたがこの世に来るに際しても、その背後霊(となるべき仲間)と一緒になって、地上で辿るべき行程と体験について検討し、最終的には、あなた自身がこれだと思う人生を選んだのである。

その仲間たちはあらかじめ霊界から地上を調査して、あなたの霊的成長にとって適切な体験を与えてくれるコースを選んでくれている。あなたが得心がいくと、いよいよその仲間たちと別れを告げる。

これは、あなたにとっても仲間達にとっても悲しみであろう。と言うのは、地上生活中も背後霊として援助するとはいっても、その意志の疎通は肉体によって大幅に制限されるからである。やがてあなたは一種の睡眠状態、死にも似た深い昏睡状態に入る。地上では、両親となるべき一対の男女が結ばれる。

やがて女性胎内で卵子が受精する。その瞬間を狙って、あなたと言うスピリットがその種子に宿り、まず胎内生活を始める。

ここでいま世界中で問題となっている堕胎について一言述べてみたい。いま言った通りスピリットは受胎の瞬間に宿る。従って、いわゆる産児制限は悪いことではない。受胎していない時はスピリットは宿っていないからである。が、いったん受精(妊娠)したら、すでにそこに生命が宿っていると考えねばならない。

それ故、堕胎(中絶)は一種の殺人行為とみなさねばならない。生命を奪う行為だからである。胎児は九カ月に亙って母体の温もりと気楽さの中で成長する。そして十か月目に大気中に生まれ出て、独立した生活を営むようになるわけであるが、人間としての生命はすでに受胎の瞬間から始まっているのである。その瞬間から地上へ移行するのである。

われわれ地上の人間は子供が生まれると喜ぶ。そして死ぬと悲しむ。当たり前と思うかも知れないが、霊界ではそれが逆なのである。人間界へ子供が誕生した時、霊界では悲しみを味わっている仲間がいる。

なぜなら人間界への誕生はすなわち霊界への別れだからである。反対に人間が死ぬと霊界では喜びがある。仲間との再会があるからである。

さて話を戻して、あなたがこの世で送る人生は、あなた自身が自分の教育にとって必要とみて選んだのである。仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。従って責任はすべて自分にある。

苦難に直面したり病気になったり大損害を被ったりした人は私にこんなことを言う。
「私はなぜこんな目に遭うのでしょうか。私はまじめに生きてきたつもりです。人を傷つけるようなことは何一つした覚えはありません。なのに、なぜこんな苦しい目に遭わねばならないのでしょう」と。

実はその苦しみがあなたにとっての教育なのである。溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかもしれない。が、そうやって鍛えられて初めて立派な刀となるのである。苦しんで悩んで初めて霊的に成長し、苦難を乗り越えるだけの力が身に付くのである。

不平をいう人とは対照的に、苦しみを神の試練と受け止めて感謝する人もいる。苦難こそ自分を鍛えるのだと心得て、そうした試練を受け入れられるようになった自分をむしろ誇りに思うのである。

要するに地上生活は勉強なのだ。人生が提供するさまざまな難問を処理していくその道程においてどれだけのものを身につけるか。それがあなたの霊的成長の程度を決定づけるのであり、さらにどれだけ高度なものに適応できるかの尺度ともなるのである。

人間にはある限られた範囲内での自由意思が許されている。が、この自由意思と宿命については、とんでもない説が行われている。まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。人生はすでに〝書かれてしまっている〟──つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的に決まっており、どうあがこうと、なるようにしかならないのだと観念して、乞食同然の生活に甘んじる。

もう一方の極端な説は何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも〝自分〟というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけて行く連中である。物事の価値をすべて物質的にとらえ「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。

両者とも真理をとらえ損ねている。まず宿命について考えてみよう。あなたは白人か黒人か、それともアジアの黄色人種であるかは知らないが、いずれにせよ、その現実は変えようにも変えられない。両親の系統の遺伝的特質も少しずつ受けついでいる。これもどうしようもない。

また、あなたはこの二十世紀に生を享けた。できることなら十六世紀に、西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかも知れない。が、それもどうしようもない。そうした条件のもとであなたは今という一つの時期にこの世に生を享けている。寿命の長さも定まっている。

どんな人生を送るか、その大よその型も定まっている。また苦難の中身──病気をするとか、とんでもない女(男)と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気──こうしたものもみな、あらかじめ分かっている。

あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。但し地上生活中のある時期に必ず霊的自我に目覚める瞬間と言うのがある。これもわかっている。そうした総合的な鋳型の中にあっても、なおあなたには自由意思がある。

宇宙は因果律と言う絶対的な自然法則によって支配されている。従って自由意思はあっても、その因果律の支配からは逃れることはできない。水仙の球根を植えれば春には水仙の花が咲く。決してひまわりやチューリップは咲かない。自分の指を刃物で切れば血が出る。それもどうしようもない自然法則である。

科学も哲学も生命そのものも、この因果律と言う基本原理の上に成り立っている。それが地上生活を支配するのである。大切な行為には必ず反応がある。あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。

さきに私は地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い去られると言ったが、実際はわずかながら潜在意識の中に残っているものである。それが地上生活中のどこかで、ふと顔をのぞかせることがある。その程度は人によって異なるし、霊的進化の程度にもよる。

たとえばひどい痛みに苦しんでいるとする。仮に骨関節炎だとしよう。これは医学では不治とされている。さんざん苦しんだ挙句に、ある心霊治療を知って奇蹟的に治った。嬉しい。涙が出る。感謝の念が湧く。

実はその時こそあなたが真の自我に目覚める時である。この機に、その感謝とよろこびの気持ちをもって自分に奇蹟をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのように出来あがっているのか、信仰とは、幸福とは、と言ったことを一心に学べば、その時こそあなたにとって神の啓示の時なのである。

こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちを取るか迷っている時が考えられる。道義的には右を取るべきだが、そうすると金銭上は大損する。

左を取れば確実に儲かるが、それは人間として二度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる。といった場合もあろう。神の啓示に耳を傾けるか否かの決定的瞬間がそこにある。

さらにもっと日常的な例では、自分自身には厳冬の厳しさをもって律しても、他人には温かい寛容と忍耐心をもって臨む。その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。

因果律は絶対に変えられない。歪めることも出来ない。無視することも出来ない。このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精一杯努力し、困難を神の試練と受け止め、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭上は得策でなくても、道義的には正しい道を選ぶことである。

生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種──こうした枠組の中で、あなたも自由意思が与えられているのである。

この観点から言うと、リンカーンの例の有名なゲティスバーグ演説は間違っている。全部は無用だから問題の箇所だけを引用しよう。

「八十七年前われらが建国の父たちは、自由の理念の中に育まれ人間はみな生まれながらにして平等であることを旗印とした新しき国家を、この大陸に建設したのである。」

政治理念としては極めて健全である。が前提が間違っている。人間は生まれながらにしてみな平等ではないからだ。霊的進化の程度において、われわれは一人一人みな違う。見た目には似通っていても、一人は霊的意識も発達し思想的にも大人であるが、もう一人は動物的で未熟で霊的には子供であるという場合もある。二人はそれぞれの程度に応じた勉強のためにこの世に来た。

一人はもうすぐ宇宙学校の大学課程へ進めるところまで来ているが、もう一人は地上と言う幼稚園でさえまだ手におえないだだっ子かも知れない。二人は断じて生まれつき平等ではないのである。

また一人は五体満足で、もう一人は何らかの障害を生まれつき背負っているということだってある。一方は音楽の天才で、他方は音痴ということもあり得る。絵を画かせると一方は素晴らしいものを描くが、他方はまっすぐな線すら描けないかもしれない。一方はオーケストラの一員となり、他方はオモチャのドラムもまともに叩けないかもしれない。一人は霊的な仕事に携わり、他方は徹底した俗人として生きるかもしれない。

英国の歴史家フルードは「人間は生れつき不平等である。従って、あたかも平等であるが如く扱おうとしても無駄である」とはっきり断言している。その通りなのだ。完全な平等など絶対あり得ない。生まれついた環境が違い、遺伝子が異なり、霊的進化の到達度に差がある。

多分リンカーンが平等だと言ったのは、権利の行使において平等の機会を持っているという意味で言ったのだろう。だが、これとて現実とは違う。生まれつき原始人的性格と才能しか恵まれていない人間と、知的にも霊的にも発達した人間とでは、おのずから携わる仕事は違ってくる。

一方は屠殺場で働くことになり、本人も別に嫌とも思わないかもしれない。他方は地上体験の最後の仕上げのための奉仕の生涯を送り、一国の命運を左右するほどの神の啓示に浴するかもしれない。二人のどこに平等があるだろうか。

人間は決して生まれつき平等ではない。かつてもそうだったし、今でもそうである。それを無理してあくまでも平等であるとの前提のもとに事を進めると、いわゆる悪平等となり、人類全体の程度を最低線まで下げることにもなりかねない。

人間は生まれつき平等ではない。また機会も均等ではない。となると、一体後に残るものは何か。

すでに述べたように、われわれはこの地上に自分の意志による選択のもとにやって来た。このことをしかと認識していただきたい。一度だけではない。すでに何度もこの世を経験している。その目的は、その時その時の進化の程度に応じて最も適切と判断した環境に生を享けている。そこで必要な体験を得るためである。

地上の人間には二つの大きなハンディキャップがある。一つは無明または無知、要するに真理を悟れずにいることである。この世に来るのはその悟りに向けて必要な体験を積むためである。無明から解脱するまではそのハンディキャップによる障害は避けられない。

もう一つは肉体的制約である。頑健で元気いっぱいの身体を持って生まれる人もおれば、生まれつき虚弱児だったり、奇形児だったり、障害児だったりする。肌色も違えば背丈も違う。その身体をコンピュータのような素晴らしい頭脳が操る場合もあれば、精神薄弱児だったりする。

が、そうした様々な条件下において、自分は自分なりに最善を尽くすこと──霊的に、知的に、そして身体的に自分に具わったものを最大限に活用すること。それが地上に生を享けたそもそもの目的であり、そこに地上生活の意義がある。全ての人間は、その点に置いてのみ平等と言える。なぜなら、それ以外に地上生活の目的も意義もないからだ。

第12章 過ちを犯すとバチが当たるか
罰にもいろんな種類がある。のけ者にされるのも罰である。みんなアイスクリームをもらったのに自分だけもらえなかったら、それを罰と受け止めるべきであろう。みんなガールフレンドがいるのに自分だけ相手にされないと、何かバチでも当たったのかと思う人もいる。

良心の呵責によって罰を受けることもある。何か悪いことをしてずっと心にひっかかり、それが身体の病気にまで発展することがある。それはすでに説いた因果律の一つのパターンである。

たった一回の過ちで全人生を歪めてしまうことがある。何もかも狂ってしまう。悩みの絶えることが無く、常に気が気でない状態になり、生活が不自然になっていく。晩年になって我が人生がみじめで迷いの連続であったことを知る。生涯を振り返って、何のために生きてきたのかわからないということになる。これも又、罰である。

反対に良いことをすると気分が晴れやかになる。その気分が周りの人にも好感を与え何をやってもうまくいくようになる。晩年に振り返って充実した幸せな人生であったと満足する。

善い行いとは何か、悪い行いとは何かについてはすでに述べた。精神科医はいろいろと理屈を言い患者の弁護をするが、善悪は厳然として存在し、霊的に成長するほど道義的感覚が鋭くなってくるものである。

人間は誰しも過ちを犯す。が置かれた条件下において、どうするのが善であるかを判断することは絶対に可能である。たとえば生体解剖と、毎年英国だけで五百万回も行われている動物実験(うち八十%は麻薬なしで)は誰が何と言おうと悪である。

「その実験のお蔭で英国人の健康が増進される」などと言う弁解は私には通じない。私自身がその結果を毎日この目で、この手で確かめている。英国は今や病人の国である。真に健康な人は実に少ない。大体道義的に許すべからざることをやっていて、それが医学的に正当化されるわけがない。

どう弁解しても正当化する答えにはならない。人をごまかし、ウソをつき、公私で二枚舌を使い分けるのも悪である。そのほうが儲かるからといっても、それで不道徳が是認されるはずがない。商売においても、仕事においても、私生活においても、道徳の基準は一つでなければならない。人道的に不正なものが商道徳上で正しい筈がないのである。

私は今どの行いが善でどの行いが悪だという厳密な法典を作るつもりはない。第一、すべてに適用できる定まった掟と言うものはあり得ないはずだ。所詮あなたにとって正しいか否かは、あなたの霊的発達程度によって定まるからである。人喰い人種はやっつけた相手を食べるが、これは彼ら人喰い人種にとっては悪とは言えないかもしれない。

それが彼らにとっての習慣なのであり、相手の肉を食べることによって相手の持つ力と徳を自分のものにできると信じているのである。それが良いことであるか悪いことであるかは考えないのである。があなたがそんなことをしたら、それは悪である。なぜなら、あなたはそれがいけないことであることを道義的に知っているからである。

同じ意味で、動物を殺して食べることはいけないことだと思わない人は幾ら肉を食べても悪くはないが、もしもあなたが人間が動物を保護する立場にあること、人間の得意勝手で無理やり飼育し、屠殺し、食卓にのぼせるべきではないと実感をもって信じているならばあなたにとって肉食は悪であることになる。

このように、万人に共通した善行とか悪行と言うものはない。では何を基準にして善悪を判断したらいいかということになるが、私は〝あなたの動機に照らして判断せよ〟と言いたい。

そして、もちろん、その判断に際して自分に正直でなくてはいけない。動機さえ善であれば、あなたの行為は間違いなく善である。もしも動機が自己中心で物欲的で権力欲に発しているとしたら、その行為は、それが何であろうと悪である。その分だけあなたの人生は無益で、無意味なものになる。

たとえ一時的には利益を得ても、それはいずれあなたの人生を破綻へ導く。因果律が自動的に罰をもたらすのである。

そこであなたは尋ねるかもしれない。死んであの世へ行ったら私は地獄へ送られて苦しめられるだろうか。最後の審判の日に地上で犯した罪状を読み上げられ、良い行いの分を差し引かれて刑を言い渡されるのだろうかと。

そんなことは絶対にない。が次のようなことは必ず体験させられる。まず、あなたを霊界から援助してくれた背後霊と共に、あなたの送った地上生活を振り返る。正しかったことも間違っていたことも、細大漏らさずビデオを見るように再現され、この判断は正しかったが、あれはいけなかった。ここでこんなことをしたからああなった。と言った調子で背後霊から説明を受ける。

それが終わると、背後霊と相談の上で、もう一段高い世界へ挑戦するか、それとももう一度地上へ戻るかを判断する。もし地上へ戻ると決まったら、しばらく休息を取り精神統一をしながら調節する。

やがて霊的な準備が整う。指導霊の協力を得て新しい地上生活のパターンを選ぶ。それまでに何世紀も経っていることもある。いよいよ機が熟すると、前と同じように深い睡眠状態に入り、それまでの一切の記憶を捨てて地上の一女性の胎内へと入っていく。

宇宙学校の第二学期が始まったのである。

第13章 自殺者や夭折した子はどうなるのか
あなたの人生の長さ──寿命──は、あなたが地上へ再生する時点においてすでに分かっている。教育と同じで、学校を選んだ時点で、その学校の入学と卒業の時期があらかじめ定まっている。もしも寿命が来ないうちに切り上げたら、その分の埋めあわせにもう一度戻ってこないといけない。

教育の例えで言えば、健康か何かの理由で長期欠席したとしよう。学ばねばならないことがたくさん残っている。そのままでは卒業させてもらえない。そこで欠席した分だけ期間を改めて学校へ通わなければならない。

自殺するのに勇気は要らない。自殺は実は臆病者のとる手段である。挫けず生き通すことこそ勇気がいるのである。しかも自殺は何の解決にもならない。霊界へ戻ってみると、地上でやることにしていた仕事が残って居ることを知る。多分あなたが選んだコースは少しあなたには負担が大きすぎたのかもしれない。が、それをあなたが自分で選んだのである。選んだ以上、あくまでやり通すべきだった。

あなたはそれから逃避した。そのままでは霊的進化は達成されない。達成するには残してきた仕事をやり遂げねばならない。と言って肉体はすでに無い。埋葬されて腐敗したかもしれないし焼却されたかもしれない。

あなたは指導霊と相談する。その結果もうあと二、三年で必要な体験が得られる判断する。そこで今度は夭折する運命のコースを選ぶ。

これで死が罰でもなく、また全てを解決するものでもないことがお分かりであろう。もう一つ次元の違う世界へ行くだけの話である。学校を卒業して大人の世界へ入る。その卒業式のようなもので、あなたもいずれは死と言う卒業式を迎えて、より大きな人生へと進まねばならない。

今の例でもわかるように、ほんの短い地上生活しか必要でないスピリットがいる。それは、今の例のように完全に終了しなかった人生を完成するための場合もあれば、すでにかなり霊的進化を達成し、地上での勉強をあまり必要としないケースもある。

特に高級霊が幼児の内に他界するというケースが多い。そういう運命を選んだ子供にあなたもあったことがあるはずである。幼いうちからしっかりしており、しかも美しさと上品さが輝いて見える。

だから、幼い子供を失った親は決して悲しむことは無い。そう言う子供は純粋さ故に、大人が大人であるが故に持つ数々の不純さを避けていると思われるふしもある。事実、死後地上と交信する上で子供の方が大人より有利なのである。その子の死を悲しみ嘆くことは、その子にとってもあなた自身にとっても、何の益にもならない。

涙を拭って自分にこう言って聞かせることだ──わが子はいつも身近にいてくれている、と。きっとあなたの来るのを待っているはずである。『ピーターパン』の著者ジェームズ・バリーが「死ぬということは素晴らしい冒険である」と述べているが、まさにその通りだ。どんな楽しいことが待っているか分からないからである。

妊娠中の母親はいろいろと考える。必ずしも食べ物のことばかりではない。もっとも、食べることに関しては異常になるようだ。私の妻などは真夜中に起きてフライを山ほど揚げる。そしていざ食べる段階になると気分が悪くなり、せっかく揚げたものを全部捨ててしまうといったことを何回かやった。

お腹に子供がいると母親はその子に夢を託し、いろいろと将来を思う。が予定日が近づくと考えが変わってくる。男の子でもいい。女の子でもいい。目は青でも茶色でもいい。背は高くても低くてもいい。色は白くても黒くてもいい。どうか五体満足の子であってほしいと思うようになるものだ。

その願いが必ずしも叶えられるとは限らないようだ。不具の子が生まれることが現実にあるからだ。この事実をどう受け止めるべきか。親はまず罪の意識にとらわれる。何がいけなかっただろうか。自分たち親に何か欠陥があるのだろうか。こうした意識を生涯抱き続けている親がいる。そしてその生涯は聞くも涙の物語となる。悔恨と過剰な罪の意識がそうさせるのである。

生命の誕生は実に驚異と言うべき現象である。私がそれを〝驚異〟と言う時、私の心にあるのは,よくも五体満足で次々と生まれてくるものだという感慨である。が、中に五体満足でない子供がいる。次に紹介するのはその不幸な例である。


数年前知人の家に女の子が生まれた。二人目の子である。最初子は男で、頑健そのものだった。女の子も五体満足で、青い目のブロンドだったが、脳に欠陥があった。出産の途中でほんのわずかな時間だったが酸素が不足し、それが原因で脳細胞の一部が死んだのである。

どうも反応の仕方がおかしいと気づいた親は小児科へ連れて行った。小児科は徹底した診察と検査を行い、更に脳の専門家の意見も聞いた上で次のような気の毒な診断を下した。この子は身体的には正常に生育するが知能的にはこれ以上発達せず、恐らく植物人間としての生涯を余儀なくされるであろうと。

親にとってこれほど酷い話があるだろうか。その夫婦はその子を連れて私のところへ来た。さっそく霊的な診察に入ったが、とたんに私は「この子を大事にしなさい」と口走った。無意識のうちに出た言葉だったが、私には指導霊が言わせたものであることは分かっていた。続けて私はこう言った。

「この子に愛情を注ぎなさい。存分に注いでやりなさい。心霊治療も定期的に受けさせてやってください。どの程度よくなるかは今の段階では言えませんが、知能の持った子になります。大切に、愛情を持って育てなさい。」

その子は名前をサラという。今では六歳になった。障害児施設に通っているが、愉快で愛らしい子である。その後もう一人の健康な男児を出産した母親は、三人のうちでサラがいちばん愛情を覚えるようですと語った。母と娘の間に普通以上の縁が出来上がっているのである。おそらくサラはまともな成人にはなれないであろうが、サラはサラなりに一個の立派な人格の持主なのだ。

もっとも、ここまで来るまでには、その子が深刻な悩みのタネとなった時期があった。サラが四歳を迎えるころには母親は心身ともに疲労の極にあった。痛々しいほど痩せ細り、食事がまともにノドを通らない。確実に病身になりつつあった。医者の診断ではどこにも異常はなかった。ありとあらゆるテストと検査をしてもらったが、すべてマイナスの反応だった。が、ついに入院のやむなきに至った。

その段階で初めて私はご主人から奥さんの窮状を知らされた。依頼を受けて私はすぐさま病院へ駆けつけた。見ると痛々しいほど痩せて、気味悪ささえ感じるほどほどだった。まだ三十代であったが、見た目にはまさしく老婆だった。

が私の心霊治療を受けてから急速に快方に向かい一週間後には退院し、一か月後にはすっかり元気で明るくなり、食事も進み、体重も増えてきた。

ここにも一つの人生がある。まだその全てはわからない。これからどうなるかは分からない。が、そういう子にも、その子なりの人生があるのだ。意義ある人生が。

不具の子、障害を持った子にも例外なく完全な霊が宿っている。ただ、宿った身体が不完全だったにすぎない。その子は、そういう不完全な身体に宿った人生を自ら選んだのである。自らこしらえた牢獄といえるかも知れない。そういう人生でないと得られない教訓があるのだ。

またその両親をはじめとして兄弟、姉妹、その他その子と縁のある人々にとっては、そういう子との接触が必要だったのかもしれない。あるいは、高級霊がさらにいっそうの進化の為に敢えて障害者としての人生という過酷な試練の道を選んだのかもしれない。

いずれにせよ、すべてに目的がある。時としてそれがわれわれ人間にはわからないことがある。が、それでも全ての人生にはそれなりの意義があるのだ。