第8章 いつも希望を抱く
私は学生時代のことはよく憶えていない。もちろん学校へは通ったのだが、なんだか当時のことが夢のような、あるいは何かの本で読んだ物語のような、他人事に思えてならない。もちろん当時もAとかBとかの評価はあったが、最終的には大学進学ということが教師たちの〝目標〟だった。要するに受験である。
学課の中では国語(英語)が得意だった。国語の入試問題はいつも出典がきまっていて、私の時はミルトンの『失楽園』とかシェークスピアの『あらし』だった。私はもともとシェークスピアは好きだったが、ミルトンは苦手で、意味の分からないところが多かった。でも入試ではすらすらと暗誦出来て、
今でも屋根裏部屋には国語だけは抜群の成績でパスした賞状が残っている。そのためには私もミルトンを必死になって暗記したものである。今でもその中からところどころの文章がふっと口をついて出て来ることがある。学生時代の勉強が無駄でなかったことを証明するために一、二節紹介してみよう。
人の心は、今おかれたその場で、
それみずから地獄を天国となし、
天国を地獄となす。
これは女性患者を治療した際に浮かんだ一節である。その人は腰のあたりに激痛を覚える。一か月間入院してX線検査をはじめとする徹底的な診断を受けたが、どこにも異常は見当たらなかった。が痛みは本ものである。本当に痛いのであるが、原因は精神的なものだったのである。
この方はお子さんにも恵まれ、経済的にも困っていない。本人も「うちは決してお金持ちではありませんが、要るだけのお金はあります」と述べているほどである。なのに一体何が不満なのか。
それは家事に追われ、家に縛り付けられていることが不満なのである。本当は外に出て働きたい。大勢の人と触れ合いたい。が、ご主人がそれを許してくれない。「家を守るのが女の仕事だ」──そう言われて仕方なく買い物と料理と掃除と洗濯と育児の毎日を送っている。その欲求不満が痛みを惹き起こしているのだった。
私のところへ来て治療を受けると、その時は完全とまではいかないがほとんど痛みらしい痛みを感じないまでになる。が帰宅して二日もするとまた痛みがぶり返す。ミルトンが言うように彼女の心が〝それみずから天国を地獄となし〟ているのだった。
こうしたケースは決して珍しくない。少なく見ても訪れる人の半数が、自分の置かれた環境に対する不平不満からどこかに痛みを覚えている。それを助長するのが取り越し苦労と罪悪感である。
既成宗教のほとんどが罪と罰の恐ろしさを説いている。善い行いは報われ、悪いことをすると神が罰を与えると説き、その原理に基いて善と悪の基準をこしらえている。ところが実際にはその掟に背いた者が必ずしも不幸になっていない。中にはむしろのびのびと生き甲斐ある人生を送っている者がいる。
そこで宗教家は因果応報は死後に精算されるのだという言い逃れをする。教義に忠実に従っておれば死後に永遠の生命を授かり、背いた者は永遠の罰を受けると説く。
英国ではこれが子供時代に教え込まれる。公立小学校の教科書には聖者や祈祷書からのそれに関する引用が盛り込まれている。「ですから、皆さんも良い行いをしましょう。そうすれば死んだ時に天国に召されます。もし悪いことをしたら罰として地獄へ送られ、永遠の苦しきを受けることになるのです」と言う結論になる。
むろん成長するにつれて理性的判断力が出て来る。もっともあか抜けした哲学に触れるチャンスもある。死後について、永遠の生命について、あるいは因果律について、その真相に目覚める人もいる。が大半の人は心の奥に子供時代に吹き込まれた永遠の罰に対する恐怖と罪の意識と、それはどうしても避けられないのだという観念が巣食っているのである。
家庭の主婦がもしも自分の生涯の仕事は家事だと思い、夫に尽くすことだと思い、それ以外のことをすることは悪であると思い込んでいるとしたら、その観念はやがて心理学でいう罪責複合(無意識の罪責感)を生む。これは魂を蝕む恐ろしい観念である。みずからの心に地獄をこしらえる。
それがまず心の病を生み、それが身体への病気へと発展していく。その病気の種類は数えきれないほどである。
患者を一、二度治療して何の変化も見られない時は、私はその人の置かれた環境について質問してみる。すると挫折感、不満のタネ、憤満、取り越し苦労、罪悪感、等々が浮かび上がってくる。これだ、と私は睨む。本当の治療はこれらの心理的要因を取り除くことにある。つまりその患者にとって本当に必要なのは人生哲学であり、霊的真理の理解なのだ。
そこで私は霊の世界の話を持ち出す。そういう世界、そういう真理があることを指摘したあと、その世界の存在を明らかにしてくれた先駆者、書物、道標を紹介する。患者は人生に希望の灯を見出す。その灯が迷信を生んだ他愛ないタブーや罪の意識を駆逐していく。
されど若し希望と恐怖が
等しく事を調停するのであれば、
私の性質(こころ)は恐怖より希望を選ぶ。
ミルトンは苦手だが、こうした小さな珠玉を数多く発見する。この一節はまさしくスピリチュアリストとして私がいちばん患者に授けてやらねばならないものだ。すなわち希望である。
希望こそ環境に打ち克ち、無用の罪悪感と死後への恐怖を取り除き、憤満と挫折感を和らげてくれる。無知と迷信に代って、正しい知識と理解に基いた未来への希望があなたを救う。
私は患者からいろいろと教えられる。心とからだの病に苦しむ男女に毎日のように接するということは、私にとって計り知れない価値ある体験である。患者が病院を訪れる時、病気を治してくれる──少なくとも症状を和らげてくれる薬または治療を期待する。その心理は私のような心霊治療家を訪れる時でも同じである。
病気そのものが少しでも良くなることを期待する。つまり痛みが和らぎ、苦しい症状が何とか耐えしのげる程度になってくれることだけを期待する。これは多分に、それまでの病院通いの体験から生まれる心理だと思われる。一時しのぎでもいいからラクになりたいという心理である。なぜそのようなことしか期待しないだろうか。何故逞しい健康を要求しないのだろうか。
健康であるということは地上の生命として自然な状態にあるということである。そうでない状態はみな不自然なのである。そして、他の多くの不自然なものと同様に、不健康状態は法則からの逸脱を意味する。宇宙はきわめて単純な法則によって営まれている。その法則から逸脱すると、そこに不幸と病が生じる。
だから病気も苦悩も神が授けるのではない。人間の誤った生き方の産物なのである。ところが人間は余りに多くの病苦を見慣れてしまったために、われわれはそれを人間生活につきものの、ごく当たり前で正常なことのように錯覚している。
赤ん坊を見るがよい。健康でしあわせな生活を送る上で必要な能力と機能を充分に具えて生まれてくる。それを誕生の瞬間から、いや、厳密に言えば胎内にいる時からすでに生理的にその正常な機能が歪められていることがある。サリドマイド児がそのもっとも恐ろしい例だ。世界中で問題となったのも当然と言ってよい大変な問題である。
が、その他にも、あまり問題にされていない恐ろしい不自然な行為が数多く横行している。母乳で育てることを拒否する母親の出現がその一つである。体形が崩れるとか、面倒だからとか、いろいろと理屈を言う。理屈は一応筋が通るかに思えるが、そのもとを正せば、みな母親のエゴイズムから発したことばかりだ。
が、百歩譲ってそれを一応許すとしよう。すると赤ん坊は本来は仔牛が飲むべきミルクで育てられることになる。その乳牛が食べる牧草には殺虫剤が使われている。もしかしたら放射性物質によって汚染されているかもしれない。
あるいは乳牛には各種のホルモン剤や病気予防のための薬品類が多量に投与されていることだろう。人間の赤ん坊がそのいちばん大切な時期を、そうした環境のもとで搾り取られたミルクによって育てられることの危険性を、その母親たちはどこまで認識しているのだろうか。
赤ん坊だけではない。その後の離乳期から大人になるまでの食世活も恐ろしいほど不自然となり品質が低下している。肉類は何年も前に冷凍されたものが解凍され、着色され、科学的添加物で加工され、見た目には新鮮で赤身が多そうに見え、しかも柔らかそうである。
その肉のもととなる食肉牛も恐らく不自然な環境で飼育されているに違いない。薬と科学的添加物によって不健康に太らされているに相違ない。そんなものを食して、果たしてあなたの身体にもそれらの不自然な物質が入らないと言えるだろうか。
小麦粉も、栄養よりもパンの製造の便利さを優先させて、徹底的に精白され漂白される。天然の栄養は完全に取り除かれてしまっている。
(最近では無精白粉も多く使用されている──訳者)
食料品は着色料、香料、その他の化学添加物を使用し、乾燥冷凍などもする。二十世紀の人類は、愚かにも、自分の胃袋に入れる食糧よりも、車にいれる燃料の品質向上の方に一生けんめいである。
頑健であるのが人間として自然であり、それを成就し維持するためには自然な食事を摂取しなければならない。それに新鮮な空気と適度の運動と日光がいる。更に常に身体を清潔に保つ必要がある。が、もう一つ大切な事は、なるべく健康のことを考えないことである。
あまり健康に気を配りすぎるのも、これまた病気を招く原因になりかねない。あまり健康状態を口にしない方が良い。少々の不調や不快は気にせず、そのうちよくなると思うことである。
類は類を生む。健康と幸せを心に思えば健康で幸せになる。不幸と病気を思えば、みじめになり病気になる。悪感情と悲観的な念は似たような感情を次々と生み出す。憎しみ、怒り、嫉妬、悪意、どん欲、仕返しの念は次から次へと子を生む。
その子の名前は悲劇であったり不機嫌であったり病気であたり失敗であったり落胆であったりする。からだの健康は心の健康と同じく生きる姿一つで変化する。
医学も、いずれは治療医学から予防医学へと進むであろうことは間違いない。身体を治療するのではなくて、心の姿勢を正すことが医者の役目になるであろう。健全なる精神──常に明るく積極的で楽天的な考え方をする心は、健全なからだを作る。本当の医者は教師でなければならない。健康を保つ秘訣を教えてあげるのである。病気になった身体を治すのではなく、病気にならないように指導することである。
今や知識は十分にある。無数の人生の指導書があり、医学的知識がある。不足しているのは、それを実生活に応用する決意だ。それを私はまず子供の世代に要求したい。子供たちに死にまつわる愚かなタブーと病的思念と悪感情を持たせないようにしよう。憎しみや敵意、妬み、偏狭の心を捨てさせよう。
じめじめした考えを捨てて進取的かつ楽天的に物事を考え、同時に自然法則の存在を忘れず、いかなる形にせよ〝不調和〟と言うものに拒否反応を示す人間に育てよう。また健康で幸せであることこそ人間として当然の遺産であることを自覚した人間に育てよう。
そして各家庭に次の言葉を飾って、それを家族全員が心に刻み込むように心がけよう。
「神の如く汝もまた幸いなり」
第9章 患者からよく受ける質問
私のところを訪れる人のほとんどが、どうしてよいかわけがわからなくなっている。言うことが支離滅裂でつじつまが合わない。情緒が不安定である。その根源にあるものは、これまで度々指摘した通り、幼少時代からの宗教的思想のゆがみである。
そこで私の治療によって痛みが取れてラクになると色々と質問しはじめる。次に紹介するのは私が患者からいちばんよく受ける質問とそれに対する私の答えである。
「私はなぜこんな目に遭うのでしょう。」
こんな目に遭うという言いかたのウラには、その災難を何かのバチと受け止めている心理が働いている。しかし事実はそうではなく、その原因はみずから呼び寄せている場合が多い。信念のない人間には迷いとイライラがつきまとう。それだけで潰瘍が生じることもある。
ではその潰瘍は迷いとイライラのバチかと言うと、それは観方一つだ。バチが当たったのではなく、イライラの心が潰瘍を生じることを知らずに間違った心の姿勢を続けたその結果に過ぎないと受け止めれば、単なる因果律の働きに過ぎない。
人間の悩みの大半は、存外、人間みずから引き寄せているものだ。つまり悩みとして受け止めているにすぎない。実際は悩みでもなんでもないことなのだ。と言って私は人間に悩みや苦しみはないと言っているのではない。確かにある。がそれは悩みではなくて神が与える試練なのだ。つまりそれにどう対処するかであなたの真価が問われる重大な時なのだ。
神は人間を深みに連れて行くことがある
おぼれさせようとするのではない
魂の洗濯をさせるためだ
これは私がよく患者に引用して聞かせる言葉である。挫けてはいけない。勇気をもって事に当たることだ。なぜこんな目に、と言う疑問を持つということは、あなたが真理を求めようとしはじめた一つの表れでもあるのだ。
「癇癪を起こすことはいけないことでしょうか。」
怒りは神学で言う七つの大罪つまり致命的な罪悪の一つに数えられている。あなたにとって致命的という意味である。これは生理的にも致命的であることが分かっている。腹を立てるとアドレナリンというホルモンが多量に血液中に流れ込む。すると脈拍が上がり、血圧が上がり、凝結度が上がる。そして、こんなことが余り頻繁に繰り返されると、あなた自身も天へ上がる──血栓症か脳出血で。冷静さを失うと運命のコントロールを失い、友を失い、健康を失い、そして生命までも失いかねない。癇癪の代償は少し高すぎないだろうか。
「菜食主義にすべきでしょうか」
人間は動物ではない。動物以上の存在であり、動物を庇護すべき立場にある。人間のエゴイズムから動物を食料とするのは間違っている。私はそう信じるのである。このことは同時に娯楽のための狩猟、医学の名のもとに行われる動物実験、食用のための飼育も許されるべきではないということである。
もしもあなたが私のこの考えに賛成されるのであれば、あなたは肉食を止めて菜食主義にすべきである。もし賛成されなくても、霊的に成長されたときになるほどと思われるはずである。どちらでもない、よく分からない状態であれば、一度屠殺場へ行って現場をご覧になることである。はっきりとお分かりになるはずである。
「神の存在を信じますか。」
私は信じる。どこを見ても自然界には意匠(デザイン)がある。その全てを見ることは不可能であり、これからのちも不可能であるが、わずかではあっても、これまで見ることを得たかぎりでも、ただただ驚異というほかはない。その見事なデザインがあるからには、それを拵えたデザイナーがいる筈である。それをゴットと呼んでもいいし、アラーと呼んでもいいし、大霊と呼んでもいいし、生命力と呼んでもいい。「ガリバー旅行記」で有名なスイフトの次の言葉に私も賛成である。
「アルファベットの寄せ集めによって哲学の大論文ができるわけがないのと同様に、宇宙が原子の偶然の集合によって出来上がったとは信じられない」
「心配することはいけないことですか。」
心配の程度があなたの信念の欠如の程度を表す。心配の念は判断力を曇らせ、身体機能を鈍らせ、不審と不機嫌の雰囲気を作る。よく寝られない、寝起きが悪い。その不愉快の不雰囲気はやがて周りの人へも伝染していく。
問題が生じたらじっくりと考え、分析し、あなたなりに最善を尽くし、やるだけのことをやったら、後は何も考えず全てを背後霊に任せることだ。後のことはあなたにはどうしようもないからだ。
「どこかの慈善団体に加入すべきでしょうか。」
慈善事業を目的とする団体に加入すればもう個人的な善意の行為をしなくてもいいということにはならない。確かに慈善団体はコンサート、舞踏会、宝くじ、等々の仕事を通じて大いに人の為に奉仕しているが、その組織力の威力が個人的な小さな善意の施しを無意味であるかに思われている点も見逃せない。
どんな小さな施しでもよい。心のこもったものを寄付するということでよい。私はこの施しの精神は人生哲学の中において大切な意味を持っていると信じている。日常生活における〝当然の行い〟の一つとすべきだと思う。「施すは受くるより幸いなり」と言う聖書の言葉を知らぬ者はいないが、自分みずから何かを人に施すべきであることを、みんな忘れてはいないだろうか。
「アルコールはいけないでしょうか。」
アルコールも一種の麻薬である。テレビのコマーシャルで宣伝されてるとか、自由に手に入るからといって、それを飲むことが正当化されると思ってはいけない。一種の麻薬であるから中毒になる危険性がある。できることならアルコール類とは一切縁を切る方がいいが、どうしてもダメという方は、
ほどほどにということを心がけることである。本当の寛ぎとか気晴らしとしては霊的な修養から来るもので、麻薬や薬品、アルコールなどにたよるのは邪道である。
「タバコはやめるべきでしょうか。」
もちろんである。たばこの害は科学的にもはっきりとした結論が出ていて、百害あって一利なしのいちばんの見本である。吸い込んだ煙が気管支から肺へかけてどんな影響を及ぼしているかを一度見たら、いっぺんに気分が悪くなり吸うのが怖くなるはずである。
そのことならよく知っている。命を短めることも知っている。でも、だからといってたばこをやめようとは思わないという方は、吸えばいいのである。知らずにやっているのならムリにもとめるが、百も承知の上なら自由にやるがよろしい。所詮は自分自身の問題なのだから。
「磁気療法や信仰療法は心霊治療とどこが違うのですか。」
治療法には大きく分けて磁気治療と心霊治療の二つがある。磁気療法は治療家自身の身体に蓄積している磁気エネルギーを注入することによって患者の衰弱した身体を回復させるもので、したがってあまり多くの患者を治療すると疲労を覚える。エネルギーの蓄えが無くなるわけである。
実はこの磁気による影響は一般の人でもいろんな体験をしているはずである。馬丁が興奮しているサラブッレドを鎮めるのも、看護婦が深夜に病棟を回って患者に声をかけたり枕を直してあげたりしたあと、
患者が心の落ち着きを感じてよく寝られるのも、あるいは、わいわい騒いでいる教室に先生が入ってくると水を打ったように静まり返るのも、医者が回診してベットの脇に来ただけで病状が好転するといったことも、ある庭師が手入れすると不思議に生育が良くなると言ったことも、あるいはその人に会っただけで心の重みが軽くなるといった体験も、みな、その人の持つ磁気力の影響である。
そういう人はみな例外なく強烈な個性の持ち主である。ただしその個性を支えるものとして、楽天的精神構造と信念がある。積極性と楽天性と信念が相まって強力なオーラを作り出し、そのオーラが人間はもとより動物や植物、ときには偶然と思われる出来ごとの展開にさえ影響を及ぼす。
その人にあうと、会っている間だけはその人の特性を身にまとう。すると当然その特性はその人の魂に影響を及ぼす。魂が洗われ、身体と自然な調和が取り戻され、不思議に元気が出て来る。一種の磁気治療を受けたのと同じことになる。
いわゆる信仰治療家も実はこの磁気の作用を大いに利用している。元来信仰治療家も強力な個性の持ち主である。そして人間の身体に自然治癒力つまり自分みずから治す力が具わっていることを知っているので、まず患者にそのことを認識させる。さらにその強力な個性の力で患者を何となく良くなったような気持ちにさせ、その調子でどんどん良くなっていくという信念をもたせる。
その信念が信仰心にも似た自信を生む。この自信と言うのが実はすごい威力を発揮するのである。心身症なども改善し、あるいは完治させる。結局信仰治療家の武器はまず治療家自身の強烈な個性であり、次に患者に持たせる〝治る〟と言う自信であり、そしてその自信を生む温床となる感動的ムードである。
私は信仰治療家ではない。磁気療法も用いない。もちろん磁気が作用していないことはない。心理的な作用もあるだろう。私のところに来ただけで良くなったり、極端な場合は来る途中で治ったりすることがあるのを見ても分かる。が私の場合の磁気作用は私の霊的エネルギーを受け易い状態に誘導する程度の作用であって、それ自体が治癒をもたらすことは無い。私はあくまで心霊治療家なのである。
私たちの身の周りには私が〝生命エネルギー〟と呼んでいる莫大なエネルギーが潜在している。私が、と言ったが最初にその用語を用いたのはバーナード・ショーで、私はいい呼び方だと思う。特別なエネルギーではない。春になると木々が芽を出し花を咲かせるそのエネルギー。
四季をめぐらせ、秋になると作物や果実を実らせるエネルギー。精子と卵子の結合から赤ん坊となり一人前の成人へと成長させるエネルギー。そうした自然界の隅々まで動かしているエネルギーと全く同じものが病気を治し元気を回復させるのである。
病気の人はそのエネルギーを必要としている。全身にまんべんなく注ぐ必要がある人もいるし、患部に集中的に注ぐ必要がある場合もある。いずれにせよ、その注入には道具がいる。コンデンサーのようにエネルギーを集積し、トランスのように波長を患者に応じて変化させ、それを患者の全身、時には器官や関節などに集中的に照射する。
その道具は機械ではなく、私のような人間である。生まれつきコンデンサーやトランスのような働きを具えた人間であり、そう多くはいない。それだけに極めて貴重であり、重大な任務を背負っていることになる。だから、こうした才能に恵まれた人はつとめて精進する必要があるが、同時にその人間を最大限有効に活用するために、それ専門の背後霊が付いている。
この場合のスピリットは、霊界での生活体験の中で病気で苦しむ地上の人間を救うという使命を帯びて一時的に私のような治療家を援助する。それがそのスピリットの霊的向上にとっての必須体験となるわけである。といっても、一時の思い付きでそうするのではない。
実際には治療家が地上に生を享ける以前から、あらかたの準備はできているのである。そしていよいよ地上へ生を享けた瞬間から人間としての成長を見守り、治療としての必要な体験を積ませ、これでよしとみた時期から治療力を発現させる。つまり指導霊なのである。
患者によってはいちばん悪い箇所をいきなり治療できないことがある。全身の衰弱がひどくて治療に耐えきれないからである。そこでスピリットは治療の手順を変え、患部はそのままにしておいて、まず全身にエネルギーを注入する。これで新陳代謝が活発になり動きがラクになる。
これを二、三回繰り返すうちにすっかり体力が回復してくる。その段階でいよいよ患部に向けてエネルギーを照射する。それであっさりと治る。
その点信仰治療家は患者自身の信念や自信で治すのであるから、そう言う信念や自信を持たせるように、治療家自身をはじめとして治療室全体のムードを盛り上げるように飾り立てる必要がある。
たとえば治療室として教会のような〝聖なる場所〟を選び、香を焚き、大きなローソクを並べたて〝聖なる音楽〟を流し、治療家は何やら神秘的なムードのする衣服をまとい、九字を切ったりして仰々しい儀式を行う。
私はそうしたことは一切無縁である。明るい普通の部屋でワイシャツ姿で治療する。私にとって場所はどこでもいいのである。請われれば病院でも自宅でも、その人の都合のいいところへ出向いて治療してあげる。
治癒エネルギーは私からでるのではない。霊界の医師が操作して、私の身体を通して患者へ注入する。私はその通路に過ぎない。通路に過ぎないから、治療によって私から奪われるものは何もない。むしろ私の身体を通過する際に少しづつエネルギーのおこぼれが残っているらしく、一日の治療──二十人も治療することがある──が終わった後、疲れが残らないどころか、逆に元気はつらつとなるのだ。
第10章 人間とは何か
数年前、私は『死とは何か──悩める人へのガイドブック』という短い記事を書いたことがある。長年の治療体験から、人間が「死」についてあまりに間違った観念を抱いていることを痛感していたので、それを簡潔にまとめたものだった。
それを第一章で紹介した私の恩人であるモーリス・バーバネル氏のもとに送った。短いものではあるが、一度に出す記事としては長すぎるし、さりとて書物にするには短すぎたのであるが、それに対するバーバネル氏の返答は簡潔にして明快であった。氏の編集している心霊誌の連載記事を全部休んで、私の記事を一挙に掲載したのだった。
これにはすごい反響があり、抜き刷り(リプリント)の要求が次々と来た。初めのうち丁寧に応じていた出版社も、あまりの多さに手を焼き、それを二四ページほどの小冊子として出版した。その時バーバネル氏による次のような「まえがき」をいただいた。
「死とは何か」──これが分からないようでは人生の意味を理解したとは言えない。この小冊子はその生と死の全体像を見事に明らかにしている。原稿に目を通した私はさっそく著者に賛辞を送った。長年の編集者としての経験から、こうした心霊問題を簡潔でコクのある生き生きとした文章で無駄なく描写することの難しさを熟知している。その大変な仕事をテスター氏は見事にやってのけてくれたからだ。
小冊子とは言え、著者は長年にわたる世界の宗教の比較研究の成果をこれに注ぎ込んでいる。そもそも氏をその研究に駆り立てたのは、キリスト教神学のお粗末極まる教義に満足しきれなかったことで、結局著者の知性がそれを容認できなかったということである。
深い洞察力と鋭敏な感受性の持ち主であるテスター氏は、この道に入る以前も、専門的知識はもちろん豊かな才能と鋭い知性を必要とする仕事で成功の道を歩んでおられた。それが思わぬ病魔によって廃業の危機に瀕した。英国一流の専門医もはじめてというほどの重症の腰椎ヘルニアで激痛との戦いの毎日となったのである。
それが心霊治療家フリッカー氏のたった一回の手当てで全快し、専門医から〝絶対必要だが成功の保証はできない〟と宣告さていた手術も避けられた。その奇蹟の体験のあと、フリッカー氏から治療能力があることを教えられ、その後急速にその能力が開発されて今日なお治療の毎日を送っておられる。
かくして運命の紡ぎ車がまわり、治された患者が治す方の側にまわった。この事実は、霊的エネルギーが聖書の時代と同じく今日もなおこの世に顕現しつつあることを物語っている。テスター氏にとってはそれが日常茶飯事となっている。面会依頼の電話があっても、その要件が本職のコンサルタントとしてなのか治療家としてなのか、直接会うまで分からないと、氏は笑いながら語っていた。
人生の暗闇の中で苦しみつつ生きている人々に救いの手を指しのべる人として、テスター氏はうってつけの人である。氏みずからが激痛と煩悶と不信の嵐を潜り抜けた人だからだ。
この小冊子は米国でも出版され、今なお両国でよく売れている。その根強い需要が何を意味するかは容易に察しが付く。われわれは、よく「もし私が死んだら」という言い方をする。この、〝もしも〟ではなく〝かならず〟死ぬのである。死は例外なくすべての人に訪れる。なのに死についての権威ある解説書は一冊もない。その辺に私の小冊子がよく出る理由がある。
今かりに大きな図書館へ行って婦人科のコーナーを一覧されると良い。そこには出産についての書物が所狭しと並んでいる。医学の専門書ばかりではない。われわれ門外漢──門外婦人と言うべきか──のための本も大変な数である。それに加えて最近では至る所で婦人のための講演会があり、テレビ番組がある。
人間の誕生については驚くべき段階まで進んでいるといえる。テキストあり、専門家あり、伝統あり、おまけに無責任な説まである。
さて無事出産の過程をへてこの世に出て来ると、今度はいかに生きるかについての資料が揃っている。活字だけでなく目にも見せてくれる。生理学についての本は無数にあり、食事や、運動、その他、健康管理全般にまで及んでいる。スリムになりたい人、豊かなバストになりたい人、あるいは円満な夫婦生活の秘訣を知りたい人は、それぞれの分野の専門書を簡単に手に入れることができる。
人生に関する書物も同じように十分揃っている。特にこの十年ばかりは如何に生きるべきか、幸福になるにはどうすればよいか、金を貯める秘訣は何か、といったことについての指南書が洪水のように出版されている。
地球を破壊するか、それとも物欲と快楽の場にするかに躍起になっているかに思える今の時代に、こうしたとかく無視されがちな問題を扱う本が続々と出ていることは注目に値することではある。
もっとも〝どう生きればいいか〟についての本は文字と言うものが生まれた当初からあった。ただそれは〝人生哲学〟と呼ばれて、大体において宗教家か学者の専売特許とされていた。その他にも、たとえば聖書(バイブル)などが一種の道しるべとして、規範とすべき人物や悦話がそこから引用されてきた。かつてはそれが牧師や一家の父親がお説教の材料として使用された時代があった。
このように出産についての心がけから、その後の生き方についての知識だけは十分に揃っている。が、いかにして死を向かえるべきかについての本は一冊もない。
もちろん死を主題とした話は多くの人が書いているが、それらも分類すると二つに分けられる。一つはロマンチックに死を見つめる誌的人間で、死を悲しむ情で書く。いかがに死を見つめるかを説くのではない。死に直面した人間の生への惜別の言葉に過ぎない。
もう一つは例の神学者だ。彼らは伝統的信仰をバックにして死を説こうとするために、その教説はしどろもどろで、何を言わんとしているかよくわからない。
たいていの宗教、特に西洋の宗教は徹底した勧善懲悪説に基づいているために、その論法は現実と矛盾したものにならざるを得ない。すなわち良いことをすれば──教義に忠実に生きておれば──幸福になり、悪いことをすれば──教義にはずれたことをすると──不幸になるというのであるが、実際にはまじめに教義に則って生きている人がみじめな死に方をし、好きに生きている人が裕福で楽しい生活をエンジョイしている。
そこで彼らは、神の賞罰は死んだ後に与えられるのだと言い変える。善いことをしておれば天国へ行き、悪いことをすると地獄へ送られる、と。
こんな子供だましの論法から、死についてまともな説が出る筈がない。賞と罰、言いかえれば天国と地獄の説でしか生と死を説けないのだ。私に言わせれば、彼らは死をテーマにして頭の体操をしているにすぎない。そこから混乱が生じても別に不思議はない。
ほかにもう一つ問題がある。私は本を読んでいていつも感じるのであるが、本当によく分かった人が書いたものは平易な文体で書かれていて、しかも要を得ている。実に分かりやすいのである。
が、よく知りもせず書いた人の本は文章が冗漫で読みにくく、しかも自分で勝手に用語をこしらえるので、ふだん理解している意味で読んでいくと理解できないところが出て来る。読み終わってみると、読み始める前よりもいっそう分からなくなっている、と言ったことになる。
死についての信頼のおける本が出ない本当の理由は、それを書く人が一度も死を体験したことが無いということに尽きる。その内容は勝手な推測か、さもなくば他の理論家の諸説の取り合わせにすぎない。
これでは平凡人が死について迷うのも無理はない。年を取り、死が近づいてくると、おくればせながら何か死後の保証のようなものが欲しくなる。神なんかいるものかと大きな口を利いていた人が、いそいそと教会へ通いはじめるのもその表れである。慈善事業に寄付したりするのもそのためである。
そして、いいおじいちゃん、いいおばあちゃんと言われるように努力しはじめる。それもこれも、六、七十年にわたって人の迷惑を考えずに必死に生き抜いてきたガムシャラな人生が、そうした僅か二、三年あるいは数年の〝殊勝な行いに〟によって、そのまろやかな温かさの中に忘れ去られてしまうことを祈ればこそなのである。
或る保険の外交員が言っていたことだが、見たところ迷信など信じそうにない教養ある人が死ぬ間際になるとカトリックの牧師を呼ぶケースが良くあるのも、別に不思議はないという。
洗礼を受け、信徒となり、罪を告白し、最後の聖油を注いでもらう(死の床でのカトリックの儀式)のは別に努力のいることではないし、費用もほとんどかからない。それだけで天国への約束が得られるのであるから、「一番安価な保険ですよ、まったく」とその外交員が言っていた。
もうそろそろ死への手引書きがあってもよい時代である。それも、お座なりの宗教的教説に縛られず、陳腐な神学者流の理論から完全に脱却し、しかも実際に死を体験した人間つまり霊界のスピリットによって書かれた死の参考書が必要なのである。
死ぬということは生きるということとまったく同じように重大な問題である。しかもそれがあなた自身にも日一日と迫ってきている。アイスランドへの案内書を読んでも、行きたくなければいかなくても良い。結婚についての本を読んでも、生涯独身でいたければそれでもよい。
が、死だけはそうはいかない。かならず通過しなければならない重大な問題である。ならば本書を読まれたことは決して無駄ではないであろう。
そこで、あなたがまず第一に実行しなければならないことは、長い間あなたを混乱させてきた幼稚な教えを捨て去ることである。死に付いて教え込まれてきた先入観を一切洗い落すことである。天国も地獄も忘れよう。
天国へ行くとハープを引きながら性を知らない乙女に世話をしてもらうとか、反対に地獄へ行くと悪魔によって焼かれたり、いじめられたりするとか、そんな子供だましの観念を拭い去ってしまおう。
さらに〝最後の審判〟の教えも忘れてしまおう。要するに聖典経典の類を忘れてしまうのである。そして死と言うものを一度も考えたことのない自分に戻ってみることである。つまり赤ん坊の時代に戻るのである。さらに今度はその前つまり生まれる瞬間の自分に戻ってみよう。そしてさらにその前の、母親の胎内に宿った時に戻ってみよう。そして更に・・・。
こうして原初に立ち返るのである。一体自分とは何だろう。この肉体だろうか。いや違う。肉体は確かに便利な道具ではある。歩く、しゃべる、歌う、車を運転する、が肉体そのものがそうしているのではない。そうさせる何かが内部にある。その何かが〝精神〟である。
ではその精神が自分そのものだろうか。いや、やはり違う。精神は肉体を操るコントロームルームのようなもので、そこから筋肉や各種の腺に指令を発している。
脳もあなたの一部である。器官の中で最も複雑で最も重要な器官である。まさしくコンピュータと言えよう。が、どこの医学校でもその脳を取り出してビンの中で保存している。やはり脳も身体の一部にすぎないことがこれで分かる。肉屋さんへ行けば動物の脳味噌を売っているし、それを喜んで買って食べる人もいるわけだ。
実はこうしたものとは全く別に第三の要素があって、それが肉体と精神と共にあなたと言う一個の人間を構成しているのである。その第三の要素がスピリットである。スピリットこそあなた自身である。地上においてはそのスピリットが肉体と精神をまとって生活をしているのである。
ではその証拠を見せてくれ──あなたはそうおっしゃるかもしれない。スピリットを見せろとおっしゃるかもしれない。が、スピリットは残念ながら人間の目には見えないのである。ここに一人の人間がいる。衣服をはぎ取れば肉体が見える。頭にドリルで穴を開ければ脳味噌が見える。がスピリットはどこにも見えない。
死体をご覧になったことがあるだろうか。衣服を脱がせて解剖してみても、もうそこにはその人はいない。ただの抜け殻。肉と骨と繊維のかたまりに過ぎない。放っておくとすぐに腐敗が始まるので、穴を掘って埋めるか焼却してしまわねばならない。
死体がその人そのものだったのだろうか。その肉の塊が愛し、喜び、音楽を作曲し、名句を吟じ、発明し、想像力を働かせ、理論を立て、異性に求愛しただろうか。誰にもそうは思えない。何か大切なものが失くなっている。つまりスピリットが脱けているのである。つまりその肉体が死んだのである。
人間は肉体と精神とスピリットの三つの要素から出来あがっている。そのことをしっかりと認識していただきたい。この地上を旅するための道具にすぎない肉体、その肉体をコントロールするメカニズムとしての精神、そしてその肉体と精神の両者に生命を賦与し、一個の生命体としての存在を与えているスピリット、この三つである。
死に際して消滅するのは肉体だけである。スピリットは絶対に死なない。〝自分〟は絶対に失くならないのである。つまり究極のあなたと言う存在はスピリットそのものであり、それが肉体という物質を通して六、七十年あるいは八、九十年の地上生活を自分で表現している。そのスピリットこそあなたなのである。