第5章 自分の健康は自分で管理できる
毎週火曜日はロンドンの私の会社の事務所で治療する日である。主にロンドン市内で働くビジネスマンが多い。一週のうちわずか一日だけであるから予約が多く、私はそれを三十分刻みで片づけていく。その中へ急患の飛び込みもある。そうなると治療時間が十五分しかない時もあるが、それでも結構みな顕著な効果を見せている。
実は心霊治療家に腕のいいも悪いもない。患者の側に治る人と治らない人がいるだけである。ある時期、私は治療成績の因果関係を分析してみたことがあるが、病気にまつわる要素が余りに多くてすべてに通じることができず、また治癒エネルギーの働きに人間の理解を超えた部分が多すぎて諦めた。
しかし、その調査をしていくうちに一つだけ顕著な事実が浮かび上がってきた。それは私の治療で奇蹟的に全治した人、そしてその後二度とぶり返さない人というのは、十人中九人までが長期間にわたって苦しみ抜いた、つまり絶望の寸前にやっとの思いで私のもとに辿り着いた人だということである。
私は誰かれの区別なく、すべての人に治療を施してあげる。がこの治療がどの程度効くかは患者によって違ってくる。一回の治療で奇蹟的に治る人もおれば、何回か治療を重ねて少しずつ治っていく人もいる。治療した時は効果が見えず、それっきり来なくなった人が実は治療後二、三日して突如全快したというケースもある。が長い長い闘病生活で疲れ果て、身も心も荒廃しきった人ほど目を見張るような効果を見せるというのが、偽らざる事実なのである。
譬えてみれば、すっかり飲み干されたグラスほどたっぷり注ぐことができるということかも知れない。つまり病気で苦労しただけ、それだけ真理を受け入れやすくなっているかも知れない。というのは、前章で述べた通り、心霊治療は目的ではなく人間的成長のための手段なのである。肉体的病気も長期間続くと精神まで荒廃させる。
仕事は失う。能力は衰える。再就職の道は閉ざされる。医者からは〝生涯この体で生きる方法をお考えになった方がよろしい〟と、死刑にも似た宣告を受ける。
この絶望の淵から、ワラをもつかむ思いで心霊治療家を訪れる。治療家がその病に痛めつけられた身体にそっと手を当てる。すーっと痛みが消える。曲がっていた腰がしゃんとする。一瞬のうちに、そして完全に、その人は治る。その時患者の魂が目を覚ます。
霊性が開発される。生まれて初めて、見つめるべき方向へ目が向く。神の啓示に触れたのである。人生に大革命が起きる。そして二度と後戻りしない。心霊治療はその道案内の手段なのだ。
ここで私は声を大にして言いたい──苦しみと病に疲れ果てた人たち、人生に迷い生きる勇気を失った人たち、そのからだで生涯を送れと宣告された人たち、人生の歯車を狂わされてしまった人たちに言いたい。どうか希望を失わないでほしい。落ちるところまで落ちたら、あとは道は一つしかない──上昇するのだ。あなたのグラスには一滴もなくなった。さ、これで、こんどはなみなみと注がれる準備が整ったのだ。
現代の人間はどこかが悪いと十人中九人までがまず薬に頼る。マスコミを通じて莫大な種類と量の薬が宣伝されているから無理もない。製薬業界は笑いが止まらない。しかしいったん薬の習慣がついてしまうと、人体の自然治癒力が機能しなくなる。私のもとに来た時はもう身も心もすっかり貧しくなっている。中には見るからに裕福さを物語る服装をした人もいるが、霊的にはまさに貧困の極みにある。
が私は、はなから法を説くことはしない。まずは病気を治してあげなくてはならない。そのために来られたのだ。そして治るべき人が治る。治った人がなぜこう簡単に治ったのかと聞いてくれたら、しめたものだ。私は待ってましたとばかりに道を説く。
がこうして大勢の人を治せば治すほど、人間の病気と言うのは心の姿勢さえ正せば自分で治るものだということを痛感させられるのである。そのことを私は声を大にして強調したい。自分の健康は自分で管理できる。それが実は昔からの健康管理の常道なのだ。
心理学者のウィリアム・ジェームズ氏は「現代の最大の発見は心の姿勢一つで人生を変えることができるということだ」と述べているが、現代だけではない、いつの時代にもそうだったのであり、あなたにもそれができるのである。
言葉だけでは納得できないであろうから、実際に自分で試してみることだ。その方法は後で述べることにして、その前に、特に西洋人にありがちな悪い生き方のパターンを実例で紹介してみよう。
サム・スローン氏は中年の男性である。が、ずいぶん老けて見える。髪の毛に白いものが目立つ。身体が前かがみで、目に元気がなく、態度が遠慮がちである。そのからだはまるで病気の問屋である。潰瘍に、背痛に偏頭痛に心臓病と来ている。常にからだのどこかが痛む。それに加えて不眠症である。痛みも不眠も現実の事実であるが、いずれも心身症つまり精神的ストレスから生まれたものばかりなのである。
病歴を辿っていくと、キッカケは事業の失敗にあった。そして、失敗した後就職した仕事がイヤでイヤでたまらなかった。が八年間止める勇気もなく勤務した。そこに不幸の根があった。本人は家族のためと思って我慢して働くのだが、本人が発散する不満と陰気さが逆に家族に不幸の雰囲気を撒き散らすだけだった。
もちろん私は治療を施してあげた。がスローン氏にとって本当に必要なのは病気を治療よりも心の教育なのだ。私のもとに来る人には同じような人が多い。そういう人は人生を金儲けとしか考えない。心にゆとりと言うものがない。真も善も美もない。金と物と地位のことしか頭になく、愛も、喜びも、幸せもない。
西洋人の健康を蝕む最大の原因はそこにある。金を稼ぎ、老後の年金を得ようと、少々の病気や痛みや異常を我慢してでも金儲けに奔走する。そして寿命を縮めていく。自分一人ならそれでもいい。妻がいる。子供がいる。休む間もない生存競争のために家族みんな犠牲になっていく。
が、人生とはそんな息苦しいものではない。心の持ち方一つで楽しい充実した人生が送れる。あなたの宗教や思想まで変えろとは言わない。それはそれでいい。西洋人の大半はキリスト教と言う立派な宗教を持っている。それなのになぜこうも不幸や悲劇が多いのか。
それはいかに宗教は立派でも、いかに人生哲学が高尚でも、それが日常生活に反映しなくては何にもならないということである。要は日頃の心の持ち方を正しくすることだ。
私が治療する病気は頭痛からガンにいたる内科的なもの、骨の異常から先天性不自由といった整形外科的なものなど、実に広範囲にわたる。そして患者はありとあらゆる階層の人たちである。お金持ちもいれば貧しい人もいる。教養人もいれば小学校しか出ていない人もいる。
宗教心のある人もいればゼロの人もいる。そうした違いがあるにもかかわらず病気の型は何時も一つなのである。つまり心の姿勢の歪みから来ている。
その一つのパターンにも二種類の人間がいる。生き甲斐を求めようとする心のゆとりのある人と、そのゆとりをすっかり失ってしまった人。前者は大ていよくなるが、後者は私の説教が効を奏さないかぎりは治らない。
もっとも治療に当たる私にも、その人が良くなるか否かは実際に治療してみないと分からない。だから私としては治療効果が最大に発揮されるよう条件を整える必要がある。その一つをこれから披露してみようと思う。披露すると言っても、すでにどこかの誰かによっていつの時代かに説かれているに違いない。が私は私なりに長い体験の中で発見したものである。
すでに述べたように、人間のからだの調節機能はその人の心の姿勢に反応する。例えば腹を立てたり恐怖心を抱いたりすると、血圧が上がり脈拍が増え凝結度が高まり筋肉が緊張し、時には発声器官の筋肉が麻痺して声が出なくなることさえある。肉体的には、そんな生理状態を必要とすることは何も起きていない。
その状態を惹き起こしたのは怒りや恐怖心と言う〝心の状態〟であり、その怒りや恐怖心が消えると生理状態も正常に戻る。こうして、調節機能にまったく余計な仕事をさせているのは、肉体的なものではなくて心の姿勢なのである
そこで私の持論になる。心の姿勢を意識的に変えることによって、その調節機能を正常に戻すことが出来るということである。怒りと恐怖心が緊張と病的状態を惹き起こすように、その反対のよろこびと呑気さが健康と冷静を呼ぶ。これくらいの理屈なら誰にでもわかるが、私の持論は、そのよろこびや呑気さは本物でなくてもいい。
見せかけであってもいい。自分にそう言って聞かせればいい。つまり自分は幸せなのだ。心配事は何一つない。全てうまくいくのだと言って聞かせ、意識的に自己暗示にかけるのである。
ウソだと決めつける前に、今すぐ試してみることだ。これから一時間、幸福な人間の一人を演じてみることだ。笑顔を作り、声に出して笑い、鼻歌を歌う。誰にあっても明るく挨拶し、今日がとてもいい日で、気分も爽快で快調であることを口に出して言う。ウソでもいい。
たとえ調子が悪くても明るく振舞うのである。すると体の調節機能がその暗示にかかる。警戒警報が解除される。調節器は血圧をあげる必要も余分なアドレナリンも酸も緊急の防御態勢も必要なしと判断し、自動的にスイッチを切り換える。一時間もしないうちに、あなたはきっと何か変化を自覚するはずである。オヤ、と思うことが出て来るはずである。
繰り返し言おう。あなたの健康を支配しているのは心の姿勢である。だから心の姿勢を健全な状態になおせば、からだも健全な状態に戻る。その心の姿勢はニセモノでもいい。見せかけだけでもいい。その姿勢を持続するのである。すると、体の調節機能がそれに反応するようになる。人間の体の仕組みがそうなるようにできているのである。私はそれを長年の治療体験から発見したのである。
第6章 子供はどう育てたらいいか
たいていの親は自分にできなかったことを子供に叶えさせてやりたいと思うものである。より立派な教育を受けさせてやりたい生活費を切り詰め節約する。大学に行かせてやろうと、何かと心を砕き努力する。卒業と同時に今度は良い職業に就かせようと、あの手この手の策をめぐらす。
いよいよ一人前の社会人になると、今度は〝わが子に相応しい〟結婚相手を探し求める。そして晩年は全ての財産を子供に譲って自分たちは質素で慎ましい生活に甘んじる。
私の治療室にはこの種の親が大勢やってくる。訴える病気は関節炎、動脈硬化、不眠症、潰瘍、偏頭痛、背痛、ちょっと拾っただけでもこんなにある。このうちのどれかを抱えた人を毎日のように治療している。一見したところ、そんな病気で苦しんでいるとはとても見えない。
ローザ夫人の例をみてみよう。年齢は三十八歳、きちんとした身なりで、なかなか魅力ある夫人である。自分が素敵なご主人と快適な家に恵まれていることを自ら認める。経済的には何の苦労もないことを認める。そして三人の子供も健康であるという。なのに自分は重症の病気を抱えている。なぜか。
夫人としては三人の子供に是非大学まで行ってもらいたい。ところが長男は女の子に、娘はドレスのことで夢中である。そのことがまず夫人の頭痛のタネである。しっかり勉強してくれないと大学へ行っても奨学資金が貰えないかもしれないのです。と言う。
それがなぜ悩みなのだろう。何が何でも大学へ行ってくれなくては、と思うこと自体がおかしい。大学を出なくても立派に成功した人は幾らでもいる。息子が女の子ばかり追っかけていると言うが、それがなぜいけないのだろうか。男の子が女の子を好きになるのが当たり前ではないか。
息子に好きな男が出来たというなら、これは大変である。親は大いに心配していい。娘がドレスにあれこれやかましくなったという。着るものに夢中と言うのであれば、あのココ・シャネルだって服装に夢中になっていたではないか。(ココ・シャネル──フランスの世界的な女性服飾デザイナー。香水でも有名)
親は子供の人生まで関与してはならない。自分に叶えられなかったことを子供にさせようとする考えも許されない。子供には子供の人生がある。その人生には成功もあれば失敗もある。それも子供にとって大切である。伸び行く人間には苦痛も必要である。よろこびと挫折、勝利と敗北、成功と失敗、こうした体験が養分となって子供は成熟していくのである。
もう一人紹介しよう。スミザスン夫人は肩の結合組織炎を患い激しい痛みに苦しめられている。始終イライラし、カッとなり易く、たまらなくなるとベットに横になる。それほどの激痛を伴う病気が実は心因性だった。その原因というのは二人の息子を父親の出身校のパブリックスクールに行かせるための学費のやりくりだった。
(英国のパブリックスクールは莫大な学費がかかる。パブリックといっても公立ではない)
そこで私は尋ねてみた。「息子さん自身は次のどっちをよろこぶと思いますか。いつも金がない金がないと愚痴をこぼす病気の親のもとでストレスを背負いながら名門のパブリックスクールに通うほうがいいか、それとも、いつも笑顔の絶えない両親のもとで金銭の苦労もなく気楽に近くの公立へ通うほうがいいか」答えは明白である。
では親は子供に何をしてやればよいのだろうか。親の責任とは何だろうか。
親はまず物質的に適当な充足感を与えてやらねばなるまい。まず家がいる。冬は暖房設備もいるだろう。食べものも用意してやらねばならない。身体をいつも清潔に保ってやらねばならない。人並みの衣服がいる。そして大切なのは、家の中に家族の一体感を味わわせる雰囲気が漂うことである。
が、これだけではまだ十分ではない。愛情がいる。問題児が生まれる最大の原因は愛情の欠如である。最近では医学的にも子供の成長に取って愛情が最大の、そして唯一の刺戟となっていることがわかってきた。赤ん坊は抱っこされ、頬ずりをされ、あやされることによって成長を促進されている。
スキンシップの重要性が見直されているわけである。その因果関係はまだ十分には解明されていないが、人間は、互いに合わずにいるより日に何回も顔を見合わせる間柄のほうが人間関係に親しみが増すということは紛れもない事実である。
疑問に思われる方は実際に試して見られるとよい。身近な人の誰かの肩でもどこでも良いから、顔を見合わせるごとに軽く手を触れてみることである。触れずにいる時よりはずっと親しみを覚えるはずである。
そのほかにも愛情の表現方法はいくらでもある。子供の悩みごとに理解を示し、同情し、親身になって一緒に考えてやるのも愛情だ。
さらに親は子に教育の機会を与えてやらねばならない。だから学校へ行かせる。それはいいのだが、学校へ行ったからといってすべてを学んで帰るわけではない。親から学ばねばならないことも沢山ある。人を思いやり親切を施すこと。人の欠点を見ずに善い面だけをみるようにすること。憎しみ、怨みなどは相手だけでなく自分も傷つけること等々を教えてやらねばならない。
人間はどこからこの世にやってきたのか、何のために生まれてきたのか。そして死んだらどうなるのか。こうしたことも教えてやらねばならない。正しい霊的真理を教えてやらねばならない。背後霊の存在、心霊治療、健康の本質、それに清く正しい生き方とその価値を教えてやらねばならない。
善悪のけじめも教えてやらねばならない。自分が人からしてもらいたいと思うように人にしてあげることの大切さも教えてやらねばならない。動物と人間との密接なつながりを教え、生命や愛情や笑いの方が物質的財産よりはるかに価値があることを教えてやる必要がある。
それだけ教えたら、後は好きに生きさせることだ、余計な口を出さず、求められたときだけ援助の手を差し伸べればよい。それが親としての責任の限界である。それ以上のものを押し付けてはいけない。余計なおせっかいは却って障害となる。
これであなたの家庭の平和は盤石のものとなるはずである。
第7章 感情を抑えすぎてはいけない
私はよく本を読む。これまでも随分読んできた。少年の頃は学校のカバンにたいてい一冊は冒険物語を忍ばせていたものだ。最近は旅行することが多いが、近代的な乗り物は確かに快適かもしれないが面白味がない。だから乗り物の中では読書が多くなる。
英国人と言うのは概してはにかみ屋が多い。私もその一人で、その性格の延長で私は自分の読んでいるものを人からのぞき見されるのが大嫌いである。そこで対策として一計を案じた。専用のカバーを二枚用意したのである。一枚は「核代数の二元方式」と題してあり、もう一枚は「誰にでもわかる神経外科」と題してある。何を読む際にも、どちらか大きさの合う方を使うことにしたのである。
その反応を見るのもまた一興だった。代数のカバーをしていると、それを見た人の反応はたいてい同じで、まず溜息をもらし、よくもこんな難しい本を──と言った感心の表情をみせる。神経外科の方だと、驚きと同時に不審そうな表情を見せる。「面白いですか」と聞いてみる人すらいなかった。
はにかみ、遠慮、無口──こうした一連の性向は英国民の特質である。英国人は何でも自分の中にしまい込んでおこうとする傾向がある。つまり内向的なのだ。これは健全な精神とは言いがたい。と言って私は今日から外向的になれと言うつもりはない。
奥さんを殴り飛ばしたり、大酒を飲んで暴れ回るのが健全な発散方法などとは、さらさら思わない。そんなものよりももっと健全な発散方法、自然が用意してくれた安全弁がある。それを活用すれば英国人はもっと健康になれるのではないかと思う。ではその安全弁とは何か。
その一つは、素直に涙を流すということである。キッと歯を食いしばって強情を張るのがしっかりしているという考えはもう古い。頑なに意地を張っていると、その意地で自分を損ねてしまう。風に柳がなびくように自然な情の流れに身を任せることも時には必要である。英国人は泣かなすぎる。もっと涙を流すべきである。素直に泣いてみるとよい。緊張がほぐれて身も心もすっきりするはずである。
次に、怒りの発散が時として心の衛生になることがある。何かと腹を立てる、というのとは意味が違う。それはキリスト教でいうところの七つの大罪の一つであって、他人へ向けての敵意に満ちた怒りのことである。私のいう怒りは、誤った心の姿勢から積もり積もった欲求不満を思い切って爆発させるという意味の怒りである。
あなたもイライラが堪らなくなったら、どこか人気のないところへ行き、上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめてから、大股で歩きながら十分間ほど大声で怒鳴ってみるとよい。
気持ちがすっきりし、同時に、自分をイライラさせていたことが実はいたって他愛ないことだったことが分かって、バカバカしささえ覚えるであろう。それは、うっ積していた感情の発散によって心の姿勢が変わり、前とはまったく違った角度から物を見るようになったからである。
自分の悩みごとを心おきなく語れる相手を持つことも大切である。カトリックの教会には〝告白室〟というのがある。過去の罪を告白して神の許しを乞う部屋であるが、心理学的に言ってもこれは精神衛生上よい慣習である。昨今は精神分析学の発達によってお株を奪われた恰好であるが、私に言わせれば、そういういかめしいものの世話にならなくても、心の中を曝け出せる人を持つことで十分目的は達せられる。
が、問題はどこまで自分に正直になれるかということである。私のもとに来る患者の大半が私から聞かなくても症状をいろいろと訴えてくれる。が、そのいちばん奥の本当の原因を掴むのにかなりの時間を要する。
たとえば偏頭痛を訴える人が実は性的不能者で、それが原因で奥さんに気兼ねし、それが偏頭痛を生んでいることが、三度目にやっと分かったというケースがある。ところが四度目に更にその奥に別の要因を発見した。
また肥満に悩む女性が股関節の痛風を訴える。が問い質してみると何一つ心配することの無い正常な我が子のことでアレコレと思い悩み、それが痛風を悪化させている。そのイライラが衝動食いをさせ、それが肥満を助長させている。
このように次々と訪れる私の患者でさえ表面的な痛みや悩みは訴えても、心の奥まではなかなか曝け出してくれない。その心の奥をのぞいてみると、そこには内向した感情、挫折感、疑念、無知等々が巣食っている。それがみな内側を向いていて本当の姿を見せようとしない。ために実際とは無関係の想像上の過ち、悩み、取り越し苦労が渦巻くのである。
人間が遠慮なく自由に手に入れることのできる援助は三つある。霊的知識と、背後霊の指導と、他人からの好意である。
まず霊的知識であるが、人間は教育を受け理性が発達するにつれて、幼少時代に読んだ寓話やおとぎ話をばかばかしく思うようになる。それは一応当然の成り行きといえる。が、残念なことに、そうした一見他愛なく思える話の中に埋もれた貴重な真理まで捨て去ってはいないだろうか。
世界のいずこの宗教も必ず黄金の真理と言うものが含まれているものである。みな霊界と言う同じ源に発しているからである。
あなたがいずこの国のどなたかは知る由もないが、あなたの手元に何らかの宗教書、経典の類の一冊や二冊はあるはずである。私はあなたの宗教を変えさせる立場にはないが、その宗教書や経典に盛り込まれている迷信やタブーの類は無視し、基本的な霊的真理だけを求めるようにしてほしい。きっとあるはずである。
次に背後霊の指導がある。自分にも背後霊がいるのだろうか──そう思われるかもしれない。その通り、ちゃんといるのである。これについては後章で詳しく述べることにして、ここではその指導の受け方だけを簡単に述べておこう。
今夜、床に着く前に〝魂の静寂〟の時を持ってみよう。まず寝間着に着替えるか、あるいはそのままの服でベルトとネクタイを緩める。女性であれば肌を締め付けるようなものは取る。もちろん靴も脱ぐ。次に部屋を薄暗くする。明りは音と同じく神経を刺激する。それから、ラクに座れる椅子に腰かけ、両足首を軽く交叉させ、両手を軽く組む。その姿勢で目を閉じる。目に力を入れてはいけない。眼球は動くに任せる。そして頭の中を空っぽにする。
始めのうちは考えまいとする意志が邪魔をして、いろいろと雑念が湧いてくる。が、それにこだわってはいけない。一つの方法として、日常生活に関係のない単純なもの、たとえば花を思い浮かべて、それに意念を集中するのもよい。
そうやっているうちに心身ともにリラックスしてくる。そこで親友にでも話しかける気分で、今あなたが抱えている問題を口に出して述べる。問題を述べるだけである。こうしてほしいと勝手な要求を出してはいけない。特に欲の絡んだ手前勝手な欲求を出してはいけない。
問題を述べてどうしたら良いかをご指導ねがいますという。言った後静かにしていると、ふっと軽い無意識状態に入ることもある。目が覚めるとすっきりした気分になっている。
これを毎晩繰り返す。大切なのはその日その日を新たな気分で始めることで、慣れっこになって形どおりのことを機械的に繰り返すようになってはいけない。場所や時間は特に決める必要はない。いつでもどこでもよい。車の中でもよい。大切なのは静寂の時を持つということである。それを続けているうちに、ある朝ふと、いい解決策が浮かぶ。あるいは問題そのものが問題でなくなっているときもある。
もしかしたら、思いがけない人がひょっこり訪ねてきて、それが問題解決の糸口になったりするかも知れない。どういう形で成果が現われるかは予断できない。
援助の三つめは他人からの好意である。人間は困った時にはとかく遠慮と恥辱心から家族や友人、知人等に相談することをためらうものである。が実際には、思い切って打開けてみると、一見気難しそうな人が思いのほか積極的によろこんで援助の手を差し伸べてくれるものである。
もっともっと人間はお互いに援助し合えるように心の中を遠慮なく打明け合うべきである。一人で悩みをかこっていてはいけない。
旧約聖書の箴言集の中に次のような言葉がある。「友を持つものはみずからよき友であるべく心がけねばならない。身内以上に親身になってくれる友がいるものだ」と。私は最近例の二枚のニセのカバーがいらなくなったことを自分でよろこんでいる。
このことに関連して考えさせられる治療例を紹介してみよう。
電話でヒステリックな女性の声が往診を依頼して来た。実はこの女性は看護婦なのだが、ご主人の危篤で気が動転してしまっている。肺の疾患で総合病院へ運び込まれて酸素テントの中に入れられているが、重態だという。
心霊治療家にとって病院は苦手である。英国の登録医のすべてを監督する立場にある英国医療審議会は、心霊治療を公認していないだけでなく、心霊治療家に協力する行為をした医師は登録抹消と言う懲戒処分に出る。私は医学界の独善的態度と、そこから生まれる不幸な結果については既に言及した。
病院では運営委員会が許可した患者についてのみ心霊治療が許されるが、それも患者側からの要請と担当医の許可を必要とする。担当医はたいていの場合患者が死にかかっていて手の施せない状態になるまで許可しない。その態度は牧師に最後の別れの祈りを許すのと少しも変わらない。
さて奥さんの強い要請と、しぶしぶながらも担当医の許可を得て私が病院へ行ってみると、ご主人はものものしくスクリーンで被われたベットの中で、酸素吸入装置につながれて、文字通り生きんが為の呼吸に必死になっていた。
その呼吸も一定していない。一つ一つの呼吸が最後かと思われるほどだった。その目はちょうどワナにかかった動物が見せる、恐怖におののいた目だった。
私はベットのわきに腰かけ、手を取った。まるで完全に電池の切れたバッテリーに充電するみたいだ。反応がまるでない。が、間にあったと私は感じた。
翌週は奥さんから毎日のように電話で容体を連絡してもらって遠隔治療を施した。そして翌々週の月曜日に、平常通りの治療を終えたあと病院へ行ってみた。まだベットはスクリーンで被われていたが、患者はそのベットの上で起き上がっていた。酸素テントはもう取り払われている。
一本チューブが左の鼻の穴から差し込まれ、テープで留めてある。それが酸素吸入装置に繋がれている。顔色はまだ血色はないが、異常さは消えている。話をすることも出来た。
それから一週間後スクリーンも取り払われた。血色も出てきた。異常事態に備えて酸素マスクがそばに置いてあるが、用はなかった。それから一週間にも満たないうちに退院できた。
退院後二、三度治療に見えた。まだ元気とまではいかず、すぐ疲れ易かったが、何とか平常通りの生活に戻ることができた。
ところが、それから三年後にその人は別の病気で他界した。そのことを私は妻とその奥さんとの偶然の出会いから知った。が奥さんの話では、その三年間は二人の生涯でいちばん幸せな時期だったという。その思い出を宝物のように大切にしているというのである。
人生と言うものはピクチャーパズルのようなものだ。バラバラにされた断片をアレコレと組み合わせて全体の絵を完成させようとするのだが、悲しいかな、人間にはその断片の全てを手にすることができない。わずかばかりの体験から人生の全体像をつかまなくてはならない。
だから、往々にしてその全体像が見当違いのものになってしまうことがある。ある人が静かな田園風景の中に足を踏み入れて心の安らぎを得ている。がそのはるか彼方では血生臭い殺戮が行われているということだってあるのだ。
同じ地上にありながら、その体験が個人によってあまりに違いすぎる。そのわずかばかりの体験から、この複雑な人生の全体像を勝手に描きながら生きている。それが現実だ。
十九世紀半ば頃、一人フランスの少女に治病能力があることがわかった。家族や友人に治療を施していたが、世間一般から中傷と嘲笑と疑惑を浴びせられた。その治癒能力と善意が高い評価を受けるようになったのは後世のことである。
その少女の名はベルナデット。ピレネー山脈の麓のルルドに住んでいた。いわゆる〝ルルドの奇蹟〟のヒロインである。
ベルナデットがもしも霊的真理の普及した時代に生を享けていたら、頭書からその能力と功績は高く評価されていたであろう。が不幸にして彼女が生きた時代はカトリック的ドグマへの忠誠が最高の敬虔の現れと見なされた時代だった。
今では彼女が聖母マリアを見たという洞窟の周辺はまるでサーカスの興行にも似た狂騒の場と化している。みやげ店、ホテル、彫像が立ち並び、商売根性のむきだしの呼び込みをやる。そこへ観光客が群がる。そしておしまいはカトリックによる病気平癒の祈アy(ミサ)がヒステリックな雰囲気の中で行われるが、これまでの百年余りで本当に治った人の数は、私のような個人の治療家が一か月で治している数にも及ばない。
このように霊的事象の正しい解釈はなかなか容易ではない。体験した当人にしてみれば、まさかと思っていたことが現実に起きたのであるから、その興奮は抑えがたいものがある。が、この場合のいちばんの正解はまずその体験を神の啓示として感謝し、啓示を授かった身の上を有難き幸せと思い、その上でその体験が自分の人生でいかなる意義を持つか、その片鱗でも理解しようと努めることである。
啓示を授かるということは真理の花園への扉が開かれたということである。それだけは間違いない。自分を取り囲んでいた高い塀に扉があることをこれまで知らずにいた。それを誰かが教えてくれた。
扉を開けると素晴らしい花園が見える。やがてそこへ誰かがやってきて手を取って案内してくれる。別に「ガイド」の腕章は付けていないが、あなたは直感的にそれが分かる。
花園は素晴らしい。心が安まり和ませてくれる。と同時にカラフルで生きる意欲を掻き立ててくれる。しかしその花園にも迷路がある。脇道へ逸れる危険性がある。人類が長年にわたって拵えて来た迷路であり脇道である。そこへ足を踏み込むともう行き詰りだ。
間違った信仰、ドグマ、戒律の為に人類はがんじがらめにされている。「立入禁止」「芝生に入るべからず」「無断侵入者は告発されます」こうした掲示はみな人間が勝手に立てたものだ。そんなものは無視してかまはない。神の言葉ではないのだ。
あなたの歩む道はあなたの背後霊(ガイド)が教えてくれる。それは一人一人違う。万人に一律のガイドブックというものはない。あなたにはあなたのガイドブックがある。それはあなたの背後霊が持っている。
しかも、過ちは赦されるのだ。永遠に罰せられる罪などこの世にはないのだ。