第1章 奇跡の体験から自分自身が治療家になるまで
第1節 地獄の苦しみ
痛みを和らげてくれるはずのコルセットが私に地獄の苦しみを与えていた。まさしく現代の鎧である。背部は部厚い固いプラスチックでできている。それがぴったりとあてがわれ首の付け根から足の先までがっちりと固定している。

前の部分は、かつて海軍の製帆業者がステッチ台にしたキャンバスで出来ている。このお化けのような医療器具にはめ込まれた私の全身は、さらに、中世の拷問の責め道具やクラッシックカーのボンネットの固定に使われたなめし革で、がんじがらめに縛りあげられていた。

その苦しみに耐えることは、まさしく地獄の一丁目にいる思いだった。なにしろ全身がその器具の中にガッチリとはめこまれている。自分の体のどこ一つ動かせないのだ。生きるための最低の活動である呼吸をすることすら容易なことではないのだ。といって、その器具を緩めるものなら、前にもまして耐えきれない激痛が走る。特に右の太ももから足の先までが燃えるように痛む。私はワナにはまった動物も同然だった。

そもそもこんなことになったキッカケは、私が柄にもないことをやり始めたことにあった。私はもともとスポーツをやる柄ではない。運動がしたくなったら、ベッドに横になって楽にしていると、そのやりたい気持ちがいつの間にか消えてしまうのが常だった。

ところが何を思ったのか、ある時ゴルフをやってみる気になった。どう記憶を辿ってもその理由が分からない。知り合いにゴルフをやる人間が特に多い訳でもない。むしろ私はゴルフに夢中になる人間を気の毒に思っていたほどである。まるで人生に希望を失った者が、ああしてブラブラと時間をつぶす一種の中毒患者だぐらいに思っていたほどである。

そんなスポーツに私が手をだし、挙句の果てに私の人生を変えてしまう体験をさせられることになったのであるから、何故選りに選ってゴルフを始めたのかが分からないというのが不思議なのである。

偶然でなかったことだけは確かである。なぜなら、この世に偶然と言うものはないからである。アナトール・フランスの言葉を借りれば「偶然とは神が署名したくない時に使う偽名である」と言うが、私もその通りだと思う。突如として、しかもこれといった理由もなしに、私はゴルフを始めていたのである。

サセックス州にある私の住まいの近くにはいくらでもゴルフコースがあるのだが、一点スキのない服装をしたゴルファーが長々と列を作ってやっている中に混じって、自分が最初のティーショットからさんざん苦労している姿を想像するとどうも気が進まず、ロンドンの勤務先の近くにある個人レッスンにまず通うことにした。

練習場はビルの地下室に設けてあった。インストラクターは小柄な人で、懇切ていねいに教えてくれた。まずティーの上にボールをおいて打って見せた。ボールは猛烈な勢いでまっすぐにネットへ向けて飛んでいった。続けてもう一発打って見せた。さらにもう一発。その人はどこから見ても平凡な人なので、大したことはなさそうに思えた。

そのあと私の指導に入った。クラブの握り方から始まって両足の位置、目の方向、姿勢と、一通りに指導を受けたあと、ゆっくり打ってみた。こうしたレッスンを三、四回重ねるうちに、私も結構いけるのではないかという感触を得た。ただ私の体の動きが如何にもスローだった。もしもスローモーション賞があるとすれば、さしずめ私などその第一候補だったであろう。

問題はいかにしてその動きにスピードをつけるかにあった。私は古いドライバーとボール一ダースを借りて帰り、スピードをつける練習をすることにした。そして土曜日の午後それを携えて近くの空き地へ行った。私は背の低い、肌の浅黒いがっちりとした体格で、ロンドン生まれサセックス州で育った純粋の英国人ではあるが、地中海の北部沿岸地方へ行けば似たような人間によく出合う。

が、ゴルフに関する限り、その〝背が低くてがっちりした体格〟というのが問題のタネなのだ。というのは、ドライブショットの時は両足を固定し顔が右から左向くように急速に腰をひねる──まあ簡単に言えばそういう身体の動きが要求される。そこが問題なのだ。私にはそれがうまく出来ないのだった。

二〇分ばかり必死にその動きを繰り返した頃、私は偉いことを二つしでかしていた。一ダースのボールが全部行方不明になってしまったこと。そしてもう一つは、第四腰椎と第五腰椎の間の椎間板がはみ出てしまったこと。いわゆる椎間板ヘルニアである。

人間の背骨は言ってみれば人体工学の最高傑作の典型である。完璧なのだ。驚異的な重力や圧力に耐えることができる。これを折ろうとすればよほどの衝撃を一気に加えなければなるまい。体重よりも重いものを支えながら、どっちの方向でも動ける。その動きを運動に譬えれば、ウェートリフティング(重量挙げ)のクラッチのような運動からアクロバット(曲芸)の捻転運動、そしてバレリーナのあの優雅な動きに至る、ありとあらゆる運動をやりこなす。

脊髄というのは頭部から骨盤に至るいわば骨のチェーンで、一つ一つ形が違っている。その一つ一つの骨の間に円盤(ディスク)と呼ばれる軟骨のクッションがある。円盤の中央部は髄核と呼ばれる物質からできており、これが身体の動きに応じて動いてくれる。クッションの役をしてくれているのである。

もしも円盤がなくて骨だけの繋がりだったら、ぎしぎしと気味の悪い音を立てることであろう。車で言えばバンバー(緩衝器)に相当する。円盤はショックを和らげるだけでなく背骨が自由に動けるようにする働きもあるということである。

その円盤が急激なショックや不自然な動きによって骨と骨との間からはみ出ることがある。時には髄核がつぶれることもある。すると肝心の中心部が脱水して位置がずれる。ずれた円盤が今度は坐骨神経を圧迫する。坐骨神経は脂肪性の太い神経で、両足まで至っている。それが圧迫されると背中と片足または両足に痛みが出る。脊髄のずれをかばおうとして身体がよじれて来る。

私はまさにそのような状態に陥ったのである。大体私の身体は永い間の運動不足から、その時すでにかなり柔軟性を失っていた。ろくな準備運動もせず、いきなり腰をひねったものだから、はずみで第四腰椎と第五腰椎の間の円盤が片側へはみ出てしまった。

しかも髄核がつぶれて水分がほとんどなくなってしまった。それがもとで背骨全体が少しずれ下がった。はみ出た円盤が坐骨神経を圧迫する。かくして私の地獄の苦しみが始まった。

腰に激痛が走る。まだ初めの頃は姿勢のとり方次第で──とっぷりと身体が沈められる肘掛け椅子なら──どうにかその痛みも和らげることができたが、和らいだと言っても激痛には変わりない。立っても座っても横になっても痛い。まるで拷問にあっているようだ。

右脚の臀部から親指にかけて火が付いたような痛みが走る。位置をどう変えても少しも和らがない。足先は痛みで完全にマヒし、肌に触れても何の感覚もない。それをかばって屈みこむような歩き方をするものだから、右のヒップ(臀部・デンブ)がずれてしまい、右足が2/3インチほど左足より短くなってしまった。

病院へ行った。が医者は別段驚いた様子も見せず、専門医を呼んでX線写真を撮った。診断の結果は今まで述べた通りの状態で、治療法としてはコルセットをはめて平板ベットで寝るしかないということだった。

最初あてがわれたベルトは厚地のがっちりとした布でできていた。その上から、なめし革で被われた鋼鉄製のステーがあてがわれた。さらに背部には鋼鉄製のサポーターで補強した革製のパットがあてがわれ、前部をサドルレザーの革帯で締めあげられた。

昼間はこの状態でじっとしていて、どうしても歩く必要がある時は、杖を使った。なにくそと元気出そうと気張ってみても痛みには勝てない。夜は平板の上に横になった。赤いカプセルの鎮痛剤を日に三錠、白と黒の混じった精神安定剤を四錠、そして夜は睡眠薬として黄色いカプセルを二個飲まされた。

ベッドの脇はまるで薬局だった。が、それらが一向に効かない。痛みが取れないから寝てもウトウトするだけで、ほとんど眠れない。まるで中毒患者だ。精神が安定する筈がなかった。

やがて夏が来た。コルセットが息苦しくて仕方がない。もともと第二次大戦以来私は神経性の皮膚炎を患っていた。それがこの息苦しいコルセットをあてがわれて、暑さと汗と猛烈な痛みが走る。私はもう頭がおかしくなるほどイライラしてくる。そこで新たに軟膏と一段と強力な精神安定剤がベッドの脇に並ぶことになる。夏も盛りに入ったころ、コルセットが夏用に取り替えられた。

といっても、サドルレザーが汗をよく吸収するシャモア革に、厚地の布が小さい穴の開いた目の粗い木綿の布に取り替えられただけで、型は前と少しも変わらなかった。たしかに少し暑さが退いたようだ。が、弾力性があり過ぎるせいか、痛みは前より激しくなった。

その間、私がこの半身不具者的状態を平然と耐え抜いてきたように思われては困る。整骨療法、指圧、温熱療法、そしてぶら下がり療法といろいろと試してみたが、どれも効果がなかった。

一年と五か月、私は痛みと不便さと絶望感を忍んだあと、気分転換のために旅行へ出てみようと考えた。一九五九年八月、家族と共にフランスのブルターニュへ飛んで沿岸の小さなホテルに落ち着いた。

「フランス語なるものを発明した神を私は許せない」といったのはピーター・アスチノフだが、私だったら「フランス語」を「フランスベット」と置き換えたいところだ。そこで過ごした数日間、私はそのベッドの為に散々苦しめられた。そしてついに病院を訪ねた。診察した医師は絶対入院をすすめた。

私も観念して言われるままに従った。早速救急車で空港へ運ばれ、三十分後には現在住んでいる市のヒイワーズヒース病院の個室に入れられた。

ここでもまた酷い目にあった。私は拷問台というのはもうとっくに使われなくなったと聞いていたが、これはウソだった。ヒイワーズヒース病院にもそれが一つ残っていたのだ。それがあろうことか、この私に使われたのである。

ベッドの上に1枚の板が置いてある。その上に横になると、脚を置いている部分が十八インチほど上昇する。当然私は頭部の方へ向かってずり落ちそうになる。それを防ぐために吊り革をヒップに巻き、それをロープでつないで、ベッドに取りつけた滑車を通してその先端に重しをぶら下げる。十八ポンドと聞いたが、私には何百ポンドにも感じられた。

要するに私の背骨を引き延ばそうというわけである。頭の方へずり落ちそうになると、ロープがヒップのところを引っぱる。すると腰椎と腰椎の間が緩む。その時に円盤がもとの位置に戻ってくれることを期待するわけである。一応面白い実験ではあった。その状態を昼夜の区別なく三週間続けた。

痛みは幾分和らぐが、その姿勢をじっと維持するのは痛いことよりさらに辛く、不愉快でならなかった。例によって鎮痛剤からトランキライザー、鎮静剤、スキンローションと、お決まりのコースをエスカレートしていった。

その状態での入院生活が三週間続いた頃、最初にコルセットを拵えてくれた専門医が再び現れて背中の湿性の鋳型を取って行った。それでベッドの外で動き回れる柔軟性のあるコルセットを作るということだった。要するに石膏で固めようという考えだったが、その頃の私の皮膚炎は悪化の極にあり、気も狂うかと思うほどの状態だった。

普通のコルセットなら自分で取り外しもできるが、石膏ではそれができない。が、背に腹はかえられない。私はついに背中を石膏で固められ、三カ月に及ぶ薬づけの入院生活の挙句に、絶望感を抱きながら自宅での療養生活に入った。

秋になった。私の忍耐もそろそろ限界に来ていた。座っても、立っても、横になっても、そのほかどんな姿勢をとっても痛みは和らがない。仕事のことなど思いもよらない。だから生活費が入らない。人とも会えない。社会生活が完全に閉ざされてしまった。

そこで私は往診に来た医者に、どこかにこの道の最高権威はいないのかと尋ねた。このママではどうしようもない。何とかして最高の腕を持った人に診てもらって、思い切った診断を聞きたい。ずっとこのまま我慢しなければならないのか、それとも何かほかに方法があるのか。とにかく知りたい。と。

紹介されて私が訪れた医師は〝円盤〟のエキスパートで、専門のテキストまで著しているほどの人だった。私はこの人を最後の頼みとした。その寝台室にやっとの思いで辿り着き、診察台に転げるようにして横になった。診察が終わって私がやっとの思いで服を着直した時は、すでに診断書ができていた。

円盤の脱出がひどい。その専門医も初めて見るほど位置がずれている。それが坐骨神経を圧迫して右脚がしびれる。唯一残された手段は、手術をしてその圧迫を和らげてやるしかないが、手術箇所は脊髄とつながったところなので、神経外科医に頼まないといけない。

しかし手術をしてもよくなる可能性はせいぜい四十パーセントで、それもなるべく早い時期でないといけない。余り遅れると右脚が完全に機能を失ってしまうおそれがある。そこまで行ったら何も請け合えない。そういう診断だった。

それを聞いて私は尋ねた。私には妻と三人の子供、コンサルタントとしての仕事、そのほか面倒を見てやらねばならない人が何人かいる。手術まで最大何日の余裕があるのか、と。すると、せいぜい二か月が限界という返事だった。その日は十月二一日だった。私はクリスマスが終わってからにしてくださいとお願いした。

第2節 一縷の望み
病院から私の事務所まではわずか一マイルそこらだが、タクシーで行くのはまさに悪夢を見る思いだった。運転手は親切だった。私の手をとって、というよりは、まるで私を抱き上げるようにして座らしてくれた。

そして何度となく声をかけて励ましてくれた。もしかしたらその運転手は、私がそのまま車中で死んでしまって警察へまだぬくもりのある死体を運ぶハメになってはと思っていたのかも知れない。

その時の私の見るもみじめな様子からすれば、彼が事実そう思ったとしても、あながち酷い奴ともいえなかった。

事務所は一階にある。タクシーから降ろしてもらったときはちょうど昼時で、電話線の工事人が二、三居て故障個所を探しているほかは、事務員は皆出払って居なかった。それは私にとっては幸いだった。

とにかく今は一人になって考えたかった。杖を突きながら歯を食いしばって秘書の部屋へ入った。秘書も食事に出ていた。私は秘書の椅子に座り込んで医者の診断結果をもう一度はじめから反すうしてみた。

入院は困る。手術はもっと嫌だ。腰にメスを入れて張り巡らされた神経の中から、はみ出した円盤を探し出すなど、想像するだに恐ろしい。これから数週間という入院期間は仕事のことを考えると長すぎる。医師が大ざっぱに見積もった40%という低い成功率も思い出した。

その手術を神経外科医がやるということは、失敗したら下半身が麻痺することを意味していた。

秘書の部屋に水差しが置いてあった。私は鎮痛剤と鎮静剤を一緒に流し込んだ。暫くすると痛みが和らぐと同時に眠気を催すのが常なので、私はそうなるまで結論を出そうと真剣に考え込んだ。

私に残された道は二つしかない。それはきわめて明瞭だった。一つはその名医の言うとおりにすることである。手術が成功すれば痛みは取れるだろう。が恐らく生涯ムリのきかない身体になるだろう。はみでた円盤を元に戻そうとするのは、はみ出た歯磨きをチューブに戻そうとするようなもので、まずムリだ。となると手術はそのはみでた部分を切り取るしかない。

するとクッションとしての機能が永久に失くなる。もしも手術が失敗したら、よくならないだけでは済まされないだろう。多分後遺症が出るだろうし、神経がダメージを受けて、悪くすると麻痺状態になるかもしれない。

もう一つの道は何もしないことだ。ということは、これまでどうりの激痛と不快感と肉体的及び社交的不自由を忍ばねばならないことを意味する。坐骨神経の圧迫がさらに続けば、右脚が麻痺してしまう可能性もある。

私はいよいよ運命の岐路に立たされた。目の前で道が二つに岐れている。一つは半不具者としての人生に繋がり、もう一つは病院へつながっている。前者は激痛と不快の毎日となろうし、そして恐らく片方の足を失うであろう。後者は手術と不快感と、そして、かなりの確率を持った永久麻痺の危険性を秘めている。どちらを選んでも運命は見えている。私は絶体絶命の窮地に追い詰められた。

その時である。私の心の奥でふと小さな疑念が湧いた。そしてそれが次第に大きくなっていた。「もう本当に他に道はないのか」という疑念である。もう無いに決まっている。と思い切ろうとしても、しつこくその疑念が私を責めたてる。本当に無いのか、本当に無いのか、と。その時目の前で電話が鳴った。

掛けてきた相手はトニーという私の年来の顧客だった。私は公認検査官である。いわば財産管理のコンサルタントである。その店も何度か相談にのってあげていた。財産もあり成功者の一人であることはよく知っていたが、その時は、これと言って、大事な話があったわけではない。

二、三分仕事の話をした後、トニーは私が元気のないのに気付いて「どうしたんです。えらく元気がありませんね」と言う。私は正直にこれまでの経過を話して聞かせた。ボクシングに〝ゴングに救われた〟という表現がある。私はこの電話でまさしくゴングに救われることになる。

私の話を聞き終わるとトニーは同情の言葉一つ吐かず、その代りにきっぱりとこう言った。

「いかがですか、騙されたと思って私の紹介する人のところへ黙って行ってみませんか。余計な質問をなさらずに・・・・・・」

やはり他にも道があったのだ。三本目の道があるのだ。私はむろん行ってみると答えた。すると「では後でもう一度電話を入れますから」と言っていったん切った。そしてものの十五分もしないうちに電話が掛った。そしてロンドン郊外のトテナムというところにエドワード・フリッカーという人がいるから、今日の午後五時半に訪ねてみてくださいと言う。

ハワードロード四〇番地、午後五時半。私はそこに一縷の望みをつないだ。

第3節 希望
ロンドンは私の生まれ故郷である。今はサセックス州に住んでいるが、ロンドンで生まれ、ロンドンで育ち、ロンドンの学校へ通い、年季奉公をしたのもロンドンだった。ついでに言えば、道楽の限りをやったのもロンドンだし、妻を見つけたのもロンドンだった。だからロンドンは自分の家の庭のようなもので、表も裏も知り尽くしているつもりだったが、トテナムと聞いて首をかしげた。

今や英国は階級差別が無くなったと言う人がいる。そういう人は貴族階級だの労働者階級だの中流階級だのと言う言葉を聞くと、よくわからんといったふりをするが、ロンドン子はそうではない。厳とした階級意識をもって生活している人がまだまだ多い。中流にはさらに〝中流の上層〟と〝中流の下層〟とがある。トテナムはその下層の中流階級に属する社会である。

生き生きとした庶民の街で家並も一応きちんと整っている。ただ通りを歩いていると物干しの下着がちらほら見え隠れする。ハワード通りもそんな町にあった。

タクシーの運転手は私が告げた場所をよく心得ていた。つくとまるで大切な骨董品でも扱うように、私を抱きかかえるようにして下してくれた。門に40の数字が見えた。見たところ隣近所と変わらぬ家だったが、一つだけ違うところが目に入った。「フリッカー治療センター」と書いたピカピカの真ちゅうのプレートがドアに貼ってあったのである。

そのドアのベルを押したあと、そのドアの開くのを待ちながら、ふと私の心を横切るものあった。自分がこんなみじめな身体になってから果たして幾つのドアを苦しい想いで通り抜けたことだろう。今朝も専門医のドアをくぐった。そして絶体絶命の〝判決〟を言い渡されたばかりだ。

救急車のドアにも何度か運びこまれた。タクシーのドアも運転手に抱きかかえられるようにして通った。そして今また、石膏で固められた革帯で締めあげられた、まるで朽ち果てる一歩手前の残骸のような姿で、杖を片手にドアの前に突っ立っている。

何とぞ、何とぞ、もうこれが最後のドアであってほしい。私は心でそう念じた。

ドアが開いた。若くて可憐な娘さんだった。服装はアンサンブルとツイードのスカートだった。名前を告げると〝どうぞ〟と招き入れてくれた。入ってみると客間は患者で一杯だった。その中を、まるでラッシュアワーの人混みをかき分けるような格好でその女性のあとについて進むと、ダイニングルームのドアのところへ来た。

いきなりダイニングルームとは変だと思ったら、客間との中間の仕切りを取っ払っているのだ。そのドアを開けて入ると、そこは実はダイニングルームではなく、張り出し窓のところに質素な、というよりは安っぽい机が一つ置いてあるだけの、ただの部屋だった。

その机に向かって腰かけた助手の娘さんは、いかにも仰々しい手つきで、これまた時代物のタイプライターをパチパチとやりだした。

ゆか一面に敷物が敷き詰めてある。その中央には低いテーブルが置いてあり、その上にカバーの取れた古い雑誌が無雑作に置かれていた。がこの部屋も患者で一杯である。と言ってもこの部屋では順番に従って壁ずたいに列を作っている。皆壁に背を向け、腕と腕とが触れ合うほど詰めて腰かけている。空いた椅子は一つもない。

英国人というのはあまり人をジロジロ見ないものだ。私はドアにもたれて腰かけ(そこしか空いた場所がないのだ)そしておもむろに見まわして目で挨拶した。まわりの人たちも目で挨拶を返した。その時、奥のドアがベルの音と共に開いた。部屋全体にざわめきが起きた。一人が治療を終わって出て来て、代わってそのドアに一番近い人が次の人に挨拶して中へ入った。

空いた席を順々に詰めていく。最後の私も一つ詰めた。するとドアが開いて新しく患者が入ってきて、今まで私の座っていた椅子に腰かけた。また満員である。

患者はいろんな人がいる。バスの車掌がいる。制服のままである。喘息で呼吸が苦しそうだ。ルイ十四世のようなヘアスタイルをした中年のブロンドがいる。片方の腕が枯枝のように細った子供を連れた母親がいる。いい身なりの黒人が何を思うのか静かに瞑想している。

汚れたジーンズにごついブーツをはいた二人の労務者風の男が新聞を見ながら何やらささやき合っている。見事な脚線美をした黒髪の端正な身なりの女性が頬の醜いただれを見られたくないかのように視線を避けている。老人がハンカチで口を押えせき込んでいる。そしてめそめそ泣いている子供がいる。みんなそれぞれ病気を抱えている。がその表情にはどこか希望の色が見える。

壁に目をやるといろいろな新聞からの切抜が貼ってある。いずれもフリッカー氏による奇跡的治療に関するものばかりだ。

〝フリッカー氏また奇蹟を起こす〟
〝十二年の歩行不能者が歩く〟
〝聾唖者が完治〟
〝私は松葉杖を棄てて帰った〟
〝奇跡!医者を戸惑わせる〟
〝フリッカー氏は奇蹟の人か〟等々。

本当にフリッカー氏は奇蹟の人だろうか。そう思ったとき、またベルが鳴ってドアが開き、列のアンサンブルとツイードの女性が私の前まで来て「次はあなた様の番です」と言った。

果たして奇跡は起きるか。まさに運命の時が来た。私は今まさにその奇蹟の人の目の前に足を運ばんとしている。

第4節 そして奇蹟
エドワード・ジョージ・フリッカー氏は中年の小太りの紳士だった。ミスター・フリッカーと呼ぶ人もおれば、愛称のテッドを使う人もいた。言葉つきから生粋のロンドンっ子のようで、性格も陽気だった。私が杖を片手にやっとの思いで治療室に入ると、温かく私の手を取って迎えてくれた。

治療室と言っても元は台所だった小さな部屋だ。床には部厚いカーペットが敷いてある。片隅には手洗いと水とタオルと香料のアロマ(消毒用)が置いてある。家具と言えば肘掛椅子が一つと低いスツール(背もたれのない椅子)が二つ、それにレコードプレイヤー付のラジオくらいなもので、そのラジオの上に木製のサラダボールが置いてあり、その中に紙幣や硬貨が無造作に入れてある。

壁には良いのか悪いのか判断しかねる古い絵画がやたらと掛かっている。そのほかキリストの磔刑像やロザリオ付のダビデの星といった聖像の類があちらこちらに置いてある。

さて私がやっとの思いでスツールに腰を下ろすと、もう一つのスツールにフリッカー氏が腰かけて「どうなさいましたか」と尋ねた。私は胸に溜まっていた思いを吐き出すように一部始終を語った。氏はそれをじっと耳を傾けてくれた。私が語り終えると、「コートを脱いで」とだけ言った。

「あなたは信仰治療家ですか」と私はコートを脱ぎながら聞いた。
「少し違いますね」
「じゃ、あなたに対する信仰は要らないわけですか」
「あなたが信仰心を持とうが持つまいが、私には関係ありませんね。私は私なりに必要な信仰を充分持っていますから」

コートを脱ぐと、立つように言われた。立ちあがると左手を私の腹部にあてがい、右手を背筋にそって軽く上下させた。間もなくその手が例の脱出した円盤のところで止まった。そのあたりは合成樹脂でできたコルセットがあるのだが、その上からピタリと悪い箇所を探し当てた。肌に直接届くにはドリルが入るところだ。

氏はそのコルセットを取るように言った。取るのは大変だったが氏も手を貸してくれた。取り外した後再びズボンとシャツを着ると、氏はさっきと同じように左手で腹部を押え、右手を脊柱に沿って上下させながら、円盤のところだけは横にもさすった。

たださするだけである。ネコでも可愛がるようにかるくさするだけで、他には何も操作はしない。しばらくすると右のヒップの方まで手が伸びた。麻痺しかかっている個所だ。

こうした治療が何分続いたか、私は知らない。奇蹟を祈る気持ちと、あまりに単純な治療方法に幻惑されて、私は時の経過を一切意識しなかったのだ。むずかる子を母親が〝よしよし〟と言いながら撫でてやる、あの優しい手つき以外の何ものでもないのだ。これで本当に治るだろうか。そんな気が去来していたのである。

が、状況から判断して、せいぜい十分程度だったと想像される。後で知ったのだが、どの患者も皆その程度で、それ以上掛る人は滅多にないとの話だった。むしろそれより短い時間の人もいるらしい。そのわずかな時間の為に何時間もあの待合室で待つのだ。

今思うと、その時がまさしく私の人生の曲がり角であった。痛みが確かに薄らぐのを感じた。私は当惑すらした。二年近くも激痛に悶えた。挫折感と不快感に苦しめられて、やっと今、自然な、そして楽な気分に浸っている。それがただ手のひらを数分間上下にさすっただけなのだ。私は思った。今日は何も聞くまい。ただこの幸福を有難く享受しよう。なぜ治るのかはあとで考えよう、と。

治療を終えると、フリッカー氏は別の部屋へ行って、大きな茶色の用紙を手に取って戻ってきた。何をするかと思っていると、鼻歌交じりで私のコルセットを包み始めた。包み終わると顔一面に笑みを浮かべながら、

「さあ、これをもってお帰りさない。杖は置いていかれてもいいです。帰ったらベットの板を外して普通に寝てよろしい。そして来週もう一度いらっしゃい」と言う。

私はあっけにとられながら部屋を歩いて出た。それと同時に次の患者を呼ぶベルの音が聞こえた。そして私と同じようにフリッカー氏に暖かく迎えられていた。一体この人は何者なのか。十分間に一つの奇跡を起こす。文字通り〝奇蹟の人〟なのだろうか。

いま〝部屋を歩いて出た〟と書いたのに注意をしていただきたい。私は立派に歩いて出たのである。杖にもたれてやっとの思いで足をひきずったのとは違うのだ。右足が少しばかり痛む。腰もわずかながら痛む。ヒップもまだ左右がずれている。が立派に歩けるのだ。足取りもしっかりしている。背筋をまっすぐにして普通に歩ける。私は紙包みとステッキを小脇に抱えて、颯爽とフリッカー治療センターを出た。奇蹟だ”奇蹟が起きたのだ!

ハワード通りにはタクシーはない。例のアンサンブルの可愛らしい助手が電話でハイヤーを手配してくれていた。その助手は私の足どりや姿勢が良くなったことに別段おどろいた様子も見せなかった。事実、彼女にとっては日常茶飯事なのだ。

やがて到着したハイヤーの運転手はこの治療所専門に客を運んでいる人だった。私がいま起きたばかりの奇蹟の話をすると「それくらいのことは毎日起きてますヨ」と、これまた当たり前といった表情で言った。そして夕方のラッシュの中をビクトリア駅へ向けて車を走らせた。

デコボコ道がある。急ブレーキをかける。左右に折れる。信号で停車する。また発車する。そうした動きが私に何の痛みも与えなかった。一時間前にタクシーで来た時は、ちょっとした動きでも死ぬほどの痛みを感じたのだが・・・・・・

ビクトリアまで三十分かかった。ドンキホーテよろしく、私の頭にはさまざまな思いがとりとめもなく去来した。が一つだけははっきりしていることがある。それは、からだがすっかり良くなったということだ。信じられないほど良くなった。しかも十分たらずさすってもらっただけで・・・・・・一体何がおきたのだろう。いつかその原因を追究しよう。そう心に決めたのだった。

ビクトリア駅で鉄道に乗り換えた。列車の座席に座って、またしても回復のすごさに驚いた。実にラクに座っていられる。まるで列車はカーペットの上でも走っているみたいに感じられる。ヘイワーズヒースについてホームに降り立つと、妻のジーンが待っていた。紙包みとステッキを小脇に抱えて近づく私の姿を、妻は驚きと嬉しさと呆気に取られた様子でしげしげと見つめた。二人とも言葉が出なかった。溢れる感激が言葉をさえぎるのだった。

妻の運転する車に私は軽々と乗り込んだ。座ってすぐ妻の頬にキスをした。そこでようやく言葉が出た。

「さ、帰ろう。帰ってからゆっくり話そう」

第5節 真理を求めて
人間は、人に打ち明けると感激が薄れてしまいそうな気がする、そんな素晴らしい体験が誰しもあるのではないだろうか。私の気持ちがまさにその通りだった。

理屈はわからないが、とにかくあの激痛が嘘のように消えたのである。もっとも、二、三箇所に僅かながら痛みが残っている。が耐え切れない痛みではない。夜はよく寝るし、あの毒々しい色をした薬からも解放された。ベットに取りつけていた平板も取り外し、苦い思い出と共に焼却してしまった。コルセットも処分した。ステッキだけは玄関の傘立てに残っている。

十代の後半、私は伝統的説教から何かを得ようと一心に勉強したが、そこに発見したものは戒律と迷信と民話と勧善懲悪の説教ばかりで、ばかばかしさしか感じられなかった。その後もずっと霊的真理を求め続けた。ユダヤ教の礼拝堂で祈ったこともあった。そこのラビ(指導者)の話に耳を傾けたりもした。

キリスト教については最も簡素なユニタリアン派から一番仰々しいカトリックのミサに至るほとんど全の信仰形態を体験した。イエズス会の修道士、仏教の僧侶、セブンスデーアドベンチスト派の信者、ヒンズー教のマハルシ(指導者)、イスラム教のカストディアン(管理人)、等々とも大いに議論した。

比較宗教学の勉強を通じて、手に入るかぎりの世界の聖典を読んだ。キリスト教の新約及び旧約聖書は六種類もの翻訳に目を通した。イスラム教の聖典コーランとユダヤ教の聖典タルムードも研究した。一時は中国に熱中し、孔子と老子の本を片っ端から読んだ。ペルシア神話のミトラ神、古代セム人が信仰したバール神、そして今では忘れてしまったが不思議に愛敬のある古代エジプトの神々に出会ったのもその頃だった。

そうした勉強と体験を通じて私が悟ったことは、すべての宗教を通じて共通した一つの大きな、そして純粋な哲学の流れがあるということだった。ただその流れが人間の煩悩によって歪められカムフラージされ、修正されてしまっているだけだ。その真髄を勉強すればするほど、相違点よりむしろ類似性に心を打たれるばかりだった。

私は霊的真理に飢えていた。真理の扉を叩く必要があった。そして是非ともその扉を開けてもらわなくては・・・・・・

人間が霊的真理を悟るには二つの要素がいる。まず第一に単純でもいいからズバリ得心の行く霊的体験──人間的常識を超えた不思議な力の存在を如実に実感させる体験がいる。次はそのメカニズム、つまりなぜそういう現象が起きたのか、そのウラに潜む意味を知ることである。

辛い体験の末に私は奇蹟的体験をした。多分──その段階ではあくまで〝多分〟としか思えなかったが──多分フリッカー氏の手を通じて霊の威力が私に働きかけたのであろう。あとはその霊力の真相を知ることだ。それもフリッカー氏から得られるかもしれない。

長かった真理探究の旅の末に、自分は今ようやくこの扉のすぐ前まで辿り着いた──そんな思いが私の胸をしめつけ、静かな、内なる興奮を覚えはじめた。が、このことは誰にも語るまい。当分は公言すまい。私はそう考えて、妻にも二人の秘密にしておくようにと言って聞かせた。

フリッカー氏のところへはその後二度通った、一度は午前中、もう一度は午後だったが、いつ行っても同じ光景だった。患者がギッシリと詰まっている。ベルが鳴って一人が出てくると代って一人が入る。空いた椅子をひとつずつ詰めていく。体に固定器を付けたポリオ患者がいる。

松葉杖を手にした腰椎脱曰者がいる。ぜいぜいと息苦しそうに呼吸しているぜんそく患者がいる。歩く姿も痛々しい関節炎の人もいる。静かに待つ人もいれば、患部を人に見せて何やら得意げ(?)にしゃべっている人もいる。が大半は黙って待つという耐え難い苦行に専念しているのだ。

私の場合は二度とも同じ要領だった。コートを脱いでスツールに腰かける。フリッカー氏が左手を腹部に当てがい、右手を背中を上下にさすり、やがて坐骨神経に沿って右脚をさする。左手を肩にあてがうこともある。「いかがですか、調子は」そう尋ねる以外はほとんど話らしい話はしない。治療中に音楽を流すこともある。治療が終わると音楽を止めて私がコートを着るのを手伝い、「ではまた来週いらっしゃい」と言う。

治療ごとに私の身体はぐんぐん回復していった。途中の列車もタクシーも全く気にならなくなった。ところがその三度目の治療のあと二、三日して突然痛みがぶり返した。再度奈落の底に突き落とされたような気分になった。私は妻の運転する車でまたハワード街まで行く羽目になった。

妻は私に痛みを気遣ってゆっくりと運転してくれた。その性もあって実に二時間半もかかった。が私にはそれが二週間半のように思えて長い長い道中だった。

フリッカー氏は落ち着いた方だ。私の訴えを聞いても表情一つ変えず、いつもと同じ要領で施療し、手を洗ってから「もう大丈夫です。また来週お出で下さい」と一言だけ言った。

帰りは車が込んでいて思うように進めなかった。二人ともいささか疲れと空腹を覚えていたが、それが一向に気にならない。すっかり回復したよろこびがあるからだ。よかった、有難い。そういう念が私たち夫婦を陽気にしてくれた。

それにしても、私を治してくれたエネルギーは一体何なのか。二人は車の中でそのことを一身に語り合った。信仰治療ではなさそうだ。私がフリッカー氏を初めて訪ねた時、氏がどんな人で何をする人かについて一片の予備知識もなかった。治療中氏はほとんど語りかけることもなく、私の気持ちを鼓舞するような言葉もかけなかった。全体の雰囲気はどちらかと言えば面白くないと言える。

飾ってあるものも、お世辞にも上等とは言えないものばかりだ。音楽も取り立てて感心するほどのものでもない。実際私自身は感情的に興奮したことは一度もない。たとえあったとしても、その興奮だけであれほどの異常がいっぺんに治るだろうか。

とにかく私は、その治療エネルギーがフリッカー氏以外のところにあって、それが氏を通じて流れ込んだと言うことだけは確信した。がそれが何なのか、どう作用したかと言う点になると皆目分からない。

最高の医師に診てもらい、最高の専門医に相談しながら、彼らは結局何一つ病気の回復には寄与してくれなかった。強いて言えば、コルセットや薬で激痛をわずかながら和らげてくれただけだ。最後に残された手段も手術しかなかったのだ。

それが、医師の免状もない、カッコ良さのひとかけらもないロンドンの下町っ子によって、それも、どこの医学校の先生が聞いても笑って小ばかにしそうな単純な手の操作だけで、あっけなく治ってしまったのだ。

そんなことを妻と語り合いながらやっと家にたどり着いた時は、何と三時間もかかっていた。

第6節 運命の紡ぎ車
その後は七、八日の間隔で六、七回ほどフリッカー氏の治療所へ通った。治療はいつも同じだ。時おり冗談を飛ばす以外は「いかがですか、調子は」と聞かれて「おかげさまで、ずいぶん良くなりました」と返事をする、お決まりの会話しかなかった。

やがて十一月半ばになった頃には私は完全に仕事に復帰できるまでになっていた。毎日列車で四〇マイルの距離を往復した。そんなある日、ホームドクターがやってきた。私が普通の生活をしている姿を見てびっくりした様子だった。私の回復ぶりが信じられないらしく、改めて私に歩かせたり腰かけさせたり立ちあがらせたり、くるりと身体を回転させたりした。

曲がっていた腰がしゃきっとしている。コチコチだった全身が柔らかく動かせる。憂うつそうだった顔が明るく輝いている。コルセットも付けていない。ステッキも手にしていない。医者は私の身体を細かく診察した。そして、完治の宣言をした。

そのあと私と妻が代わる代わる、それまでの一部始終を語って聞かせた。医者は目をぱちくりさせながら興味深げに聞き入っていた。が残念ながら、なぜ、どうして、という私の問には答え切れなかった。私はやはり、自分で扉を叩くほかはないと覚悟した。

が、その前にやるべきことが一つあった。二か月前に手術の約束をした例の専門医を訪ねることだった。クリスマスが終わってからと約束をしてあったからだ。専門医はいきなり尋ねるわけにはいかない。そこでホームドクターにお願いして予約を取ってもらった。

ウィンポール街にある病院は優雅なドアをしていた。タクシーを降り立つ身も軽々と、運転手へのチップも弾んで晴々とした気分でスッテプを駆け上がり、ドアを開けた。

専門医の机の上には、これまで私がかかった何人かの医師のカルテとX線写真、そしてその専門医自身の診断書が置いてあった。「クリスマスが終わってからとの約束でしたので参りました。診察をお願いします」私はそう言った。

診察は三十分余りかかった。前回と同じように徹底したものだった。背筋と脚のあらゆる筋肉をテストして反応を調べた。関節を動かす度に「痛みますか」と言う。そのたびに私は「いいえ」と答える。医師は次第にけげんな表情を浮かべ始めた。膝もヒップも正常である。腰椎も正常であることは、つま先に手が届くほどの前屈運動をしても何ともないことで明らかだ。

診察の途中で医師は一度診断書に目をやり、二度ほどX線写真を見た。そして私に訊いた。

「何かなさいましたね。どんな手当をされましたか」

が私は言わなかった。少なくともその時は言いたくなかったのだ。私がどうしても言おうとしないので、やむなく医師はそこで診察を終えた。そしてこう言った。

「ほぼ完全に回復していますね。椎間板ヘルニアの症状は完全に消えています。四週間ないし六週間くらいすれば後遺症も完全に失くなるでしょう。これまであまり使わなかった部分が少し弱っているだけです。それもよくなります。まだ半年ほどは坐骨神経に痛みを覚えることがあるかもしれませんが、

それも次第に和らいで、いずれ消えてしまうでしょう。おめでとう。もう治療の必要もありませんし、もちろん手術の必要はなくなりました。ところで、一体あなたはどんな手当をしてもらったのか、教えていただけませんか。」

私は言わなかった。それよりも、こちらから質問したいことが二つあった。一つは私が苦しめられたような椎間板ヘルニアが何の手当もしないで自然に治るということが有り得るかということだった。

私は今この道のトップクラスの専門医の前にいる。その専門医の答えならそのまま受け取ってもいいはずだ。彼は首を左右に大きく振って断言した。「あなたの場合、自然に治る可能性はゼロでした。まったくのゼロでした」

続いてもう一つ尋ねた。「私の場合、心身症の可能性はありましたでしょうか」最近とみに心因性の病気のことが言われるようになってきた。もしも私の場合もこの心身症だったとしたら、私にとって事は重大だと思ったのである。が彼はX線写真と彼の前に診察した医師の報告書、それに自分自身の診断書を指さしながら「可能性はありません。問題外です」と、きっぱりと答えてくれた。

その二つの答えを得てから私はようやくフリッカー氏の話を告白した。あの日、すなわちその専門医から手術が必要との診断を受けた日の夕方、ハワード街のフリッカー治療センターを訪れ、わずか十分足らず手でさすってもらったこと、それだけで、帰る時はコルセットを手に持って帰ったこと、帰ってからベッドの板を取り外して焼却してしまったこと、ステッキもそれ以来一切使っていないこと、間もなく仕事に復帰できたこと等を話した。

医師はただ黙々と真剣な面持ちで話に聞き入っていた。そして最後に私が前日にクリスマスにツイストを躍った話をすると、医師の驚きはその極に達した。言葉がなかった。ただただ圧倒されていた。生涯をかけた医師としての全体験を超えたことばかりだったのである。

圧倒されたのは彼だけではなかった。当の私が圧倒され続けているのだ。一体何が起きたのだろう。奇蹟的治癒を起こした人はいつの時代にもいた。イエスがそうだった。モーゼがそうだった。エジプトにも治療を専門にする聖職者がいた。

いつの時代にもほとんど全ての民族で奇蹟的治癒の話がある。世界の大宗教の聖典には必ずその話が出ている。旧約聖書にも治療は神の業であると述べた箇所がある。本当に神が治すのだろうか。私はその秘密を知るべくフリッカー氏を訪ねた。

フリッカー氏は快く迎えてくれた。ただし私の完全に回復した姿を見て別段おどろく様子も見せなかった。氏にとっては日常茶飯事だからだ。私と同じような重症の患者を何千人と治している。何千人である。驚くべき数字だ。

話の中で氏は自分の治療エネルギーは神から授かると言った。治療に入るといろいろな声が聞こえる。その声に従っているだけだという。それで大半の患者が治っていく。その殆ど全部が医学的に〝不治〟として見離された人たちばかりだ。そうした話をしたあと氏は「もしも心霊治療について詳しく知りたかったら、心霊週刊誌ツーワールズの編集長をしているモーリス・バーバネル氏に会って見られるがよろしい。彼ならすべての質問に満足のいく回答を授けてくれるでしょう」と言った。

私は礼を述べて帰ろうとした。そして私の手がドアの取っ手にかかった瞬間のことである。フリッカー氏の口からでた一言が私の体を巡っていた時の流れを一瞬止めてしまった。

「今なんとおっしゃいました?」私は尋ねた。フリッカー氏は同じ言葉をもう一度繰り返した。その言葉が私のその後の人生を大きく変えることになった。氏は言った。

「あなたも心霊治療家です。生まれついてのヒーラーですよ。私がやってあげたのと同じことがあなたにもできます。生まれながらのヒーラーです。」

家に帰ると私はさっそくこのことを妻に告げた。妻はおどろき、かつ興奮した。誰か身近な人に試してみよう。二人ともそう思ったが、家族も友人もみな腹が立つほど健康だ。私がフリッカー氏にすがりついたように誰か私の足元に必死の思いで治療を求めてきてくれれば、と思うのだが、そんな人はいそうにない。患者がいなくては治療家にはなれない。しばらく時を待つしかないと自分に言って聞かせた。

それよりもまずバーバネル氏に会って心霊治療について勉強することの方が先決問題だった。

第7節 モーリス・バーバネル氏との出会い
バーバネル氏に電話で面会を申し込むと快く応じてくれた。レストランで昼食を共にしながらの面会となった。会ってみると、白髪まじりの頭をオールバックにした、ロイドメガネの、小柄で小ざっぱりした紳士だった。

まず私の方からこの二、三カ月の絶望的な苦しみから奇蹟的な治療に至る話の一部始終を語ると、氏は矢継ぎ早に質問を連発し、それに対する私の返事を細かくメモした。中でもフリッカー氏の世話になる前と後に第一級の専門医の診断を受けたことが私の治療体験を価値あるものにしたという意見を述べた。後でそのメモをもとにして氏は記事を書いてツーワールズの一面トップに掲載した。驚くほど細かくしかも正確にできていた。

食事を取りながら肝心の心霊治療について私の方からいろいろと尋ねたことは言うまでもない。氏は必読書を何冊か紹介してくれた。私は以後、氏の助言のもとにスピリチュアリズムについて、心霊治療について、片っ端から読んでいった。そのうち面白いことに気づき始めた。

読む本そのものはむろん初めてのものばかりである。著者も知らない人ばかりだった。が、その内容がなぜか私の既に知っている事ばかりなのだ。読めば読むほど当たり前ではないかと思えることばかりなのだ。言ってみれば一度も行ったことの無い遠い見知らぬ国へ行ってみて、確かにここは一度来たことがあるようだという親しみと同時に、事実その辺の地理まで知っていたという経験に似ている。

正統派の教義は読めば読むほどバカバカしくて信じる気になれなかったが、スピリチュアリズムの思想は完全に得心がいき、これだ!と思うことばかりなのだ。いずれ私はスピリチュアリズムについて書こうと思っているが、その時はついに扉は開かれたという感激で一杯だった。その扉をくぐって、そこに私は、それまで迷いに迷ながら求め続けてきた真理の花園を発見したのだった。

それから何日かのちのことだった。雨の降る寒い日で、私は一日中事務所に詰め通しだったので疲れと空腹を覚えていた。が、その日が初の心霊治療を施す日になるとは夢にも思わなかった。気分的にもそんなことのできる心境ではなかったのである。

家に帰ってみると妻が居間の肘掛け椅子に体をうずめ、両足をスツールの上に置いて痛みをこらえている表情をしていた。脊柱の一番下のある仙腸骨関節を伸ばしているのだった。妻は時おりこの症状が出ることがあった。今こそ子供はすっかり大きくなって手がいらなくなったが、当時は私がヘルニアで育児の世話を手伝ってやることができなかったので、入浴の世話から着替えまで全部妻一人でやらざるを得なかった。その無理が出始め、前回の時は二、三週間も動けなかった。

人間は身近にいる者が病気になると口うるさくなるものだ。その時の私がそれで、妻に立て続けにこう言ったものだ。「なぜベットでちゃんと寝ないのだ。医者を呼んだか。何故革帯で固定してもらわんのだ。」

妻は痛みをこらえながらも、ほほえみながらこう言った。「あなたがお帰りになるのを待っていたの。だってあなたは心霊治療家でしょう。私を治して!」

一瞬私はどきっとした。自分の妻が患者第一号になるとは!本当なら手を消毒して白いガウンでも着てカッコよく行きたいところだが、その時はそんな余裕はなかった。濡れたレインコートを脱ぎ棄て、手を洗うと、フリッカー氏のやり方を思い出しながら、できるだけ同じ要領でやってみた。

左手を腹部にあてがい、右手を腰の辺りで上下させた。が何の反応もない。私は妻をうながしてベットに寝かせ、さっきと同じ操作をもう一度繰り返した。そのあと私が夕食を作って一緒に食べた。

翌朝目を覚ましてびっくりした。妻がすっかり良くなっている。コリが取れ、自由な動きができる。痛みもない。私はついに人を治したのだ!

それから二、三カ月たった頃のことである。仕事の問題で南アフリカから来た弁護士に会うことになった。六フィートもありそうな大柄な人で、三十代後半と思われた。いかにも見かけは頑丈なのだが、実はこの人も脊柱骨を二か所痛めていた。痛めてからすでに四年半にもなるのに今だコルセットが手離せないのだ。

はずすのは夜寝る時だけだが、代わりに薬を浴びるほど飲んでいる。朝起きて数歩も歩くともう痛みに耐え切れなくなる。一つ一つの動作がみな応える。従って車も運転できないし、前かがみもできないし、自分で衣服の着替えもできない仕末だ。この度ロンドンへ来たのも、法律の仕事もあったが、一つにはフリッカー氏に治療してもらうためでもあった。

話をさかのぼれば、面白いことに彼も私がお世話になった同じ専門医の診断を受けていた。しかも私と同じく絶望的な診断を言い渡されていた。彼の場合は手術も不可能な状態だった。そこへ私と同じく絶望的な廻り合いがあった。私はその時これは偶然ではないと直感した。

そこでツーワールズの例の私の治療体験記事を見せると、ぜひこの治療家のところへ連れて行ってくれという。私はさっそく電話で予約を取ってあげた。知人からしてもらったのと同じ厚意を今その弁護士にしてあげたのだった。

車で送ってあげながら私は、治療所がどんなところかをわざと言わずに置いた。案の定治療所につくと、そのあまりの変哲のなさに彼は〝こんなところか〟と言った驚きの表情を見せた。

フリッカー氏は例によって単刀直入、手を当てるだけで異常個所を探り当て、私の場合と同様コルセットを取るように言った。フリッカー氏と私が手伝だった。すると今度は私に「一緒に治療しましょう」と言う。

弁護士は立ったままの姿勢で、フリッカー氏と私がそれぞれ左手を背中に当てた。プレイヤーから音楽が流れている。その時、私の右手に激しい振動を感じた。それが二、三分ほど続いてから消えた。フリッカー氏がプレイヤーを止めた。そして弁護士にこう言った。

「四年半も脊椎異常で苦しまれたそうですが、四分半で治りましたよ」
弁護士は当惑した表情を見せた。フリッカー氏が「どんな状態が苦痛でしたか」と聞くと「つま先に手が届きません」と言う。「じゃ、今やってごらんなさい」と言われて、前にかがんでみるとラクに手が届く。さらに「一人で横になれませんでした」と言うので、フリッカー氏と私がスツールを脇へやって

「このベットに一人で横になってごらんなさい」と言うと、これまたラクに横になり、すっと起き上った。「四年半自分で靴のヒモを結んだことが無いんです」と言うので、二人で靴ひもをほどいて、「さあ,おはきになってみて下さい」と言うと、これまたラクに前かがみになって自分でヒモを結んだ。

弁護士はキツネにつつまれたような顔で立ちあがった。そして、あれはどうだろう、これはどうだろうと、体をいろいろと動かしてみていた。しかし何でも出来る。何をやっても痛くはない。完全に治ったのだ。

翌日私の事務所にその弁護士から電話がかかった。奥さんと一緒にロンドン市内を見物しながら五マイルも歩いたが何ともない。むしろ女房の方がヘトヘトになったという。

さらに翌日の夕方にも電話して来た。あれからさらにロンドン市内を回ったが女房はへばって先に寝ている。自分はこれから夜のロンドンを見に行ってくるという。

それから二日後に別れの電話が掛ってきた。礼を述べた後、実は国へ帰るのではなくヨーロッパまで足を伸ばしてくるのだという。

八か月後に彼から砂糖漬けの果実が届けられた。その中に入っていた走り書きに、今は水泳もやっている、とあった。

こうして彼との接触がある毎に私の脳裏に蘇る一つの事実があった。それは、すっかり良くなった弁護士を車で連れて帰る、その別れぎわにフリッカー氏が私と握手しながらじっと目を見つめてこう言ったのである。

「なぜわざわざ私のところへ連れて来られたんですか。あなたご自身でも私と同じくらい楽に治せたはずですよ。」

第8節 古代霊シルバーバーチに導かれて
本性から言うと私は遠慮がちな人間の部類に入る。ストレートに自分を発散できないタイプである。フリッカー氏から生まれついての心霊治療家だと言われても、妻を見事に治しても、まだ本当に治病能力があるのだろうかという疑念がつきまとっていた。

バーバネル氏から紹介された本の中に世界的に有名な心霊治療家ハリー・エドワーズ氏の本があった。それには背後霊との〝一体化〟ということが強調してある。私も一つやってみようと思った。本格的に治療家としての練習をしてみようと思ったのである。その為の補助として音楽を流した。

特にチャイコフスキーの〝くるみ割り人形〟を使った。十分ないし十五分ほど瞑想していると、何となく一種の白日夢に似た状態に入りかけてきた。それがエドワーズ氏の言う一体化の状態なのだろうか、私はそう思った。

しかしそれ以上の変化はない。声が聞こえるわけでもないし、映像が見えるわけでもなし、何一つ超常的な現象は起きない。これでいいのだろうか。フリッカー氏は悪ふざけを言ったのではなかろうか。妻は本当に私の〝治療〟で治ったのだろうか。私は本当に生まれながらの治療家(ヒーラー)なのだろうか。その確信が持てなければ公然とヒーラーを名告るわけにはいかない。

そこで再びバーバネル氏に相談することにした。本当に自分がヒーラーであることを確認するにはどうしたらいいのか、そして、もしも本当にヒーラーであることが分かったら、どうやって患者を求めたらいいのか。私はこの二点について相談した。するとバーバネル氏は私と妻を、翌週、氏のアパートへ招待した。そこではハンネンスワッハー・ホームサークルという交霊会が開かれているから、そこに出現する霊の助言を聞くのが一ばんだというのである。

ハンネンスワッハーと言えばフリート街(英国新聞界の別称)きっての名物男だった。多分今もそうだろう。ショーマンシップ、取材能力、ジャーナリストとしての資質、そのいずれをとってもスワッハー氏を凌ぐ者はいなかったし、今もいないであろう。その氏がスピリチュアリズムを援護するに至った動機は、霊媒現象を暴いてやろうと交霊会へ乗り込んだことにあった。

それが逆にその真実味を確信することになってしまった。ミイラ取りがミイラになったのである。そのホームサークルも彼の発案で発足し、彼の他界後もその名で存続しているのだった。ただ場所が最初スワッハー氏の自宅だったのがバーバネル氏のアパートに移っただけである。

その交霊会の中心的指導霊がシルバーバーチと名のる三千年前の古代霊であることは知っていたし、その霊言も「シルバーバーチ霊言集」を繰り返し読んでよく理解していた。が、そのシルバーバーチが身体を借りる霊媒が当のバーバネル氏自身であることは全く知らなかった。

サークルのメンバーはバーバネル氏の奥さんも入れて六、七人を数えるだけの平凡な男女のグループで、私たち夫婦を気持ちよく迎えてくれた。何の変哲もない茶の間で、イスを雑然と円を画くように並べ、男女が交互に座った。

開会が宣せられると一同が起立し、中央のテーブルに手を置いて讃美歌「わが目を開かせ給え」を歌う。お世辞にも上手とは言えないのだが、歌っているとテーブルが動き始め、ひとしきり動いて静かになると、全員が自分の席に着席する。するとバーバネル氏がソファに座り、メガネをはずし、グラスで水を一杯飲んでから目を閉じる。ライトが部屋の隅々まで明るく照らしている。

瞑目すること四、五分。やがてバーバネル氏はうめくような声を発し、頭を左右に振って、背筋をまっすぐにして座り直す。そして目を閉じたままで全員に挨拶を述べる。

その時のバーバネル氏はもはや私の知っているバーバネル氏ではない。話ぶりが違う。声が違う。アクセントが違う。使う単語が違う。顔に老賢人を思わせる深いシワが寄り、異民族のような印象を与える。座っている身体は間違いなくバーバネル氏だが、その身体を借りて語っているのはもはやバーバネル氏自身ではなく、指導霊シルバーバーチであった。

シルバーバーチの霊言は既に世界各地で紹介されている。安価なペーパーバックも何冊かある。私はこの霊言集が一人でも多くの人に読まれることを希望している。素晴らしい教訓の宝庫である。(日本語版全十二巻が潮文社から出ている)

もっとも、その日の交霊会は主として私達夫婦の為のプライベートな内容のものばかりであった。私たちはいろいろと質問し、その一つ一つに確実な解答を得た。しかし何といっても私にとって最も重要な問題は、私に心霊治療家としての素質があるということであった。

その質問にシルバーバーチは、私が辿ってきたこれまでの人生は全て心霊治療家としてのこれからの人生のための準備であったと語り、「あなたは人の病気を治すために生まれてきたのです」と言った。

会も終わりに近づいたころ「ほかにお聞きになりたいことは?」とシルバーバーチが言うので、私は「患者に来てもらうにはどうすればよいでしょうか」と尋ねた。その質問にシルバーバーチはこう答えた。「心配はいりません。あなたの治療力を神が放っておくはずはありません。患者はそのうちやってまいります。」

そのあとメンバーの一人一人と親しく言葉を交わした。至って人間味のある内容の話だった。悩みごとに対しても懇切に答えた。そして一時間も経過した頃、最後に短い祈りのことを述べて、シルバーバーチは去った。

ソファにうずくまるのはもはや見知らぬ老賢人ではなく、ぐったりとした、見慣れたモーリス・バーバネル氏の姿だった。それから数分後、私たちはソファのバーバネル氏を横目で見ながら静かな声でおしゃべりを続けた。それはまるでスヤスヤと寝入っている赤ん坊のそばでヒソヒソ話をするみたいだった。

そのうちバーバネル氏が身震いと共に目を覚まし、大きく深呼吸をして起き上がった。そして水を一杯飲みほし、片手で顔さすってからメガネをかけた。かくしてバーバネル氏が戻った。

交霊会には書記が一人いて、シルバーバーチの言葉を一語逃さず速記していた。書記が休んだ日はテープレコーダーで録音するとのことだった。こうした記録をもとにシルバーバーチ霊言集が編纂されるわけである。

本書はシルバーバーチについての本ではないから霊言の内容まで述べるのは控える。是非知りたい方は霊言集をお読みになるのが一番であろう。とにかくシルバーバーチ霊の出現は人類の歴史上類を見ない偉大なる霊的業績の一つに数えられよう。

その後私たち夫婦は数多くの霊媒による交霊会に出席しているが、この日の交霊会は生涯忘れることの無い記念すべき会となった。二人はその始めての不可思議な体験に驚異と満足の念を覚えながら帰途についた。

が、これですべてが解決したわけではなかった。

第9節 心霊治療M・H・テスターの誕生
人生と言うのは何がキッカケになるかわからぬものである。私が心霊治療家として知られるに至るいきさつもその一つだった。

ヘルニアが全治したあと移り住んでいる現在のヘイワーズヒースというところは避暑地プライトンに近い住みよい土地で、どこから尋ねるにしても、さほど来にくい場所ではない。心霊治療家として本腰を入れることを決意した私は、治療日と営業時間を書いた広告を事務所で何枚かコピーさせた。

妻は駅前のタクシー会社に出向いて、うちへ来る客から料金を取らないよう、月毎にウチがまとめて払うから、と言う約束を取り決めた。

治療日はひとまず月曜日とし、時間は午後二時から六時までとした。その最初の月曜日、私はピアノ用の椅子を患者用に使うために応接室に運んだ。そしてレコードプレイヤーには「くるみ割り人形」を用意し、さらにドアのすぐ外に手洗い水とタオルを乗せたワゴンを置いた。さあ、これで患者がいつ来てもいいという態勢だけは整った。果たして来てくれるだろうか。それが思わぬことがキッカケで大挙して押し寄せることになったのである。

すでに述べた通り私は検査官が本職である。商品や事業用の資産の管理を指導する仕事で、仕事は地味なのだが、英国中を手広くやっているせいもあって、いささか名前は知られていた。

よほどのことでも無い限り人目を引くようなことは無いのだが、新聞ダネになるとはままあった。その〝ままある〟ことがたまたまその頃に起きた。フィナンシャルタイムズと言う有名な新聞が毎号掲載している「ひと」の欄で私を紹介してくれることになったのである。

人に知られる──これは願ってもないことだ。といっても、こちらから売り込むわけではない。記者が私にインタビューしてそれを記事にするだけで、ああ書け、こう書けとは言えない。が、せいぜいよい印象を与えようと、私は担当記者のロバート・ヘラー氏を「ミラベル」と言う英国で、いやヨーロッパでも指折りのレストランへ招待した。

私は食通ではないので、本当にその名に相応しい料理を出すところかどうかは知らない。知っているのは英国で一番高い店、ということだけだ。

二人は豪華な食事に舌鼓を打ちながらいろいろとおしゃべりをした。ヘラー記者は話のしやすい人だった。職業柄かも知れないが、こちらの話に一心に耳を傾けてくれるのは嬉しいものだ。もっともそれは一つには豪華な食事のせいかもしれないが、いずれにしても雰囲気は極めて良好だった。

食事も終わりに近づき、コーヒーが出た。するとヘラー記者が「お仕事のことは十分お聞きしました。ところでお仕事のほかにはどんなことをなさっていますか」と聞いた。私は正直に心霊治療が施せると言った。そのことが「ひと」の欄の最後に書き添えられた、図らずもそれが最大の広告となったのである。

さらにそのことが他の新聞社の目にとまったらしい。翌週さっそく私の土地の地方新聞のミッド・サセックス・タイムズが私に関する記事を載せ、それも心霊治療家として紹介してあった。それを見たのであろう。プライトンの夕刊紙アーガスの記者がその週の土曜にカメラマンを連れてやって来た。

翌週その夕刊はほぼ一ページを使って私を紹介し、妻と私が並び子供たちがプールであそんでいる写真が載っていた。さらにその翌週には英国全土に購読者をもつ日曜新聞ピープルが半ページに亙って私の紹介記事を載せた。さらに雑誌イングリッシュダイジェストが紹介してくれた。英国の雑誌にも載った。

かくして心霊治療家M・H・テスターの名が英国全土に知れ渡った。治療日の月曜日になると患者が続々とやってくる。次第に一日ではさばき切れなくなってきた。待合室はすぐにいっぱいになる。

外の車の中で待っている人もいる始末だ。果たして満足の行く治療がしてあげられるか──月曜日は心霊治療家としての私にとって試練の一日である。

患者は大半が医学から見放された人達である。医薬品ですぐ治るような病気でやってくる人は皆無とはいわないが、ほとんど無いと言ってよい。ほとんど全部の人が〝慢性的不治〟の病人である。闘病生活で疲れ切っている。衰弱し、やつれきった表情をしている。腰は曲がり、まともに歩けない。私の治療室まで辿り着くのがやっとという状態の人が多い。

が、その治療室から、ある人は希望に目を輝かせながら帰っていく。ある人は霊的真理に目覚めて帰っていく。そして奇蹟的に全快して帰っていく人がいるのだ。

第10節 治療家としての一日
治療日である月曜日の午後二時から六時まで、私の家の門は開けっ放しになる。妻が細かい準備を手伝ってくれる。ペルシア絨毯を敷いた応接室の中央にピアノ用の椅子を置いたり、水鉢と石鹸とタオルを乗せたワゴンを運んだりしてくれる。が、これ以外にすることと言えばテープレコーダーの用意ぐらいのものだ。

大きなハイファイのスピーカーがある。聖なる曲を想像されるかも知れないが、私は何でもかける。シべリウスだったりチャイコフスキーのバレー音楽だったり、時にはシャレたジャズ音楽を流すこともある。

患者が大挙してやってきた時は入り口の広間を待合室に使う。その入り口のところに献金箱が置いてある。私は治療代を取らない。どうしても礼をしたい人はその箱へ思っただけのものを入れていただく。それを集めて恵まれない人々のために寄付金にする。治療能力は神から授かったものだ。それは必要な人には無料で与えられるべきだというのが私の信念なのである。

昼食は至って質素なものにする。ご馳走は治療効果を妨げるからであるが、それは別にしても、大体私は菜食主義である。大体と言ったのは、お突き合いでたまには魚介類をいただくことがあるからだ。昼食が済むと読書と書き物をする。二時間前からたいてい一人二人と患者が見えているが、よほどの痛みでも訴えないかぎり二時まで治療にかからない。

さて、いよいよ二時が来て私が広間を通って治療室へ足を運ぶと、広間にいた一人の女性が立ち上がって私のあとについてきた。初めての方で、手紙による申し込みだった。中央の椅子に腰かけると正面の窓越しに妻の自慢の庭が見える。上着を取っていただき、私は手を洗う。それから「どうなさいました」と尋ねる。

が、その時すでに私はその人の持つ雰囲気の中に、不幸感と自己憐憫の情とうつ病に近い深い悲しみを察している。その奥に罪の意識もある。女性はハンカチを取り出してから語り始める。

患者の話は決まって支離滅裂である。そこで私の方から適当に質問をはさんで急所を押えなくてはならない。その女性の場合は肩から首筋にかけて激しい痛みを覚え、それが頭痛や時として頬の痛みにまでなる。歯痛のようにも感じて歯医者に診てもらったら歯には何の異常もないと言われた。

始終痛むというわけではなく、痛んでは消えるのを繰り返している。昨年ご主人を亡くしたが、それまでの結婚生活は幸せだったとは言えず、夫に忠実でなかったと語る。子供もなく、寂しくて、何やら世間から見捨てられたような気持ちがして、罪悪感に苛まれている。痛みは半年前から出はじめたという。

話を聞き終わるとテープレコーダーのスイッチを入れる。その日はジョージ・シヤリングの「夜の霧」がセットしてあった。私は立ったまま右手を額に当て左手を後頭部に当てる。その姿勢のまままっすぐに目をやると、レコードプレイヤーの上にガレンの肖像画がみえる。

紀元二世紀頃のギリシアの医学者で、私の心霊治療の第一支配霊である。私は目を閉じて音楽に耳を傾ける。すると突然右手の指先から一種の診察力のようなものが出て病気の真因を探り始める。

激しく振動しながら肩から首筋にかけて動いていく。ひどい凝りだ。私の手が優しく、しかし、しっかりとさすりながら、急所へ来ると止まる。次第に凝りが取り始め、緊張がほぐれていくのがわかる。

治療が終わると、夫人は何カ月ぶりかで爽やかな気分を味わいましたと言う。が私から見ると、この人に今一番必要なのは霊的真理の理解である。私は本を一冊プレゼントして、是非読んで来週もう一度いらっしゃいと言っておいた。

次は男性である。この人も今日が初めてである。年のころは四〇。細身で背が高いが、ひどく歩きにくそうで性格が極端に内気である。私と同じヘルニアを患い、すでに一年以上も病院通いをしている。例の牽引療法も試みている。激痛と不快感が続いている。ヘルニアの典型的な症状──背中と坐骨神経系統に激痛が走るのだ。

テープレコーダーのスイッチをいれる。ガレンの肖像に黙礼してから右手を腰のくびれの部分に当て、左手をかるく腹部に当てる。反応は確かだ。間違いなく椎間板ヘルニアだ。第四腰椎と第五腰椎の間の円盤が脱出している。右手に激しいバイブレーションを感じる。それが次第に激しさを増し、私の身体がほてって来た。そして突如として消えた。

音楽を止め、窓のところまで歩いてみなさいと言うと、実に足取りも軽やかに歩いて行って、戻ってきた。ぎこちなさが全くない。腰を曲げてつま先に手をやってごらんなさいと言うと、冗談じゃないと言わんばかりの嫌な顔をしながらも曲げてみると、楽々とできる。途端に顔に笑いが戻った。完治したのだ。

しばらくは後遺症が出るだろうから二週間後にもう一度来てみるようにと言って手を洗っていると、代わって牛乳配達人が入ってきた。手首の関節リューマチで一か月前に一度治療してあげたことがある。その時は手首が腫れ上がり、牛乳ビンがまともに握れなくて何本も落としたことがあったらしいが、今日見ると腫れも引いて握力もだいぶ回復している。完全ではないが、ビンを握るのは差支えないという。

診察してみると筋肉にはまだ弱さが残っているが、関節炎はほどんと消えている。治療したあと、二週間後にもう一度来るように言った。明るい表情で部屋を出て行った。

広間をのぞくと誰もいない。テープをシペリウスに代えてオフにし、手紙の返事を書くことにする。手紙での相談や治療依頼もよく来る。長々と書いてよこす人もいる。私は同情も込めて簡潔に返事を書く。治療の申し込みには日時を指定しておく。距離的な事情その他でどうしても来れない人は近くの心霊治療家を紹介してあげる。

四通目の返事を書き終える頃、玄関のチャイムが鳴った。新しい患者らしい。ドアを開けると、年の頃三十四、五の背の低い、でっぷりと肥った金髪の男性が入ってきた。まるで少女のように頬を赤くしながら恥ずかしそうに椅子に腰掛ける。実に、その赤面することがその人の悩みだった。職業は歌手で、オペラにも出ることがあるが、舞台に立つと赤面症が出て歌えなくなるという。

私はセットしておいたシペリウスの曲をオンにして、キャビネットの上のガレンの肖像画に目をやる。
この肖像画を手に入れるのに一苦労した。この〝近代医学の父〝の胸像が一つだけの残っていると聞いているが、どこにあるかはわからない。探しているうちに一枚の肖像画を発見し、それをコピーしたのがそれだ。ガレンは二〇一年に他界し、今、私の背後霊となって病気を治している。

さて赤面症の男性は診察したところ身体には何の異常も見られない。私は両手を頭部に当てがって静かに精神を統一した。治療エネルギーが患者に流れ込む。手応えがある。「治りますよ」と言ってあげると、来週の月曜日にもう一度来ますと言って帰っていった。

手を洗っていると次の患者が入ってきた。見たところ六フィートはありそうな背の高い男性で、しかも横幅もある。二週間前に一度来て手応えのあった人であることを思い出した。第二と第三の腰椎の間の円盤が損傷していた。

シペリウスが終わったのでムード音楽のサイ・グランドに替える。クラシックしか聞かない固物と思われたくないからだ。ガレンが心なしか苦笑しているように見える。

その男性はもうすっかり良くなったと語った。まったく痛みを感じないという。そして今日やってきたのは二週間してもう一度来いとおっしゃったからだ、と言った。念のため右手で脊髄にそって撫で下ろしてみたが完全に良くなっている。私は治っていますねと言って、後遺症が出るかもしれないから一か月ほどしてから来てみて下さいと言っておいたが、多分もう来ないだろうと推察した。それほどよくなっていたのである。

また広間が空っぽになった。そこで私はまた手紙の返事書きに戻る。妻が紅茶を入れてくれた。いい気分転換になる。そして最後の手紙を読みかけたらドアが開いて、若い女性が入ってきた。暖かく迎えて腰かけに案内する。

年齢は二十八歳だが、どうも今一つ明るさが感じられない。実を言うとこの人は半年前から毎週通っている人である。ご主人に先立たれ、母親とうまくいかず、近所の人からも好かれていない。神経科に通っているが、どうも自殺しそうな気がする、と自分で言っていたのを思い出す。

今では明るさも出て自殺の心配はなくなった。もっとも、時おり自殺をほのめかす時がある。それは、私がもう来ないでよろしいと言った時だ。彼女は今では私のところへ来るのを何よりの心の拠り所にしているのだ。私のところに来たところで、ただサイ・グラントを聞かせ手を当ててあげるだけだ。

私はイカサマ師なのだろうか。父親の理想像を抱かせているだけではなかろうか。それとも経験豊かな心理学者なのだろうか。そんなことを考えたりもする。

次の患者は難物だ。珍しい眼病で、視力が極端に落ちている。すでに四回の治療を施しているが何の反応もない。遂に本人も他の治療家へ行ってみましょうかと言ってくれる。私も自信がないから、英国心霊治療家連盟の住所と事務局長の名前を教えてあげた。

英国内の心霊治療家はほどんとがこの連盟に加入しており、地方に支部が置いてある。もしかしたらその中にこの眼病が治せる人がいるかもしれない。私は、いつでも力になってあげるから来たくなったらいつでも来てください、と言ってあげた。

その日も何の変化も見られなかった。気落ちした様子で帰って行った。治りますよ、と言ってあげたいところだが、私にはその自信がない。自信がないものを、口先だけの希望を持たせてあげるわけにはいかない。私は黙って見送った。

次の方は慢性蓄膿症である。三年間あれこれ治療しても一時的に少し回復するだけで、今では精神的に参ってきており、全体の健康状態も芳しくない。テープを再びシアリングに替える。神経を鎮める雰囲気が必要だ。

私は両手を頭部に置き、動くに任せる。すると右手がやはり鼻腔の上あたりに来る。充血が感じられる。内腔が拡張し病原菌が感染している。その内その右手が振動しはじめる。そして振動が次第に指先に集中して来た。かなりのエネルギーが患部へ流れ込む。患者が汗をかき始めた。

すると徐々に振動が収まり、私も我に返る。ティッシュペーパーを箱ごと渡して、思い切って鼻をかんで見なさいと言っておいて、テープを止める。手を洗っていると鼻をかむ音が一、二度した。どろっとした鼻汁が多量に出た感じだ。案の定「何カ月ぶりかで頭がすっきりし呼吸もラクになりました」と言う。まだ細菌の感染が残っているが、もう大丈夫だという感触を得た。来週もう一度来てもらうことにした。

入れ替わって、艶めかしい香水の臭いと共にミロのビーナスを思わせる中年の美人が入って来た。美事な肢体を少し小さめのドレスで包んでいるので、起伏の全てが際立って見える。しかしその人が乳がんだという。私はさっそく妻のジーンを立会人として呼び入れた。

心霊治療と言うのはうっかりできない仕事である。これといって公式の資格はない。英国医療審議会は心霊治療の存在を認めていない。いかなる主張をしても好意的な態度を見せてくれない。治った体験のある人は大いに敬意を払ってくれるが、体験のない人は頭から偏見を持っている。

大体、心霊治療家は〝病気を治す〟と言う表現を使ってはいけないことになっている。子供を治療する時は両親の承諾を得なくてはいけない。妊婦も治療してはいけない。もしも本人からの依頼があった時は立会人を必要とする。

新しく来た患者に私は必ず次のように言うことにしている。「私は医学的資格は何一つ持ち合わせません。私が治療を施すのは私に病気を治す能力があることがわかり、それを人に施すべきだと考えるからです。どなたにでも施してあげるし、お金も、いかなる形での礼も戴きません。従って今日の治療も一つの試みと考えてください。それで治れば私も嬉しいし、たとえ治らなくても、あなたにとって何の損もないはずですから。」

女性特有の器官の病気の治療には立会人がいる。妻が入ってきてにこやかにビーナスに挨拶し、私のすぐ側に腰かける。音楽を流す。まずビーナスの額に手を当てる。何の異常反応もない。健康である。私は一つ深呼吸してから両手を広げてビーナスの胸のふくらみに当てる。

もうその時の私には、触っている相手が肉体美人なのか痩せすぎなのか、それとも馬なのか、そんな意識はまるでない。不思議に何の反応もない。明らかに癌ではない。ふと目を妻の方へやると、タカのような鋭い目で私を見つめている。肩から首筋へと手を動かしてみたが、どこも悪くない。確かにいい体をしている。ほとんど申し分のない健康体である。

私は、一度医者に診てもらってその結果を持って二週間後に来てほしいと言っておいた。私には筋肉のコリに過ぎないと思われるのだが、敢えて言わずにおいた。

そこでいったん患者がいなくなった。十五分ほど返事書きに費やし、書き終えて切手を貼ったところへ三人の患者が連れだって到着した。駅からタクシーに乗り合わせたらしい。

最初に診た人は脊椎の骨関節炎で、かなり悪化していた。もう十五年にもなるという。医学的にはまったく絶望的で、医者から「生涯この病を背負って生きる方法を考えるように」と言われているが、とてもそんな気にはなれないという。

曲をチャイコフスキーに替える。右手を脊柱にそって下していくと全体に反応がある。かなり悪い。手がしきりに上下する。終わると背中が温かくて気持ちがいいという。まだ痛みはあるが、ずいぶん和らいだという。ロンドン市内に住んでいるというので私の事務所の住所と電話番号を教え、一週間後に電話をくれるように言っておいた。絶対治るという確信を得た。ただし治り方はゆっくりかもしれない。

二人目は見るも気の毒な患者だった。青年だが、衰弱しきっていて、今にも崩れそうな体を松葉杖で必死に支えている。リンパ腫の一種だ。恐ろしい消耗性疾患で、医学的には末期的症状だ。私は曲をグノーの〝アベマリア〟に替え、背後霊のガレンに援助を祈る。治療には随分時間がかかった。全身から病的な反応がある。

治療が終わってから私はその人に、これからもできる限りのことをする積りだから、治療してほしいときはいつでも電話するようにと言って番号を教えてあげた。私はこの人はもうすぐ死ぬと直感したのである。握手をしながら目を見た時、自分でもそれを覚悟していることが読み取れた。

できるだけ安らかな死を迎えさせてあげたい。私はそう願うほかない。心霊関係の著者で有名なポール・ビアード氏にいつか「私は生涯の大半を人が安らかに死ねるようなお手伝いをしているみたいだ」と、その辛い心境を打ち明けた時、氏は「それも治療家の大切な役目ですよ」と言ってくれたのを思い出す。

三番目の人はもう患者と呼ぶべきではない健康な人だ。三週間前に来た時は背骨が曲がっていて、何年もの間激しい痛みに苦しんでいた。左右の足の長さが違うほど体がよじれていた。それが今見ると健康そのもので、事実、今日はお礼に来たのだという。が私は感謝してくれては困ると言った。いい曲を聞いてレコードプレイヤーに感謝する人がいますかと私は言うのである。作曲した人、または演奏している人、もっと言えば、作曲家にインスピレーションを吹き込んだ霊に感謝すべきである。

三人が終わると五時十五分前だった。子供たちも学校から帰っている。妻がサンドイッチとケーキと菓子パンをのせたワゴンを押して遊び部屋へ運んでいく。私も加わって紅茶を飲んだりしながら寛ぐ。十分ほどして来客があった。

難病人の一人だった。年の頃五十五歳。感じのいい教養人だが慢性の不眠症で、それが原因でいろいろと余病が出ている。痙攣、頭痛、筋肉痛、麻痺。すでに何度も治療に来てもらっているのだが、一向に好転の兆しがない。それでもこの人は私とおしゃべりし、一緒に音楽を聞き、治療を受け、しばし語り合って帰っていく。見送りながら、この方は今夜も一晩中眠れないに違いない、と気の毒に思いながら、ガレンの肖像画に向かって「時おり己の無力を痛感します」と心で語る。

最後の客が来たのは六時近くだった。奥さんが脳出血で入院中である。その病院の担当医の許可を得て往診に行く約束になっていた。が、その前にご本人にも治療を施してあげなければならない。泌尿器の疾患で偏頭痛もある。それにもう一つ病的な自己憐憫の気がある。前の二つは手を当てて治療し、後の一つは霊的真理を説いて聞かせる。終わって病院へと向かった。

病室へと入ってみると、奥さんは目を見開いたまま身動きひとつせず、口も利けない状態で複雑な医療器と管でつながれている。私の目には奥さんの霊は完全に肉体に閉じこめられたまま身動きできなくなっている。その肉体はもはや正常な機能を失っている。こんな時は二つに一つしか道はない。肉体機能を回復させて霊の働きを取り戻すか、肉体を棄てて霊を解放してやるかだ。

が、治療家としての私には勝手な選択は許されない。私にはただ手を当てて背後霊の判断を待つよりほかはない。私は精神統一をして一心に治療エネルギーを送ろうとするが反応がない。しばらくその状態を続けてから引き揚げた。

その日はもう一人往診の約束をした人がいた。四マイル先の老婆である。明るい立派な部屋の豪華なベットで私を迎えてくれた。滅多に見かけない筋肉の病気で、十六年間も寝たきりである。痛みもあるし不愉快である。私は温かく挨拶して、しばらくおしゃべりをしてから治療に入った。手応えがある。治療後、痛みがずっと和らいだという。これでこの老婆もよく寝られるようになるだろう。

家に帰ったのは七時半だった。すでに治療室は妻が片付けてくれて、夕食の用意も出来ていた。手を洗い、衣服を着替えてからテーブルにつく。

かくして私の治療日が終わった。