金太郎 特集 |
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今年も端午の節句が間近だ。この日は昔から男児が健康で逞しく育つように、鯉のぼりとともに「五月人形」が飾られるのだが、そこでの一番人気は「金太郎」である。同じ太郎でも、桃太郎や浦島太郎はおとぎ話の主人公にすぎないのに対し、金太郎は実在の人物で、長じて坂田公時(源頼光の四天王の一人)という立派な武将になったからであろうか。この点も、我が子の立身出世を願う親心にピッタリなのかもしれない。「マサカリかついで金太郎、熊にまたがりお馬の稽古...ケダモノ集めて相撲の稽古...」と唱歌にもあるとおり、マサカリは金太郎のトレードマークであり、熊にまたがったり熊と相撲をとったりしている金太郎が郷土玩具にもすこぶる多い。熊と組み合わせた金太郎を、まとめて“熊金”と呼んでいる。写真は三次人形で高さ28cm。(H18.4.9)

金太郎が今のような昔話の形式にまとまったのは、室町時代の末から江戸時代の初めという。しかし、舞台が相模国(神奈川県)足柄山で、主人公も坂田公時(金時)と特定されていることからもわかるように、昔話とはいえ説話的要素ばかりでなく、伝説的、伝記的要素を多分に含んでいる。つまり、金太郎の話は、平安期の人・坂田公時の傑物たる評価が定まった後で、すでにあった山姥伝説と怪童伝説とが下敷きになってつくられた“英雄生い立ち伝説”ということができる。金太郎が五大昔話(桃太郎、舌切り雀、花咲爺、猿蟹合戦、かちかち山)や他の昔話などと大きく異なるゆえんである。左:鯛担ぎ熊乗り金太郎(福島県三春張子)、右:熊乗り金太郎(埼玉県鴻巣練り物、高さ10cm)

金太郎の住んでいたとされる金時山(1,213m)は箱根外輪山の最高峰で、その登山口には金時神社がある。神社の後ろの大きな“宿り石”は、山姥が眼病を治すために住んでいた所といわれているし、熊と相撲をとった時に踏み割ったという“踏み割り石”や金太郎が遊んだという“遊び石”もある。さらに、付近にある乙女峠の頂上には“金時踏み跨り石”という巨石もある。このように、足柄山一帯は金太郎ゆかりの跡が数多くあるが、一方では金太郎の出生地には異説もあって、信濃国(長野県)南安曇郡八坂村上籠、あるいは越後国(新潟県)西頚城郡上路村なども候補にあげられている。しかし、坂田公時は源頼光の死後、仕えを辞めて足柄山に隠棲したといわれることから、やはり足柄山説が有力という(1)。写真は鶴岡の瓦人形(高さ14cm)。瓦人形には、ほかにも金太郎母子の微笑ましい人形があり、乳房を露わにした山姥の開放的なポーズが印象的である(山形県の玩具21)。(H18.4.10)

金太郎は裸で、赤く塗られていることが多い。これは、血色のよい元気な子供を表わしているばかりでなく、痘瘡(疱瘡、天然痘)除けのまじないの意味もある。むかし、痘瘡は“痘瘡神”の仕業であり、その神様は赤い色を好むと信じられていた。そこで、病気が人形の方に取り着くように、あるいは痘瘡神が人形へ乗り移って病気が早く治るようにと、親は子供に赤色の人形を与えた。一説には、赤は痘瘡神を祓う色だからともいう(。赤色に塗られた玩具には金太郎のほかにも獅子頭、だるま、鯛車、犬などがあり、特に埼玉県鴻巣の練り物は“赤物”と呼ばれて有名である(犬06)。今回紹介する伏見人形の金太郎では、全身が赤く塗られているうえに、力や正義を示す赤の隈取もほどこされている(高さ24cm)。蛇足だが、世界中で猛威を振るっていた痘瘡も、ワクチンの開発など医学の進歩に伴い、1977年のソマリアでの患者を最後に地球上から姿を消した。(H18.4.17)

手元にある絵本(2)で金太郎が熊と出会う場面を読み返してみる。「山の中ではおもちゃもなく、金太郎はマサカリで毎日森の木を切り倒して遊んでいました。ある日のこと、『おれの森を荒らすのは誰だ』と怒って出てきた熊を、金太郎はたちまち投げ飛ばしてしまいました。森の中では力の強いものが大将です。負けた熊は金太郎の家来になりました。」岡山県の久米人形(左)では、投げ飛ばした熊を踏みつけている金太郎の圧倒的な力が表現されている。伏見人形にも通じるもので、これが金太郎人形本来の姿であろう。対照的に、仲良しの金太郎と熊をテーマにしているのが山形県の酒田人形(中)と秋田県の八橋人形(右)である。仙台張子(宮城県の玩具12)も同様だが、これらの“メルヘン風熊金”は伏見人形などに比べると新しい型のようだ。八橋人形の高さ12cm。(H18.4.20)

金太郎がまたがっているのは熊ばかりではない。全国には馬、猪、狆などさまざまな動物の背に乗った金太郎人形がある。写真左は埼玉県春日部張子の馬乗り金時(高さ18cm)。一方、金太郎が滝壷に身を躍らせて大鯉と格闘し、金太郎を背にしたまま鯉が滝を登ったという話から、金太郎と鯉とを組み合わせた“鯉金”と呼ばれる人形も作られている。前に紹介した鯉乗り金時(福島県の玩具18)や鯉抱き金時(山形県の玩具07)などがそれである。ここでは鹿児島県の垂水人形(中)と大分県の別府土鈴(右)の鯉金を紹介する。(H18.4.20)

鯛はおめでたい魚として郷土玩具にも欠かせない。漁村の守り神である恵比寿との組み合わせが多いのは当然だが、金太郎ともよく組み合わされる。本来は鯉との組み合わせだったのが、色の黒い細身の鯉よりも、赤くて丸みのある鯛のほうが効果的なので、鯉の代わりに組み合わせたものだという(3)。写真は帖佐土人形の鯛抱き金時(鯛抱き童子、高さ20cm)。ほかにも酒田土人形(山形県)、富岡張子(福島県)などに見られる。熊金02で紹介した三春張子は鯛金でもある。(H18.4.20)

金太郎が二かかえもあるような大木を引き倒して谷川に橋をかけたという話に因む伏見人形(高さ22cm)。怪力無双の金太郎の面目躍如といったところである。伏見人形にはこのほかにも俵担ぎ、釣鐘担ぎ、宝車引き、鯛車引きなどがあり、多彩である。さて、京に上った金太郎は名も坂田公時と改め、源頼光の四天王と謳われる武将になった。“大江山の鬼退治”は、都を荒らしまわっていた酒呑童子(しゅてんどうじ)を頼光と四天王が退治する物語であり、金太郎の後日談である。(H18.4.20)

私の記憶にある金太郎は、子供のころ家に飾ってあった五月人形で、“暫(しばらく)”の格好をしていた。歌舞伎十八番の“暫”は、悪漢達になぶられる若い男女が、まさに刀で切られようとする寸前、めっぽう派手な出で立ちをした主人公(鎌倉権五郎景政)が「しばらく、しばらく」と声をかけながら現れ、悪漢達の首を一刀のもとに切り落としてしまう荒唐無稽な話である。私は、“弱きを助け悪を懲らす正義の味方”が金太郎の姿に重なって節句飾りになったものとばかり思っていた。ところが、東京は浅草橋で代々雛問屋を営む山田徳兵衛氏によると、“暫金時”の誕生は偶然だったようだ。金太郎は古来、裸に腹掛けに決まっていたが、裸体だと汚れたり壊れたりすることが多く、問屋では困りものであった。そこで、大正の初めころ衣装を着せようということになり、最初は豆を載せた三方を持つ“豆撒き金時”を作って三越百貨店に納めた。ところが、夜のうちに鼠が三方の豆を食い荒らしてしまったので、困り果てた店では三方を中啓(扇)に取り替えて急場を補ったところ、“暫”に似ていることが評判を呼び、以後“暫金時”は五月人形の人気者になったのだという(4)。写真は従弟が撮って送ってくれたものである(高さ35cm)。(H18.4.20)

三太郎(金太郎、桃太郎、浦島太郎)のなかでも抜群の人気者、しかも丸々と太った姿かたちの金太郎なので、だるまの形にしつらえた郷土玩具もあろうかと探してみたが、どうやら伝統だるまには見当たらない。そんななか、この春日部張子の金太郎は、新作ながら伝統的なだるまの様式と手法を継承しつつ、金太郎のキャラクターをうまくとりいれた作品である。高さ19cm。(H19.9.15)

金太郎の凧といえば、筆使いが冴える八戸の南部凧(青森11)をまず思い浮べるが、この柳川凧は大空に揚がった時に本領を発揮する凧である。風を受けると、まん丸い目玉がクルクル回転する仕組みなので、目返し面、からくり金時とも呼ばれている。顔いっぱいの金時凧は、長崎県の平戸や壱岐にもみられるものである。高さ67p。(H25.3.22)

横手市の中山人形(秋田04、雛19、馬07)。同県秋田市の八橋人形に比べ、写実的で垢抜けしていると言われる(秋田05)。しかし、この熊はまるで頭を撫でられている猫のようだ。疱瘡除けのまじないから、ここでも金太郎は全身真っ赤に塗られている(金太郎04・08、埼玉01、随筆08)。高さ13p。(R4.7.11)

筑後市の赤坂土人形(福岡12・13)は、素焼きに胡粉をかけ、食用色素(かつては植物染料)を使って無造作に筆を入れただけの素朴なもの。この熊金も描彩は極めて簡素で、子供が鉞(まさかり)を担いでいるので辛うじて金太郎と分かり、それならば下に居るのは熊だろう、と想像しなければならないほど。現在では「名物赤坂飴」造りを本業とする野口家(表紙21)が型を受け継ぐのみである。高さ12p。(R4.7.11)

金太郎との組み合わせで最も多いのは熊だが、次に多いのは鯉だろう(福島18、山形07、水族館15)。鯉は、“黄河上流の竜門に昇ることのできた鯉は竜と化す”という中国の竜門伝説から、立身出世の象徴である(水族館14)。元気な金太郎と出世魚の鯉が一体となった鯉金は、端午の節供にはより相応しいかもしれない。写真は酒田市の鵜渡川原土人形(山形24・25)。高さ11p。(R4.7.11)
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