大須賀乙字 おおすが・おつじ(1881—1920)


 

本名=大須賀 績(おおすが・いさお)  
明治14年7月29日—大正9年1月20日 
享年38歳(諦観院顕文清績居士)❖乙字忌 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種16号9側


 
俳人。福島県生。東京帝国大学卒。中学、高等女学校で教えた後、東京音楽学校(現・東京藝術大学)教授。河東碧梧桐に師事。明治41年評論『俳句界の新傾向』を発表し、新傾向俳句を提唱した。のち碧梧桐と対立、『石楠』『懸葵』などで俳論家として活躍した。『乙字句集』『乙字俳論集』などがある。






 

 そもそも詩歌製作後の吾等感情は一種解脱的の味ひである。然るに俳句は製作に取り掛る時は既に解脱的寂滅的調和の感情に到達して居る。俳句は季語や句切を以て全内容を各概念の排列に分肢するのは、間接的思考の産物たる證據である。何となれば純抒情詩の場合の如く直接感情の激動に平行して併発するものは音楽的言語の節奏美を假りなければならぬからだ。静的なる審美的なる俳句の形式の生じたのは、この形容を便利とする内的要求に應じたのである。芭蕉其他遁逃者の手によつて專ら発達を遂げたのは偶然でない。和歌俳句は我詩歌の両極端を代表するもので、両者の比較により製作時の心的情態を見るべきである。精神活動が殆ど無意識の飽和情態に入れる瞬間即ち自已と外物との関係を忘れたる時、吾等は最も、審美的感情を恣にすることが出来る。造化の懐に入り天然と同化するといふは其心持を指したのである。この寂滅的調和境に適するやう意識の内容を分肢して各概念に排列するのには、趣向がなければならぬ。趣向を凝すことが俳人に取つて俳句作の生命になつて居る。

(日本特有の詩形)
 

山雲を谿に呼ぶなり閑古鳥
 
木の股に木の葉と堪えふ秋の水

 


 

 喜谷六花、小沢碧童とともに碧梧桐門の三羽烏と称されたが、新傾向俳句の碧梧桐が主宰した自由律俳句の結社「海紅」の内部対立により離脱した。
 その後、大正4年に臼田亞浪と俳誌『石楠』を創刊して、虚子の『ホトトギス』、碧梧桐の新傾向俳句を批判し、俳論家としても行動したが、のちに訣別していった。
 大正8年11月より、肋膜肺炎のため臥床を余儀なくされていた乙字は翌9年1月4日、福武枯木氏のため、枕辺に句会を催し「寒さ」10句を作った。〈干足袋の日南に氷る寒さかな〉、これが絶句となる。しかし自信を持っていたこの句に、一点も入らず機嫌が悪かったという。20日、夜明けまで昏睡状態になり午前10時、38年の短い生涯を閉じた。



 

 河東碧悟桐をはじめ高浜虚子、荻原井泉水、古今の俳人は手当たり次第と思うほどに撫で斬りというその激しい主張、気風ゆえ、毀誉褒貶が乙字の上に集まったが、1月24日、東京・音羽の町を小日向の道栄寺に向かった柩には正午過ぎから降り始めた冷たい雨が、それらのすべてのものを洗い流すように降りかかっていた。
 ——80年を経て、清涼とした梅雨の晴れ間、この浄域に「乙字之墓」は建つ。乙字より先の六年前に27歳で病没した最初の妻チヨの墓は生前の願いと、生まれ故郷なら肉親や知人も墓参がしやすいだろうとの思いもあって、茨城県那珂湊(現・ひたちなか市)にあったが、父の願いでチヨの遺髪がこの墓に納められた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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