大木惇夫 おおき・あつお(1895—1977)


 

本名=大木軍一(おおき・ぐんいち)
明治28年4月18日—昭和52年7月19日 
享年82歳(惇徳院大誉佛心巣林慈道居士) 
東京都港区芝公園2丁目3–2 安養院(浄土宗)



詩人。広島県生。広島商業学校(現・県立広島商業高等学校)卒。大正10年『大阪朝日新聞』の懸賞小説に入選。小田原に移り、北原白秋に師事。14年第一詩集『風・光・木の葉』を刊行。第二次世界大戦中は愛国詩や歌謡曲の作詞で人気を得た。『秋に見る夢』『危険信号』『失意の虹』などの詩集のほか白秋の伝記『天馬のなげき』がある。






 

言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃にくだきて
暫し、ただ酔ひて勢へよ、
わが征くはバタビヤの街、
君はよくバンドンを突け、
このタベ相離るとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ、
黙々と雲は行き雲はゆけるを。

(『海原にありて歌へる』・戦友別盃の歌—南支那海の船上にて。)



 

 軍国色が強まり、日中戦争から太平洋戦争へと不穏さは増していく中、陸軍文化部隊宣伝班員としてジャワ島に赴く途中に乗っていた輸送船佐倉丸が撃沈され、漂流した後に救い出されて九死に一生を得るという半死半生の体験を経て生まれた戦争詩集『海原にありて歌へる』は当時、文部省推薦図書となり、文学報国会の大東亜文学賞を受賞する。依頼のくるままに発表した多くの戦争詩や歌曲の作詞によって、戦後、戦争協力者として文壇から疎外されたつづけた大木惇夫の晩年は失意と窮迫の日々であった。昭和46年ころから患った肝臓肥大症は悪化を辿って入退院の繰り返し、臥したままの生活で、白内障で視力の衰えた眼で執筆を続けていたが、52年7月19日午前6時、東京・大田区千鳥町の自宅で肝臓がんのため永眠する。



 

 西方に増上寺の山門が見える。初恋の人慶子と念願の結婚を果たしたものの結核が回復せぬまま十数年の臥床ののち、昭和7年に死んでいった慶子の葬儀が行われた芝公園の安養院に「大木家之墓」はある。側面に昭和54年6月建之、施主に長男新彦と惇夫の末弟佳雄の名が刻まれている。私は〈戦地にあるお互いに生還を期しない者同士としての別盃に添えるのに、この詩の言葉を、必ずしも他に向かって言ったのではなかった。自らの心に刻んだのである〉と記した『戦友別盃の歌』を森繁久弥の朗読に倣っていつともなく愛誦しているが、〈君の詩は清々しい。さうして而も燐光の淡青色を潜めてゐる。また杏や梨の香ひがする。〉と師北原白秋に賞賛された抒情詩人にして、戦争詩人、慶子の晩年と重複するように別家庭を築いた二番目の妻幸子との生活もやがて危うさと苦悩に包まれていった大木惇夫の眠る墓碑にただただ合掌するのみであった。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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