大西民子 おおにし・たみこ(1924—1994)


 

本名=菅野民子(かんの・たみこ)
大正13年5月8日—平成6年1月5日 
享年69歳(霜月院民誉白雲智光大姉)
埼玉県さいたま市岩槻区加倉1丁目25−1 浄国寺(浄土宗)



歌人。岩手県生。奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)卒。昭和19年釜石高等女学校(現・釜石高等学校)の教師、24年大宮市に移住し、埼玉県教育局職員となり、57年退職。一方、24年木俣修に師事、28年「形成」創刊に参加、以来主要同人として編集に携わる。歌集に『まぼろしの椅子』『不文律の掟』『無数の耳』『花溢れゐき』『風水』『風の曼荼羅』などがある。







かたはらにおく幻の椅子ひとつあくがれて待つ夜もなし今は

てのひらをくぼめて待てば青空の見えぬ傷より花こぼれ来る

みづうみの旅より夜半に帰り来て思ふ寂しき晩年のこと

石臼のずれてかさなりゐし不安よみがへりつつ遠きふるさと

秋の夜の炭火匂ひて人の名を灰文字に書くかなしみも過ぐ

円柱は何れも太く妹をしばしばわれの視野から奪ふ

桃の木は葉をけむらせて雨のなか共に見し日は花溢れゐき

眠られぬ夜々のあとまた生きてゐるのみに足らむと思ふ日つづく

一本の木となりてあれゆさぶりて過ぎにしものを風と呼ぶべく
 
来む世にはゑのころぐさとわがならむ抜かれぬやうに踏まれぬやうに

 


 

 三人姉妹の次女。14歳で嫁いだ長女サトは昭和14年、若くして死去。20年に父佐介が没し、22年に釜石の教員組合活動で知り合った大西博と結婚、大宮市に移住するも夫は家を出てしまった。35年、母カネ病没。一緒に暮らしていた最後の肉親妹佐代子が47年に急死してからはずっと一人で暮らしていたのだが、58年に師木俣修が亡くなってしばらくした頃からは心臓病のため外出もままならない生活を強いられるようになってしまった。大西を師とした短歌グループ「五月会」が身の回りの世話など公私にわたって民子を支え続けていたのだが、平成6年1月5日、五月会の会員がいつも通りに食事を届けに行ったところ民子はベッドに眠ったまま息絶えていた。午前10時頃のこと、心筋梗塞であった。



 

 自らの命と引き替えに尽力し、死の前年末に出された新雑誌「波濤」創刊号に〈とどこほる雲のごときは差し措きて力ある者走り続けよ〉と詠い、遺詠〈棒立ちといふことのあり立ちをればわれはわれより離れてゆけり〉を「短歌」平成6年2月号に発表した大西民子は関東十八檀林のひとつで岩槻藩主阿部家の菩提寺でもある仏眼山浄国寺に眠っている。山門を入ると昭和63年、「五月会」建立〈一本の木となりてあれゆさぶりて過ぎにしものを風と呼ぶべく〉の歌碑。昭和24年頃に母と妹が、母逝去は妹と5年間ほどこの寺の離れで二人暮らしをした縁で、妹の死んだ年に民子が建てた「菅野家之墓」、歴代住職墓の真ん前、父佐介、母カネ、妹佐代子、愛犬LAURIER(ローリエ)、左側面に民子の名が刻まれている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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