荻原井泉水 おぎわら・せいせんすい(1884—1976)


 

本名=荻原藤吉(おぎわら・とうきち)
明治17年6月16日—昭和51年5月20日 
享年91歳(天寿妙法釈随翁居士)❖井泉水忌 
東京都港区六本木4丁目2–10 妙像寺(日蓮宗)



俳人。東京府生。東京帝国大学卒。明治四四年新傾向俳句機関誌『層雲』を創刊・主宰。大正3年句集『自然の扉』を刊行、自由律俳句を実践する。11年『新俳句提唱』を刊行。句集『湧出るもの』『流転しつつ』『泉を掘る』などがある。門下に尾崎放哉、種田山頭火。



 


 

空をあゆむ朗朗と月ひとり

落葉の、これでも路であることは橋があって

枯野に大きなひまわりの花、そこに停車する

尼さま合掌してさようならしてひぐらし

この水年暮るる海へ行く水の音かな                      

ぶどうむらさき写しおるにぶどうの赤き酒をつぐ

どちら見ても山頭火が歩いた山の秋の雲

つばきは一輪さすもので山にいっぱい     

 


 

 俳誌『層雲』を主宰してきた荻原井泉水は、大正2年、〈俳句は印象より出発して象徴に向かう傾きがある。俳句は象徴の詩である〉と季語無用を唱えたのだが、新しい作風の俳句を標榜して、ともに新傾向俳句運動を提唱してきた河東碧梧桐は意見を異にしてたもとを分けて去った。
 「句の魂」を追求し、種田山頭火や、尾崎放哉ら異色の遁世型門下生を持ち、彼らを陰になり日向になり援助してきた。大正12年、妻桂子、翌年母が亡くなると行脚旅に出かけることが多くなったが、再婚を機にようやく鎌倉に落ち着いた。
 精神の閃きを暗示的に詠んだ俳人井泉水は、昭和51年5月20日午後4時17分、脳血栓のため鎌倉山ノ内の自宅で永眠する——。



 

 六本木の交差点から溜池方面に下る幹道を少しばかり右に逸れたところにあるこの寺、妙像寺を再び訪れる。自由律俳句・季語無用の見解を示した俳人が眠る場所にも、確かに秋の涼しさは漂っている。彼岸をわずかに過ぎたばかりの日曜日にもかかわらず、まったく人の影もなく、ビルとビルに囲まれて窪地のようにある塋域。墓石に反射された秋の陽光が、ガラス張りの建物に蜃気楼のような鈍い光を映している。
 〈美しき骨壺牡丹化られている〉
 絶句にある美しい骨壺は、この四角く切りつめられた「荻原家之墓」に納められてあるのだろうか。井泉水の墓は妻や母の死後、仏門を志して一時寄寓した京都の東福寺塔頭天得院にも建てられていると聞く。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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