大町桂月 おおまち・けいげつ(1869—1925)


 

本名=大町芳衛(おおまち・よしえ)
明治2年1月24日(新暦3月6日)—大正14年6月10日 
享年56歳(清文院桂月鉄脚居士)
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種9号5側



詩人・随筆家。高知県生。東京帝国大学卒。島根の中学教師を務めた後、明治33年博文社に入社、『文芸倶楽部』『太陽』などに随筆を書き美文家として知られた。旅を愛し、晩年は青森軒十和田湖の蔦温泉に居住した。『一蓑一笠』『行雲流水』『桂月全集』などがある。






 

 近き小山にへだてられて、大山はしばし見えざりしが、路は日野川をわたりて左折して、大山、今は後にあらはれぬ。かくて米子の市街見ゆる平野に至りし頃、日は古城山のかなたに沈みぬ。多謝す、今日のの太陽よ。御身は、夜来寒戦せし旅客に希望と光明とを與へしこと、いかばかりぞや。旅にうれしきは、晴天なるが、今日と云ふ今日御身は一點の雲にだにさゝへられずして、一日のつとめをはたし、光明を人の子にはなちたまへり。願くは、明日も明後日もまた斯くあれかし。思ひかへせば、御身の西に沈む影、われは寒烟荒草、古壘蕭々たる處に見送りたる事ありき。行くに家なく、歸るに家なく、唯ひとり深山の上に迷ひたる時に見送りたる事もありき。御身の沈む影は、常に多感なる我身をして悲哀の情にたへざらしめしものを、今日は如何なる日ぞ。今日に限りて、我は滿腔の希望を以て、御身の沈むを送る。あゝ笑ひ給ふこと莫れ、今日孤影煢々たる天涯車上の旅客明日も同じく車上にあれど、妻を添へ、子を添へて、御身の再びのぼらむを迎ふべき也。
                                                          
(迎妻紀行)

 


 

 青森県五戸町出身のジャーナリスト鳥谷部春汀の誘いを受けて明治41年8月末から9月にかけ、初めて十和田湖、奥入瀬渓流に分け入り、蔦温泉に一夜の宿をとった。
 そのすばらしさに感嘆した桂月は雑誌『太陽』に紀行文『奥羽一周記』として発表、一躍、風光明媚な様を全国に知られることとなった。
 それから17年後の大正14年、酒と旅を愛し、自然美を愛し、十和田湖、奥入瀬渓流を愛した文人桂月は蔦温泉に居住し、本籍をも移したのだが、6月10日午前9時15分、胃潰瘍のため蔦温泉旅館の一室で没した。薬師堂建設の際に余った部材で建てられたために〈餘材庵〉と命名された終の棲家は一度も住まうことなく没後に完成した。



 

 臨終の際、枕頭の夫人が「何か辞世の句がありませんか」と尋ねたとき「いくつもあるが」といって「みちのくの、とわだのやまに、血をはきて、そのまましねば、われは、ほんもう」と吟じてから、「これはまずいから、東京の新聞にはむかんな」と笑ってから言った辞世の句〈ごくらくに、こゆるたうげのひとやすみ、つたのいでゆに、みをばきよめて〉を遺して亡くなった。
 桂月には、蔦温泉の丘の中腹、楢の大木の下にある「大町桂月之墓」と、渓流の音が聞こえるはずもないこの雑司ヶ谷の古庭にある。人形のように柔軟な石肌を持った自然石「大町の墓」が、蜘蛛の巣のはった台石の上に建ってある。暮れゆく晩夏の一日を惜しんでいる桂月の後姿に見えるのは私の感傷であろうか。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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