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     落合直文 おちあい・なおぶみ(1861—1902)


 

本名=鮎貝亀次郎(あゆかい・かめじろう)
文久元年11月15日(新暦12月16日)—明治36年12月16日 
享年42歳 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種イ13号3側7番 



歌人・国文学者。陸奥国(宮城県)生。東京帝国大学中退。明治15年東京帝国大学古典講習科に入学。21年皇典講究所講師。『孝女白菊の歌』を発表。22年国語伝習所創立に関係、講師となる。23年より荻野由之らと『日本文学全書』を刊行。26年あさ香社を創立、与謝野寛らを育成する。『萩之家歌集』などがある。



 


 

旅行くと麻の小袋とり見れば去年のままなり筆墨硯

さ夜中にひとり目ざめてつくづくと歌おもふ時はわれも神なり           

血を吐きてうせにし友のおくつきにあかき躑躅の花さきにけり

やみふして明日をも知らぬ身にも猶世のゆくすゑは思はるゝかな

ともかくもこの秋まではながらへて今一たびは萩の花見む

庭にすてし歌の古反古雨にkちてきくべくなりぬこほろぎの聲          

もみち葉のはかなき人をしのふにもまつしくるゝはたもとなりけり

 


 

 伊達藩筆頭家老鮎貝盛房の次男として陸奥国本吉郡松崎村字片浜(現・宮城県気仙沼市字松崎片浜・煙雲館)に生まれ、国学者落合直亮の養子となった直文。萩を愛し「萩之家」と号した。
 明治30年頃から健康すぐれず療養を余儀なくされたが、病中出講もいとわず、36年4月には、母としが危篤に陥ったため入院中にもかかわらず、気仙沼に帰郷するなどして病状がいよいよ悪化、12月16日午前8時20分、与謝野鉄幹が一時寄宿していた吉祥寺脇にあった東京・駒込浅嘉町(現・文京区本駒込3丁目)の寓居で糖尿病に肺炎を併発して死去した。
 この地で結成した歌塾「あさ香社」門下の与謝野鉄幹は「新詩社」、尾上柴舟は「いかづち会」を興して和歌革新運動を繰り広げていった。



 

 三鷹の禅林寺にある森鴎外の父森静男の墓の書は鴎外に請われて直文がしたためたのであったが、落合直文は明治36年12月20日、青山斎場において神葬式の後、青山霊園の土となった。
 長与善郎の墓がある長与家墓域に隣接して南北に細長い塋域がある。『落合直文著作集』を出版した明治書院と国語辞典『ことばの泉』を出版した大蔵書店の献燈が一対。正面奥に並ぶ落合一族の碑に向かって延びる踏み石の中程右手に厳然と建っている高さ2メートルほどの花崗岩の石柱碑、午後の微睡みに和らいだ春陽は「落合直文之墓」を遠巻きに浮かび上がらせていた。
——〈木がらしよなれがゆくへの静けさのおもかげ夢見いざこのよねむ〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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