岡 麓 おか・ふもと(1877—1951)


 

本名=岡 三郎(おか・さぶろう)
明治10年3月3日—昭和26年9月7日 
享年74歳(林鹿院幽道三谷居士)
東京都文京区向丘2丁目37–5 高林寺(曹洞宗)



歌人。東京府生。府立第一中学校(現・日比谷高等学校)中退。明治32年正岡子規の門下。36年『馬酔木』編集同人となる。長塚節、斎藤茂吉らを知り、大正5年『アララギ』に歌を発表して以降、同誌の発展に尽くした。15年処女歌集『庭苔』を刊行。『涌井』『朝雲』などがある。



 


 

雪ふりしあとともなくて夕日さし木蓮の花かろくゆれをり

秋の雨降りてやまねば庭苔に土のおちつく秋は来にけり

日のかげのてょくさすごとあかるくて牡丹桜に雨ふりそそぐ
     
入り日そら惜しむ名残はわたくしの身にのみかかる嘆きならずも

遠山の後ろの空にくれて後も明るくもののあいろ残れり

風の吹く闇の夜ふけのつねならぬ外に立たずやと眠れざりけり
    
逝く人はかへり来らず月も日も留まれる者のうへにつもりて

妻も子もいづこ行きけむとらへ来て螢を見せつすべなきは孫

われひとりねてのみくらす桜んぼ色づく見ては逝きし子いづら    

 


 

 正岡子規門下として学び、『万葉集』に本質を置いた短歌に子規直伝の写生を理論的に吹き込んだ麓の歌は、都会的に洗練された典雅な歌と評され、島木赤彦、斎藤茂吉、中村憲吉などと長く「アララギ派」の中心を担ってきた。
 太平洋戦争末期、東京で被災、昭和20年5月、長野県北安曇郡会染村内鎌に疎開したが、三度にわたる肺炎と中風による半身不随に加え妻の春、娘の愛子を失うという不幸に見舞われ、自らも昭和26年9月7日午後2時、尿毒症発作のためその生涯を終えた。
 晩年愛用していた硯箱の蓋に〈岡麓 通称三郎 明治十年三月三日生 三谷ともいへり はじめ傘谷といふ 歌を詠み書を教へて一生を をはる〉と、書き付けていたといわれるように、歌と書で占められた一生であった。



 

 地下鉄本駒込駅近く、駒本小学校正門に通じる路地脇にある高林寺は由緒ある寺らしく、本堂裏の広い墓地に緒方洪庵など幕府侍医の墓が多い。
 江戸時代からの経年を示して墨色に染まった墓碑が点在している中には竹久夢二の恋人であった「彦乃」が眠る「笠井家乃墓」もひっそりとあった。
 代々幕府の奥医であった岡家の墓所は隣寺と接する墓地奥に細長くかなりの塋域を占めて、それぞれに小さいながらも侍医としての威厳を持った十数基の碑が林立していた。文京区保護樹木に指定された大ケヤキの樹幹に見守られるように、妻春と娘愛子の遺骨もともにおさめられた繊細で典雅な「岡麓之墓」が静かに影を揺らしている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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