舟橋聖一 ふなはし・せいいち(1904—1976)


 

本名=舟橋聖一(ふなはし・せいいち)
明治37年12月25日—昭和51年1月13日 
享年71歳(文篤院殿青梅秀聖居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園3区2種6側3番 



小説家・劇作家。東京府生。東京帝国大学卒。大正14年村山知義・河原崎長十郎らと劇団「心座」を結成、多くの戯曲を書いた。その後明治大学で教鞭をとるかたわら、昭和9年小説『ダイヴィング』を発表。10年『文学界』同人。13年『木石』で認められる。『悉皆屋康吉』『雪夫人絵図』『花の生涯』などがある。






  

 雪の量がましたことは、あたりの空気がいよいよ冷え切ってきたことで知れた。スタンドの電気が、二度程スウッと消えかけて又、点いたが、それでも康吉は、小冊子を離さなかった。何といっても初風会の葛藤で、しばらく萎えていた情熱が、又、冴え冴えとよみがえってくるのが自分にわかり、これだけの手ごたえがあれば、淋しいことなんか、ちっともない筈なのに、ややもすれば、自分の能力に、一喜一憂している現状を、もっと力強く克服しなくっては、駄目じゃないか---、今、一奮発足りねえんだなアと、康吉は、小冊子を持ったまま、段々昂奮してきて、身体に血がさすような気がした。この古風な小冊子の記事が、そのまま、康吉の役に立つことはもはや有り得ないにしろ、そのお陰で、康吉の身体に、こんなに泉のように湧いてくるものがあったとしたら、やっぱりこれは、不思議な縁で結びついている伊助の念力みたいなものが、以心伝心、康吉の胸内をゆすぶったにちがいない。その払暁から、雪は更に、勢いをまし、帝都は白一色につつまれたが、夜もすがら、不幸な伊助の骨壺の前に坐りつづけた康吉は、音もなく降りつもる雪のけはいさえ、遂に知らずに。
                                                              
(悉皆屋康吉)



 

 昭和51年1月13日、心不全のため日本医科大学付属病院で亡くなった舟橋聖一はエロティシズムの作家であった。その技巧と熱気によって人間がもつ逃れられない業を描くことを生涯とした作家であった。但し聖一のモラル・権威主義的性格については毀誉褒貶取り混ぜて多くの論があるが、それも氏の魅力のひとつと数えることができるのかもしれない。
 よく知られているように丹羽文雄とは互いにライバル意識が強かったようである。
 その死についても、41年頃より眼病が悪化し、晩年はほぼ失明状態であったが、口述筆記によって発表してきた晩年の作品群が提示するように、およそ「枯れ」とは縁のないものであった。



 

 舟橋聖一は本所横網町に生まれた。紛いようもなく生粋の江戸っ子であった。が、行動主義、能動精神を標榜した作品や伝統的、官能的な美の世界を描いた作品などで作家としての評価を高めていった反面、実生活では本来の江戸っ子とはかなり違った金銭感覚と権威主義的な印象を受けるのはあの風貌と相まってご愛敬といったところであろうか。
 長者番付に名を連ねるほどの人気作家のご多分に漏れず、この墓の主は艶聞の多い人間であったが、長男を4歳で亡くした昭和7年に建てた碑は、晩夏のまだるっこい残気の立ちこめる霊園の一角で、大樹の濃い影のカーテンを背後に引き、まぶしく光る石面に清楚な花束を配して私に対峙している。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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