福田英子 ふくだ・ひでこ(1865—1927)


 

本名=福田 英(ふくだ・ひで)
慶応元年10月5日(新暦11月22日)—昭和2年5月2日 
享年61歳(江月院妙雲英貞大姉)
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種イ4号11側


 
女性運動家。岡山藩(岡山県)生。小学校卒。18歳の時、大阪事件で投獄。万朝報記者福田友作と結婚したが死別。明治34年婦人の経済的独立を目指して角筈女子工芸学校を設立。このころより平民社に参加。40年「世界婦人」を発刊。『妾の半生涯』『わらわの思ひ出』などがある。






  

 世に罪深き人を問はゞ、妾は實に其随一ならん、世に愚鈍なる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。齢人生の六分に達し、今にして過ぎ來し方を顧みれば、行ひし事として罪悪ならぬはなく、謀慮りし事として誤謬ならぬはなきぞかし。羞悪懺悔、次ぐに苦悶懊悩を以てす、妾が、回顧を充たすものは唯々是のみ、鳴呼實に唯是れのみ也。
懺悔の苦悶、之れを愈すの道は唯已れを改むるより他にはあらじ。されど如何にしてか其己れを改むべきか、是れ将た一の苫悶なり。苦悶の上の苦悶なり。苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上又苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、生憎に他の苦悶來り、妾や今實に苦悶の合圍の内にあるなり。(中略)
 顧へば女性の身の自から揣らず、年少くして民権自由の聲に狂し、行途の蹉跌再三再四、漸く後の半生を家庭に托するを得たりしかど、一家の計未だ成らざるに、身は早く寡となりぬ。人の世のあぢきなさ、しみじみと骨にも透るばかりなり。若し妾のために同情の一掬を注がるゝものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。
                                                             
(妾の半生涯)



 

 女性解放運動の先駆者として「東洋のジャンヌ・ダルク」と呼ばれたこともあった。
 岸田俊子(中島湘煙)の演説に触れ、自由民権運動に参加。逮捕、投獄、結婚、死別などを経て、社会主義者と交わり、「世界婦人」を創刊、「婦人解放」の論陣を張って生涯反権力の姿勢を貫いた。
 昭和2年4月初旬、日本橋三越へ買い物に出かけ、帰宅後に行水をしたのが悪かった。風邪を患ってしまったうえに、生来の心臓病を併発し、5月2日午後6時5分、女性解放に捧げた生涯を閉じた。
 婦人運動の圧倒的な実践者、「女傑」と呼ばれた先覚者も、孤独と、経済的困難、末子千秋の死など、晩年は為すすべもなく恵まれることがなかった。



 

 〈心には血を吐くばかり憂かりしを忍びつつ、姉上をも誘いて、祖先の墓を拝せんことを母上に勧め、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺に詣で、暫く黙祷して妾が志を祖先に告げ〉て、故郷を去った明治17年の初秋。
 〈妾が過ぎ来し方は蹉跌の上の蹉跌なりき。されど妾は常に戦えり、蹉跌のためにかつて一度も怯みし事なし。過去のみといわず、現在のみといわず、妾が血管に血の流るる限りは、未来においても妾はなお戦わん〉と覚悟した福田英子。
 丸みを帯びた自然石の裏に〈婦人解放運動のさきがけ 福田英子をたたえて〉とある顕彰碑に「尽誠待天命」の文字が刻まれている。「景山家之墓」に眠る彼女に、霊園近くの駅前にたむろする女学生の嬌態を見せたくはない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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