福地桜痴 ふくち・おうち(1841—1906)


 

本名=福地源一郎(ふくち・げんいちろう)
天保12年3月23日(新暦5月13日)—明治39年1月4日 
享年64歳(温良院徳誉芳名桜痴居士)
東京都台東区谷中7丁目5–24 谷中霊園甲1号12側


 
ジャーナリスト・劇作家。肥前国(長崎県)生。明治元年『江湖新聞』を発刊したが発禁となり投獄。7年東京日日新聞主筆となり、政府支持の立場で自由民権運動を批判し、立憲帝政党を結成する。のち劇作・小説・史書の著述に専念した。脚本に『春日局』『侠客春雨傘』、史論に『幕府衰亡論』などがある。






  

 日本の文字の衰えたるや久し。我また夢にだに著述を見ずと申さバ、世上に諂ねる先生たちハクルリと眼をむき出し、ダマレ記者吾曹メ、恐れ多くも朝廷にてハ文部省を建て置かれ、大中小の學校を日本全州に取設け、一夫一掃もいろはを知らざれバ之を溝壑に陥るを見るが如くに思召さる、日本あってより以來いまだ今日の盛なる如きハあらずと稱賛せらるべし。吾曹も亦豈に此御世話あるを知らざらんや。只この御世話あるに拘らず、日本の文字の日々に衰える事が目に立ちて見える故に、餘儀なく箇様な嘆息を致したるなり。

(日本文学の不振を嘆ず)



 

 江戸期の長崎新石灰町(現・長崎市油屋町)で儒医の子幼名を八十吉として生まれ、18歳の時に長崎を出て幕府に仕えた。
 維新後は慶応4年、「江湖新聞」を創刊、7年には東京初の日刊紙「東京日日新聞」(現・毎日新聞)の社長兼主筆となり、日本で初めての「社説」を掲げた。
 「社会」を「ソサエチー」のルビつきで掲載、「社会」という日本語を最初に使うなど、新聞人として活躍し、福澤諭吉とともに「天下の双福」と称された。
 明治21年、桜痴47歳にして小説家・劇作家に転向、政治小説、歴史小説を書き、千葉勝五郎らと歌舞伎座の創立に尽力したが、明治38年秋より糖尿病、肺結核悪化により病床につくようになった。翌年の1月4日に永眠。芝増上寺での葬儀の後、谷中墓地に埋葬された。



 

 塋域からはみ出した枝を避けるように歩く細い詣り道。「福地源一郎之墓」は、赤錆びた鉄棒で繋がれた石柱柵の内に建っている。二メートルを優に超す墓碑は頭を植樹の枝葉に突っ込み、いまだに成長しているような有様であった。
 徳川幕府最後の将軍慶喜の墓もある古びたこの墓地の風景は寒々としている。吐く息の白さも忽ちのうちに消え失せ、幽かに低く差し込んでくる陽光にようやく温もりを感じた。
 「桜痴」という号は、吉原でひいきにしていた妓女の櫻路にちなんでつけたというほど、江左風流第一才子と称して吉原通いを続けた。
 さと夫人との結婚当夜さえも吉原に出かけ帰らなかったという逸話が残っているほど遊蕩に励んだ桜痴だが、この石の下に居てはいかに吉原が近いといっても、勝手気ままにはなるまい。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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