藤浪和子 ふじなみ・かずこ(1888—1979)


 

本名=藤浪 和(ふじなみ・かず) 
明治21年10月—昭和54年7月27日 
享年90歳(華香院釈尼妙和) 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園9区1種10側 
愛知県名古屋市千種区法王町1丁目1番地 日泰寺(超宗派)



小説家・掃苔家。東京府生。跡見女学校(現・跡見学園)卒卒。十代のころ姉とともに二葉亭四迷、夏目漱石、俳句は河東碧梧桐に師事。明治44年平塚らいてうらと事務所を自宅にして『青鞜』を創刊。『七夕の夜』『一夜』などを発表。のち医学者藤波剛一と結婚。昭和15年『東京掃苔録』などを発表。ほかに『おきみ』『お葉』などがある。







  

 「女なんぞに云つたつて分りやしないつて、云やしないわ、だからもう聞かないの。考へるとね、何の為めに斯うやつてゐるかと思つてよ。之から未来だつて奈何成行くものか、考へたくもないわ。今丈で沢山なやうな気がしてよ。」
 蒼白い貌は、疲れが出たらしく薄紅くなつて、捨鉢に云つた口許には、失望の色が読まれる。お蔦は何と云つて慰めていゝか、その言葉に困つた。此の儘姉さんと一緒に、大きな声を出して泣きたい、泣いたら姉さんの失望の幾分かゞ洗はれて了ふかと思はれるから。
 「蔦ちやんはいゝわ」とつくづく自由な妹を羨むやうな口吻をした。
 「だつて姉さんは奇麗だから羨やましいわ。」
 つひ日頃の思が口に出た。おゑんは只笑つて居たが、それでも嬉しさは隠されなかつた。姉さんの慰めは姉さんの貌だらふ。着物が特別好きなのも、髪の結び方の難しいのも、皆んな姉さんの美貌がさせるんだらふと思つた。風の間、間に、畑の方でガチヤガチヤが喧しく鳴き立てるのが耳につく。誰が離したんだらふ。
 「おゑん、奇麗だらふ、蔦ちゃんみて下さい。」
 散歩から帰つた兄さんが、ギヤマンに入れた金魚を姉さんの目の前にさしつけるやうにして見せた。真紅なのや、白い斑の入つたのが、青い藻に絡んで、大きく光つて見えた。
 翌る日は昨夜の風にも似ず、雨もふらずによく照つた。その代り砂は一日椽に舞ひ上つて、気持悪く思はせた。姉さんは今日は少し気分が好いと云つて、夕方行水を使ふと起きてみた。而して椽側で爪を切つてゐるお蔦に、
 「夜る爪を切ると親の死に目に逢はないとさ、およしなさいよ、」と笑つてとめた。姉さんが妙な事を云ふと思つて返事もせずにゐると、おゑんはそれには一向頓着せず、
 「昨夜は七夕さまだつたつてね、今日は明瞭と見えるよ天の川が、来てごらん。」と坐つて柱に倚りかゝつて上を見上げた。お蔦も立つて柱に掴まつて上を見た。檄き散らしたやうに、蒼く澄み切つた空一面に、小さく輝いてゐる紅や青の星の間に、それかと思ふ銀河が、白くづうつと西の方迄続いて空を横切つて居た。  

(七夕の夜)



 

 明治44年6月1日、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の父・東京帝国大学教授・物集高見邸の一角にあった物集和子の部屋に集った平塚明(らいてう)ら五人で「青鞜社」の発起人会が開かれ、9月に機関誌『青鞜』が発行されたが、翌年4月号の発禁処分によって家宅捜査をうけた父の怒りを買い脱退した。のち医学者で慶應義塾大学教授の藤波剛一と結婚、藤浪和子となって保守道徳に則った家妻の道を歩むことになる。〈昭和9年の秋から家事の閑を偸んで〉東京都内の墓所を巡るようになり、掃苔趣味の同好であった夫剛一と行動を共にすることもあったようだが、6年を費やして15年に刊行した『東京掃苔録』によって労は報われた。『青鞜』発起人の中でも比較的平安な人生を歩んだ和子は、昭和54年7月27日、特別養護老人ホームさつき荘で90年の生涯を終えた。



 

 二十数年前のとある日、東京・神保町すずらん通りの古書店でいまにも表紙がはがれ落ちそうで危うげな本『東京掃苔録』を見つけた。序に曰く〈故人を追慕し時代々々の世相にふれながら墓所を探るのは愉しい事である。偶々人が氣づかなかつたのを見出した時の忝なさは、探墓を経験した人のみがしる怡びである。また此処にある筈のが失はれてゐた時などは、僅に遺る故人の忍草が根こそぎ枯れた思ひで、何物にも譬へがたない寂しさに陥るのであった。(中略)人の一生は誠に尊いものである。それを僅か二三行に約めて行くのは僭越であり、人生の評判は千差万別である。〉、まさに天啓であった。野を分け、峠を越え、海を眺め、夕日に沈む。幾千日、探墓の旅をつづけて、いまここにかの人の墓に詣る。感無量なり。
なお、本墓は名古屋・日泰寺にあるというが、いまだ訪れる機会はない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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