藤澤清造 ふじさわ・せいぞう(1889—1932)


 

本名=藤澤清造(ふじさわ・せいぞう)
明治22年10月28日—昭和7年1月29日 
享年42歳(清光院春誉一道居士)
石川県七尾市小島町ハ148 西光寺(浄土宗)



小説家。石川県生。七尾尋常高等小学校卒。骨髄炎で療養後、職業を転々、友人の縁で演芸画報社に入社。訪問記者となり、小説を書く。大正11年三上於菟吉の助力で『根津権現裏』を上梓して認められたが、精神に異常をきたし、失踪を重ねて芝公園で凍死した。






  

 彼は皮肉其の物のような微笑を唇辺にあらわして、凝と私の方を見ているのだ。私は溜らなくなってきたので、今度はまたいきなり目潰しでも食ったように、はっと思って目を閉じてしまった。そして、張り子の虎を真似て、私は暫く頭を左右へ振っていたが、其の間にも絶えず感じられてくるのは脚の疼痛なのだ。ある時は斬りむすぶ太刀先の光のように、ある時は、袂時計のセコンドを刻む音のように、はっきり身を差貫いてくるそれが、私の体中を、蜂の巣のようにしてくるのだ。そして、其の巣の穴からは、苦しみの雫とでも云いたいような膿汁が、夜中の筧の音でも聞いているように、たら、たらと、其処いら一杯に流れおちてくるのだ。私はもう其の時は何を考える気力もなくなって、歯を食いしばりながら、凝と流れおちる膿汁の音に耳をとめていた。
 すると、其処へまた、上野の鐘が静に鳴りだしてきた。恐らくは其の鐘は、明けの鐘と云うのだろう、それが如何にも静に聞えてくるのだが、しかし私には、それが暮れの鐘のように悲しく聞きなされてきた。──二つ、三つ、四つと聞えてくるそれが、私の頭の中で、流れおちてくる膿汁の音と一緒になる剃那に、黒く、そして、鉛のようになって固まって行くのが、はっきりと私には、目にするように感じられてきた。私は何時までも何時までも、其のままに凝としていた。──悲しくもまた、恐ろしい最後の日を待つもののようにして、私は何時までも何時までも、其のまま凝としていた。                                    

(根津権現裏)



 

 貧窮放埒、悪質な性病による精神異常の果て、藤澤清造は昭和7年1月29日早朝、芝公園六角堂のベンチで凍死体として発見された。行旅死亡人として火葬されたが、靴に打った本郷警察署の焼印が放送局の久保田万太郎氏の耳に入り、清造と確認されたという。
 その死は「物哀れ」、「滑稽な」、「のたれ死に」、などと評されたが、下宿をともにしたこともある若き日の知友今東光は、〈ラムボウがアフリカで消息を絶ったり、バガニーニがカリブ海で行方不明になったのより、藤澤清造が芝の山内でのたれ死した方が悲壮ではないか。僕は文学者の最期としては、睾丸の皺をのばしながら長生きして恥をかくより、藤澤清造の死の方を立派だと思っているのだ。〉と、『東光金蘭帖』のなかで賛辞を贈っている。



 

 生地の石川県鹿島郡藤橋村(現・七尾市馬出町)から数分の距離、600年以上の歴史を持つ奥能登へと向かう街道、一本杉通りの横路地を入った突き当たりに浄土宗西光寺がある。七尾城の城門を移築した山門脇に大銀杏、境内墓地には土俵に軍配を立てた形の横綱阿武松の墓、かつての寺があった七尾城山麓の寺地跡から出土した板碑と地蔵尊を祠った小堂、その傍らに「藤沢清造の墓」があった。以前は木製のものだったということだが、平成2年に生家向かいの銭湯の主人本藤豊吉氏が、清造の嫂つると連名で私費建立したものだという。右隣には清造の手蹟から拾った文字を刻んだという没後弟子を自称する芥川賞作家「西村賢太墓」の生前墓碑が建てられてある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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