藤本義一 ふじもと・ぎいち(1933—2012)


 

本名=藤本義一(ふじもと・よしかず) 
昭和8年1月26日—平成24年10月30日  
享年79歳(文義院釈一乗)❖蟻君(ありんこ)忌 
兵庫県西宮市山口町中野字東山 白水峡公園墓地




小説家。大阪府生。大阪府立大学卒。大学在学中からラジオドラマの脚本を書き、卒業後は映画各社でシナリオを執筆していたが、昭和40年から テレビの「11PM」の司会者を務めた。49年『鬼の詩』で直木賞受賞。妻はエッセイストの藤本統紀子。ほかに『蛍の宿』『元禄流行作家』などがある。






  

  「あ、鬼や!」
 「鬼が出たア」橋の下で小鮒を掬っていたらしい子供たちが、馬喬を指して叫ぶと、一目散に遁げ出した。
 「鬼かいな。追いかけたろか。これが、ほんまの鬼ごっこやで……」と、馬喬は微笑で見送った。文我の鬼を真似た時は、誰も「鬼」とは思ってくれなかったのに、ただ立っているだけで鬼と呼ばれる皮肉さを噛みしめたのだった。
 「鬼……鬼か……」
 ふっと視線を動かぬ水面に投げた。まだ四十には間がある己の過去を、何百年もの道程を歩んできたかのように縹渺の思いで眺めている自分を覚えた。遠く、櫓音が聞える。音羽ただひとつ、その他、諸々の音は消え失せていた。
 水面の少し上に透明な羽を小刻みに顫わせている蜻蛉が一匹いる。時たま、思い出したように、体を折り、水面に近付き、尾の先で一刷け水脈を入れて、水を吸いあげた。
 「芸とはあんなもんや……」
 馬喬は小さな昆虫の動作に、芸の本質を見た思いだった。弱い羽で空中にとどまっていなければならぬ。そして己の欲求のために、水面に降りねばならぬ。が、欲を大きく求めて羽をぬらしてはならぬ。そこに、馬喬は芸を見たのだ。倒れる前に榎の大樹に人間の小ささを見た馬喬は、一匹の蜻蛉に人の生きざま、芸人の生きざまを眺めるまでに成長していた。
                                                             

(鬼の詩)



 

 ラジオやテレビの脚本は三百本以上、テレビの深夜人気番組「11PM」の司会を経たのちに書き始めた小説、〈井原西鶴の系譜を継ぐ大阪の戯作者〉とも評され、とことん大阪に根を下ろした作家だった。大阪の芸人や商人、風俗、娼婦や市井の人々を含めて、全てが大阪でありつづけた。数え切れない程の作品を残してきた藤本義一。我が道を行く小さな蟻にたとえて、座右の銘は「蟻一匹、炎天下」。平成22年の夏に脳梗塞で倒れ、翌年の4月、肺を包む胸膜に石綿特有のがん「中皮腫」が見つかった。「中皮腫」がわかってからは淡々と死を受け入れていたという。〈積極的に治療もせず、抗がん剤も使わず、誤嚥をしないように点滴だけで〉、平成24年10月30日午後10時18分、最後は眠るように亡くなった。



 

 さすがに湯煙までは見えないが、30分も歩き下ると有馬温泉郷に至る道の途中、いわゆる裏六甲に西宮市営の大きな霊園があった。司馬遼太郎から親しみを込めて「ギッちゃん」と呼ばれていた藤本義一。命日は座右の銘から採った「蟻君(ありんこ)忌」、三回忌にその文業をしのんで短編小説を対象とした「藤本義一文学賞」が創設された。また〈関西から多くの才能を発掘し、作家を輩出したい〉との思いから、プロの作家を育てるための養成校「心斎橋大学」を創設するなど大阪の文化に深く関わってきた藤本義一の眠る「藤本家之墓」。眼前には削り取られて白っぽい岩肌がむき出しになった荒漠とした白水峡の山景が、どんよりとした空の下に展がっている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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