淵上毛錢 ふちがみ・もうせん(1915—1950)


 

本名=淵上 喬(ふちがみ・たかし)
大正4年1月13日—昭和25年3月9日 
享年35歳(十方院釈毛錢居士)
熊本県水俣市わらび野 秋葉山墓地


 
詩人。熊本県生。青山学院中学部中退。20歳でカリエスに罹り郷里水俣で仰臥の生活を送った。昭和14年『九州文学』同人。18年処女詩集『誕生』を刊行。金子光晴らの詩誌『山河』の同人となる。21年には郷土文化団体として「水俣文化会議」をおこし『無門』を発行。『淵上毛錢詩集』、詩画集『痩魂象嵌』などがある。






  

直彦が今日も来た
おい また生れるんだ
いゝねと僕
なにかいゝ名前がほしいんだ
うんと僕
考へといて呉れよ
うんと僕

直彦が今日も来た
炎とつけろよと僕
焔? 炎?
どっちでもいゝが 火の二つ重なる方が
いゝぞと僕
男でも女でもか
うんと僕
直彦は黙ってゐた

 ねえ おい
 この現実から始まる
 新らしい児の時代 それはもう
 絶対に信じてよいのだ
 新らしい児を めらめらと燃えさせるんだ めらめらと

直彦は黙ってゐたが
僕と同じ考へである

よからう
女房にも言ふておこう

直彦は寒い夜道を
帰へつて行つた

(誕生)



 

 昭和25年3月9日午後7時25分、〈貸し借りの片道さえも十万億土〉の絶句を遺して一人の詩人が死んだ。肥後の国(現・熊本県)の城下町水俣川河畔陣内の白壁土蔵造りが並ぶ往還沿いの旧家で、脊椎カリエス(結核性股関節炎)というおよそ不幸な病にかかって死んだ。
 生と死を背中合わせに抱きながら15年近くものあいだ、臥床生活を余儀なくされながら、詩を書き、句作に耽り、水俣青年文化会議を組織、結婚して三人の子供たちも得たというのに、なんという短い詩人の生涯。〈俺は 俺といっしょに 死んでくれる神があるとは 思はない 俺は 俺ひとりで 死ぬだけでも 一苦労なんだ〉と書き付けた無念さを思うとなんとしても残念でならない。



 

 水俣市役所の裏側にある秋葉山。市内を一望するこの墓地に矢立、日誌、衣類など遺品とともに埋葬された詩人の墓がある。かつてはみち恵夫人によって建てられた墓標の表に「病床詩雷淵上毛錢之墓」、裏に「生きた、臥た、書いた」と誌されてあったというが、昭和48年1月に長男聳氏、次男黙示氏によって新しく建てられた自然石の「十方院釋毛錢居士」、没年月日、俗名淵上喬、享年が添えられ、背面に「病床詩雷 生きた、臥た、書いた」と刻してある墓碑。桜木のもと、涼しい風がのぼってくる新緑の木陰に孤光を放っている。
 ——〈じつは 大きな声では云へないが 過去の長さと 未来の長さとは 同じなんだ 死んでごらん よくわかる〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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