深田久弥 ふかだ・きゅうや(1903—1971)


 

本名=深田久弥(ふかだ・きゅうや)
明治36年3月11日—昭和46年3月21日 
享年68歳(慧岳院釈普宏)❖九山忌 
石川県加賀市大聖寺神明町四 本光寺(法華宗)



小説家・登山家。石川県生。東京帝国大学中退。昭和5年北畠八穗と同棲、『オロッコの娘』『あすならう』などを発表。評価を得たがどれもが北畠作品の焼き直しであったため小林秀雄らの批判を受け、戦後は小説から遠ざかる。『日本百名山』で読売文学賞を受け返り咲いた。『山岳遍歴』などがある。






  

 人はそれぞれ、こころの山を持っている、と言ったら気障に聞こえるだろうか。が、幼い時から無心に朝タ仰いでいた山が、その人の性格に何かの影響を与えないことがあろうか。
 私にはその山は白山であった。白山は家の二階からも、小学校の正面からも、鮒釣りの川べからも、つまり私の故郷の町のどこからでも見えた。真正面に美しく見えた。
 それは名の通り一年の半分は白い山であった。
 真っ白の冬の山が春の更けるにつけ斑になり始め、その美しい斑の残雪がおおかた消えてしまうのは、六月中旬になってからであった。そして秋の末からまた白くなり始める。最初は冬の先触れのようにその峰のあたりにわずかの雪をおく。それがだんだんと拡がつて十二月の中頃にはもう一点の染もなく真っ白になってしまう。そしてその状態が翌年の春まで続くのであった。シベリアから日本海を渡ってくる寒い風が、白山という大障壁にぶつかって雪に化してしまうのである。(中略)
タ方、日本海に沈む太陽の余映を受けた白山の、薔薇色に染まったひと時は、何とも言えず美しいものであった。みるみるうちに、うす鼠に暮れていく、その、しばらくの間の徴妙な色の移り変わりは、この世のものとは思われなかった。そしてそういう徴妙さのことに際立つのは、雪を被っている時の白山であった。
 そんな冬の夜の晴れた空に真っ白な白山が、凍てついた寒月に照らされて、水晶細工のように浮き上がっている姿は、何か太古のさまを思わせるような、美しさであった。
                                          
(山嶺の風・ふるさとの山)



 

 昭和四6年3月20日、最後の夜、高村光太郎の歌を色紙に書いた。〈山へ行き 何をしてくる 山へ行き みしみし歩き 水飲んでくる〉——結局私の山登りは、それが全部であったようだと、写真文集『日本アルプス』にも添え文として記している。翌二一日、甲斐・茅ヶ岳の山頂を間近に望む稜線に深田久弥は突然倒れこんだ。救護隊が登ってくるまで現場にいた同行の藤島氏は回想する。
 〈心臓の鼓動が止まって、三月二十一日午後一時、深田君は還らぬ人となった。急を報じ救援を求めに山村君が山を下り、医師、警察署員を含む十五、六名の救護隊の来着まで、約四時間半、僕達は眠った深田君の傍で、刻々色調の変ってゆく富士を眺めながら、黙然として、暗然として、悄然として佇んでいた。〉



 

 門前脇の路地に咲く一叢の秋桜を眩しく輝かせている残照は、見上げる山門、御堂の背後にゆっくりとかかりはじめた。踏み入った本堂裏の墓地、草木は鬱蒼と生い茂り、散り散りの墓碑は思い出したようにひょいと顔を覗かせている。隠れ里を分け入るがごとく、どこまでも続いている迷い道。杉木立の間からは墓守の焚き火が赤々とみえる。時おり青竹の破裂する音がこだまして、オーロラのような煙は乾いた空に立ちのぼってゆく。「深田久弥之墓」、側面に「千九百三年三月十一日大聖寺に生れ、千九百七十一年三月二十一日茅ヶ岳に逝く 読み 歩き 書いた 妻志げ」とあるが、その妻も昭和53年3月、大聖寺で行われた七回忌の4日後、世田谷の自宅付近で輪禍に遭い69年の生涯を閉じた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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