藤沢桓夫 ふじさわ・たけお(1904—1989)


 

本名=藤沢桓夫(ふじさわ・たけお)
明治37年7月12日—平成元年6月12日 
享年84歳 
大阪府大阪市天王寺区生玉町13–31 齢延寺(曹洞宗)



小説家。大阪府生。東京帝国大学卒。大正14年旧制大阪高等学校在学中に長沖一らと『辻馬車』を創刊。新感覚派の影響をうけた小説『首』を発表し横光利一らに認められた。その後プロレタリア運動に参加。昭和5年『傷だらけの歌』を発表。『新雪』『漁夫』『燃える石』などがある。






  

 傷だらけの歌−−それは「インターナショナルの歌」だ。第三インターナショナルの歌であり、世界の勞働者農民の團結と闘争と勝利への歌である「インターナショナルの歌」だ。
 何故それは傷だらけの歌なのか?何がそれを傷だらけの歌にしたか?
 毆打、足蹴、宙吊り、逆吊り、鞭、竹刀、赤いゴムの太管、指析り、水漬け、その他ありとあらゆるxxと、ビストルと、機関銃と、絞首基臺と、電気椅子とが、それを傷だらけの歌にした。世界のxx主義の強盗どもとその同盟者どもとそのあらゆる手先どもが、それを傷だらけの歌にした。われわれを苦しめ、妨害し、追及し、傷つけ、XXにする、一切のものが、それを傷だらけの歌にした。
 故國の同志よ。僕のこの比喩めいた言ひ方は、思ひあがつた感傷主義として、君を不愉快にさせただらうか?あるひはさせたかも知れない。が、もう少しこの手紙を讀み進めてくれ。さうしたら、君は決してそれを思ひあがつた感傷主義だと思はなくなるに相違ない。きつと僕の言ひ方に同意してくれるに相違ない。
                                                        
(傷だらけの歌)



 

 代々漢学者の家に生まれながら都会的新感覚派の若手作家として注目され、のちプロレタリア文学運動に移って新しい可能性を生み出したが、その流行作家としての活動とともに通俗大衆小説を多く発表して純文学からは離れていった。
 昭和8年以降は常に大阪にあって、織田作之助らと交流し、住吉大社の近く、上住吉にあった書斎「西華山房」は創作の場であり、文学サロンでもあった。作家の司馬遼太郎や田辺聖子、庄野潤三、児童文学者の庄野英二、詩人の小野十三郎などが集い、〈藤沢山脈〉を形成した。
 晩年は大阪文学者の長老格として慕われてきたが、平成元年6月12日午後2時35分、心不全によって84年の生涯を閉じた。



 

 数千人の門人を擁した漢学塾「泊園書院」を設立した東畡、長男の南岳、南学の長男黄鵠など、藤沢家累代漢学者の墓が一列に並んである曹洞宗のこの寺齢延寺の墓地は、なんでまたこんな抹香臭い地域にと驚くほど多いラブホテル街を抜けきった寺社仏閣の密集地帯、地元民には〈いくたまさん〉と親しまれている生国魂神社の奥隣にあった。
 〈私がなく透明感のある人柄、大阪のエスプリを愛し、大阪人を蒸留酒にしたような人〉と司馬遼太郎に表現された藤沢桓夫の墓は、少し離れた本堂前の墓地にある。南学の次男で桓夫の父章次郎(黄坡)と並んで「藤澤桓夫先生墓」と刻まれ、漢学者の家系にふさわしい厳粛な石面をもって建っていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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