◎岩内章太郎著『〈私〉を取り戻す哲学』(講談社現代新書)
タイトルだけから判断すると、自己啓発本のように思えてしまうので、買おうかどうか迷ったけど、若手哲学者の本だし、同じ著者の本は、『新しい哲学の教科書』(講談社選書メチエ)という選書本を読んだことがあり、さすがにそんなことはなかろうと思って買った。
「第一章 デフォルトの〈私〉――動物になるか、善い人になるか」では、現代日本の病理に関して、宮台真司、東浩紀、國分功一郎、あるいは私めのまったく知らない谷川嘉浩の諸氏の著書に言及しつつ論じている。でもこのあたりの話は特に目新しいものでもないのでここで取り上げることはしないけど、谷川氏の著書のタイトルが『スマホ時代の哲学』であったり、この新書本のオビに「なぜスマホを見続けてしまうのか」とあったりして、21世紀も20年が経過した現在にあっては、「スマホ」が一つのキーワードになるんだろうなと思った(と携帯類を一切持たないガラパゴス人間の私めが申しておりまする)。そしてそのついでに、似たような主旨の本にシェリー・タークル著『一緒にいてもスマホ』(青土社)があったことを思い出した。なぜ特にこの本を思い出したかというと、原書を別の出版社に提案していて競合で取られたから。しかも蓋を開けてみると版権を取ったのは青土社さんだったというおまけつき。ただあとになって考えてみると、インタビュー主体で会話文が非常に多い本だったから、フィクション的な表現が得意でない私めがやらなくてよかったとも思うようになったけどね。
個人的な話はそこまでにして、『一緒にいてもスマホ』という邦題もなかなか秀逸だけど(少なくとも原題の『Reclaiming Conversation』よりキャッチーだよね)、タークルの前著に『Alone Together』(Basic Books, 2011)という本があって、たった二語でものごとの本質を見事についていた。「Alone Together」とは、日本語で言えば撞着語法、英語で言えばoxymoronにあたるわけだが、「一緒にいるのに孤独」というテーマがみごとに浮き彫りにされていた。実はシェリー・タークルは、『孤独な群衆』で有名なデイヴィッド・リースマンの弟子で、彼の衣鉢を継いでいるとも言える。こうして見ると、スマホ現象は、21世紀独自の病理なのではなく、リースマンが『孤独な群衆』を刊行した1950年代から生じていた現象が(もちろん当時はスマホなど影も形もなかったとしても)、発展したものだと見ることができるのかも。わが訳書、ポール・ブルーム著『反共感論』でも引用したけど、ここにもう一度『一緒にいてもスマホ』から一箇所引用しておきましょう(なお訳は原文からの拙訳)。「もっと何かを感じようと、もっと自分を感じようとして、私たちはオンライン接続しようとする。しかしその実態は、性急にオンライン接続しようとすることで、孤独から逃げているのだ。こうして一人で自己に集中する能力が退化していく。一人でいるときに自己のアイデンティティに確信を持てなければ、自己の感覚を維持するために他人の力をあてにせざるを得ない。すると今度は、他者を他者として経験することができなくなる。自分に必要なものを、他者からこま切れに受け取ることしかできなくなるのだ。これは脆弱な自己を支えるために他者を交換可能な部品として扱っているに等しい」。
第1章に関しては前半より後半のほうがおもろかった。その後半に参りましょう。後半では、まずマルクス・ガブリエルの新実在論に言及される。やや長くなるけど次のようにある。「ガブリエルはこう考える。現象(物の現われ)と物自体(物の真の姿)を区別したカント以後、多くの哲学は物自体を認識する可能性を断念してしまった。私たちが見ているのは現象としての物であり、その現象の背後に控えている物自体を知ることはできない。この見方を押し進めると、やがて物自体は消去されて、現象の世界だけが残されるだろう。さらに、見る人の諸条件(文化、宗教、言語、ジェンダー、身体、環境など)によって、物の現象の仕方も異なるとしたら、それぞれの人はその人に固有の色眼鏡をかけて世界を見ている、ということになる。¶ここで出てくるのが、すべて(存在と認識)は文化的−社会的に構築されている、という考えである。これは構築主義と呼ばれる。構築主義の立場では、誰にとっても同じようにある客観的な事実は否定される。というのも、いかなる人であっても、自分の色眼鏡を外すことはできないからだ。それに、他者の色眼鏡がどんなものかを厳密な仕方で知ることもできない。こうして、構築主義の論理では、一切の存在と認識は相対化されてしまうのである。¶しかし、ガブリエルは、このような見方に反対して、事実は存在している、と主張する。人間は物自体や事実それ自体を認識できるし、およそ存在は人間的認識の諸条件に拘束されているわけではない。一言でいえば、二〇世紀後半から長らく支配的であった構築主義(=ポストモダン思想)は端的に間違っている、ということである(45〜6頁)」。最後の「二〇世紀後半から長らく支配的であった構築主義(=ポストモダン思想)は端的に間違っている」というくだりは(その意味ではこの文章全体も)、あくまでもガブリエルさんの見解であって、のちに言及するように、必ずしもすべてが新書本の著者の見解ではないことに注意されたい。
個人的には、「構築主義(=ポストモダン思想)」は特定の粒度においてはきわめて有効な見方だが、ただしその粒度を超えて適用すると私めがいう「粒度越境の誤り」に陥ると考えている。これについてはあとで説明する。とはいえ現在では「ポストモダン思想」は、「ポモ」とか縮められて揶揄されることが多くなっているのは事実だよね(それを聞くと、その昔同性愛が「ホモ」と呼ばれて揶揄されていたことを思い出してまう)。粒度を無視する人にとっては「ポストモダン思想」がナンセンスに思えるのかもしれない。ただ次のことだけは指摘しておきたい。「ポストモダン思想」を否定する知識人は、よく例のソーカル事件を持ち出す(これは思想の左右を問わず言える)。しかし私めの理解では、「ソーカル事件」は単にでたらめな論文をポストモダン思想の専門誌に持ち込んだら、それを評価する人がそれを正しく判定できず専門誌に掲載してしまったということであって、必ずしも「ポストモダン思想」全体がインチキだったということを意味するわけではない(まあインチキなものもあった可能性は否定できないけど)。もしそれを問題にするなら、同じような事件は科学の分野でも起こっていることも同様に取り上げるべきなのですね。それはアイク・アントカーレ事件とでも呼ぶべきもので、ソーカル事件と非常によく似ている。この事件についてはアルダ本(著者に失礼になるようなとんでもない邦題をつけられてしまったのでアルダ本とだけ書いておく)に詳しいので、ぜひそちらも参照されたい。それによるとシリル・ラベーという名のフランスの研究者が、アイク・アントカーレという偽名を使って「Developing the Location-Identity Split Using Scalable Modality」というタイトルの科学論文を世に通用させることに成功したらしい。次のようにある。「ラベーは(MITの大学院生たちが開発した)SCIgenと呼ばれるコンピュータープログラムを用いて、二、三回キーボードのキーを叩くだけで数十本のニセ論文をひねり出した。わずかのあいだに架空の科学者アントカーレの書いた論文は何度も引用され、ラベーによれば「科学界における偉大なスターの一人」になった。そうなったおもな理由は、これらのニセ論文が、他の組織が引用数によって著者を評価する際に利用していたグーグル・スカラーによって検索されたからである。ラベーがシステムを手玉にとったあと、グーグル・スカラーはアイク・アントカーレを、引用数がもっとも多い著者一覧の二一位にランクした。その数はジークムント・フロイトには及ばないが、アルベルト・アインシュタインより多かった。(…)ラベーは、それでも満足しなかった。SCIgenで作成された論文を検出するプログラムを開発して、そのようなニセ論文が一二〇本、論文審査のある専門誌に受け入れられ掲載されているのを発見する。ラベーから報告を受けた専門誌の出版社は、それらの論文を撤回し、少なくとも一社は査読プロセスを改善する旨発表した(同書244頁)」。ほとんどソーカル事件と同じだと言えるように思えるけど、ソーカル事件は頻繁に引用されても、この事件が引用されることはほとんどない。なぜか? 単に「だってラベーなんて人、知らないんだもん」では済まされない。なぜなら、まさしくアラン・ソーカルを学者以外の一般人のあいだでも有名にしても、決してシリル・ラベーを有名にすることのない構造的原因がその基盤に存在しているはずだから。要するに「ポストモダン」は否定しても、「科学」を否定するわけにはいかないから、そこでイデオロギー的な取捨選択が行なわれているのですね。また仮に、アイク・アントカーレ事件が世に広く周知されていたとしても、「だから科学全体がインチキだ」という結論には絶対になっていなかっただろうし、ならなくて当然だと言える。ならばなぜ、ソーカル事件をもって「ポストモダン全体がインチキだ」という結論になるのか? その点にもっと知識人は自覚的になるべきだと思っている。もちろんガブリエルさんは(もちろん著者も)、ソーカル事件のような表面的な事象で判断しているわけではないはずだけど。
いつものように大きく脱線してもたので、新書本に戻りましょう。著者自身、「本書では新実在論の主張をこれ以上深追いしない(50頁)」と述べているように、新実在論の正否を問うことがここでの問題ではない。また著者が全面的に構築主義を否定しているわけではないことは、その直後にブルーノ・ラトゥールの「アクターネットワーク理論(ANT)」に言及しつつ、次のように述べていることからもわかる。「ANTはある種の構築主義を支持する。ところが、それは相対主義には陥らない。というのも、ANTでいう構築されたものとは、さまざまなモノのネットワークに裏打ちされた動かしがたい実在性を有する事実だからである。それに対して、従来の社会構築主義は、構築物をそれぞれの社会や文化に対して相対的なものとみなし、構築主義を相対主義と同一視している。¶が、その断定は誤りである。構築主義と実在論は両立しうるからだ(52頁)」。「構築主義と実在論は両立しうる」という考えには、ラトゥールとは違う観点からとはいえ、私めも同意する。ラトゥールとは違う観点とは先に述べたとおり、「構築主義は中間粒度という特定の粒度の範囲内であれば非常に有効に適用できるが、それより大きな粒度や細かな粒度では実在論的な見方を無視するわけにはいかなくなる」というもの。中間粒度とは、文化や習慣などが重要な意味を持つ単位であり(典型的には国民国家がそれに該当するが、国家内の共同体をなす民族集団なども含み、国民国家に限定されるわけではない)、中間粒度における多様性をうんぬんするためには構築主義的な考え方が必須になる。あるいは個人のレベルでさえ、構築主義的に捉える必要がある。わが訳書、リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』を読めばその理由がわかるはずだけど、ここではこの『〈私〉を取り戻す哲学』と同日に講談社現代新書として刊行された『顔に取り憑かれた脳』の「第4章 自己と他者をつなぐ顔」についてコメしたときに述べたことを繰り返す(そちらは読書ツイート書庫に追加しなかったこともある)。構築主義(構成主義)を無闇に否定すれば、実践的にもまずい事態が生じうることがそれによってわかると思う。
『顔に取り憑かれた脳』の第4章に書かれていることは、ポール・エクマンの普遍主義的な情動理論そのものだけど、近年になってリサ・フェルドマン・バレットや神経科学者のジョセフ・ルドゥーらが、情動に関してエクマンとは異なるパラダイム(構成主義的情動理論)を提起していることをつけ加えておきましょう。私めは専門家ではないので、そのどちらが正しいのかはわからんし、正直言えば普遍主義と構成主義の中間あたりがほんとうのところではないかとも思っている(根拠はないけどね)。ただ『顔に取り憑かれた脳』のように構成主義的な見方を完全に無視するのもどうかと思わざるを得ない。そもそもこの新書本にも、矛盾している部分がある。それは最初にデュシェンヌによる真の笑顔(心底の笑顔)と偽りの笑顔(作った笑顔)の区別を紹介しているにもかかわらず、そのあとでエクマンがパプアニューギニアで行なった実験を完全に正しいものとして取り上げていること。これがなぜ矛盾になるかというと、エクマンが実験で使った写真は、作らせた顔だったらしいから。『情動はこうしてつくられる』に次のようにある。「一九八三年に実施されたこの名高い[エクマンらの]研究は、被験者に基本情動測定法の写真に示されている顔を作らせ、その状態を保たせるという特異な方法で情動を喚起している。たとえば被験者は、悲しみを引き起こすために一〇秒間眉をひそめるよう、あるいは怒りを喚起するためにしかめ面をするよう指示された。その際、被験者は鏡を持ち、特定の顔面筋を動かすようエクマンに指導された(同書33頁)」。これは情動の表現の実験に関するものだけど、情動の評価の実験(被験者が他者の情動を評価する実験)でも作られた顔が使われていた、そして今でも使われているらしい(ここでは詳しく述べないけど、それについては『情動はこうして作られる』の「第1章 情動の指標の探究」を参照されたい)。つまり実験は、「作られた顔」、言い換えればデュシェンヌの言う「偽りの顔(作った顔)」をもとに行なわれていたことになる。このあたりの経緯は、『顔に取り憑かれた脳』には書かれていない。
しかし、エクマン流の見方を頭から信じてしまうと冤罪すら起こりうるという点は、さらに大きな問題だと言える。詳しくは『情動はこうしてつくられる』の「第11章 情動と法」を参照してもらうとして、ここでは、冤罪とはさすがに言い過ぎだけど、エクマン流の普遍主義の適用が、問題を引き起こしうることに気づかせてくれたちょっとしたできごとが昨年あったので、それを紹介しておく。それは昨年の夏に行なわれたサッカー女子ワールドカップのアメリカ対スウェーデン戦で、120分で決着がつかずにPK戦になったとき、アメリカのベテラン選手(ラピノー選手)がPKをはずしてそのあとで彼女が笑っているかのような映像が全世界に流れて大炎上したこと。何しろ女子ではアメリカは世界一を自称していたので、トーナメント初戦で敗退することはとんでもない国辱?であるにもかかわらず、最年長のラピノー選手がPKを失敗してへらへら笑っていれば大炎上することは当然と言えば当然なのですね。私めも(ストリーミングで)リアルタイムで見ていたときには、「なんでベテランのくせに、こやつはPKを失敗してヘラヘラ笑ってるんだ!」と思った。ところがあとになってから、広く出回っていたゆ〜ちゅ〜ぶ動画を見直してみると、「待てよ! これ、ほんとうに笑っているのか?」と思い直した。ちなみにその動画についていたコメは一件を除いてすべて彼女の態度を非難する内容だった。でも、ただ一件だけ「みんなこれが笑っているように見えるんだね。悔しくて歯を食いしばったときにもこういう表情になるのに!」という主旨の書き込みがあった。それを読んだ私めは、「このコメ主、わかってらっしゃる。もしかしてリサたん本を読んだのかな?」と思ってもた。もちろんラピノー選手が、ほんとうに笑ったのか、悔しくてそんな表情をしたのかは本人に尋ねなければわからんし、尋ねたところで正直に答えるかどうかもわからん。でも確実に言えることは、表情だけを指標にしてその人の覚えている情動や感情を類推すると、決定的に間違えることがあるということ。個人的には、たいていのケースでは、エクマン流の普遍主義を適用しても大きくは間違わないのだろうと思うが、このラピノー選手の例は、エクマン流の普遍主義を無条件に適用すると、もしかすると完全なる冤罪を作り出す可能性すらあることを示唆しているように思えた。つけ加えておくと、ラピノー選手は女性の権利などに関して政治的発言をよくしているので、それを快く思わない人はアメリカ男性のなかには大勢いるらしい。そういう人々がその動画を観れば、必ずや彼女は笑っていると見なすはず(リサたんによれば情動は「概念」をもとに形成されるのだからね)。
要するにエクマン流の普遍主義は偏見を助長する可能性すらあるということ。このように個人の表情とその背後にある情動を普遍的なものとしてとらえてしまうと、とんでもない勘違いが生じる可能性がある。とりわけ法の世界では多大な悪影響が及ぶことが考えられる。法自体は本来、普遍的であってしかるべきものなのかもしれないが(その点も一概には言えないかもね)、情動や表情(情動表現)のような、本来は構築されるはずのものを普遍的と見なして法廷に持ち込むととんでもない冤罪が発生する怖れがある(詳しくは『情動はこうしてつくられる』の「第11章 情動と法」を読んでね)。もちろんそれはバレットの見解ではあるんだけど、個人的には正鵠を射ていると思う。私めが大好きなシドニー・ルメットの名作『十二人の怒れる男』も、法廷における情動表現の問題を指摘しているともとらえることができる。また構築主義を全面的に否定すれば、言い換えれば中間粒度における社会の影響を軽視すれば、法の分野のみならず医療でも問題が生じうるが、それについてはあとで取り上げる。
ややや! また大きく脱線した。『〈私〉を取り戻す哲学』に戻りましょう。著者は次に、21世紀に入ってからガブリエルさんらの新実在論が優勢になった理由を次のように推測する。「ところで、こうした一見素朴にも見える、ガブリエルのストレートな物言いが人びとに歓迎されているのは、新実在論が九〇年代に行き場を失った「善への意志」の新しい受け皿になっているからではないだろうか。すなわち、これは「動物化」の向こうを張る考え方とも読み取れるのだ。動物化の陰でくすぶっていた善への意志が、遂に表舞台に出てきたのである(53〜4頁)」。ここで言われている「動物化」とはもちろん東浩紀氏の概念の借用ではあれ、著者はそれを「{他者なしで充足すること/傍点}(37頁)」と再定義している。その上で著者はさらに次のように述べている。「現代哲学における実在論の興隆には、構築主義(ポストモダン思想)が古くなり飽きられつつあるという思想史的理由だけでなく、〈私〉の中に確かなことや正しいことを求める欲望が沸き立ってきているという実存的理由を見出すことができそうだ。つまり、新実在論は、ポストモダン以後に生まれた新しい世代の倫理意識の表明であり、だからこそ、それは本質的に実存主義なのである(=新実存主義)(55頁)」。この著者の見立ては、正鵠を射ていると私めには思える。著者は1987年生まれとあるからまだ三〇代のようで、若い世代の知識人がそのように感じているというのは信憑性があるし、非常に興味深くもある。まあ今の年寄りの自称知識人には、どこか屈折した、あるいは斜に構えたように見受けられるところがあって、辟易させられるから、余計にそう思えるのかもしれない。
ただし著者は、そのような傾向を無条件に称賛しているわけでもない。次のようにある。「しかし、善への意志には落とし穴がある。もし私たちが善悪の基準をコンビニの商品のように気軽に選んで手に取っているとしたら、その心のメカニズムは、本質的に、九〇年代に屈折した社会思想がオウム真理教の信者に流れ込んだのと変わらない。この場合、〈私〉は〈私〉の外部から提供される{パッケージ化されたレディメイドの善/傍点}を受け入れているだけだからである。たとえそれが悪気のない無邪気な行為だとしても、自らの生き方に深くかかわる倫理の根拠は、本来、決してアウトソーシングできないはずのものだ(55頁)」。そしてこの「パッケージ化されたレディメイドの善」の一例として「SDGs」を取り上げ次のように論じている。「経済思想家の斎藤幸平は、『人新世の「資本論」』の冒頭に、「SDGsは大衆のアヘンである」というショッキングなテーゼを置いている。SDGsはある種の免罪符として機能しており、気候変動という差し迫った現実の危機から目を背けるためのグリーン・ウォッシュを助長する、というのである。この主張自体には賛否両論あるだろうが、私が共感するのは、欧米から示されたSDGs=パッケージ化された善の指針を有り難く頂戴し、その指針に従っていれば、何となく「よさ」へのコミットメントが果たされると思っている、その危うさ[を指摘している点に関して]である(55〜6頁)」。正直に言えば、斎藤氏のこのベストセラー?は読んでいない。某社の編集者に「ベストセラーなのに読んでいないのか?」と言われて、「私めはベストセラーと聞いただけで読む気がなくなる天邪鬼なので」と答えたことを覚えている。まあ、わが訳書はあまり売れないから、一種のひがみ根性ではあるんだけどね。
いずれにせよこの指摘には納得できる。SDGsを口実に、メガソーラーを利権化している輩が見受けられるが、現状の技術ではメガソーラーは、かえって環境破壊などさまざまな問題を次々に生み出している。今回の震災では、「パッケージ化された善の指針を有り難く頂戴」して、現地に押し寄せる政治家やゆ〜ちゅ〜ば〜がワラワラ湧いて出ていることは敢えて言うまでもない。それどころか、これを先途に反原発を主張する、H元首相を始めとする政治家まで湧いて出ている(H元首相など、情けないことにツイしたデマをみごとにコミュられていたよね)。原発を問題にするなら、なぜ地震やその影響によって起こった地滑りや土砂崩れで破壊されたソーラーパネルは問題にしないのだろうか(実際そのような画像がネットに出回っていた)? しかも山地が80%?という日本の地勢では、メガソーラーの建設によって、地滑りや土砂崩れや洪水を起こりやすくしている。SDGsをきちんと考えるのなら、現時点では再エネに多大な問題がある以上、原発の可能性を頭から否定するのはおかしい。結局「パッケージ化された善の指針」たる「反原発」というイデオロギーが優先されて、他のことが見えなくなっているとしか言いようがない。今回の地震は裏日本で起こったからソーラーパネルの被害はごく限定的なものだったんだろうけど、もし同規模の地震が、太陽光発電がもっとも発達していると言われている九州で起こっていたら、何が起こるかを考えてみないのだろうか? あるいはそれだけの想像力もないのか? ちなみにCOP28では、2050年までに世界の原子力発電設備容量を、2020年比で3倍とする目標を掲げ、日本、アメリカ、イギリス、カナダ、フランスというG7中の五か国を含む22か国が署名しているが(たとえばこれを参照されたい)、そのことをご存じだろうか? 左派に受けのよい北欧の国も、スウェーデンとフィンランドが署名している。また、とうの昔に原発を全廃したイタリアですら、原発回帰の方向にあるらしい(たとえばこれやこれを参照)。日本の左派はイタリアのねとうよメローニちゃんのせいとか言いそうだけどね。これを見ても、世界は脱原発の方向に向かっているという言説は明らかに正しくない。そのような底の浅い言説に騙されてはならない。日本の大手メディアが原発を全廃したドイツばかりに注目するのは、これも「反原発」という「パッケージ化された善の指針」の現れの一つであり、きわめて偏っていると言わざるを得ない。誤解されると困るのでつけ加えておくと、私めは原発が絶対に安全だとは考えていないし(自然災害よりテロのほうが怖い)、そもそも原発は再エネではないから、いつかはウランなどの資源が枯渇するはずなので、いずれは再エネや可能なら核融合などの新技術への転換は論理的にも必須だと考えている。しかし気候変動の問題は待ったなしなので(毎年のように発生している水害などの激甚災害は気候変動が原因かもしれないし、それが正しければ気候変動のせいですでに大勢の死者が出ていることになる)、暫定的な原発の稼働まで頭から否定することは間違いだと思っている。
同様なことはLGBTにも言える。欧米ほどにはキリスト教の影響を受けていない日本で、LGBTを明文化して取沙汰すればかえって差別が強まるということを想像できないのだろうか? 個人的には最低でも「LGB」と「T」は分けて考える必要があると思っているけど(その理由は『権力について』に書いたのでそちらを参照されたい)、そもそもそれらを一緒くたに扱っていること自体、それが「パッケージ化された善の指針」であることを如実に物語っている。そのような「パッケージ化された善の指針」は、結局そこで意図されているはずのものと逆の事態を生んでしまうのですね。端的に言えば「ファシズム」を導く。この点を理解していない自称知識人は多い。新書本にも次のようにある。「これはガブリエルの日本的受容にも言えることだが、外部から示された善のパッケージを単に無反省に享受するのは――私はこれを戦後民主主義の議論にまで拡張するつもりはないが――ほとんど考えていないのと同じである。〈私〉の反省的思考が不在のまま、善を求める欲望だけを漠然と充たしているからだ。¶そのパッケージの中身が本当によいものであれば、実害は少ないかもしれない。しかし、かりにそこに悪が混じっている場合には、その何気ない受容が大変な事態を出来させかねない。なぜなら、この態度はいとも簡単に{全体主義化/傍点}するからである(56頁)」。どうやらこの著者は鋭い直観力を持っているようですね。私めも、「パッケージ化された善の指針」にこだわる現在の日本の自称知識人の考え方を非常に危険だと思っている。彼らの言説からは、ぷんぷんと全体主義的な匂いが漂ってくるから。たとえばよく、ジョン・レノンの「イマジン」的な世界を理想と見なしているかのような言説、つまり「国境のない世界」を是とするような言説を耳にすることがある。その考えがいかに「現実離れ」しているかは、あるいはそれどころか「全体主義のレシピ」になることは、まともな神経をした人なら、つまりおかしなイデオロギーに毒されていない人なら直観的に感じているはず。それに関連して言えば、ジョナサン・ハイトも、わが訳書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』で次のように述べている。「あの忘れがたい名曲『イマジン』で、ジョン・レノンはリベラルの夢を実にみごとにとらえていたことに思い当たる。国も宗教もない世界を想像してみよう。私たちを隔てる国境や境界を消し去ることができるのなら、世界はきっと「一つ」になるだろう。これはいわばリベラルの天国だが、そんな世界はすぐに地獄と化すはずだと保守主義者は考えている。思うに保守主義者の直観は正しい(同書470〜1頁)」。ハイト氏は「保守主義者」と限定しているけど、個人的には「保守主義者」ならずとも、イデオロギーにとらわれていない一般ピープルは通常、「そんな世界はすぐに地獄と化すはずだ」と考えているだろうと思う。というのも一般ピープルは、わが訳書、マイケル・トマセロ著『行為主体性の進化』の用語を借りれば、人間が「社会規範的行為主体」として進化する途上で獲得してきた能力が妙なイデオロギーによって捻じ曲げられたりしていないがゆえに、「国も宗教もない世界」などというものが、人間の条件にまったく合わない世界で、下手をすれば全体主義に向かう歩みを推進しかねないということを直観的に感じ取ることができるはずだから。よく「国境のない世界」的な見方をする人のことを「脳内お花畑」と呼ぶけど、それは直観的に正鵠を射た言い方だと言える。しかもそのお花畑に咲いている花は、世界を全体主義という中毒に陥れるケシの花というね。ところで「イマジン」は、日本人妻のオノ・ヨーコの影響もかなりあったと言われているようだから、大げさに言えば、まさに日本の戦後民主主義が世界におかしな影響を及ぼした一例になるのかもしれない。その意味でも、著者におかれましては「これを戦後民主主義の議論にまで拡張」してほしいと思っている(こういう形態で引用されるのは著者にしてみれば心外なのかもだけどね)。
ということで第一章は、次のように結論づけられている。「〈私〉が育て上げてきた世界観に適合する善のパッケージに依存する人間は、この世界に複数の理想が存立することを受け入れられない。特定の理想に動物的に熱中してしまえば、他者の視線に気づけなくなるからだ。それは、善への意志と動物化が一体となった状態だ。善への動物的熱狂に他者を受け入れる余地は残されていないのである。¶以上のことは、ポスト・トゥルースの世界観の中で当たり前になった「人それぞれ」に対する反動とでも言うべきもので、哲学的には、相対主義に対抗する独断主義が出てきた、と見ることができる。つまり、絶対的な正しさによって、人それぞれの状況を打開しようとしているのである。しかし、私の考えでは、この試みは必ず失敗に終わる。信念対立を調停する原理を持たないからだ(65頁)」。同感ですな。ただ私めなら、「信念対立を調停する原理」は世界を複数の粒度によってとらえ、構築主義と普遍主義が妥当する領域を画定し、かつ両者がいかに相互作用し合うかを明確化することで得られると言いたい。
次に「第二章 〈私〉を取り戻すための哲学的思考」に参りましょう。いきなり著者は、最近はあまり評判が芳しくないデカルトさんを取り上げる。もちろん、まずローティやダマシオらのデカルト批判を最初に取り上げ、「ローティは心が世界の鏡であるというデカルトの描像を批判し、ダマシオは身体と切り離されたデカルトの心を批判したのだ。もちろん、これらの批判にそれなりの理があることは、私も認める(73頁)」と釘を差している。さすがに今からデカルトを全面的に擁護することはむずかしいだろうしね。そこで著者は「新デカルト主義」という名称で、新たな立場を提起する。「新デカルト主義」とは次のようなもの。「さて、{〈私〉の絶対性と有限性を肯定し、一切を主観の内側から打ち立てようとする立場/傍点}を「新デカルト主義」と呼んでおこう。この立場に寄与する哲学として、デカルト哲学の他に、ピュロン主義とフッサール現象学を挙げることができる。ピュロン、デカルト、フッサール――私は広い意味でのデカルト主義を擁護することにしたい。総じてこれらは、〈私〉の哲学である(74頁)」。内観を重視する現象学はアングロサクソンや、アングロサクソンびいきの知識人には受けがきわめて悪いけど、日本人には訴える部分が多いように思われる。ちなみに邦訳書が高いから米アマゾンで英訳された現象学関連の本を探そうとしたとき(円安もあって今では英訳書のほうが安くつくとも言えないけどね)、もちろん御大フッサールやメルポンの英訳書や解説書はそれなりにあっても、それ以外は日本に比べるときわめて貧弱だなという印象を受けた(みすず書房や法大出版局の本に、現象学関連の本がたくさんあることは周知のことだし、私めも値段が高いにもかかわらずけっこう読んだ)。ちなみに私めが通っていた大学の哲学専攻の教授にも現象学を専攻している人が何人かいた。これはあとでも関係するので、あらかじめ述べておくと、「現象学=主観性の哲学」という印象を持つ人も多いはずだけど(実証主義的なアングロサクソン連中に受けが悪いのもそのような印象があるからなのでしょう)、主観を軸としているからこそ、そこからいかに「間主観性」を導くかが一つの大きな課題として立ち現れてくる。たとえば現象学的社会学者アルフレッド・シュッツらは、そこを徹底的に論じていた。
新書本に戻ると、著者は「新デカルト主義」を提起する目的を次のように述べている。「新デカルト主義は、表面上、意識体験の内側で普遍認識の本質条件を捉えようとする認識論へと哲学を差し戻すことを意味するが、(…)本書での新しいチャレンジは、このデカルト主義を鍛え直し、そこから現代的−実存論的な意義を引き出すことにある。¶私の主張を端的に述べよう。私は、疑いうる一切のものを疑った後に、意識体験だけが対象確信の不可疑牲の根拠になる、というデカルト的思索の進み行きとその結論を支持する。〈私〉の意識体験の内側を反省的に見てみるなら、そこには対象がそのような対象として構成されるための、動かしがたい条件と構造があるのだ(74〜5頁)」。次に著者は、新デカルト主義の中心にある問いとして、「人間は世界を正しく見ることができるのか?」「かりにそれができたとして、その正しさの尺度は万人に共有されうるものなのか?」をあげる。もちろんこれは、著者も言うように「古代ギリシア哲学から続く認識論の根本問題の一つ」なんだけど、現在でも盛んに論じられている問題であることは、哲学を少しでもかじったことがある人なら誰でも知っているはず。ちなみにわが訳書、ドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない――なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』は、進化科学的な観点からこの問題に対する回答を与えようとしている。この本でホフマンさんは、「進化の過程で、適応度戦略は真実戦略を打ち破る」、つまり真実を見る能力を持つ生物がかりに存在し得たとしても、その生物は必ずや、自らの生存に資する方向で世界を表象する能力を持つ生物によって淘汰されると主張し、それゆえ「知覚が真実(実在)をありのままに見るべく進化する可能性は、生物や環境が複雑になればなるほどゼロに近づく」と述べている。でも認識論の範疇を離れて存在論という観点からすると、ここでは詳細は述べないけど、実在の存在を「コンシャスリアリズム」という形態で認めている。いずれにせよ彼の議論の詳細に関しては、ぜひ同書を読んでくださいませませ。おもろいよん。ステマ、もといアカラサマはこれくらいにしておきましょう。
次に新書本の著者は、相対主義と独断主義の問題を明確化したうえで次のように主張する。「新デカルト主義の中心的課題は、まさしくこの点[相対主義でも独断主義でもない、私たちが目指すべき哲学原理とは何なのか]にある。まず、認識問題がいかに生じているのか、つぎに、認識問題の困難の本質とは何か。これらを原理的に解明することができれば、相対主義にも独断主義にも陥らないための方法が見えてきそうである。ここではさしあたり、それは〈私〉から出発して間主観的−普遍的な合意を創出しようとする哲学である、と言っておこう(82頁)」。やはり先に現象学に関して指摘したように、「主観性」→「間主観性」という手順が重要になるのですね。では著者の言う「新デカルト主義者」たちは、いかなる考えを提起していたのか?
最初に取り上げられているのが古代ギリシアの懐疑論者ピュロンで、彼はエポケー(判断中止)という概念でよく知られている。著者によれば、ピュロン主義のエポケーは、「(a)対立する複数の現われは、いずれも同じくらい信頼できるので、特定の現われの優位を基礎づけることはできない、(b)それゆえ、対象それ自体が何であるかについての判断は、保留しなければならない(86頁)」という考えだとのこと。ここで著者は「対立する複数の現われ」の例としてリンゴを取り上げ、次のように述べている。「たとえば、空腹のときには、リンゴは{美味/おい}しそうな食べ物{として/傍点}現われるはずだ。ところが、気分がムカムカしているときには、リンゴは床に叩きつけたいもの{として/傍点}現われるかもしれない。果実商にとってリンゴは、大切な商品{として/傍点}現われるが、リンゴアレルギーの人にとって、リンゴは口に入れてはいけないもの{として/傍点}現われる。端的に言えば、生まれ持った体質や性質、そのつどの状況や関心によって、リンゴの与えられ方は変化する、ということだ(86〜7頁)」。前出のリサ・フェルドマン・バレットなら、「概念」と「インスタンス」として説明するだろうね。実のところ、このあたりの説明は、ドナルド・ホフマンが提起する進化科学的説明を導入するとよりはっきりする。つまり同じリンゴでも、状況、あるいは人によって適応度が変わってくるから、場合に応じて違った形態で表象されるというわけ。一般に腹が減っていれば、生きるために必要な養分の塊として、リンゴはその人の適応度を上げるためうまそうに見え、逆にリンゴアレルギーの人(そんな人聞いたことないけどね)にとっては、生存を危うくするリンゴはその人の適応度を下げるため見たくもないものとして表象される。実はこのような見方は、リンゴの赤い色に対する色覚にさえ適用される可能性があり、「赤と緑の緻密な識別を可能にする三色型色覚が最近霊長類で進化した理由の一つは、緑の葉を背景に熟した果物を発見できるよう選択されたからなのかもしれない(同書260頁)」などといった仮説も存在する。つまり霊長類にとってリンゴが赤く見えるようになったのは、そう見えることでその個体が背景からリンゴを識別しやすくなり、ひいては他の動物には簡単には見つけられない栄養分を摂取できることからその個体の適応度が上がるため、リンゴが赤く見えるという特徴が自然選択の対象になったからだということになる。もちろん現時点では、仮説にすぎないわけだけどね。
ところで新書本の著者は、以上のように定義された「エポケー」の重要性を次のように強調している。「この判断を保留するという発想は、本書全体の背骨とでも言うべきものである。私たちは日頃から判断することに慣れているし、さまざまな場面で自分の立場をはっきりさせることを求められる。この点では、判断を保留するという選択は、ある種の現実逃避に見えるかもしれない。だが、ピュロン主義の洞察は、判断保留が一つの積極的な態度決定――〈私〉は判断しないという態度決定――であることを示している。ここには、ある判断を特権的に絶対化することはできない、という優れた洞察が含まれているのだ(88頁)」。またそれに続く、「{注意したいのは、さまざまな現われの背後に潜む対象それ自体は存在しない、とピュロン主義は主張していない/傍点}(89頁)」という但し書きには留意しておきましょう。要するに実在に関しては不可知論の立場を取るということで、カントさんと同じ戦略だと言えるでしょうね。
次は御大デカルトさん。「我思う、ゆえに我在り」という有名な命題についての説明はここでは飛ばすけど、あとで述べるように、それがあくまでも「方法的」懐疑であることは強調しておく価値があるでしょうね。デカルトさんの方法的懐疑によって何が見出されるのかについて、著者は次のように述べる。「方法的懐疑の末に見出された〈私〉の絶対性は〈私〉の有限性と一体である。そして、このことが意味するのは、{それぞれの〈私〉が自分なりの絶対性と有限性を引き受けざるをえない/傍点}、ということなのだ。〈私〉という存在は、他の誰でもないこの〈私〉の意識を生きている。〈私〉はどこまでいっても〈私〉でしかありえず、〈私〉の意識への所与から出発するほかない。これが〈私〉の絶対性だ。しかし同時に、〈私〉がこの〈私〉であることは、その意識が及ぶ範囲に限界があることを意味している。だから、〈私〉の認識は有限なのである。¶ところで、これは、〈私〉と同じ条件を他の〈私〉(他者)も背負っている、ということである。したがって、デカルトの〈私〉から導かれるのは、それぞれの〈私〉が、一人の〈私〉として、絶対かつ有限の世界認識を持っている、という洞察なのだ。そこには、他者の世界認識や世界体験へのいわば「認識論的尊重」がある、と言えるだろう(104頁)」。この考えを突き詰めると、現象学による間主観性の解釈が生まれるのだろうと思うが、それについては現象学に言及される箇所で述べる。
それからデカルトによる「過去につくりあげてきた信念や習慣を捨て去ることができない人(107頁)」の二つのタイプの指摘は興味深い。二つのタイプとは次のようなものになる。「(1)自分を実際以上に有能だと信じて性急に自分の判断を下し、自分の思考を導いていくための忍耐力を持たない人たち。¶(2)真と偽とを区別する能力が他の人より劣っていると思っていて、他者の意見に従うことで満足してしまう人たち(107頁)」。いやあ、とりわけ今回の震災では、誰とは言わないけど(1)に属するとしか思えない政治家や自称知識人がワラワラ湧いてきて、みごとにコミュられているのを知っている人は多いはず。それに関連して、佐藤優氏(氏にはかつて講演会でハイト本を献呈したことがあるけど、そのときあのギョロ目で睨まれて、銀河系一のヘタレの私めは銀河系の果てまでふっ飛ばされそうになったことを覚えている)が、どれかの著書で述べていたことを思い出した。それは次のようなもの。佐藤氏は私めと同じ同志社大学の出身者(入学年度も同じ)で、外務省に勤めていたことがある。外務省には、東大や京大などの旧帝大出身者が多く、私学ではせいぜい早稲田や慶応出身者が多少いるくらいで、同志社のような関西の私学の出身者は彼くらいしかいなかったわけだ。その彼によれば、東大や京大の出身者には二つのタイプがいるらしい。一つは真の知力を持ちほんとうに頭が切れ、それを自明のことと思って育ってきているから、自分が東大や京大の出身者だということをまったく意識していないタイプ(Aタイプとする)。Aタイプの官僚は、同志社のような関西の私学を卒業した佐藤氏の言うことにも熱心に耳を傾けてくれたのだそうな。もう一つは、東大や京大には何とか合格したものの、真の知力を持たずどこか自信がないために、東大や京大の出身者だという一種の権威に拘泥しているタイプ(Bタイプとする)。Bタイプの官僚は、佐藤氏の言うことに耳を傾けようなどとは絶対にしなかったとのこと。このBタイプの官僚は、デカルトさんの言う二つのタイプの両方に該当していると言える。ただし(2)に関しては「他の人」を「(一般ピープルではなく)権威者」、「他者の意見」を「(一般ピープルの意見ではなく)権威者の意見」(たとえば同じ旧帝大出身者やA新聞の見解)に置き換える必要があるけどね。官僚でなくても、エリート意識がやたらに強いその手の自称知識人が近年やたらにはびこっていることは言うまでもない。彼らは今風の言い方をすれば、他者(とりわけ一般の日本人)に対してマウントを取ることで、汲々として自我同一性を保とうとしているのかも。新書本の著者は、それら二つのタイプの人々の問題に関して次のように述べている。「これら二つのタイプに欠けているのは、〈私〉のフェアネスの感覚である。{他の人に比べて自分を有能だと思う全能感も、逆に無能だと思う無力感も、〈私〉と他者の公正な関係にひびを入れてしまう/傍点}。(…)先に見たように、この世界では複数の〈私〉が、少なくとも認識論的には例外なく、それぞれの絶対性と有限性を引き受けている。この点に、人間存在の根源的なフェアネスがある、と言えるのだ(107〜8頁)」。
そして著者は、デカルトの方法的懐疑に関して次のように指摘する。「しかし、注意したいのは、この懐疑はあくまでも{方法的な/傍点}ものであって、絶えざる自己批判を目的とするものではない、ということである。懐疑の果てに直面する〈私〉の思考を信頼すること、そして、他の〈私〉の思考を尊重すること――この基本的なスタンスを保てないなら、責任ある思想や哲学を打ち出すことはできない。デカルトはそう言っているのだ(108頁)」。「方法的な」という部分をぜひ念頭に置いておきましょう。というのも、次に説明されている現象学は、まさにこの「方法的懐疑」をつき詰めた考え方だから。
ということで、次の新デカルト主義者フッサールに参りましょう。まず著者は、有名な「現象学的還元」を「一切の対象を〈私〉の意識体験における確信とみなすこと(110頁)」と定義する。まあ著者の論に引き寄せた定義と言えるのだろうけど、それをさらに次のように敷衍する。「フッサールは[ピュロン主義やデカルトの]エポケーの範囲をさらに一般化して広げて、特定の対象だけではなく、世界確信とそれを定立する自然的態度(〈私〉が自然な形で持っている客観的世界への親和的態度)の全体を問題にする。つまり、世界が存在していると当たり前に信じている態度そのものを変更しよう、ということである。ピュロン主義やデカルトになくて、フッサールにあるのが、この{根本的な態度変更の要請/傍点}なのだ(111頁)」。また「いかに客観的世界を主観が認識しうるかでなく、客観的世界を括弧に入れておいて、それがどのような条件と構造で意識体験(内在)において確信されているのかを問うのである。それゆえ、「現象学的エポケー」は、世界への向き合い方を抜本的に変更するための方法となるのだ(112頁)」と述べる。いわば人はいかに世界を開示し、それを自明と見なしているのかを内観的に追及しようとするのがその目的と言えるでしょうね。だから、現象学的精神病理学の分野では、そのような構造が破壊され、自明性を喪失した精神病者を臨床的に観察することで、この構造がいかなるものなのかを突き止めようとする。その点で、ヴォルフガング・ブランケンブルク著『自明性の喪失――分裂病の現象学』(みすず書房)は、いの一番で推薦できる本だし、同じくみすず書房から刊行されている、メダルト・ボス、ルードヴィヒ・ビンスワンガー、ウジェーヌ・ミンコフスキー、フーベルトゥス・テレンバッハ、そして数年前にお星さまになった木村敏ら現象学的精神病理学者の諸著作はぜひ読んでおきたいところ。また最近では臨床的観察のみならず、脳科学に現象学的知見を応用して、精神病者の、そしてそれを通じて健常者の世界開示の在り方を追求しようとしている神経科学者もいる。またもやアカラサマになるけど、その筆頭がわが訳書『脳はいかに意識をつくるのか』の著者で神経科学者&哲学者&精神科医のゲオルク・ノルトフ氏だと言える(本年中に、もう一冊氏の小著がわが訳で刊行される予定)。ノルトフ氏は、現在はカナダの大学に勤務しているけどドイツ出身で、ドイツでは現象学を専攻していたことがあるらしい。ノルトフ氏とは東大で氏の講演会があったときに、一度会ってちょっとだけ話をしたことがあり(残念ながら私めの英語会話能力では立ち入った話は無理だったけどね)、現象学について興味があるという主旨のことを言うと、ぜひ解説を書いてくれと言われた。またメールで、「安静時脳活動を意識の構築の生理的基盤と見なす視点は、予測{誤差/エラー}、遠心性コピーなどの最近の脳科学の概念のベースとなりうるのではないか?」と尋ねたところ、「それらの概念は、現象学的な視点を欠くので話半分にすぎない」という回答が戻ってきた。このような姿勢はアングロサクソンの脳神経学者にはあまり見かけられないので、とってもとっても興味深い。
またしても大きく脱線したので新書本に戻ると、著者によれば、フッサールは「真理は存在するのか」という問いを、「{問いの立て方そのものがナンセンスである/傍点}」と見なし、それを「〈私〉はどういう条件と構造で真理を確信しているのか、という現象学の問いへと変更(115頁)」した。つまり、「現象学は、〈私〉の意識体験において確信成立の条件と構造を取り出す(116頁)」ことを目的としていることになる。しかしそうだとすると「どのような対象も主観的な確信にすぎない、ということにならないか(120頁)」という疑問が生じることが予想される。これはまさに先に述べた「現象学=主観性の哲学」ととらえて現象学を忌避する態度の根源にある要因だと言える。その疑問に対してフッサールは『デカルト的省察』で次のように答えているとのこと。「おそらく、超越論的な我への還元は、一見すると独我論的にとどまる学問という印象を伴っているかも知れないが、それがその固有の意味にしたがって一貫して遂行されると、それは超越論的な間主観性の現象学へと導かれ、これを介してさらに、超越論哲学一般へと展開されることになろう(新書本120頁)」。先にアルフレッド・シュッツの現象学的社会学に言及したけど、すでにフッサールにおいても間主観性の問題は前面化していたことになる。新書本の著者によるその解釈は次のようなものになる。「対象それ自体についての判断を保留し――自然的態度のなす一般定立を遮断し――一切を〈私〉の意識体験に還元することを通じて、〈私〉は意識体験という極めて相対的な場面に連れ戻されることになる。そこでは、それぞれの対象は〈私〉にとって現われているにすぎない。しかし、現象学は、そこから〈私〉と他者の意識体験の同型性を探ることで、対象認識の相対性を突破し、間主観的な普遍性を創出する場面に出ようとするのである(121〜2頁)」。「〈私〉と他者の意識体験の同型性」とは、先の引用で言えば、〈私〉と他者が共有する「確信成立の条件と構造」のことなのでしょう。そのような現象学のあり方を著者は「現象学の言語ゲーム」と呼んでいるが、それに関して次のように述べている。「現象学の言語ゲームは、さまざまな欲望や関心の所在を表明する公共的な営みとして成立することになるだろう。正しさの絶対的公準は存在しない。しかし、だからこそ、互いの差異を認めることに必然性が出てくる。自分の考えを説明して、相手の考えに耳を傾ける。人それぞれの違いを認めつつ、しかし、それを越ええようとする志向を養う。そのときに初めて、〈私〉が他の〈私〉を尊重する態度と、間主観的な普遍認識の可能性が見えてくるのである(127頁)」。現象学の言語ゲームとは、ボトムアップの主体的なゲームだと言えるでしょうね。それに対してイデオロギーを先に立てて、そこからすべてを導き出そうとするやり方は本質的にトップダウンだと言える。もちろんトップダウンのやり方がすべて悪いと言うわけではなく、トップダウンのやり方が成立するためには、まずボトムアップ的に間主観的世界が構成されていることを認めなければならない。さもなければ全体主義に陥る。ここを勘違いしている人が多いから、第三章で取り上げられている「ポスト・トルゥース」の問題が生じてくるのだろうと個人的には思っている。
ということで「第三章 ポスト・トルゥースを終わらせる」に参りましょう。とはいえ第二章までの説明ですでに相当長くなってきたし、ポスト・トルゥースという主題は、他の本を取り上げたときにコメできるだろうからここでは簡単に済ませることにする。ただし構築主義に対する著者の見方には、全面的には賛同できない部分があるので、それについてやや詳しく述べておく。もちろん著者は、「構築主義の倫理的意義は明らかであり、また、構築主義の主張も完全に間違ってはいない(161頁)」と述べているように、構築主義を全面的に否定しているわけではない。でもたとえば、「構築主義の論理を押し進めた結果、自由や人権すらも相対化されてしまうなら、これはまずい状況というほかないだろう(157頁)」という記述は、いかにも言い過ぎの感がある。そもそも、一部の狂信的な構築主義者を除いて、自由や人権すらも相対化するまで構築主義の論理を押し進める人がいったいどれくらいいるのだろうか? これはポストモダンを「ポモ」と呼んで揶揄するのと同じようなカリカチュアであり誇張であるように思える。一例をあげましょう。前出のわが訳書、リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』は、「脳の隠れた働きと構成主義的情動理論」という副題からもわかるように、基本的には構築主義(私めは「構成主義」と訳したけど)の立場から書かれている。でもバレットは「自由や人権すらも相対化」するほど構築主義の論理を押し進めているわけではない。というのも、彼女は脳の可塑性や脳の機能という、より普遍的な生物学的基盤に依拠して慎重に立論しているから、「自由や人権すらも相対化する」ことには決してならない。
また最近の医療分野では、生物と心理と社会は相互作用するという点が重視されるようになりつつある。なお生物と心理と社会の相互作用に関しては、拙訳ではロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない』やスザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』を参照されたい。ここでは経緯を簡単に説明するに留める。20世紀においては、神経科学などの生物学的知識が現在に比べればはるかに未熟だったので、いきおい生物学的事実という普遍性を無視した医療がまかり通っていた。心理に特化したフロイト流の精神分析や、社会ばかりを槍玉にあげるR・D・レインらの反精神医学がその代表格と言える。ところが1980年代以後は、その反動か生物学的事実を絶対と見なす生物偏重主義が優勢になる。でも普遍的な生物学的事実だけに着目し、個人の心理や社会を無視して医療を実践することも、心理や社会にのみ着目するのと同程度に大きな問題を孕んでいるのですね。なぜなら、生物と心理と社会は相互作用するから。社会が個人の心理に及ぼす影響を見極めようとするのなら、普遍的な生物学的基盤も、社会による構築主義的な側面も無視してはならないということになる。前述のとおり著者は「構築主義の論理を押し進めた結果、自由や人権すらも相対化されてしまうなら、これはまずい状況というほかないだろう」と書いているけど、これまで述べたように法や医療の実践という現実的な分野では、むしろ構築主義的な考えを、具体的には社会の影響を軽視したほうが人権の侵害に至りやすい。その理由は単純で、「人権」のような普遍的な概念を実際に適用する際には、つねに特定の集団や個人が対象になるから、適用対象になる特定の集団や個人、ならびに適用対象からはずれる集団や個人が置かれている社会や環境の特殊性が無視されると、そこに後者に対する自由や人権の侵害が生じるからなのよね。これはあとで述べる「トップダウンの粒度越境の誤り」に該当する。一例をあげると、LGBT関連法は、LGBTの人権を守ることが意図されているとしても、現実の文脈を無視して立法したり、それを適用したりすると別のカテゴリーに属する集団である女性の人権が侵害される可能性がある(なので最低でも「LGB」と「T」は区別するべきと言ったわけね)。倫理や神学の分野には、「特定の良心の問題や行為、あるいは神学的な問題や行為に、倫理や神学の一般的、普遍的な原理を適用すること」にまつわる問題を考える際に言及される「決議論(casuistry)」と呼ばれる概念がある。そのような慎重な考慮を怠ると、たちまち「トップダウンの粒度越境の誤り」を犯す結果になってしまうのですね。「国境のない世界」というユートピアが、現実的には全体主義的な地獄と化すと言った理由も、権力を握る特定の集団や個人が、その力を行使して「トップダウンの粒度越境の誤り」を故意に犯してその他の集団や個人を支配しようとするようになるからだと言える。
ところですでに述べたように、個人的には構築主義は、中間粒度に適用する場合にはきわめて有効な見方だと考えている(さもなければ中間粒度の多様性を担保することができない)。ところがそれを無条件により大きな粒度にまで拡張して強引に適用しようとすると大きな問題が生じる。私めはこれを「ボトムアップの粒度越境の誤り」と呼んでいる。でもそれは「構築主義の適用の誤り」なのであって、「構築主義に内在する本質的な誤り」ではない。だから原理的で一方的な構築主義批判は、真実を見落とすことにつながると思っている。確かに構築主義を武器として用いて、はてはアナーキズムまでをも肯定しようとする輩は一部にいるのかもしれない。でもその手の輩の問題は、一方的に特定のイデオロギーを普遍的なものと見なして、本来は中間粒度に適用すべき構築主義を自己のイデオロギーの擁護に利用しようとする、(「ボトムアップの粒度越境の誤り」とは逆方向の)「トップダウンの粒度越境の誤り」を犯している点にあるのであって、構築主義そのものが問題なのではない。もちろん著者が言うように、「フェイクニュースの捏造やポスト・トルゥースの状況を利用した政治的ポピュリズムの台頭を、構築主義的相対主義は止められない(158頁)」のかもしれない。でもフェイクニュースの捏造やポスト・トルゥースを止められないものは他にも数限りなくあり、だから止まらないどころか猖獗を極めている。あるいはそれに続いて「それどころか、むしろ世界観としてはそれを助長しているという残念な事実に、私たちはそろそろ気づいてよい頃である(158頁)」とあるけど、気づくべきはそこではないと思う。そもそも構築主義の世界観を抱いている一般人など多くはいないはずで、むしろ一部の知識人や大手メディアが構築主義的言説を悪辣に利用して、特定の一般人に影響を与えていること、つまり「構築主義の適用の誤り」が最大の問題なのだと思う。とはいえわが訳書、『人は簡単には騙されない』で認知科学者のヒューゴ・メルシエ氏が主張しているように、一般人は本来、人類が進化の過程で獲得した「開かれた警戒メカニズム」を備えているがゆえに、簡単にデマに踊らされたりはしない。踊らされるとすれば、それは、一部の知識人や大手メディアなどの権威筋が故意に繰り出す「トップダウンの粒度越境の誤り」によって簡単に操作されてしまう、同種のイデオロギーを信奉している人々、ありていに言えば佐藤氏が分類するBタイプの官僚的な傾向を持った人々だと言える(その意味でも事実や論理を淡々と記述するツイ(X)のコミュノートは、フェイクニュースやポスト・トルゥースに対抗する、非常に有効な手段になる)。
新書本から離れてしまうけど、フェイクニュースやポスト・トルゥース、あるいは陰謀論に関して一点だけ私めの考えを明確にしておくと、一般ピープルは騙されやすいことを前提とする立論は、根本的に間違っている。それどころか、そのような立論は、むしろフェイクニュースやポスト・トルゥースや陰謀論を作り出している側に有利に作用する。なぜならそれらを作り出しているのは、究極的には一般ピープルではなく権威筋だから。なお、ここで言う権威筋には、一部の知識人や宗教的指導者や独裁国家の他に大手メディアも含まれる。著者も「{不合理な迷信を甘んじて受け入れる心情や、それを何も吟味せずに拡散する行為は、権力者にとって有利に働く/傍点}。たとえ本人が権力批判をしているつもりでも、その心的機制そのものは権力者にとって扱いやすいのである(185頁)」と述べているしね。私めは、粒度を度外視してものごとを平面的にとらえ、何でもかんでも「あれかこれか」でとらえようとする傾向が現代におけるもっとも根源的な問題だと考えていて(その病理の最たるものは二極化ということになる)、だからこそその傾向を改めるためにも新デカルト主義者や著者が提起する「現象学の言語ゲーム」という概念が重要になると思っている。だからこそ構築主義やポストモダンに対する度を超した批判(先に述べたように著者は一方的に批判しているわけではないけど)は、本来の問題を見えなくするアリバイとして作用すると思う。だって、ほんとうの問題は構築主義やポストモダンにあるわけではないんだから。
ついでに述べておくと第三章の最後のほうで、人はなぜ奇蹟を信じるかに関するヒュームの理論が紹介されているんだけど(176頁から始まる「「奇蹟」のヒューム的解明」と題する節)、そこに書かれていることは正直言って「そうかなあ?」と思ってしまった。この節の最後に次のような記述がある。「奇蹟の証言者の「雄弁は、その最高度においては、理性ないし反省にほとんど余地を残さない。そして空想や情動にもっぱら呼びかけて迎合的聴衆の心を捉え、彼らの知性を屈服させる」(同書[ヒューム著『奇蹟論・迷信論・自殺論』]、一三頁)。経験に基づく理性の判断では、奇蹟は信じがたい。が、理性を狂わせる情動によって、奇蹟への信仰は拡大する。つまり、奇蹟の信仰を可能にするのは、理性ではなく情動の働きである。ヒュームはそう考えるのだ(182〜3頁)」。う〜〜ん、情動のせいで理性が狂わされて奇蹟を信じるようになるというのは、いかにもそれらしいけどほんとうかな? そもそもこの記述は、まさしく一般ピープルは騙されやすいことを前提とする立論であるように読める。私めは、むしろヒューゴ・メルシエ氏の主張のほうが、説得力があるように思える。
メルシエ氏は、たとえば先にあげた『人は簡単には騙されない』の「第11章 循環報告から超自然信仰へ」で次のように述べている。「人びとは宗教的信念を受け入れ、それをあたかも自分で見たり実践したりしたかのごとく語るようになるが、忘れてならないのは、あらゆる信念が認知的に同様なあり方で作用しているわけではないという点だ。宗教的信念は直観的であるより反省的[必ずしも新書本の著者が言う「反省的」と同一ではない]である場合が多い。ここで思い出してほしいのだが、反省的な信念は推論メカニズムや行動を志向するメカニズムの一部と相互作用するにすぎない。ほとんど特定の心の部位に包摂され、直観的信念のように心の中を自由に徘徊することができない(同書233頁)」。要するに反省的な信念として保持される宗教的信念は、人類が進化を通じて獲得してきた「開かれた警戒システム」の埒外に置かれ、そのチェックの対象にならないから、簡単にその人に信じ込まれてしまうわけ。その点が「心の中を自由に徘徊」し、「開かれた警戒システム」のチェックを受けざるを得ない「直観的信念」とは異なるのですね。ちなみに「直観」という用語を聞くと、情動と同様に理性や合理的思考とは逆の作用であるように思えるかもしれないが、実のところメルシエ氏は、『人は簡単には騙されない』の理論的基盤をなす認知科学者ダン・スペルベルとの共著『The Enigma of Reason』で、「合理的思考は直観的推論の一形態である(同書90頁)」ことを示す理論を展開している。イデオロギーも、宗教的信念同様、反省的な信念の範疇に入るのだろうと思う。つまりメルシエ&スペルベルによれば、直観的には信じていないことを、「開かれた警戒システム」のチェックなく反省的に信じているのが、奇蹟を始めとする宗教的信念やイデオロギーの実態だということになる。情動に関して言えば、情動を外に向けて示したり他者の情動を評価したりする能力は、そもそも個体が自らの生存や生活を維持できるよう進化の過程で獲得されたものなので、その人の生存や生活の安寧を損なう作用として理性を見るのでない限り、情動によって理性が狂わされるというのは前提がどこかおかしいと言わざるを得ない。バレットが主張するように、情動は「概念」によって構築されるので、むしろその「概念」が、反省的に保持されているために「開かれた警戒システム」のチェックを免れている宗教的信念やイデオロギーによって歪められているせいで情動も歪められていると考えるほうが妥当であるように思える。言い換えれば、情動によって理性が狂わされているのではなく、話はむしろその逆に近く、理性的とは言わないまでも認知的に作用する「概念」によって情動が狂わされているというのがほんとうのところであるような気がする。だから宗教的狂信者にせよ、特定のイデオロギーの狂信者にせよ、自分たちの信念を共有していない他者に対する怒りや憎しみの炎をメラメラと燃やして、挙句の果てにとんでもないデマツイを連発するというわけ。これがフェイクニュースやポスト・トルゥースや陰謀論が猖獗する真の理由だと思う。このように述べると、私めが著者が第三章で展開している議論を否定しているように思えるかもだけど、主観性から間主観性という「現象学の言語ゲーム」によって、相対主義や絶対主義の陥穽から逃れるべきというメインの主張には完全に同意しているので誤解のなきようお願いしますだ。
ということで「第四章 ネガティブなものを引き受ける」に参りましょう。この最終章は、新デカルト主義のエポケーの考えを、「ネガティブ・ケイパビリティ」という現代の概念に引き寄せてとらえている。正直なところ、あまりピンとこない部分が多かった。またサイバースペース論などは、よく見かけるごく普通のものであるように感じた。ただし後半にある「自由(の制限)」に関する見立てはなかなか興味深かった。次のようにある。「たしかに、他者との時間は不自由を伴う。他者が目の前に存在しているだけで、それを黙殺するのは難しいし、そこに何らかのコミュニケーションが発生するからだ。誰かと一緒にいるだけで、〈私〉の自由は制限される。しかし、自由と責任を一人で背負い込もうとするとき、それが生きていく上での重荷になることもある。つまり、自由であるがゆえの憂鬱がある、ということだ。(…)誰かと一緒にいる、ということは、互いの自由を、{いい塩梅に/傍点}、減じあう作業でもある。ここに、何のために「自由」はあるのか、という問いが立つだろう(233〜4頁)」。この文章が新鮮に感じられるのは、ネットなどであまりにもお気楽に、「言論の自由」や「学問の自由」などといった「〜の自由」という言葉が使われているのに辟易しているから。そもそもそこで言われている「〜の自由」とは、たいてい「(政府などの)権力からの自由」でしかない。「〜への自由」が消し飛んでいるのですね。例の学術会議の問題にも、まさにこれが当てはまる(それについては『日本の保守とリベラル』を参照されたい)。「〜への自由」を問題にするならば、当然そこに自己の責任が伴わねばならず、著者も言うように「自由と責任を一人で背負い込もうとするとき、それが生きていく上での重荷になることもある」のですね。でも著者は、そのような「自由の制限」に積極的な価値を認めようとする。まさに「〜の自由」花盛りのネット空間に辟易している私めとしては、著者のこの考えは実に新鮮に感じられる。さらに著者は次のように述べる。「{〈私〉と他者のつながりの確からしさは/傍点}――〈私〉の実在性と同じように――{その関係性がもたらす、自分にはどうにもならないものに支えられている/傍点}。(…)つまり、{現実世界でもサイバースペースでも/傍点}、人間の摩擦とそれを修復しようとする努力の中に、その関係性の深いリアリティが成立する、ということだ。〈私〉という存在の出発点は「弱さ」と「脆さ」であり、そして、他者とのつながりは、突き詰めると、自分ではコントロールできない「どうしようもなさ」から始まる。それを引き受け、受け止めることが関係性の起点になるのだ(238〜9頁)」。これは「〈私〉の絶対性と有限性を肯定し、一切を主観の内側から打ち立てようと」し、主観性から間主観性へと歩を進める新デカルト主義の帰結とも言える。ということで、構築主義などに関して一部やや違和感がある箇所はあったし(すでに述べたように著者は構築主義を全面的に否定しているわけではないが、個人的には、全体的な論調としては必要以上に読者に悪いイメージを与えているように思えた)、現象学などに関する哲学的な記述は門外漢にはわかりにくい部分もあろうとは思われるけど、全体としては非常にすぐれた本だと思うので、門外漢であってもぜひ読むべき本だと思う。
※2024年1月16日