◎ヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』(Harvard University Press

 

 

この本を読むのは三度目になる。「The Enigma of Reason(理性の謎)」という標題がつけられているけど、これはどういう意味なのか? それについては冒頭の次の記述を読めばある程度わかる。

 

心理学者たちは、人間の理性には欠陥があることをこれまで実証してきたと主張する。理性は自分の仕事をうまく果たせていないという考えが流布している。心理学者や哲学者は実験に次ぐ実験を重ねて、「人々は合理的思考においてひどい誤りを犯す」と確信するようになった。それもただ誤るというだけではなく、系統的に誤るのだ。理性の車輪はバランスを欠いている。

そのような常識的見解を超えて、議論はさらに燃え上がった。理性には欠陥がある。だがその欠陥はどれくらいひどいものなのか? 合理的思考の成功や失敗はいかにすれば測定できるのか? それにはいかなるメカニズムが関与しているのか? 激しい見解の不一致があるにもかかわらず、そのような議論への参加者は、基本的なドグマを疑おうとしないという点では一致している。つまり誰もが、「理性の仕事は、当人がよりすぐれた知識を獲得し、より的確な判断を下せるよう手助けすることにある」と暗黙裡に考えているのである。

このドグマを受け入れてしまうと、理性が公平で客観的で論理的でないという事実は、確かに大きな謎に思えてくるだろう。理性が人びとの意見を一致させることにたびたび失敗し、見解の不一致を悪化させる場合さえあることは、逆説的に思えてくるだろう。だがそもそも、なぜそのようなドグマを受け入れるのか? 伝統の重みからなのか? (…)理性には他にどんな機能があると言うのか、と読者は訝っているかもしれない。

一般に理解されている理性とは、二重の意味で謎である。それは月並みな心的メカニズムなのではなく、進化――かつての考えでは神――が私たち人間にのみ与えた認知的{超能力/スーパーパワー}なのだ。それだけでは謎として十分でないと言いたいかのごとく、このスーパーパワーには欠陥があることが判明する。理性はそれを持つ人間を誤らせ続けているのだ。欠陥のあるスーパーパワーたる理性。この考えはほんとうに正しいのか?(4頁)

 

The Enigma of Reason』は、まさにこの謎を解明することを最終的な目的としている。最初に指摘すべきは、本書では、合理的思考(reasoning)が直観的推論の一形態であるととらえられていること。次のようにある。「思考に関する最近の考えの多く(たとえばダニエル・カーネマンのよく知られた『ファスト&スロー――あなたの意思はどのように決まるか?』)は直観と合理的思考が、あたかも互いにまったく異なる形態の推論であるかのごとく対立するものとして論じられている。われわれは、それとは異なり、合理的思考はそれ自体、一種の直観的な推論であると主張したい(7頁)」。

 

この点は「図1 いかに理性は推論のいくつかのカテゴリーに埋め込まれているか(6頁)」にはっきりと示されており、そこでは「理性(REASON)」は「直観(INTU ITION)」の内部に包み込まれている。なお、この図は本書の理解において非常に重要になるので本を持っている人はまずこの図をじっくりと眺めましょうね。ただこの図は包含関係を示したごく簡単な図にすぎないので、ここで持っていない人のために用語だけ抜き出しておきましょう。それによると包含関係は、「INFERENCES(推論)⊃INTUITIONS(直観)⊃INTUITIONS ABOUT REPRESENTATIONS(表象に関する直観)⊃INTUITIONS ABOUT REASONS  REASON(理由や根拠に関する直観  理性)」というものになる(なお用語の説明は以下で行なう)。また、図の説明に次のようにある。「人間は他の動物と同じで、たった一つの一般的な推論能力ではなく、さまざまな特化したメカニズムを備えている。しかし人間においては、それらのメカニズムの多くは「直観的な」ものではなく、発達期に他者とのやり取りを通して後天的に獲得される。それでも後天的に獲得されたそれらのメカニズムのほとんどには、直観的な基盤がある。ウォロフ語や英語やタガログ語を話すことは直観的な能力ではないが、音声に特別な注意を向ける能力や、自分が属するコミュニティで用いられている言語を習得するのに必要な段階を踏む能力には直観的な基盤がある(6頁)」。また理性の行使には、自己の正当化の形成と、他者を説得するための議論の構築という二つの主要な機能があると述べる。つまり理性とは、第一に社会的な能力だということ。

 

ここで本書における三つのキーワード「reason」「inference」「reasoning」の訳語について述べておきましょう。まず「reason」は、抽象的な文脈で「reason」とのみ記されていた場合は「理性」と、また具体的な文脈で「reasons」と複数形で記されていた場合は「理由や根拠」とした。「inference」は「推論」と、「reasoning」は「合理的思考」とした。「inference」と「reasoning」はどちらも「推論」と訳されることが多いし、著者自身[ちなみに著者は二人いるので、本来は「著者ら」とすべきだが、単に「著者」としたので悪しからず]も、一般には英語でもそれら二つは同義語として扱われていると述べている。それでも著者は「inference」と「reasoning」を明確に区別している。

 

では、いかなる基準で区別しているのか? 次のようにある。「「reasoning」と「inference」という二つの用語は、同義語として扱われる場合が多い。ヒュームの考えでは、reasoninginferenceを遂行するための一手段にすぎない。しかも信頼できない手段にすぎない。われわれはその考えに同意する(51頁)」。あるいは「われわれは、「inference」を、既存の情報から新たな情報を抽出するという意味で用い、「reasoning」という用語は、「reason(理性)」に参照しつつその目標を追求する特定のプロセスを指して用いる(53頁)」。要するに、「inference」の様式はさまざまにあれど、「reasoning」はそのうちの一つにすぎないということ。

 

ところで日本語で「推論」と言うと、頭をうんうんうならせて意識して行なう論理的思考(つまりカーネマン流に言えばシステム2)を指すように思われがちだけど、実のところ著者にとっての「inference」には、そのような思考も含まれれば、自動的、無意識的に生じる思考(カーネマン流に言えばシステム1)も含まれる。要は一定の手続き(プロセス)を介してアルゴリズミックになされる処理であればよいわけで、それが意識的なものか否かは問わない。無意識的な推論の例として著者が上げているのは、有名なアデルソンのチェッカーボードの例だけど(客観的には同じ輝度?で描かれた二つの黒いマスのうち、影が差しているほうのマスがそうでないほうのマスより主観的には明るく見えるという一種の錯覚の例)、その種の自動的、無意識的に生じる「推論」の例はいくらでもあげられる。

 

そもそも知覚自体が、無意識的なふるいのプロセスを通じて加工されたものが意識に上ってくることは改めて言うまでもないが、その種の複雑なプロセスは無意識裏になされている(そんなことを意識してやらなければならないとしたら、心にとんでもない負荷がかかる)。著者も「人間は、目覚めているときには推論をせずには一分も過ごせない。その一方、数時間でも数日でも合理的思考をまったく行なわずに過ごすことができる(53頁)」と述べている。「知覚プロセスは推論ではないのでは?」と訝る人もいるかもしれないのでつけ加えておくと、まさにそう考えること自体が、「推論はシステム2的に意識的に行なわれるんだから、無意識裏になされている知覚処理は推論とは呼べない」と仮定しているからこそだと言える。この本を読む場合、「推論=意識的なプロセス」という前提は捨てる必要がある。というわけで「reason(理性)」に参照しつつ行なう「reasoning」を、ここでは「合理的思考」と訳したという次第。いずれにせよ以上三つの専門用語の訳については、認知科学者でもない私めの選択なので異論もあると思うけど、アルファベットのままにしておくわけにもいかないので、とりあえずここではそれらの訳語で済ますことにする。

 

次に「直観(intuition)」について。著者によれば、もっとも単純な直観の定義は、「直観は私たちが下す判断(あるいは決定)であり、それを正当化する理由に関する知識なくしても正当化されると見なされる(64頁)」。また直観にはメタ認知的性質が含まれると論じられているけど、それについてはあとで簡単に触れる。そして理性がこの直観に含まれることは図1に見たけど、さらに明確に「これから論じるように、合理的思考は直観的推論の一形態である(Reasoning, we will argue, is a form of intuitive inference)」と述べられている(90頁)。

 

それから著者の提起するもう一つの重要な概念に「メタ表象(metarepresentation)」、つまり「表象に関する表象」という概念がある。そもそも「表象(representation)」とは何か? 表象という専門用語はかなりあいまいで人によって定義が異なりうるけど、著者は次のように定義している。「われわれの言う表象とは、脳内の一群のニューロンの活性化、蓄電媒体における磁気パターン、紙に書かれたインクのパターンなど、物質的なものである。それらは生物の内部にも外界にも存在する。それらの物質的な何かを表象にしているものとは、その位置でも、形状でも、構造でもなく、その機能である。表象は、生物(あるいはより一般的には、あらゆる情報処理装置)に、何らかの事象に関する情報を提供するという機能を持つ(81頁)」。おそらく本書の文脈では、脳内の一群のニューロンの活性化によって心的に生じ、かくして何らかの事象に関する情報を当人に提供するものが表象なのでしょう。

 

ところで、そのような表象のなかには、表象に関する表象、つまりメタ表象も含まれる。なぜそれが重要になるかというと、人間は社会的動物であり、他者の心を読んでその行動を予期する、いわゆるマインドリーディングがきわめて重要になるけど、その対象になるのは他者に関するメタ表象だから。そして「他者とやり取りするにあたって、私たちが毎日行なっているマインドリーディングは、まったく自発的で直観的なものに留まる(100頁)」。つまりシステム2ではなくシステム1の働きによってなされているということ。

 

ちなみに著者は、この説明(や他の説明)にモジュールの概念を動員しているけど、個人的にはモジュールという概念はあまり好きではない。というのも単なる仮説的な概念なのか、それとも対応する何らかの実体があるのか定かでない場合が多いから。またかつてITエンジニアであった私めは、モジュールと聞くと、新人の頃にモジュール単位にコーディングを担当させられて、全体が何もわからないままブリンカーをした馬のごとくヘコヘコとコーディングしていたいやな思い出が頭をよぎるからですね(まあ著者には何の関係もない話だけど)。ひとまずここでは、ある特定の機能を実行するために動員される特定の脳のネットワークという程度にとらえておくことにしましょう。ちなみに最新の脳科学の知見からすれば、モジュールは、特定の脳領域に局所化されるのではなく脳全体に分散されるネットワークとして実装されているとみたほうが無難でしょう。そのようなモジュールの概念が飛び出してくるのは、著者が進化心理学に依拠しているからだけど、それについては後述する。

 

ところでもちろん、表象に関する推論を行なう能力は、マインドリーディングに限られるわけではなく、著者は数を扱う能力や説明能力をあげている。そして説明能力に関わる直観について次のような3つの特徴をあげている。「1.説明がすぐれているか、ひどいかに関する直観は、説明対象の事象に関する直観と同じではない」「2.私たちが持つ説明に関する直観は、説明の対象になる事象ではなく、説明それ自体に内在する説得力、一般性、一貫性などの性質を巧妙に活用する」「3.説明に関する直観は、それ[1、2]にもかかわらず説明対象の事象に関する洞察の主要な源泉をなす(103頁)」。前述した「直観に含まれるメタ認知的性質」とは、2にある説得力、一般性、一貫性などをめぐって他者の話を評価したり、それらを備えた発言をしたりする能力を指しているのでしょう。「百聞は一見にしかず」ということわざの妥当性は、まさにここにあると見ることができる。つまりあえて身銭を切って(これについては後述)自分の目で事実を確かめれば、他人からくだくだと聞かされるよりその事実に関して直観が鋭く研ぎ澄まされるということなのでしょう。そしてこのことわざ(のみならず他の多くのことわざ)自体が直観に訴える記述で構成されている。ことわざの持つ力とは、まさにこの「直観に訴える」という点にある。他のことわざで言えば「光陰矢の如し」などはまさにそうだよね。その理由についてはさまざまな見解があるようだけど、40〜50歳を過ぎた人はほとんど誰もが、直観的にそう感じている。

 

さて「第V部 理性の再考」に入ると、理性の社会的性質が論じられる。さっそく第V部の概要に、「エコロケーションが、コウモリが生息する生態的ニッチに対する適応として進化したのと同じように、理性は、人間が自分たちのために築き維持してきた、緊密な社会関係、強力な言語、豊かな文化によって特徴づけられる非常に特殊なニッチに対する適応として進化したのだ(107頁)」とある。まさに「人間は、合理的思考を行なうときだけではなく、自己を説明し正当化するときにも理性に訴え(109頁)」、「理性は、第一に自分自身を導くためではなく、他者の眼前で自己を正当化し、他者の正当化を(しばしば批判的に)評価するために用いられる(113頁)」のですね。しかも「そもそもすべての推論が理性に導かれていると想定することは誤りである。理性は直観的推論それ自体のプロセスにおいてではなく、自分の直観を事後に説明したり正当化したりする際に中心的な役割を果たす。われわれはそう主張したい(117頁)」と述べる。

 

それについては、ジョナサン・ハイトがわが訳書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(紀伊國屋書店,2014年)で、メルシエとスペルベルの業績(タイミング的に言って『The Enigma of Reason』ではないはず)を参照して次のように述べている。「真実の追求を是とする人は、理性崇拝をやめるべきだ。証拠を冷静に見つめて、思考とは何たるかをよく考える必要がある。フランスの認知学者ユーゴー・メルシエとダン・スペルベルは、動機づけられた推論をテーマとする(社会心理学の)論文と、思考におけるバイアスや誤りに関する(認知心理学の)論文を徹底的に調査している。その結果、それらの研究の奇異で気の滅入る発見のほとんどは、「思考能力は、真実を発見するためではなく、誰かと論争する際に、議論、説得、人心操作を巧みに行なうための補助手段として進化したと見なせば、完璧に理解できる」と結論している。「議論の巧みな人は、(……)真実ではなく、自分の見解を支持する理由を探している」と二人は言う(同書155〜6頁)」。

 

以上をまとめると、理性とは、おもに社会的消費のための社会的構築物であり、それゆえ文脈に左右されるということになる。メルシエ&スペルベルは、それに関して『The Enigma of Reason』で次のように述べている。「人間の思考において理性が重要な位置を占めている理由は、非常に豊かで複雑な社会的なやり取りにおいてそれが独自の役割を果たすからだ。理性は、個人の説明責任、互いへの期待、規範の確立に役立つ(131頁)」。

 

次に二人は、日常会話において人々が特定の事実から特定の結論を導き出す際(たとえば「舗道が濡れている」という事実から「雨が降ったに違いない」という結論を導くなど)、その理由や根拠をいかに推論しているのかを問う。それらの理由や根拠の妥当性を保証するメタ的な理由や根拠を見出しながら推論しているのだろうか? それはあり得ない。なぜなら、それでは無限後退に陥るから。ということは理由や根拠の認識は、究極的には合理的思考(reasoning)ではなく、直観的推論(intuitive inference)に依拠する必要がある。このことからも著者は、「合理的思考は直観的推論の代替物ではない。合理的思考は、理由や根拠に関する直観的推論の一用法なのである(133頁)」と、わざわざイタリック体にして強調しつつ述べている。

 

ただ次の指摘には留意しておきましょう。「直観とは、当人が、議論や第三者の権限に訴えることなく、自己の権限のもとで断言していると感じられる思考である。自己の直観に基づいて断言する(あるいは行動指針を提示する)ことは、単にその内容だけでなく、それを提示している当人の権限を受け入れるか、それともそれに対して不信を表明するかを選択しなければならない立場に相手を置く(135〜6頁)」。つまり自己の直観に訴える発言をすることは、社会的状況のもとで、ナシブ・タレブ流に言えば身銭を切って発言することを意味し、一種のスピーチアクトとして機能するということ。

 

なぜこれが重要かと言うと、知識人にしろツイ民にしろ、この点をまったく理解していない人を大勢見かけるから。一つ(東京五輪に関する)具体例をあげましょう。なお誤解を招かないよう、前置きを述べておきましょう。私めは開催が決定するまでは、金がかかってテロを呼び込む可能性のある五輪開催には賛成ではなかった。でも、いったん開催が決まり、それにコミットしたからには、勝手に放棄することはできないと考えていた。また五輪競技そのものは、はるか昔からサッカーを除いて一ミリも興味がない(そのサッカーにしても、男子には年齢制限があるのでワールドカップに比べれば重要ではないと思っている)。だから以下は東京五輪反対それ自体に対してではなく、反対派の思考様式に対して疑義を呈しているのですね。

 

と、前置きしたうえで、本論に移りましょう。東京五輪開催直前に、「政府が国民を殺しにきている」などという主旨の発言をして東京五輪開催に反対している知識人やツイ民を見かけた(東大名誉教授にさえ、そのたぐいの発言をしていた人がいた)。もちろんそのような発言をすること自体は、「殺しにきている」などといった表現が適切か否かは別として(適切なはずはない)、言論の自由がある以上、また日本は某国ではないんだから無闇に圧殺することはできない。だが彼らの問題はむしろ、甲子園を開催している朝日や毎日、あるいはJリーグやプロ野球の主宰者には何ら文句を言わなかったことにある。「政府が国民を殺しにきている」ということを当人が直観的に信じているのなら、「朝日や毎日、あるいはJリーグやプロ野球の主宰者たちは将来のある高校生や、その他の国民を殺しにきている」として、それらの企業や団体も政府と同様に批判しないとおかしいよね。

 

にもかかわらず、なぜ彼らは、そういう声をあげなかったのか? 答えは単純で、「政府が国民を殺しにきている」などとは、言っている当人でさえ直観的には信じていないから。率直に言って、意識的にせよ無意識的にせよイデオロギー、とりわけ革命権や抵抗権の概念に振り回された左向きの人がその手の発言をしていたのだと思う(今、アメリカで銃規制がなかなか進まないのも、この抵抗権を体現する合衆国憲法修正第2条がその実現を阻んでいるからであることを忘れるべきではない)。では直観的に信じてもいないのになぜそんなことが言えるかというと、身銭を切っていないから。「身銭を切っていない人の言うことは信用すべからず」と、ナシブ・タレブも言っていたでしょう。そのことは、メルシエ&スペルベルの業績を含む最新の認知科学の成果からも言えるのですね。

 

東京五輪開催に反対していた人々の思考がいかに混乱していたかを示すもう一つの例をあげましょう。その例とは、JOCのトップによる汚職が報じられたとき、「ほら、これで日本は五輪開催を放棄できる」という主旨のツイがタイムラインにゾロゾロ流れていたこと。それを目にした私めは、「どうして日本人の汚職が発覚したら、すでにコミットしている五輪開催を日本が勝手に放棄できるのか? むしろ話は逆であって、世界が日本の五輪開催権を剥奪する権利を得たというほうが論理的に妥当で、世界がその件で日本から開催権を剥奪しないのなら、五輪を無事に開催する日本の義務はなおさら強まる(まあ金喰い虫のオリンピックを急遽代理開催してくれる国はあまりないだろうから実際に剥奪するとは夢にも思っていなかったけど)」と直観的に感じた。たぶん、イデオロギーに絡み取られていない一般の市井の人々も、直観的にそう感じていたのだろうと個人的には思っている。結局イデオロギーに振り回されると、事実はおろか論理さえ見失う。その理由は、あとで触れる。

 

(この段落は、第9章冒頭の節「直観的な議論、反省的な結論」にある具体例をあげての説明を読まないとわかりにくいので飛ばしてもOKです)。話を元に戻すと、著者の主張によれば、「人間の思考においては、一部ではなくすべての反省的結論が、理由や根拠に関する直観的推論のメカニズムによる間接的な出力である(151頁)」。反省的結論(reflexive conclusion)とは著者の造語で、一般的には「高次の思考のゆえに受け入れられた合理的思考による結論(reasoned conclusion)(150頁)」を意味する。つまり著者は、合理的思考に基づいて得られた結論は、直観的推論がその結論をめぐって理由や根拠を推論した際に、直接的な出力とともに、それに埋め込まれた形態で間接的に出力したものであると、言い換えると反省的推論と直観的推論は同一のメカニズム(モジュール)によって実装され、反省的推論の結論も直観的推論の結論もこの同一のメカニズムから、前者が後者に埋め込まれる形態で同時に出力されると言っているわけ。だから本書冒頭の図1では「REASON」が「INTUITIONS」に包含され、また133頁では「合理的思考は直観的推論の代替物ではない。合理的思考は、理由や根拠に関する直観的推論の一用法なのである」とイタリックで強調してまで述べられているのでしょう。

 

ではそもそも「REASON(理性)」とはいったい何なのか? 予想されるように、その答えを導く手引きになるのが進化科学なのですね。ところが合理的思考(reasoning)を研究する心理学においては、一九九〇年代に入るまで進化、自然選択、生物学的機能などの概念に言及されることはほとんどなく、合理的思考の機能は個人の認知能力を強化することにあると見なされていたとのこと(179頁)。しかも人間の認知には欠陥があることが心理実験で次々に示されるようになると、心理学者たちは、彼らが予測していたより、人間の認知はその機能を適切に果たしていないと主張するようになった。それどころか、その事実を持ってして進化生物学的アプローチが誤っていると見なすようになったとのこと(「なぜうまく機能しないものが選択されるのか?」というわけね)。

 

この傾向が変化するのは、進化心理学が創設されてからであり、その発端は著名な進化心理学者レダ・コスミデスが一九八九年に発表した論文にある。彼女はそこでおもに二つの理論的主張を行なっている。一つは、「合理的思考のメカニズムは、人類の祖先が生きていた環境のもとで繰り返し生じていた特定の問題に対する対応として進化した(180頁)」という点。つまり具体的な問題に対応するために進化した能力であって、どんな問題にも適応できる普遍的な能力ではないということ。よってある機能に特化した「モジュール」の概念が登場するわけ。コスミデスの二つ目の主張は、「多くの認知的適応は、協力によって生じる問題を解決することを目的とした推論メカニズムだったはずだ(181頁)」という点。「協力によって生じる問題」には、たとえば{欺瞞/チーティング}とか{ただ乗り/フリーライディング}などがある。

 

メルシエ&スペルベルは、以上のコスミデスの考えを継承しているが、ただしそれにメタ表象などの独自の概念をつけ加えている。次のようにある。「われわれは、理性に関してインタラクショニスト・アプローチを取る。われわれの考えでは、理性は、個人的な思考ではなく社会的な相互作用のもとで遭遇する問題に対する反応として進化したのである。理性は二つの主要な機能を満たす。一つは、正当化によって協調に関する主要な問題を解決することで、もう一つはコミュニケーションで生じた主要な問題を、議論を通じて解決することである(182〜3頁)」。

 

それでは、なぜ人間は理性を備えているにもかかわらず、さまざまなバイアスを呈するのか? 理性ではなく、それを包含する直観が悪いのか? その問いに対して著者は次のように答える。「そのような説明――バイアスを直観のせいにすること――は、進化論的に言って理解しがたい。直観的推論のメカニズムは、私たちの思考や行動を導く。自然選択は、数億年をかけてこれらのメカニズムのいくつかを研ぎ澄ませてきた。私たちの生存や生殖は、直観によって提供される情報の質に大幅に依存する(217頁)」。

 

ちなみにインタラクショニスト・アプローチを取る著者は確認バイアスを特に取り上げ、それが実際には自分の理念や信条に偏ったマイサイドバイアスに他ならないと指摘する。そして合理的思考の持つ機能それ自体がマイサイドバイアスを生んでいると主張する。次のようにある。「合理的思考の機能が、理由や根拠を推論する際に自己の行動を正当化し、他者を説得することにあるのなら、それにはマイサイドバイアスが{必然的に伴うはずだ/斜体}(219頁)」。また理性は対話で機能すべく進化したのであって、ひとりであれこれ考える際より、丁々発止の会話においてより的確な議論を形成することができると述べる(228頁)。つまり理性が正しく機能するには、正しく機能するような状況に置かれていなければならないことになる。その状況をはずれると(たとえばひとりであれこれ考えるとき)、さまざまなバイアスによって歪曲されてしまうということ。

 

「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」は、まさにそれが原因で生じるのでしょう。もちろんエコーチェンバーやフィルターバブルは一人で構成されるわけではないとしても、同じイデオロギーを持つ人々で形成される狭い言論空間のなかで、普段議論したりものごとを考えたりしているがゆえに、結局対話的状況ではなくひとりで考えているのに等しい状況に置かれているせいで、マイサイドバイアスの格好の餌食になって合理的思考が歪曲され、外から見ると不適切な発言を繰り返すようになるのでしょう。しかも自分たちではそのことにまったく気づけない。なぜなら、その手の自家中毒に陥ったかのような言論空間のなかでは、反論がそもそも起こらないか、起こっても封殺されるかのいずれかだから。前述のオリンピック開催に反対していた人たちも、そのような状況に陥っていたのでしょう。

 

また著者は、合理的思考に関して次のような特徴をあげている。「聞き手にとっての合理的思考とは、認識的警戒(epistemic vigilance)のツールでもある。それは話者が提示する議論を評価し、根拠が薄弱な議論を棄却し、十分に根拠があるものを受け入れるのに役立つ。実のところ認識的警戒の要点は、疑わしい情報を棄却することのみならず、すぐれた情報を受け入れることにある。だから私たちは、自分の意見とは異なるすぐれた議論を聞くと、自らの考えを変えることができるのである(233頁)」。この指摘がなぜ重要かと言うと、著者の一人ヒューゴ・メルシエが書いたわが訳書『人は簡単には騙されない』(青土社,2021年)に登場する「開かれた警戒メカニズム」は、まさにこの「認識的警戒」を指していると考えられるから(ただしそちらでは「認識的警戒」という用語は使われていない)。これについてはあとで簡単に触れる。

 

このように社会的性格を色濃く帯びた合理的思考は簡単に狂いうるのですね。それに関して著者は、ドレフュス事件で彼が有罪であることを合理的思考に基づく緻密な論証によって示そうとして、あとで大恥をかく破目になった犯罪学者ベルティヨンの例をあげている。ちなみにベルティヨンはシャーロック・ホームズシリーズの『バスカヴィル家の犬』で、ヨーロッパ一すぐれた探偵として言及されているとのこと(ただし、登場人物の一人がそう主張してホームズを苛立たせたという文脈で語られているので、コナン・ドイル自身がそう考えていたのではないのかも)。要するに、ベルティヨンはきわめて理性的で、狂人や間抜けのたぐいではなかったことになる。他にも、二つのノーベル賞を受賞したライナス・ポーリングが、ビタミンCががんの治療に有効だと考えて、その考えを合理的思考によって生涯正当化し続けた例をあげている。ノーベル賞を二つも受賞するほど賢い人物が、なぜ一種の陰謀論のようなものを信じ込んで生涯それを擁護し正当化し続けてしまうのか?

 

その答えは、すでに述べたが(合理的思考は社会的なものであって、決して客観的な真実を探究するためのものではない)、ここで復習しておきましょう。次のようにある。「われわれのインタラクショニスト・アプローチによれば、合理的思考が用いられる正常な状況とは社会的なものであり、より具体的に言えば対話的なものである。そのような状況から逸脱すると、合理的思考が当人に恩恵をもたらすべく作用するという保証がなくなり、歪曲された認識や劣悪な判断を引き起こしうる。これは合理的思考の破壊を意味するのではなく、それが働くべき正常な状況から逸脱していることを意味するにすぎない(247頁)」。

 

しかし「「合理的思考」は、異常な状況のもとで働いている場合が多い」とする、この説明だけでは不十分だと著者は主張する。つまり著者は、議論が対話的、対面的な状況でなさるのなら合理的思考は一般に正しく機能するものの、現代人はひとりで思索に耽ったり、それによって対話的議論に備えたりすることが多くなっているとも主張する。まあひとりで考えてこれを書いている私めも他人を笑えないけど、前述したようにたとえ複数人と対話しているように見えたとしても、常時エコーチェンバーの内部でやり取りしていれば(SNSだけに限らず、昨今ではマスメディアがエコーチェンバーの形成、維持に加担しているように思える)、それはひとりで考えているのと大差はない。

 

それに関して著者は次のように結論する。「われわれは理性が劇的な変容を被ったとは考えていないが、環境の変化は、理性がいつ発動するのか、どのように機能するのか、そしていかなる目標を達成するのかにさえ影響を及ぼすことに間違いはない。現代では、理性はそれが進化した際に果たした機能とは異なる、――討論で自分の賢さを見せびらかすことから物理法則の発見に至る――さまざまな用途で動員されている。不幸にも、それらの新たな理性の用法のなかには、(…)当人にとって有害なものもある。ケインズが述べるように、「人はひとりで長く考えすぎると、いかに愚かなことを、一時的にせよ信じうるかには驚くべきものがある」(250頁)」。

 

ここで、理性はダメでも、そもそもそれを包含する直観があるのではなかったのかという疑問が湧いてくるかもしれない。しかし、その直感も環境がかつてとは劇的に変化し、幾何級数的なスピードで変化し続けているとあっては、うまく機能しなくなる、もしくはその力が弱められざるを得ない。それについて著者は次のように述べる。「たとえば、ほとんどの人にとって車の購入は重要な決定である。車の購入とメンテナンスに多額をつぎ込む。長時間車を乗り回し、当人の命は、車に装備されている安全装置に依存する。安全な食品や信頼できる友人の選択を目的とした専用のメカニズムと同じようなあり方で機能する、車を選択するためのメカニズムなど進化してこなかった。そのため、直観はそれに関して弱く限定された指針しか与えてくれない。このことは、現代のような進化的に新しい状況のもとで、容易に正当化可能な選択を行なうこと――人気のある車種を選択するなど――は、至ってリスキーであることを意味するのか? 必ずしもそうではない。たいていのケースでは、他者の眼前で容易に正当化が可能な、よって自分の名声が高まる可能性が非常に高い決定は、自分の目標を達成するための最善の決定でもある(258頁)」。要するにものごとが劇的に変化し続けている現在の状況のもとでは、直観は弱まらざるを得ず、その代わりに自己を正当化し名声を高める、合理的思考による決定が有用になるということなのでしょう。

 

これで「イデオロギーに振り回されると、事実はおろか論理さえ見失う」理由がある程度わかったのではないか。イデオロギーが世界にはびこり始めたのは近代に入ってからにすぎない。だから当然、それに対応するための直観的推論のメカニズムなど進化しているはずがない。そのためマイサイドバイアスにとらわれて、狭い言論空間に属する同じイデオロギーを共有する仲間のあいだで自己の評判を高めようとする、あるいは少なくとも毀損しないようにする合理的思考によって、思考が歪められているのだろうと思う。そう、直観というより合理的思考が下手人なのですね。なお、『スピノザ』に、スピノザが知の形態を「想像知」「理性知」「直感知」に分け、後二者を前一者に対置していたという話があるけど、そこには『The Enigma of Reason』の主張にもつながる部分があるように思われ実に興味深い。

 

著者の一人メルシエ氏が『人は簡単には騙されない』で次のように述べているのは、まさにそのことなのだと思う。「個人的な関与の少ない反省的信念に関しては、開かれた警戒メカニズムの出番はそれほどないと考えるべきだろう。(…)私の考えでは、デマのほとんどは、反省的な信念としてのみ保持される。なぜなら、直観的な信念として保持されれば、個人的な影響がはるかに大きくなるからだ(同書202頁)」。なおメルシエ氏が「個人的な関与の少ない反省的信念に関しては、開かれた警戒メカニズムの出番はそれほどないと考えるべき」だと述べている理由は、ここまでの説明でわかるはず。つまり「開かれた警戒メカニズム」は、対話状況において発動するものであるのに対し、「反省的な信念」は、「reflective(反省的、内省的)」という言い方からもわかるように、一般には個人の頭のなかでのみ形成されるものだから。ちなみにメルシエ氏は同書のなかで反省的な信念の意味に関して次のように述べている。「デマは、薄弱な根拠に基づいて人びとがそれを受け入れるという点で実に衝撃的である。だが人は、なぜ根拠薄弱なうわさを信じてしまうのか? うわさであろうが何であろうが、何かを信じることは、全か無かの問題ではなく、手元の情報に基づいて自分が何をするのかに依存する。信念は、そこからいかなる推論や行動が導き出されるのかを見極めない限り、認知的、行動的な結果から遮断され、基本的に不活性の状態に置かれる場合もある。ダン・スペルベルはそのような信念を「反省的(reflective)」と呼び、自由に推論が可能で、行動の基盤として私たちが自然に用いている「直観的(intuitive)」信念と区別する(同書202頁)」。「行動的な結果」とは、自分が自分に対して行なった行動が自分に及ぼす結果である場合もあろうが、人間が社会的な動物であることを考えれば、たいていは対面状況における自分の行動の結果を意味するはず。対面状況においては(とりわけ自分と違う信念を持った人びとと接する場合には)、自分の行動の結果をあらかじめ見極めておかなければ、下手をすると自己の評判を落とす結果になる。ところが個人の頭のなかで反省的、内省的に保たれている信念は、そのような結果を考慮する必要がない。だから事実や論理に基づかない根拠薄弱なデマやうわさを、反省的な信念として簡単に受け入れてしまうのでしょう。

 

さて前段落の引用箇所中にある「デマ」や「うわさ」を「イデオロギー」に置き換えれば、「イデオロギーに振り回されると、事実はおろか論理さえ見失う」理由の説明にもなる。つまりイデオロギーは反省的に保持されるために、それに対して直観の持つメタ認知の力が働かない、もしくはその力が弱い。だから当人がそれに対して身銭を切ることもなく、その人が属している言論空間の外から見れば矛盾でしかないことを平気で口にできるのですね。外から批判されても、たとえばそれに「ネトウヨの意見」とか「パヨクの意見(ところでなんでパヨクって言うの? 変なの)」というレッテルをペタリと貼りつけて無視するから、反論を参照しつつ自分の考えを事実や論理に沿う形態で訂正する機会もみすみす失われる。

 

まあしかし政治的信条のいかんを問わず、自分でも直観的には信じていないことを公言する知識人やツイッター民は大勢いる。個人的には、これは近代(とりわけフランス革命)以来の病理、一種の啓蒙の弁証法だと考えている。一例をあげると、かつて「安部氏はヒトラーのような独裁者だ!」と叫んで、わざわざゴドウィンの法則を身をもって実証していた人々がいた。安部氏には毀誉褒貶があり、正当な批判もあったことは言うまでもないが、少なくともそう叫んでいた人々は、直観的にそれを信じていたはずがない。なぜならほんとうに直観的にそう信じていたのなら、街頭はもちろん、身分の特定が可能なツイッター上で、そんなことを叫んだりはしないはずだから。ちなみにメルシエ氏によれば、実際に当局に逆らう人々を取り締まる、秘密警察のような機関が暗躍している国では、人々は街頭やツイッターなどで「XXはヒトラーだ!」などと叫んだりはしないそう。ほんとうに逮捕されて拷問される可能性があると直観的に信じているし、そうなる可能性も実際にきわめて高いからね。ヒトラーの時代も、子どもが親をチクるような世界だった。だから当時は街頭で堂々と「ヒトラーは独裁者だ!」などとは叫ばなかっただろうし(そんなことをすればただちに逮捕され拷問でしょうね)、ツイッターが当時あったとしてもそれを使ってレジスタンス活動を行なったりはしなかったはず。実際、彼らは地下に潜って人目に立たないようにしつつレジスタンス活動を行なっていた。むしろ「安部氏はヒトラーのような独裁者だ!」と叫んでいた人々は、その行動を通じて安部氏が実際にヒトラーのような独裁者ではないことをいみじくも実証していたとも言える。つまり言動と行動が乖離していた、あるいは身銭を切っていないから言動が先走ったということ。イデオロギーに絡み取られると、どうしてもそうなってしまうのですね。これについては最新の脳科学の知見、予測符号化によってもある程度説明できると思うけど、それについては別の機会に取り上げることにする。

 

ということで、ここまで読んで、「認識的警戒」(「開かれた警戒メカニズム」)を除けば、ずいぶんと陰鬱な話だなという印象を受けた人はいるでしょう(ここまで読むほど殊勝な人なんかいないか・・・)。著者も何度か「bleak」という言葉を使っている。でも安心されたい。理性の明るい側面も論じられている。その章の冒頭で取り上げられているのが、私めが三度のメシメシより好きな(ほんまかいな?)映画の一つ『十二人の怒れる男』なので、非常に嬉しい。この映画は、全編にわたって陪審員が討議する場面が続く映画だから、著者の言いたいことは明白で、理性が正しく働く場面の一つが、小集団で丁々発止の議論をすることであるという点であろうと想像できる。それから熟議民主主義のユルゲン・ハーバーマスの言葉が登場するという、予想通りの展開になり、さらには未開社会を含め世界中のありとあらゆる社会で議論は行なわれていることを示す。

 

ちなみに私めが『十二人の怒れる男』に体現されている見方や熟議民主主義の考えに賛同するのは(ハーバーマスに関しては異論もあることは承知しているけど)、先に絶対的な真理を立ててそこからあらゆるものごとをトップダウンに演繹し判断しようとするのではなく、小集団による討論というプロセスを通じてボトムアップに真実、もしくは少なくとも何が真実にもっとも近いかを確かめようとする意図がそこにはあるから。前者の態度は、それが道徳的判断にまで及ぶとまさにマニ教的二元論、ひいてはファシズムのレシピになる(「俺たちの言うことこそ、真理を体現しているんだ! だから俺たちは善で、おまえらは悪だ!」って感じね)。

 

ただ『The Enigma of Reason』における、このあたりの記述は率直に言って、それまでの緻密な議論と比べるといかにも大雑把かつ予想通りで(それまでは豊富にあった心理実験の説明はほとんどなく、先にあげた『十二人の怒れる男』の話などエピソード的な記述が非常に多くなる)、あたかも理性に関してあまりにもネガティブなことばかり書いてそれで終えるには忍びないと著者が考えたかのような、取ってつけた印象を受けざるを得なかった。その後も2章ほど続くけど、理性の明るい側面を論じた第15章以後はおまけと見たほうがいいのかもしれない。最後に本書の著者の一人であるヒューゴ・メルシエが書いたわが訳書『人は簡単には騙されない』もヨロピク。そちらはタイトル通り(詐欺師以外には)ポジティブに感じられるはずの内容が記されているので、ぜひ読んでみてください。

 

 

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※2023年5月14日