◎リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』

 

 

本書はHow Emotions Are Made: The Secret Life of the BrainHougton Mifflin Harcourt, 2017)の全訳である。著者のリサ・フェルドマン・バレットは、ノースイースタン大学(ボストン)の心理学部教授である。ちなみにノースイースタン大学は、ノースウエスタン大学(シカゴ)とは異なり日本ではほとんど知られていないが、本国では近年急速に認知されつつある(詳しくはウィキペディアなどのオンライン情報を参照されたい)。本書は著者の初の一般書で、既存の邦訳書こそないものの、本書で提起されている革新的な考えは、英語圏では広く知られるようになっており、彼女の影響を受けた著名な科学者も現われ始めているようである。それを示すかのように、本書にはダニエル・ギルバート、アンジェラ・ダックワース、ロバート・サポルスキー、ポール・ブルーム、ジョセフ・ルドゥーらの著名な科学者、心理学者の賛辞が多数寄せられている。なお彼女の考えを手短に知りたい読者は、「You aren’t at the mercy of your emotions—Your Brain Creates them(あなたは自己の情動のなすがままになっているのではない。脳がそれをつくり出しているのだ)」というタイトルのTED動画を参照されたい(https://www.ted.com/talks/lisa_feldman_barrett_you_aren_t_at_the_mercy_of_your_emotions_your_brain_creates_them)。英語を苦手としない人なら楽に聴き取れるはずである。

 

まず本書の構成を紹介しよう。本書は大きく分けて二部から構成される。前半(第1章〜第8章)ではおもに理論面が論じられ、後半(第9章〜第13章)では前半で提起された理論をもとに、その実践的な応用が検討されている。次に各章の内容を簡単に記しておこう。第1章は、「怖れ」「悲しみ」などの特定の情動を識別する指標を見出そうとする試みがいかに無益かを論じる。第2章では、情動は動的に構築されるものであることが明らかにされる。第3章では、情動の普遍性を主張する既存の理論を、著者自身が行なったさまざまな実験に基づいて反証していく。第4章は感情がいかに生じるのかを論じる。後述するが、著者のいう感情は、おもに内受容刺激に由来する一種の{気分/アフェクト}としてとらえられており、情動の生成に必要な一要素ではあっても、それのみでは(つまり後述する情動概念なくしては)情動は生じえない。第5章は第6章とともに本書の核心をなす章で、情動の構築に不可欠な「概念」とは何かが詳しく説明される(もちろん情動とは無関係な概念もある)。第6章は、いかに情動が構築されるのかを大脳生理学的観点から論じる。ちなみにそこでは、近年大脳生理学の分野で盛んに議論されている「予測」の概念が動員されている。第7章は、社会的文脈での概念や情動の影響を論じる。第8章は情動を含めた人間の本性を考えるにあたって、これまで本質主義的な見方が優位を占めてきた経緯や理由を概説する。第9章以降は第8章までの議論の実践面での応用が提示されている。対象分野は、日常生活(第9章)、医療(第10章)、法(第11章)、動物(第12章)、まとめと今後の展望(第13章)である。

 

さてここで、著者が本書を著した目的を明確にしておこう。

 

本書の目的は、情動に関する新たな考え方を、読者に馴れてもらうことにある。人は自分で気づいていようがいまいが、情動に関する一連の概念を持ち、それが何か、どこから来たのか、何を意味するのかを心得ている。(……)ある意味で、私は読者を、構成主義的情動理論と呼ばれる新たな文化に引き入れようとしてきたのだ。未知の文化の規範は、そのもとで暮らすようになってからしばらくはよく理解できず(……)、奇妙に、あるいは間違っているようにさえ思えるだろう。私や、同様の考えを抱く科学者が、古い概念を新しい概念で置き換えることに成功すれば、それは一種の科学革命になるであろう。(二五一頁)

 

このように著者の主眼は、情動、ひいては人間の本性に関するまったく新たな見方を提起することにある。そのような本書の性格上、初出時から明確に理解することはむずかしい用語がそれなりに使われている。もちろんそれらの用語も本書を読み進めるにあたって理解できるようになるはずだが、読者の理解を促進するために用語の読解に関する指針を簡単にあげておく。

 

まず、本書のタイトルにもある「情動(emotion」について、非常に重要なので少し詳しく述べておこう。情動という用語は、日本であろうが、英語圏であろうが、著者間で一貫性があるとはとても言えない。しかしこれまでの訳者の読書経験から言えば、主観的であるがゆえに本人の自己報告によってしか知りえない私的な経験として感情を、表情や、何らかの生理的な指標(たとえば心拍数など)によって客観的に(すなわち科学的に)測定可能な現象として情動をとらえている場合が多いように思える。しかし本質主義を否定する著者がこの見方をとっていないことは、さっそく第1章からわかるが、それについて著者本人にメイルで確認したところ、科学者は一般に、慣例にしたがってそのように考えているが、自分はそのような見方をとらないという返答が戻ってきた。またその返信には、かいつまんで言うと、@情動は感情とは異なり、世界内に存在する身体をめぐって構築された知覚(perception)であること、A上記の「知覚」は意識と同義で、無意識的であるような情動は存在しないこと、B知覚の構築には、「気分の性質」「行動」「世界を経験するための手段(すなわち評価)」「自律神経系の変化」などが関与しているとあった。

 

以上の主張は本書を読めば徐々に明確になるはずだが、ここで特に一点指摘しておきたいことがある。それは上記返信にあるように情動に関して意識の存在を前提としていることからも、また、情動の構築には後述する「概念」が必要だと考えていることからもわかるように、どうやら著者は情動の構築の基盤の一つとして認知作用を据えているように思われることである。それについては本文の生理学的な記述からも傍証が得られ、第6章に「またコントロールネットワークは、情動のインスタンスの生成を支援する(二〇六頁)」とあるが、コントロールネットワークとは認知的な実行機能を司る神経回路を指す。「情動は構築されるもの」という、タイトルにもある著者の主張の根拠の一つは、本人が気づいているか否かは別として、情動には主体的な認知作用が関与しているという点にあると考えられる。このような著者の見方は、とりわけ三位一体脳説(一四〇頁参照)のような既存の理論にとらわれていると、話が逆転しているように思えるかもしれない。しかし、情動の基盤に認知を据える理論を唱えているのは本書の著者バレットに限らない。たとえば本書に推薦文を寄せ、第12章にも登場する著名な神経科学者ジョセフ・ルドゥーは、最新刊『The Deep History of Ourselves: The Four-Billion-Year Story of How We Got Conscious Brains』(Viking, 2019)の終盤で類似の議論を展開している。というよりバレット以上にはっきりと、情動が意識の存在を前提とすると、そして認知を基盤に情動作用が働いていると論じている。このような見方から導き出せる(と訳者が考える)重要な帰結に関しては後述するが、ここで留意点としてあげておきたいのは、「情動」という用語に結びつけている既存の観念はとりあえず振り払って本書を虚心坦懐に読み、しかるのちに本書の内容を議論し、批判するなら批判されたいということである。

 

次に、本書におけるキーワード中のキーワードで出現頻度がきわめて高い「概念(concept」と「インスタンス」を取り上げよう。これら二つの用語は密接に関係しており、前者と後者は基本的に一対多の関係をなす。まずインスタンスから説明する。英和辞典では、「instance」に対応する日本語として「事例」「実例」「場合」などがあげられている。しかしそれらの日本語は、「ある普遍的な事象に属する一回一回の出現例」という「instance」が持つ本来の意味、そして本書で用いられている「個々の具体的な経験に対応する心的構築物」という意味をうまく反映するとは言えない。そのため、そして読者が既存の日本語の意味に幻惑されないようにするためもあって、「instance」はそのままカナ書きすることにした。ちなみに「ある普遍的な事象に属する一回一回の出現例」とは、具体的には次のような意味である。たとえば「古代ローマにおけるヴェスヴィオ火山の噴火」や「富士山の宝永大噴火」、あるいは「雲仙岳の平成大噴火」は、「火山の噴火」という普遍的な事象に属する、特定の場所と時代において歴史的に顕現した個別的なインスタンスと見なすことができる。

 

次に「概念」だが、本書における概念は、自己の個別的な経験を要約する、さまざまなインスタンスが、おもに言語の力によって類似性と差異性に基づいてグループ化されたものをいう。この説明ではわかりにくいと感じる読者は、当面は一般的な概念の意味で読み進め、徐々に著者独自の用法を理解していけばよいだろう。なお著者は、自己の情動の経験や他者の情動の知覚を可能にする概念を特に「情動概念(emotion concept」と呼んでいる。したがって著者の見解では、情動概念を持たない限り、自己の情動を経験することも、他者の情動を知覚することもできない。

 

さてここで前々段落のインスタンスの説明には、誤解のタネが含まれていることを指摘しておかねばならない。それは著者のいう概念とインスタンスの関係は、哲学でいうところの普遍と個別の関係には合致しないという点だ。著者のいう概念とは、イデアのような普遍的(先天的)なものではなく、インスタンスと同様、神経活動を通じて動的に構築されるものである。それに関して著者は次のように述べている。

 

(……)構成主義的情動理論〔著者の唱える情動理論〕は、「情動は生得的なものではない。普遍的であるのなら、それは概念の共有によってである」と主張する。つまり普遍的なのは、(……)身体由来の感覚刺激を意味あるものにする概念を形作る能力である。(七六頁)

 

この記述からもわかるように、普遍的、言い換えれば先天的なのは、概念を構築する能力であって個々の概念ではない。言い換えると、人間はまったくのブランクスレートのまま生まれてくるのでもなければ、特定の概念、ましてや情動を先天的に備えているわけでもない。では概念はいかに構築されるのか? その説明はここでは省略するが、概念の構築とその働きをめぐる著者の考え方を図式的に把握するには、とりわけ図6・1(二〇二頁)を理解することが重要であるとだけ述べておく。

 

次に「気分(affect」について触れておこう。実のところ「affect」という用語は、心理学関係の和書でも「アフェクト」とカナ書きで記述されているケースも見られ、また訳者自身も、アントニオ・ダマシオ著『進化の意外な順序――感情、意識、創造性と文化の起源』(白揚社、二〇一九年)では「アフェクト」と訳している。しかし本書は多くの一般読者が読むことが予想され、出現頻度がかなり高い「affect」をそのままカナ書きするとわかりにくくなると考え、「気分は内受容に依存することを覚えておいてほしい。つまり生涯を通じ、じっとしているときでも眠っているときでも、恒常的な流れとして存在し続ける(一二七頁)」などの記述を参照して「気分」と訳した。「気分」という訳語に問題を感じる専門家の読者は、以後出現する「気分」は「アフェクト」と読み替えられたい。ちなみに著者に「affect」と「feeling(感情)」の違いは何かと尋ねたところ、ほぼ同義という主旨の返事が戻ってきた(「affect」は専門的で、「feeling」は一般的な用語と考えているようである)。本文にも「本書における〈気分〉は、人が日常生活で経験している一般的な{感情/フィーリング}のことを表わす(一二六頁)」とある。

 

次に出現頻度がそれほど高くはないいくつかの用語に関して補足しておく。著者は「表情(facial expression」と「相貌(facial configuration」を明確に区別している。その理由は、前者には「情動の指標が存在する」、言い換えると「表情とは人間に本質的に備わる情動が、顔面に顕現したものである」という暗黙の前提があり、そのような本質主義的な見方を著者は否定しているからである。したがって「表情」という用語は、従来の情動理論を批判する文脈でしか出現しない。それに対して「相貌」は、この前提を捨象した中立的な用語(顔の地形的な特徴程度の意味)として使用されている。「感情的ニッチ(affective niche」とは、「生態的地位」とも訳される生態学の用語「生態的ニッチ」に類似する用語で、本書では身体予算(身体の生理的なバランス)に影響を及ぼす、環境内のあらゆる事象を指す。次に「縮重(degeneracy」について説明しておこう。本書における縮重は、同一の経験が、いくつかの異なる神経活動のパターンによって実現可能であるという、脳の働きの特殊なあり方を指す。この用語は、哲学でいう「多重実現可能性」、コンピューター科学でいう「ポリモルフィズム」と同義だが、一般的な言い方をすれば「ある機能を成就するために利用可能な、物質レベルでの実現手段は複数ありうる」になる。最後に「構成主義(constructionism」という用語に関する訳語の選択について補足しておく。「constructionism」は「構築主義」とされることもあるようだが、種々の細かな事情から「構成主義」を採用することにした。ただし動詞として「construct」が用いられている箇所では、静態的、構造的な意味合いの強い「構成」ではなく、「その場でつくられる」という動的な意味を持つ、「構築する」などの用語を当てた。

 

革新的なアイデアを提起する本書に関しては、補足したい事項が山ほどあるのだが、長くなってきたので一点に絞って指摘しておく。それは本書の持つ実践的な射程の長さについてである。本書では実践面への応用として日常生活、法、医療、動物が取り上げられているが、訳者の見立てでは、それだけでなく政治、経済、教育、メディア論などさまざまな領域に著者の情動理論を適用し、新たな視点からそれらの分野をとらえ直すことができるだろう。理論面でのその最大の理由は、前述のとおり著者が情動の基盤の一つに認知作用を据えている点にある。

 

この見方をとった場合、従来的な知識体系は大きく揺るがざるをえない。それどころか、少しおおげさに言えば、啓蒙のあり方そのものに疑問が呈される結果になろう。それは次のような理由からだ。啓蒙を絶対視する見方は、皮質下の辺縁系に属する古い脳領域が司る情動作用を、皮質という新しい脳領域が司る理性の働きによって抑え込み、後者が発達すればするほど情動を抑える効率が上がり、それにつれ人間社会の啓蒙の度合いも向上すると考える三位一体脳的な前提に基づいているように思われる。啓蒙の拡大を絶対善と見なす、その種の考え方は、現代世界では広く行き渡っている。だが、実際に現代という時代を見渡してみれば、民主主義が拡大すればポピュリズム(その定義や是非についてはここでは問わない)の問題が湧き起こり、人権を声高に叫べば移民問題が生じ、情報を瞬時に伝達する能力を持つインターネットやそれに基づくSNSが普及すればフェイクニュースが蔓延するなどといった数々の問題が噴出する有様となっている。啓蒙に絶大な価値があることは否定すべくもないが、同時にマイナス面もあることをしかと認識しておく必要があろう。『啓蒙の弁証法』を著したアドルノ、ホルクハイマーから始まり、史上空前とも言えるレベルで啓蒙が拡大した現代に至るまで、そのマイナス面を指摘する識者は多い。たった今たまたま読んでいる、メディア研究者佐藤卓己氏の『流言のメディア史』(岩波新書、二〇一九年)に、「識字率の上昇、教育の発達、選挙権の拡大は、むしろメディア流言が拡大する前提条件にほかならない(一〇四頁)」とあった。なぜ正しい情報を効率的に伝達する手段たるべきインターネット上でフェイクニュースが蔓延してしまうのか? それは単なるモラルの問題なのか? 冷静な判断を必要とする政治的言説が、なぜ感情に煽られて左右真っ二つに割れてしまうのか?(ちなみに摂訳、ジョナサン・ハイト著『社会はなぜ左と右にわかれるのか――立を超えるための道徳心理学』(紀伊國屋書店、二〇一四年)は、道徳心理学という観点からこの問いに答えている) 長い歴史を通じて人類がようやく獲得した「人権」という気高い概念をいざ適用しようとすると、移民問題などの現実的な問題が噴出してしまうのはなぜか? これらはすぐれて現代的かつ実際的な問いだが、認知を情動の基礎に据える著者の理論は、それらが生じる理由をある程度説明してくれるだろう。新皮質の機能の一つで理性的な判断を可能にしている認知が、原始的な情動をコントロールしているという側面は確かにあるにせよ、そもそも情動の構築の基盤として認知作用が寄与しているのなら、おもに前者の側面が啓蒙のプラスの側面に寄与し、後者の側面がマイナスの側面に寄与しているということは十分に考えられるからだ。たとえば行動経済学は、経済の領域で後者の側面を見据えた学問と見なせるが、著者の提起する観点から経済という人間の営為を見直してみれば、さらに新たな知見が得られるのではないだろうか。

 

このように本書には非常に長い実践的な射程を持つ革新的な理論が提示されているが、それだけに侃々諤々たる議論を巻き起こすであろうことが当然予想される。とりわけ心理学を専攻している、あるいはしたことのある読者は、デファクトスタンダードともいえるポール・エクマンらの情動理論がのっけから槍玉にあげられているのを読んで、まさしく負の情動を爆発させるかもしれない。もちろんそれはそれで構わない。というよりも、かなり強引な言い方をすれば、むしろそれは、認知作用が情動の発現の基盤をなすとする著者の考えの例証になるとさえ言えるだろう。本書の考えを肯定するにせよ、批判するにせよ、とにかくそれについて自分の頭で考え、徹底的に議論すること――革新的なアイデアを提起する本を読む場合には、そうすることが肝要であると訳者は考えている。本書がそれだけの強力なパワーを秘めていると、訳者は固く信じている。

 

 

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