◎ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』

 

 

本書は、Not Born YesterdayPrinceton University Press, 2020)の全訳である。原題の意味は「{昨日/きのう}、{今日/きょう}生まれたわけではない」といったところで、言い換えれば邦題にあるとおり「人は簡単には騙されない」となる。著者のヒューゴ・メルシエは、パリにある学際的な研究機関ジャン・ニコ研究所に所属する認知科学者で、既存の著書には、同研究所に所属する著名な認知科学者ダン・スペルベルとの共著『The Enigma of Reason』(Harvard University Press, 2017)がある。本書はこの共著で提示されている理性の働きに関する考えをもとに、「人はほんとうに騙されやすいのか?」という具体的な問いに焦点を絞り、まず進化生物学と認知科学の成果を参照しつつ理論的に検討したあと、さまざまな事例を取り上げてその答えが「ノー」であることを見ていく。 本書も前著(ハーバード大学出版局)と同様、大学出版局(プリンストン大学出版局)から刊行されているが、個人的な印象では内容的に本書のほうがより一般向けで読みやすい。

 

次に本書の構成を簡単に紹介しておこう。本書は、はじめに+一六章で構成されている。「はじめに」は全体を概観し、本書の最重要概念である「開かれた警戒メカニズム(open vigilance mechanism)」を提起する(それについては後述)。「第1章 人は簡単に騙される」では、広く世に流布している「人はすぐに騙される」という見方を、歴史的事例や有名なミルグラムの服従実験を始めとする心理学の実験結果を参照しつつ紹介する。第2章から第7章までは、進化生物学と認知科学の知見をもとに、「開かれた警戒メカニズム」がいかに機能するのか、また、それによって人は何を信じるべきか、誰を信用すべきかをいかに判断しているのかを見ていく。第8章と第9章は、人を騙して説得することに至極長けていると考えられている人びとや組織(デマゴーグ、預言者、伝道師、政治宣伝、選挙キャンペーン、広告)が、実際には大衆説得にみごとに失敗してきた、もしくは成功したかに見えたとしても真の要因は別のところにあることを、歴史的事例に即して明らかにしていく。第10章から第15章までは、著者の言葉を借りると「うわさからフェイクニュースに至る虚偽の概念を探究し、それらが拡散するあり方や、私たちの思考や行動に対するその影響は、純粋な信じやすさより開かれた警戒メカニズムの効率という概念を用いることでうまく説明できることを見ていく(一九三頁)」。「第16章 人は簡単には騙されない」では、本書のまとめと、「人は騙されやすい」という信念が流布した理由の考察がなされる。

 

先日アマゾンプライムで『ジャッジ 裁かれる判事』(米・二〇一四年)という映画を観ていたところ、ロバート・ダウニー・ジュニア扮するパーマー弁護士が次のように同僚に諭すシーンがあった。「きみはこの国の九〇パーセントの人びとが幽霊を信じ、進化論を信じている人など三分の一にも満たないことを知っているか?(…)だが一二人のアメリカ人を陪審員に指名し、正義について皆で協議させると、けっこうすごいことが起こるんだ。しばしば正しい判断を下すんだよ」。それはなぜか? 『人は簡単には騙されない』は、その理由の一端を教えてくれる。この問いに対するもっともありふれた答えは「集合知」であろうが、本書ではそれには一か所(一〇二〜三頁)しか言及されていない(しかも「集合知」という用語は使われておらず、コンドルセのその名も陪審定理や、集合知を扱ったスロウィッキーのよく知られた著書に言及されているのみ)。

 

その代わりに本書が依拠しているのは、進化生物学と認知科学におけるさまざまな成果である。次にそれについて、なるべく著者の言葉を引用しながら説明していこう。進化的な観点から見ると、「進化は騙されやすさを不適応なものとして扱う(一五五頁)」。つまり「進化の論理は、騙されやすさが安定した特徴になることを実質的に不可能にしている。騙されやすい人は、受け取ったメッセージを無視するようにならない限り、つけ込まれ続けるだろう(七三頁)」。要するに、騙されやすい個体はすぐに淘汰されるため、騙されやすさが一つの特徴として進化によって選択されることはないということだ。ではその代わりとして、進化は人間に何を与えたのか? その答えは、人間独自の認知機能の一つ「開かれた警戒メカニズム」である。

 

ここで、本書の最重要概念である「開かれた警戒メカニズム」についてやや詳しく説明しておこう。このメカニズムの機能は「非常に有益なメッセージは進んで受け入れ(開放性)、きわめて有害なメッセージは捨てる(警戒)(一六頁)」こと、つまり「伝達された情報に対して警戒するのと少なくとも同程度にオープンに外界に接する(五六頁)」ことにある。著者はそれを、食物に対してオープンに接し何でも食べようとするが、そうであるだけに毒物を口にしないようにするなど警戒心も強い雑食動物の進化にたとえる。雑食の進化のたとえによれば、「人類は、極端な保守主義、すなわち一連の限られたシグナルのみに影響を受ける状態から、警戒心はより強いが、コミュニケーションのさまざまな形態や内容に対してオープンに接する姿勢へと態度が進化してきた(六八頁)」「新たに進化したメカニズムが損なわれれば、私たちはより古いメカニズムに依存するようになり、警戒心のみならず開かれた姿勢も弱まる。また新たに進化した認知機能が損なわれれば、もとの保守的な姿勢に回帰し、騙されやすくなるのではなくより頑固になる(六九頁)」。さらに著者は「開かれた警戒メカニズム」を二つの機能に分ける。一つは自らが持つ既存の信念のもとでメッセージを評価する「妥当性チェック」で、もう一つは議論の内容を評価するための「推論」である。とりわけ「推論」は警戒心に基づき、「議論が既存の推論メカニズムと符合する場合にのみ、困難な結論を受け入れるよう促す(八三頁)」が、それと同時に「心を開かせもする。議論せずには決して認めなかったはずの結論を受け入れるよう導いてくれるからだ(八三頁)」

 

では、人間はかくも強力な認知能力を備えているにもかかわらず、なぜときにデマに踊らされるのか? この問いに対する著者の答えは次のとおりである。「個人的な関与の少ない反省的信念に関しては、開かれた警戒メカニズムの出番はそれほどないと考えるべきだろう。(…)私の考えでは、デマのほとんどは、反省的な信念としてのみ保持される。なぜなら、直観的な信念として保持されれば、個人的な影響がはるかに大きくなるからだ(二〇二頁)」。また「反省的な信念は推論メカニズムや行動を志向するメカニズムの一部と相互作用するにすぎない。ほとんど特定の心の部位に包摂され、直観的信念のように心の中を自由に徘徊することができない。さもなければ反省的信念は無数の災厄をもたらすだろう(二三三頁)」。だからたとえば、「[デマのとおりに]金正日がスタートレックばりにテレポートするところを目にすれば、彼にへつらう腰巾着でさえ、混乱して目を回すだろう(一九頁)」。なぜなら、そのような誤った信念は反省的なものであって、直観的ではないからだ。それに関して理論物理学者ブライアン・グリーンの最新刊『Until the End of Time: Mind, Matter, and Our Search for Meaning in an Evolving Universe』(Knopf, 2020)に興味深い事例があったので紹介しよう。彼は、ラムサの啓蒙学校と呼ばれるニューエイジ宗教団体からの招待を、それと知らずに受諾して基調講演をしたことがあるらしい。この講演で彼は、そこで行なわれているテレパシーなどの見せ物がいんちきであるという主旨のことを説いたところ満場の拍手喝さいを浴びたので訝しく思い、あとで一人の参加者になぜ拍手したのかと尋ねると次のような答えが返ってきたという。「私たちの多くはここで行なわれていることを信じてはいません。誰かがその点を指摘してくれることは重要です。(…)私たちがここに来ているのは、深遠な真実を探求したいという衝動に駆られた仲間と一緒にいたいからです」。つまり多くの参加者は、このカルト的な団体の考えを反省的にとらえているだけで直観的には信じていない。その事実は一般的なカルトに対する見方に拘泥していると理解できないだろう。ただし彼らのようにそれを意識化し相対化することができない頑固な熱狂的信者も少数ながらいることだろう。

 

以上説明してきたように、本書は進化生物学や認知科学の知見、ならびに具体的な事例に基づいて「人は簡単には騙されない」ことを明らかにしていく。本書で提示されている議論は、昨今盛んに論じられるようになったポスト真実論やメディア論にも新たな視点をもたらしてくれるだろう。というのも、それらの議論はえてして、「人は騙されやすい」という考えを前提にしているように思われるからだ。たとえば昨今よく「ネットはフェイクニュースの温床である」という指摘を耳にする。だから「ネット情報を熱心に追う人は簡単にデマに踊らされる」というわけだ。確かにネットにフェイクニュースがあふれていることは否定しがたく、それが一面の真実である点に疑いはない。だが本書が指摘するように、人は簡単には騙されないとしたらどうか。またネットには別の面があることも忘れてはならない。つまり既存大手メディアの報道の誤りをすぐに正せるのもネットだという点だ。「人は簡単に騙される」という見方にとらわれていると、ネットをめぐって前者の否定的な面のみがクローズアップされ、後者の肯定的な面が見逃されやすくなる。そればかりか、日本のネット広告費がテレビ広告費を追い抜いたことがつい最近話題になったように、昨今とかくネットに押され気味の既存メディアが、不利な状況に置かれているにもかかわらず、ネットの持つ否定的な面のみを強調して、このますます強大化しつつある競争相手を一方的に叩くという、一種の{藁人形/ストローマン}論法(一部の現象をあげつらって全体を否定する詭弁)に陥ってしまう危険がともなう。この一種の現実逃避に頼って大手メディア自身の問題に目をつぶり有効な改善策を取ろうとしないのなら、自分たちのみならず視聴者にも大きなツケが回るだろう。

 

いやそんなはずはないと訝る人もいるかもしれないので、次に最近起こった三つの事例を取り上げることで以上の論点について具体的に考えてみよう。一件目の事例は、コロナが日本でも広がり始めた頃に、いくつかのテレビの情報番組が意図的か編集上のミスかは別として、ある地区の現状などをめぐって誤報を流し、その誤りをネットユーザーに指摘され謝罪に至るというできごとが相次いで起こったことだ。同じできごとがネットのない時代に起こったなら、直接的な関係者が間違いに気づいたとしても、間違いを正す情報が広く拡散することはまずなかったはずだ。だが今やネットによってそれが可能になった。

 

二件目の事例は、閣僚の発言を、都合よく切り取るなどして新聞が読者の誤解を招く報道をし、それを訂正するコメントを本人がSNSで発信するというできごとが散見されるようになってきたことである。ちなみに閣僚がした発言の内容の是非は、ここでは関係がない。言いたいのは、内容が何であれ新聞が本人の発言を正しく伝えていない、もしくは誤解を招く伝え方をしていることが問題なのであり、SNSを介してその手の欺瞞がすぐに発覚するようになったという点である。要するに、今や政治家などの著名人が大手メディアの媒介なしに、SNS等を通じて一般庶民に直接語りかけることができるようになったということだ。そしてそれをもっとも巧妙に利用していた一人が、次に説明するように大手メディア上では四面楚歌に近い状況に置かれていた米前大統領ドナルド・トランプであったと言えよう。なおそのことは政治家などの著名人に限った話ではなく、高校球児の美談に創作が含まれていることがSNSによる関係者の証言によって暴露されるなどといった例が示すように、一般人をめぐってさえ見られるようになってきている。

 

三件目の事例は海外に目を向け、これを書いている時点でもっともホットな話題を取り上げよう。それは二〇二〇年度の米大統領選である。ただしここで取り上げたいのは、大統領選の政治的側面ではなく、それに対するメディアの姿勢についてである。誰もが気づいていたはずだが、今回の大統領選では日米のほぼすべての大手メディアがバイデン支持(あるいは反トランプと言うべきか)であった。ちなみにこの状況は今回の大統領選のみならず二〇一六年の際も同様であったらしいことが、本書に記されている(二六八頁参照)。しかし事実を言えば、前回はトランプが勝ち、今回も彼は半数近くに相当する、およそ七四〇〇万票を獲得している。それにもかかわらず大手メディアのほぼすべてがバイデン(ヒラリー)支持というのでは、有権者の半数を無視した一方的な見解で公共空間を満たすことの問題はここではあえて問わないとしても、当の大手メディアにとってさえ凋落を加速する大きな要因になりかねない。というのも、こうなってしまうと、トランプを支持していた半分近くの国民(有権者)が大手メディアを捨ててネットに走ってしまうのはむしろ当然であり、かくして世に言われる分断が、大手メディアやネットの内部のみならず、それら二つの分割線に沿ってよりいっそう激化する結果にもつながりうる。いずれにせよ、そもそも大手メディアに叩かれ続けたトランプが前回は勝ち、今回も半数近くの票を獲得したという事実それ自体が、大手メディアの影響力の衰退を物語っているのかもしれない。

 

では著者自身は、ネットのソーシャルメディアについてどう考えているのだろうか? 著者は次のように指摘する。「ソーシャルメディアは分断を激化させるのではなく、世の中が分断しているという印象を植えつけるのである。より正確に言えば、ソーシャルメディアは自己の見解を強化するようユーザーを駆り立てるのではなく、世の中が分断しているという認識を強化することで互いに相手陣営を嫌悪するように仕向け、感情的な対立を煽っているのだ(三一四頁)」。ソーシャルメディアによる感情的対立の扇動については、拙訳『反共感論――社会はいかに判断を誤るか』(白揚社、二〇一八年)の訳者あとがきで著者ポール・ブルームの考えに沿って指摘した論点でもある。さらにメルシエ氏は次のように述べる。「ニュースや、さらに悪いことにソーシャルメディアの描写に基づいて相手陣営をとらえるなら、そのような理解は大きく的をはずしている可能性が高い。普通の共和党支持者を頭のおかしい陰謀論者と見なしたり、典型的な民主党支持者を怒れる社会正義の戦士と見なしたりするのである。私たちは〈相手陣営〉のメンバーは自分たちとそれほど変わらず、彼らと交流することには価値があることを心得ておくべきだ(三二七〜八頁)」。

 

それに関して今回の大統領選から具体例をあげると、トランプ支持者がカルト集団であるかのごとく主張する言説が流れていた。確かに訳者も、本書にも登場するアレックス・ジョーンズばりの陰謀論を吹聴するトランプ支持者がいるのをネットで何度か目にしたことがあり、その言説がまったくの誤りだと言うつもりはない。だがそのような支持者はごく一部にすぎず、それをもってしてトランプに投票したおよそ七四〇〇万人をカルト集団と見なすのなら、あるいはそう思わせる印象操作をするのなら、それはそれで究極の藁人形論法、あるいはそれこそが一種の陰謀論だと言わざるを得ない。そんなことをするよりも、バイデン(トランプ)支持者なら、なぜトランプ(バイデン)支持者がトランプ(バイデン)に投票したのかを、相手陣営の立場から眺めるという知的共感力を働かせることのほうが、世論の分断を緩和するためにもはるかに有益なはずだ。先の引用で著者のメルシエ氏が指摘しているのもその点である。

 

長くなってきたのでそろそろまとめに入ろう。本書のタイトルにあるように「人は簡単には騙されない」。ところが第1章で述べられているように、それとは正反対の「人は騙されやすい」という見方が古代ギリシヤから現代に至るまで連綿と流布してきた。しかもそれを理由に民主主義には限界があると主張する識者も現れている(三三八〜九頁参照)。同語反復気味になるが、その手の大衆蔑視の考えはエリート意識が強い人ほど抱きやすい。だがエリート意識は直観的であるより反省的であり、それによって保たれる信念は現実から乖離しやすくなるのが普通であろう。著者の主張によれば、反省的信念に関しては、開かれた警戒メカニズムの出番はそれほどない。そもそも左右を問わずエリート意識を持つ人が抱きがちな政治的イデオロギーは、おもに近代に入ってからの産物であり、よって進化的な選択の洗礼を浴びていないとも言えよう。この見解は訳者個人の勝手な憶測ではなく、エリートという言葉こそ用いていないものの著者も次のように指摘している。「進化や学習を通じて対応する能力が築かれていない領域で推論を行なおうとすると系統的に誤りやすい(八九頁)」「一見あり得そうにない新たな考えをいの一番で受け入れるのは、知識人であることが多い(七二頁)」。要するにエリートが抱きやすい「〈人は騙されやすい〉という信念は、主として反省的なもの(三三八頁)」であり、よってより高度な開かれた警戒メカニズムのチェックを受けていないことが多いのである。

 

最後にネットに関して個人的な見解を述べることで締めくくろう。今後大手メディアがネットに一層押されていくことは不可避であるように思われる。しかし前述のとおり、ネットが真実を宿す宝の山であると同時にフェイクニュースの温床でもある点は否定すべくもない。したがってネットに対するメディアリテラシーが、今後なお一層重要になることに間違いはない。その意味において、簡単にデマを鵜呑みにしないための数々の具体的なヒントを与えてくれ、「メディアリテラシー入門」としての役割も持つ本書は、今こそ読むべき本だと断言できる。訳者が本書を邦訳したいと思った理由は、まさにその点にある。

 

 

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