◎ドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない』
本書は、The Case Against Reality: Why Evolution Hid the Truth from Our Eyes(W. W. Norton & Company, 2019)の全訳である。ただしもっぱら専門家向けに書かれている巻末の数学的補足説明(原書でおよそ三頁分)のみは、青土社と相談のうえ、無理に直訳せず英文のまま掲載することとした。ご了承願いたい。なお同文中にある「conscious agents」は本文中では「意識的主体」と、また「conscious realism」はカナ表記で「コンシャスリアリズム」と訳されている。著者のドナルド・ホフマンは、カリフォルニア大学アーヴァイン校教授で認知科学を専攻している。既存の訳書には、『視覚の文法――脳が物を見る法則』(原淳子,望月弘子訳、紀伊國屋書店、二〇〇三年)がある。なお本書を読めばわかるとおり、著者は大学で教鞭を取るだけでなく、企業のマーケティング活動を支援したり、法廷で専門家として証言したりするなど、実践的な活動にも従事している。そのような活動を行なっていることもあってか、本書も理論的側面と実践的側面がバランスよく織り合わされている。
次に本書の構成を紹介しよう。それにあたりまず強調しておきたいのは、必ずしもやさしいとは言えない本書の主題を段階的に理解していけるよう、章を追うごとに難度が上がっていくような構成がとられている点である。これは、アカデミックな世界のみならず、広告業界や法廷などで、人を説得することが求められる実践活動にも従事している著者の豊富な経験を反映するものであるように思われる。
本書の大まかな流れは次のとおりである。第1章では脳の活動がいかにして意識的経験を生むのかという問題提起がなされる。第2章は、進化のレンズを通して美や魅力について考える。特に目に焦点が絞られており、{自撮り画像/セルフィー}に写った目をいかに編集すれば美しく見せられるかなどといった実践的なアドバイスもなされる。以上の二つの章はいわば準備体操であり、第3章からは理論的側面が次第に色濃くなっていく。第3章では、「太陽は誰かが見る前から存在していた」と主張するフランシス・クリックや、著者の指導教官の一人で「私たちは実在に関する真の記述を見るよう進化してきた」と主張するデイヴィッド・マーらが提起する、著者のものとは異なる実在の見方が取り上げられる。第4章では、「進化の過程で、適応度戦略は真実戦略を打ち破る」、つまり「知覚が真実(実在)をありのままに見るべく進化する可能性は、生物や環境が複雑になればなるほどゼロに近づく」と主張する、進化ゲーム理論に依拠するFBT定理が、また第5章では「知覚系は、ラップトップパソコンのデスクトップ画面のようにユーザーインターフェースとして機能する」と主張する知覚のインターフェース(ITP)理論が紹介される。そして本書の白眉とも言える第6章では、おもに進化生物学の知見をベースに構築された著者の理論の裏づけを、量子論やホログラフィック原理、あるいはホーキングらが提唱するトップダウン宇宙論などの理論物理学の成果に求める。この章を読めば、著者の理論を背景にそれらの理論物理学の成果をとらえることで、後者の持つ意味や意義がより明確になるような印象すら受けるはずだ。それに続く第7、8、9章はいわば応用編で、読者自らの目を通して、ここまでに得られた知識の確認を行なっていく。したがってこれら三つの章は、第2章とともに実践的な意義も大きい。最終章では今後あるべき実在の科学の見取り図が描かれる。
次に「インターフェース」と「実在」という本書に登場する二つのキーワードについて簡単に説明しつつ、著者の基本的な主張を確認しておこう。「インターフェース」とは、一般には二つのシステム間の境界を指す。「インターフェース」の重要性は、その両側に存在する二つのシステムが、互いに他のシステムの持つ実際の構造やメカニズム(IT業界では実装と呼ばれる)を斟酌せずに相互作用することを可能にする点にある。本書においてインターフェースによって画される二つのシステムとは、「経験し行動する主体としての人間」と、以下に説明する「実在の世界」が該当する。著者の主張では、一方のシステム「主体としての人間」は、人間独自のユーザーインターフェース(知覚系)を介して他方のシステム「実在の世界」と相互作用する。そしてインターフェースとして機能する知覚系の役割は、実在の真の構造やメカニズム(実装)を開示することではなく、生き残って子孫を残す可能性を示す適応度を報告することにある。
「実在」は「reality」ならびに「objective reality」の訳である。「reality」は一般には「現実」と訳されることが多いが、本書ではそのようなあいまいな意味で使われているのではなく、ユーザーインターフェースの背後に控える何ものか、つまり哲学では伝統的に「イデア」や「物自体」などと呼ばれてきた「実在」を指している。なお「真実(truth)」「世界(world)」「リアル(real)なXX」などの表現も、同様の意味で用いられている。またそれに関連する「真の(true)知覚」「真正な(veridical)知覚」という表現は、実在をありのままに見る能力、あるいはありのままではないとしても実在の構造をある程度回復し再構築する能力を持つ知覚を指している。しかし著者の主張によれば、そのような真実を見る知覚は、適応度を見る知覚を選好する自然選択によって淘汰される。この点で著者の主張は徹底している。というのも色、音、においなどの物体の属性のみならず物体それ自体も適応度を報告するインターフェースのアイコンであると論じるからだ。いやそれどころか、空間と時間でさえ実在の本質的な側面ではなく、適応度メッセージを記述するフォーマットにすぎないと主張する。著者によれば「知覚は、おりに触れて過大評価や過小評価をしたり、あるいはその他の様態で間違ったりすることがあるというのではなく、空間、時間、物体を含め、私たちの知覚の語彙は、実在を記述する能力を持たないと、私は考えているのである(八八頁)」。とはいえ著者は、「実在は存在しない」とする独我論を提起しているのでは決してなく、「実在は確かに存在する。だがその実在とは、私たちが知覚している、時間と空間の内部に存在する物体のようなものではまったくない(一一一頁)」と考える。では著者にとって実在とはいったい何か? それについては第10章で詳しく述べられる。この最終章は斬新な理論が提起されている本書のなかでももっとも大きな論議を呼ぶことが予想される章であり、「訳者あとがき」の最後で簡単に補足説明しておく。
このように本書は、主体としての人間と実在の関係を問う、科学的側面と哲学的側面の両面を備えた本であると見なせる。そこで思い起こされるのは、二一世紀に入った今日、哲学界隈では相対主義的なポストモダンの時代から新実在論の時代へと移行していることだ。新実在論の最近の隆盛ぶりは、訳者が最近の一年間で読んだそれに関連する一般書が片手を超えることにも見て取れる。そこで新実在論の考えと著者の考えの重なりを示す例を一つあげておこう。まず新実在論の考えを示す好例として、最近刊行された篠原雅武著『「人間以後」の哲学――人新世を生きる』(講談社選書メチエ、二〇二〇年)から引用しよう。そこには次のようにある。「世界は、人間の尺度、理解といったものを離れたところで、人間の願いや希望といったものとは無関係に存在しているという感覚が、人びとのあいだで潜在的に高まっている。人間は、広大な非人間的世界のなかの、ごく一部に住みついている。この現実感覚にふさわしい世界像の形成が、現代において求められている。人間的尺度を離れたところで、人間世界を一部とする非人間的世界の拡がりにおいて、私たちが生きているところについて考えることが求められている。世界像の形成は、通常の知覚を離れたところに漂っている、不確かだが、それでもリアルなものをかたちにしていくことで、可能になるだろう(七〇頁)」
この記述と次の本書の記述を比較されたい。「(……)一定の実在の理論を提起して、それが私たちのインターフェース内にどう出現するのかを予測しなければならない。(……)思うにこの試みに成功すれば、生物と非生物の区別が、実在の本質に関する洞察に基づくのではなく、自分たちが持つ時空インターフェースの限界の産物であることが判明するかもしれない。私たちのインターフェースの限界をひとたび考慮に入れれば、生命、非生命を問わない実在の統合的な記述が見出されるだろう(一九六頁)」。「コンシャスリアリズム[著者の提起する実在論]は、無限に多様な意識的経験を持つ、大部分が私たちの想像力をはるかに超えた無数の意識的主体の存在を前提とし、人間の意識に中心的な役割を担わせたりはしない。人間は、特別な意識的主体でもなければ、中心的な意識的主体でもない(三〇二頁)」。あとで説明するように著者は「意識的主体」という汎心論的ともとれる概念を導入している点では特異であるとしても、新実在論と著者の理論のあいだには、人間の世界を非人間的な世界に包摂されるものとして見る点で、大きな重なりがあることが以上の文章からわかるはずだ。
ではなぜ今そのような主張が、哲学者と科学者の両方から出されるようになったのかについて考えてみよう。理由は何であれ二〇世紀終盤に相対主義的なポストモダンの時代が退潮したあと、旧実在論が復活することは時代の風潮が許さなかった。イデアや物自体を扱う旧実在論は、人間経験の外部に実在を立てるとしても、視点は人間の側にあったと見なせるように思われる。たとえば、オンラインで参照できる『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』の「(プラトンの)洞窟の比喩」に次のようにある。「哲学的教育はいわば地下の薄明に馴れた人間の魂が、より明らかな真実在(イデア)の世界(可思惟的世界)へ、さらに太陽に象徴される可思惟的世界(ノエトン)そのものを成立させる究極的存在(善のイデア)へと転回するようにしむけるのである」。このような考えをとった場合、「〈真実在〉を知るわれわれの言うことこそ絶対的に正しいのだ」と考える、人間中心主義的、自己中心的な思い込みにとらわれることは必定であろう。まさにそのような姿勢が近現代の病理をなしていると言えるかもしれない。しかし二一世紀に入った今や、そのような人間中心主義は立ち行かなくなっている。それに関して篠原氏は前掲書で次のように指摘している。「地球温暖化、人新世、パンデミックの脅威、AIの進化、内戦と国家崩壊といった問題群が新たに浮上するなか、人間の意識や言語と相関するものとして構築された人為的秩序は、じつは脆く、崩壊すれすれの状態で成り立っているものであるだけでなく、人間から遠のく世界の一部分として、つまりは人間ならざるものたちが織り成す相互連関の網の目としての世界のただなかに存在するものであることが、新たに発見されようとしている。それにともなって、哲学的考察のあり方も、根本的に変わらざるを得ない(三〜四頁)」。本書の興味深さの一つは、そのような認識が哲学者ではなく科学者によって提示されている点にある。したがって本書を読めば、科学に関心のある読者は科学的視点から新実在論の持つ意義を理解し、また哲学に関心のある読者は、科学の観点からそれを再度見直すことができるはずである。
最後に、実在を意識的主体としてとらえる仮説「コンシャスリアリズム」を提起する最終章について簡単に触れておこう。著者自身、今後の議論の叩き台としてコンシャスリアリズムを提起したという趣旨のことを述べているが、それでも以下の点は補足しておく必要があるだろう。著者は「コンシャスリアリズムは汎心論ではない(二八〇頁)」とはっきりと述べている。汎心論は物体に意識や心があることを前提とするのに対し、著者の考えからすれば物体はインターフェースのアイコンにすぎず、心や意識を持たないというようなところが、著者がそう考える理由であるように思われる。しかしコンシャスリアリズムは、そのインターフェースの背後に意識的主体を据える。そこで訳者は、その考えを一種の「アドバンスト汎心論」と見なしたら間違いなのかと尋ねたところ、著者はあからさまな否定も肯定もせず次のように答えてくれた。「ほとんどの汎心論は明らかに二元論であり、物体が非物質的な経験も持つと仮定している。問題は、〈汎心論〉という言葉がさまざまな見方を擁護するために使われてきた点にある。私が〈コンシャスリアリズム〉という用語を造語した理由は、その種のあいまいさを回避するためであった」
ところで汎心論は先にあげた新実在論とともに哲学界隈では大きな注目を集めるようになりつつある分野の一つである。汎心論を支持する哲学者の一人フィリップ・ゴフの最新刊『Galileo's Error: Foundations for a New Science of Consciousness』(Pantheon, 2019)によれば、ここ一〇年のあいだに意識の科学は汎心論に対して、それ以前よりはるかにオープンな姿勢を示すようになったという(本書では否定的にとらえられているジュリオ・トノーニの意識の統合情報理論(IIT)などを例にあげている)。また日本でも最近になって、本書の版元である青土社から『現代思想2020年6月号 特集=汎心論 ―21世紀の心の哲学―』が刊行されている。ちなみにこの特集号に掲載されている「実在論的な一元論」という、代表的な汎心論者の一人ゲイレン・ストローソンが著した論文をぜひ読まれたい。というのも、本書の著者は先にあげた質問に対する回答のなかで、ゲイレン・ストローソン氏に「自分の唱える汎心論はコンシャスリアリズムと同じだ」と言われたことがあるとも述べているからである。
いずれにせよ、汎心論との重なりに関する微妙な問題は置くとしても、ここまで述べてきたことからもわかるように、本書が科学的にも哲学的にもきわめてコンテンポラリーな本である点に間違いはなく、ポピュラーサイエンス書のファンにも、最新の哲学に興味のある読者にも等しく推薦できる。また科学にも哲学にも特に強い関心を抱いていない読者であっても、本書を読めば、自撮り画像を魅力的に編集する方法、自社の製品をアピールするためにはどのような広告を提示すればよいかなどといった実践的なノウハウについて学ぶことができ、十分に意義を見出せるだろう。
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