◎石岡丈昇著『エスノグラフィ入門』(ちくま新書)

 

 

エスノグラフィって、厳密に言うといかなる学問なのかといつも思っていた。「民族誌(学)」と訳されているようだけど、民族学、民俗学、人類学、文化人類学、エスノメソドロジーなどと何が違うのだろうか? それともそれらいずれかの下位分類なのだろうか? 率直に言ってよくわからん。ここで新書本の冒頭にある著者の定義をあげておきましょう。次のようにある。なお引用内の太字は、原文でも太字になっている箇所で、私めが勝手に太字にしたわけではありましぇん(以下同様)。「エスノグラフィとは、ある対象世界――フィールドと呼ばれます――に分け入り、そこで長期にわたって過ごしながら、人びとの生活について記述する研究方法です。また、こうして生み出された作品そのものをエスノグラフィということもあります(12頁)」。あるいは次のようにある。「カメラとノートと鉛筆を片手に観察に徹するのではなく、「散歩に一緒に付いて行ったり、座って会話を聞いたりする」こと。一緒になって活動しながら、その内容を記していく方法がエスノグラフィです。なお、エスノグラフィの方法を用いる調査者のことをエスノグラファーと呼びます(15頁)」。ここで「一緒になって活動しながら」とある点に留意されたい。文化人類学などでは、観察対象者に働きかける効果をもたらす研究者自身の活動への参与は、観察対象を{汚染/コンタミネート}する結果になるからあかんと言われる場合もあるように思われるのに対し、エスノグラフィではそれが推奨されるらしい。もちろんと〜しろ〜の私めがその是非を判断することなどできないけど、いずれにしても外側からではなく内側からコミュニティーなどの特定の集団を観察しようとするのがエスノグラフィであることがよくわかる。これは、(フッサールなどの思弁に依拠する純粋な現象学ではなく)実践的な臨床をもとにして議論を組み立てていく現象学的精神医学の方法論にも似ているような気がする。その点についてはあとで取り上げるつもり。ところで「はじめに」の最後のほうに、この本のポイントが抑えられていて、章立てはおおむねその順番に準じている。次のようにある。「エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも@不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的にはA生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れているB時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献をC対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうしてできあがったD事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる(25頁)」。

 

前置きはそのくらいにして、「第1章 エスノグラフィを体感する」に参りましょう。まず次のようにある。「エスノグラフィは、みずからの日常とは異なった日々を送る人びと(これを本書では他者と呼ぶことにします)の生活に触れながら、そこで営まれる生活を記録する実践です。(…)他者たちの世界を訪ねてそれを記録することは、他者を知るだけでなく、自己を変化させることを意味します。私にとって自明だった「ものの捉え方」が{覆/くつがえ}されて、新たな「ものの捉え方」が発生する(42〜3頁)」。実のところこれは、哲学、社会学、心理学を含めたあらゆる人文科学、ならびに認知科学や神経科学などの一部の自然科学にも当てはまる。つまりそこには、自分が何を自明の前提として世界を捉えているのか、またいかにそのような世界のもとで生きているのかを知ることが究極の目的として存在する。それをもっとも、はっきりと見て取ることができるのが、先にあげた現象学的精神医学という分野でしょうね。エスノグラフィの対象に精神病者も含まれるのか否かはよくわからんが、現象学的精神医学者(や、わが訳書『脳はいかに意識をつくるのか』の著者で、現象学の影響を強く受けたゲオルク・ノルトフ氏のような一部の脳科学者)はまさに、健常者(現象学的精神医学においては、「健常(者)」という言葉の意味自体が相対化されざるを得ないが、話がややこしくなるのでここではそれについては述べない)が生きている世界とは異なる世界のもとで生きている人々を臨床的な対象として観察することで、逆に自分を健常者と見なしている人々が何を自明の前提としているのかをあぶり出すことが一つの目的になる。この点に関して述べておくと、「ヘタレ翻訳者の読書記録」何度も取り上げているけど、みすず書房から刊行されているヴォルフガング・ブランケンブルク著『自明性の喪失』は、誰もが一度は読んだほうがいいべさ(あとでみすず書房から褒められるかな? 甘いか)。ただし現象学的精神医学の実践は、その性質上観察者が観察対象者と、つまり精神病者と行動をともにすることはなく、精神病者が生きている世界を現象学的還元を含めた技法によって臨床結果から思弁的に捉えようとする点で、新書本の著者の定義するエスノグラフィとは異なる。著者はさらに次のように述べている。「フィールドワークをすることは、異世界を知るだけでなく、自世界をこれまでとは違ったふうに見つめることを強いられるようになる営みなのです。(…)エスノグラフィを書くことは、アンダーソンが述べるように、知らない世界に対してだけでなく、慣れ親しんだ世界に対する感性を鋭くすることなのです(45頁)」。引用文中にある「アンダーソン」とは、『想像の共同体』(半年くらい前に読み直した)で有名な政治学者のベネディクト・アンダーソンのこと。彼がエスノグラファーでもあったとは知らなんだ。「自世界をこれまでとは違ったふうに見つめることを強いられる」というくだりは、まさに『自明性の喪失』のような現象学的精神医学の本を読んだときに経験することでもある。だから推薦しているわけ。

 

それから第1章でもう一点注目した記述がある。それは次のような記述。「書く作業を通じて、みずからのフィールドの理解は深まっていくのであり、書くことは考えることなのです。¶私はこの点を大切にしています。学生の卒論指導などをしていると、考えがまとまってから文章化しようとする学生が多いです。でも、私がいつも伝えていることは、考えがまとまったから書くのではなく、書くことで考えがまとまるということです(57〜8頁)」。個人的な経験からしても、この提言はよくわかる。「考えがまとまってから文章化しようとする学生が多い」というより、そうしろと学校で教えられてきたんだろうと思う。私めも、「考えをまとめてから話せ(書け)」とときに言われていたしね。ただ高校くらいまではその方針に従えばよかったとしても、独創性が求められるようになるとそれだけでは足りない。私めは最初に書く内容をきっちりと決めて書き始めるというより、書き始めてからその流れに乗ってアイデアがふつふつと湧いてくるというケースのほうが多い。「ヘタレ翻訳者の読書記録」に関しても同じことが言える。このあたりのメカニズムについては、ガダマーだったかちょっと忘れたけど、偉い哲学者先生が、何かの本で詳しく書いていた。創造性とか想像性には、ダイナミックな即興性が求められる部分があるのだろうと思う。あるいは無意識的でオリジナルな思考が、書くことで徐々に浮き彫りにされ意識化していくということなのかもしれない。このあたりのメカニズムは、それに関連する本を取り上げたときに検討できるはず。いずれにせよ「書くことは考えること」という見解には全面的に賛同する。

 

この新書本では、各章の最後にコラムとして著者が指導した学生が書いた卒論の概要が紹介されている。第1章の最後のコラムでは、北海道の「ライダーハウス」で学生が行なった調査について紹介されている(61〜5頁)。これを読んで思い出したのが、かつて貧乏学生だった頃の私めは(現在でも貧乏ヘタレ翻訳者だけどね)、ユースホステル(以後「ユース」と記す)をよく利用していたときのこと。なぜ思い出したかというと、かつてのユースとここで取り上げられている「ライダーハウス」が似ていることに気づいたから。ただし現在のユースは、料金にしろ実態にしろほとんど民宿と違いがなくなっているらしいし、かつてのユースも、一泊二食だと2500円くらい、素泊まりでも1500円はしたように覚えていて、ライダーハウスのようにタダ同然ではなかった。ただ「独自の規範」があることや、相部屋であること、ミーティングと称する時間など見知らぬ旅行者同士の交流の機会があったことなど、似ている側面がかなりあると思った。安いからか、たまにビジネスマンがユースに宿泊しているのを見かけたことが何度かあるけど、たいがい勝手がわからずオロオロしていて、ユースの常連客同士で(けっこう常連客がいてたむろしていた点もライダーハウスと同じなんだろうと思う)、「あの背広を着た人、泊まる場所を間違えているよね。所在なさそうでちょっとかわいそう!」とか陰口を叩いていたのをよく覚えている。要するに、けっこう閉じた世界だったってこと。だからエスノグラフィの調査の対象としても、かつてのユースは格好の素材だったのだろうと思う。ところで私めは、かつて5年ほど毎年、摩周湖のふもとにあるユースで常連客と一緒に(てか、自分も常連客だったわけだが)年末年始を過ごし、元日には摩周湖展望台で初日ノ出を拝んでいたことがある。ちなみにかつてのユースでは基本的に酒類持ち込み厳禁だったけど、少なくともそのユースでは年末年始は経営者が酒類の持ち込みを見て見ぬフリをしていた。

 

ここでユースがエスノグラフィ研究の対象としておもしろいのではないかと思わせる、決定的な事例を一つあげてみましょう。もう時効だから暴露すると、ユースではけっこう周遊券の交換をやっていた。つまり早く帰る人と、北海道なら北海道にまだいたい人のあいだで周遊券を交換していたのよね。今の周遊券はとってもドケチなものになっているようだけど、かつてはたとえば北海道ワイド周遊券だと20日間有効で(東京発だと2万円くらいだったと思う)、その期間内なら、自由席であれば急行にも乗ることができた。かつて道内では、「大雪」とか「まりも」とかいう名称の夜行急行が走っていたから、自由席であればそれも周遊券で利用することができた。貧乏学生の私めは、周遊券を使って夜行急行の自由席に五連泊したこともある。だから周遊券をユースで交換して延命を図れば、より長期間旅を楽しめたわけね。でも、それは規約違反以外の何ものでもない。だから、ユースに泊っていた国鉄(その頃はまだ国鉄だった)職員に周遊券の交換をしているところをめっかって、「お前らここでは見逃すが、駅で見かけたらとっつかまえるぞ!」と言われたことがある。ちなみに「見知らぬ人と周遊券の交換など簡単にできるものなのか?」と訝る向きもいるかもしれないのでつけ加えておくと、特定の季節になるとユースには顔なじみの常連客が多くなるので、「今回はあんたの便宜を図ってやったんだから、次回はお前が便宜を図る番だぞ!」ってな感じで持ちつ持たれつの関係にあった。もちろんこれは、同じ人同士が対象になるとは限らない。つまりたとえばA君がB君に便宜を図ったらB君がA君に便宜を図らなければならないというわけではなく、B君がC君に便宜を図り、C君がD君に便宜を図り、・・・かくしてZ君がA君に便宜を図りでもいいわけ。要するに、そのような互恵的な関係を結ぶことを可能にする包括的な空間が全体として成立していたということ。だからエスノグラフィ研究の対象としておもろいんではないかと言ったわけね。ちなみに私めは、ユースに合計すると100泊以上はしているはず。ユース宿泊手帳みたいな代物があって1泊するごとにスタンプを一回押してもらえ、そのスタンプが100を超えると銀バッジをもらえることになっていた。でも結局、面倒だしそんなものをもらっても常連客に見せびらかすことくらいしかできないから(てか常連客はすでに持っている人もそれなりにいた)申請しなかったことを覚えている。あまりとりとめのないことを書いても仕方がないのでこのくらいにしておくけど、ユースでは他にもさまざまな独特の体験をした(同宿者におじぇじぇを盗まれたこともある)。いずれにせよ、かつてのユースは独自の生態系?を構成していたと言え、エスノグラフィの素材としてはおもしろかったのだろうと思う。だから、このユースの話でエスノグラフィの卒論が書けるかもね! 

 

あらら! またいつものように大きく脱線してもたので新書本に戻りませふ。次は「第2章 フィールドに学ぶ」。「フィールドに学ぶ」というのは次のようなことらしい。「フィールドに学ぶというのは、自分の携えた枠組みをフィールドの現実に優先させるのではなく、フィールドで人びとが生きている現実を直視することから考察を出発させる態度のことを言います(72頁)」。要するに「フィールドに先入観を持ち込んではならない」ということなのでしょう。当たり前田のクラッカーであるにもかかわらず、わざわざ言わなければならないのは、まさしく人は自分が自明であると考えていることに縛られているからなのですね。現象学の方法論はまさに、その縛りを逃れるための一つの方法を提供してくれるわけだが、その点でエスノグラフィも同じなのでしょう。次にエスノグラフィの特徴が次のように述べられている。「データサイエンスや統計分析のようにフィールドの有無に関係なく取得可能なデータを処理する科学とは異なり、フィールドの実地調査を経て考察が深められていく「フィールド科学」に属する手法であること。¶さらにフィールド科学のなかでも、サーベイのように可量のものだけでなく、「不可量」のものをファーストハンドで記録することで当該フィールドの実生活のありようを捉える手法である、ということです(79〜80頁)」。まあエスノグラフィは量のみならず質をも捉えるということかな。とすると、これも現象学に似ている。アングロサクソン圏では主観的、かつ質的な側面が関わる現象学にイマイチ人気がないように思えるのは、定量的な科学が王道と見なされているからなのでしょう。だからアングロサクソンの著者が書いた本を読むと、アサヒスーパードライを飲んだときのように、なんとも引っ掛かりのないコクのなさを感じてしまうことが多い。それに対して質的側面も扱うエスノグラフィは、コクがあるに違いない。

 

その後は、フィールド調査の具体的な方法やティップスが書かれているが、この部分はカットする。ただし「客観化を客観化する」実践という、社会学者ピエール・ブルデューの概念についてだけ取り上げておきましょう。というのも、ブルデューの本はむかしけっこう読んでいたこともあるので。次のようにある。「人びとの対峙する世界に迫るためには、私たちはフィールドに学ぶ必要があります。みずからのものの捉え方を疑わずに、対象をみずからのレンズで上塗り的に捉えるのではなく、まずはみずからのものの捉え方を自覚しそれを鍛えなおすこと。対象に迫るためには、対象に向き合うみずからの「色メガネ」に自覚的なる必要があります。¶この点をブルデューは「客観化を客観化する」実践であると述べました。調査研究を進めるにあたり、私たちは何かを研究の対象にする――客観化する――わけですが、その客観化の営みがいかなるやり方で可能になっているのか自体を反省的に検討する――客観化を客観化する――ことが求められるわけです(98頁)」。「色メガネ」というのは先ほどの用語を使えば自分にとっての「自明性」ということになるでしょうね。自分が自明と見なしていることは無意識的に影響を及ぼしてくるから、その作用のあり方をまず意識化する必要がある。これも現象学に通じると言えるかも。

 

ということで「第3章 生活を書く」に移りましょう。「生活を書く」とはいったいどういうことか? 初めのほうに次のようにある。「社会学とは、社会が変化していくさまを、すなわち社会変動のみを考察すると勝手に思い込んでいた私は、「大きな出来事」を捉えるのだと当初は思っていました。例を出すなら、リーマンショックによるたくさんの企業の倒産は、そうした大きな出来事でしょう。¶しかしエスノグラフィは、もっと細部の出来事に眼を向けます。それはたとえば、リーマンショックで職を失った男性が、いかに家族の空間においても居場所と役割を喪失するかを丁寧に見つめるような作業でしょう。¶劇的な事件は、容易に私たちの目を釘付けにします。ショッキングな写真や映像に目を奪われることも貴重な体験ではあります。ですが、社会の動きをきちんと捉えるためには、無条件の{共感/傍点}ではなく、いかなる条件がそうした悲惨を生み出しているのかという文脈や背景の{理解/傍点}が必要になります(108〜9頁)」。要するにエスノグラフィは、粒度を細かく取り、私めの言う中間粒度(しかも国家や地方自治体のようなかなり大きな中間粒度ではなく、もっと細かな地域共同体レベル)が対象になるということになる。ところで、この文章中にわざわざ傍点を添えて「共感」という用語が使われている。これはおそらく「認知的共感」ではなく「情動的共感」を意味していると思われる。というのも、「文脈や背景の理解」には認知的共感力が必須になるはずだから。なお情動的共感(感情移入に近い)と認知的共感(「心の理論」とも呼ばれる)の違いは、心理学者ポール・ブルームの著書『反共感論』を参照されたい。

 

また新書本の著者は次のように述べる。「こうした理解の力を{涵養/かんよう}するのは、おおむね、誰もが{目を奪われる/傍点}劇的な事件のフレームをなぞることによってではなく、ありふれた生活のディテールを注視することを通じてであるのです。¶言い換えるなら、劇的な事件を見るのは容易ですが、生活を見るのはそれよりも難しく、練習を必要とするのです。生活を見る眼を鍛えることは、重要な意味が備わっているにもかかわらず、私たちが見過ごしてしまっている事態を、きちんと見ることを可能にしてくれます(109頁)」。リーマンショックや同時多発テロは外れ値的な事件とであり、そこに自明性は存在しない。むしろ突如として起こる。人びとの生活、すなわち中間粒度を成立させている基盤は、その種の外れ値とは無縁なのですね。ところが他社会の中間粒度を成立させている他社会の自明性の基盤を探究しようとすれば、今度は自分が抱いている自明性の感覚が色メガネとして作用して邪魔になる。だから「練習を必要とする」。現象学にも現象学的還元と呼ばれる実践方法があるけど、あれも自らの目を曇らせている自明性のベールを取っ払うという点において基本的には同じことだと言える。

 

それから差別の問題に即して、「目の前にいる人ではなく(…)抽象化したカテゴリーしか相手にしないこと(133頁)」の問題が指摘されており、現代の病巣の一つはまさにここにあると個人的には考えているので引用しておきましょう。次のようにある。「ここにはカテゴリー化の問題があるわけですが、重要なのはカテゴリーの使用そのものというよりも、その使用を通じて「いま−ここ」で起こっている出来事から距離を取ることにあります。「そこから逃避しようとする〈力〉」がその行為には表れている(134頁)」。エスノグラフィからは離れるけど、このカテゴリー化という所業は非常に危険で、それは最終的には、ユダヤ人全般を劣等民族としてカテゴリー化し絶滅させようとしたナチスのやり口につながる。そう言えば最近、テレビにも出演しているらしき自称ジャーナリストが「自民党支持者は劣等民族だ」と発言してネットを騒がせていたよね(これを参照)。このような暴言も、まさにカテゴリー化の最たるものだと言える。個々人を対象に、個別的な能力に関して誰が誰より能力が劣ると主張することは、それが事実である限り特に大きな問題にはならない。もちろん用もないのにわざわざ指摘すれば喧嘩にはなるだろうが。たとえば私めは大谷選手のように野球で活躍できないのは当たり前田のクラッカーだから、野球では私めは大谷選手より劣るというのは火を見るより明らかな事実だし、逆に大谷選手は私めのように翻訳は(おそらくは)できないだろうから翻訳能力においては大谷選手は私めより劣ると言えるはず。そしてそこに大きな問題は生じない。ところが「自民党支持者」のようなより抽象的な大きな括りで、さまざまな能力を持っていたり持っていなかったりする個人の集まりを十羽ひとからげに捉えて、何に関して劣っているかを具体的に明示することさえせずに、それをただ「劣等民族」としてカテゴリー化すれば、それはナチスの所業と何ら変わりがないと言われても仕方がない。ここには、自分と自分のお仲間を「優等」と、そしてそれ以外の人々を「劣等」と見なす優生思想が見て取れる。これはどう見てもファシストの思考様式だよね。ナチスの再来のような発言を平然とするこんな人物がテレビのワイドショーに出演しているとは、私めには驚きでしかない。百歩譲って、言論の自由があるから、個人でその手のしょうもない発言をすることはある意味で勝手だと言えたとしても(この発言自体はテレビではなくネットでしたらしい)、大勢の人々が視聴する公共のテレビ局がファシスト的見解を平然と振り回す人物を起用していることが問題でないはずはない。テレビの劣化はまったくひどいね。ツイでもときに「国民は愚かだ」みたいな発言を見かけるけど、彼らにもこの自称ジャーナリストと同じファシスト的心理メカニズムが働いているんだろうと思う。「国民は愚かだ」という発言が、論理的にも、事実としても、戦略的にも間違っていることは、これまでも「ヘタレ翻訳者の読書記録」で何度か指摘してきたので、ここでは詳細には述べない。

 

新書本に戻ると、著者は第3章の最後のほうで次のように述べている。「生活については、何も隠されていないのです。ただ私たちがあまりにもそれらを見過ごしてきたのだと言えます。そこで書かれるのは、決して隠されたものではなくて、すでにあるものなのです(138頁)」。何も隠されていないものがなぜ見えないのか? これは異文化間交流に関する文化心理学の主題の一つでもあり、わが最新訳書、バチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』のテーマの一つもそこにある。この本から一つだけ引用しておきましょう(訳者あとがきでも引用した部分)。次のようにある。「自分の感情をどう理解するかは、自国の文化のもとで利用可能な情動概念によって決まる。情動概念は社会的なコミュニティーの内部で共有されている。私が利用できる情動概念は、情動的なストーリーを「描く」ための特定の方法を提供し、そこに書かれていない結末で終わることを困難にするのだ。(同書227頁)」。つまり自分が所属している文化が紡ぐストーリー以外のストーリーを読み解くことは、自文化の情動概念が干渉するためにきわめて困難なのですね。エスノグラファーは、現象学を専攻する哲学者が現象学的還元の実践方法を学ばねばならないのと同じように、この干渉を回避するすべを実践的に学ばなければならないということでしょう。

 

ということで「第4章 時間に参与する」に参りましょう。まず著者は、フィリピンでの棚田の調査を例にあげて「生活論」とは何かを説明する。「生活論」とは、端的に言えば「人びとの生活を中核に据えて社会学の分析の論理を組み立てる(151頁)」ことなのだそう。さらに次のようにある。「どういうことかというと、山あいの条件の悪い土地であっても、人びとは開墾して生活を切り拓いてきたという人びとの歴史を、そこに感じ取るという方法です。¶感じ取るのは、歴史だけではありません。現在もその水田がきれいに使われているということは、いま生活している人びとの生活実践がそこに凝縮して表れているとも言えるでしょう(152頁)」。これはまさしく、私めが言う中間粒度の大きな特徴の一つなのですね。つまり現在の生活は、共同体の過去の歴史の基盤のうえに成立しているということを意味する。こうして見ると、まさに中間粒度を捉える方法論がエスノグラフィだと言えるようにも思える。

 

それに関連して紹介されている、有賀喜左衛門という二〇世紀の社会学者による西行や芭蕉の批判はちょっとおもしろい。次のようにある。「西行や芭蕉が「山や川と同じように」しか、人びとの生活をみなかったと、有賀は批判します。人びとの生活に感懐を寄托することはあっても、それは「彼らが都において創り上げたもの」にすぎなかったと喝破します(…)。真澄[菅江真澄]が優れていたのは「見知らぬ山川を訪ねるときでも、それに因縁づけられた土民の生活を思わぬことはなかった」点です。山や川を環境としてみるだけではない。その環境と関係を取り結んで生きる人間の生活こそが、真澄においては捉えられていたと言うのです(153〜4頁)」。「山や川を環境としてみるだけではない。その環境と関係を取り結んで生きる人間の生活こそ」重要だという見方は、少しあとで取り上げられる「生活環境主義」の説明において非常に重要になる。さらに、人びとの暮らし、つまり中間粒度の様相をそのように捉える生活論の肝が次のように述べられている。「重要なのは、経済的条件などに、そうした生活の場の成り立ちを還元しない点です。経済的条件に還元するとは、たとえば棚田にしても、条件の悪い土地に住まざるをえなかった人が、仕方なしに経済的事情によって、そこに田を切り拓かざるを得なかった、と捉えるような視座です。条件に受動的な人びとの姿が浮かび上がってしまいます。そうではなく生活論の発想というのは、そこで生きてきた人びとの能動的な生活実践の累積を強調するのです(156頁)」。

 

次に「生活環境主義」の説明に参りましょう。まず「生活環境主義とは、人びとの生活の立場に立って社会問題を考察する立場です(157頁)」とある。具体例があげられているので、ちょっと長くなるけどそれを引用しておきましょう。次のようにある。「ある湖畔の村に、低湿地帯とそこを流れる小川がありました。大雨が降ると、その小川が氾濫します。このときいかなる対処法が考えられるでしょうか。よく考えられるのはふたつです。ひとつは低湿地帯を埋めたり、小川を三面コンクリートばりに[したり]するといったやり方です。もうひとつは、湿地帯に見られるアシの群生を守り、小川のコンクリート化による生態系の破壊を拒否することに重点を置いて、別の対策を考えるというものです。生活環境主義の研究者たちは、前者を「近代技術主義」、後者を「自然環境主義」と呼びました。¶どちらでもないのが、生活環境主義です。それは生活の必要に応じて、自然環境を「破壊」することを肯定する論理です。¶だから、コンクリート張りに改変することを否定しません。しかし「近代技術主義」とも対立します。なぜなら、技術や国家制度を扱うテクノクラートの発想においては、人びとの生活よりも官僚制の論理が優先されるからです。正しい知識は、国家が独占していて、生活の知識は無効化されてしまいます。¶よって村の小川の例で言えば、小川の川底はそのままで、両側面だけをコンクリート化するといったやり方が、生活の場では取られたりするのです。生活を守るというと、近代技術を拒否する立場を想定しがちですが、そうではありません。¶生活を守るためには、技術は取り入れるし(…)、自然環境の「破壊」もおこなわれます。でもその技術の入れ方の工夫については、国家や制度の効率性よりも生活の場の論理が優先される(157〜8頁)」。これはまさに中間粒度、すなわち共同体の生活や歴史に配慮した見方だと言えるでしょうね。

 

この引用箇所を、ラディカルな環境主義者が読んだら、「自然環境の破壊も行なうとか、これでは人間中心主義そのものじゃないか!」と必ずや思うはず。でも、そう考える環境主義者のほうがむしろ傲慢な偽善者であるとも見なせる。自然や環境という言葉に人間が言及する場合、それらは必然的に人間にとってのものであらざるを得ない。地球にとっての自然や環境を言い立てるのなら、極端な例をあげれば、スノーボールアースであろうが、火の玉アースであろうが、地球にとっての自然や環境である点に変わりはない。しかし人間(や他のほぼすべての生物)にとっては、スノーボールアースや火の玉アースでは困ったちゃん以外の何ものでもないのですね。だから自然や環境を人間がうんぬんするのなら、そられは人間にとっての自然や環境でなければならない。それにもかかかわらずスノーボールアースや火の玉アースを強引に人間にとっての自然や環境と見なすのなら、その人は自殺願望を抱いているとしか言いようがない。あるいはそれとも、他者に対する自分の優位性を確保するために(「エリートの俺様は、アホな一般ピープルとは違って真剣に自然環境について考えているんだぜ!」って感じね)非論理的な逆張りを言っているのかもしれない。

 

あるいは都会という安全圏でのほほんと暮らしている人びとが、熊害に困っているコミュニティーに電話で「クマがかわいそう!」などといったクレームを入れるケースなどにもこのことは当てはまる。「クマとの共生」というのは、あくまでもどちらにも被害が及ばないという条件のもとでしか成立しない。「人間が勝手に山を切り崩し、木を切り倒したんだから、地元民のほうがクマの生息していない地域に引っ越すべきだ」などと言い出すのなら(実際にそういうツイをした人がいて、みごとにコミュられていた)、東京などの大都市ですらかつては森林に覆われていたという歴史的事実を無視することになる。その事実を考慮するならば、そもそもそう言っている人たちが、大都市から立ち退かなければならなくなる。まあそういう人びとは、自分が身銭を切らなくていいときだけ非現実的な美辞麗句を連ねるのであって、自分が身銭を切らねばならない立場に置かれたら、あっという間に前言を翻すだろうけどね。ネットではよくそういうクレーマーにクマを送りつければいいなどといった暴言を見かける。だが、それでは被害が拡大するだけの結果になることはわかり切っているので当然冗談だと捉えられてしまう。クレーマーに身銭を切らせたいのなら、たとえば「山に戻せ」というクレームなら「では、クマに個体識別の札を装着しておきますから、次にこのクマが店を襲ったらその被害額を、誰かを負傷させたらその治療費をあなたがたクレーマーに等分で請求するので請求書を送る住所を教えて下さい」と返答すればよい。自分が身銭を切らねばならないことがわかれば、途端に黙り込むでしょうね。

 

ところで最近なぜか、奈良のシカりんちゃんたちの動画がよくゆ〜ちゅ〜ぶのお薦めに上がって来る。奈良のシカのケースでは、シカは安全に暮らせるしせんべいももらえる。外国人を含めた観光客はシカにエサをやったり、シカを背景に自撮りをしたりしてご満悦に浸れる。地元民はせんべいやみやげものが売れて繁盛しほくほくする。つまり、誰も損をしていないどころか誰もが得をしている。これこそがほんとうの共生だと思う。でもラディカルな環境主義者は、「いや、すべては人間の都合で成立しているのだから、人間中心主義であることに変わりはない!」と宣うだろうね。でも、このようなあり方でしか共生はあり得ない。たとえば奈良のシカが、奈良のクマだったら共生など成立するはずがない。もう一つ例をあげましょう。わが未来都市入間には、去年からツバメちゃんたちが訪れるようになった。おととし以前は、少なくとも都市部に巣を作るところは見かけなかったのに、わが8階建て超高層マンションの近くに限っても、去年は一箇所、今年は四箇所でツバメの巣とヒナちゃんたちの姿を見かけた。どうも最近は都会にも巣を作るようになったらしい。ツバメは確かにうんちをするので巣を作られた人は掃除が大変になるにもかかわらず、ヒナが巣立つまでは誰も巣を壊したりしない(たぶん鳥獣保護法で禁止されている)し、「あいつらうざいから追い払え!」などとは言わない。むしろ毎日ヒナちゃんたちに手を振ってあいさつしている私めを筆頭に、住民はツバメの子育てを見て楽しんでいる。ツバメちゃんたちはツバメちゃんたちで、人間がいればヘビや猛禽類に襲われる可能性が低下する。人間がツバメちゃんたちのうんちを我慢すれば(とはいえ鳥ピーちゃんたちのうんちは、海辺のカモメのうんちとか風景にさえなるくらいだから、あまりばっちいという印象を受けない)、まさに人間とツバメはウィンウィンの関係にある。これこそが共生なのですね。

 

中間粒度に属する人びとの生活や歴史を無視した環境主義がいかに有害かについては、著者もケニアにおける森林保護を例に取って次のように述べている。「住人にとって未曽有の経験であった「植林」というものが誕生します。住人たちは森と節度をもって接してきたので、自然の植生のサイクルに合わせて、炭焼きや家の建設に木を利用してきました。植民地政府は、商業伐採を始めたため、森は過伐採されていき、その過程で「植林」が実行されるようになったのです。¶植林に使われたのは、ユーカリ、マツ、スギなどでした。短期間で巨大に育つからです。また、植民地政府は「ゾーニング」の発想で、森を管理しようとしました。森林保護の名目上、森林地帯を立ち入り禁止にして、原生自然を保護しようとしたのです。¶しかしながら、森林は元々、村人の生活の場でもありました。人と森が、一緒にあることで、その森は保全されてきたわけです。ゾーニングは、こうした人の手が加わることで保たれてきた自然のありようを解体するものでした(160頁)」。とりわけ「人と森が、一緒にあることで、その森は保全されてきた」「人の手が加わることで保たれてきた自然のありよう」という表現に留意されたい。要するに人間にとって、自然とは生の自然ではあり得ないのですね。そこには中間粒度の生活と歴史が介在している。これを無視して森林保護はあり得ないということになる。ラディカルな環境主義者は、その点をまったく理解していないように思われる。ちなみにこのような自然環境や共生をめぐる問題に関しては、これまで取り上げた本のなかでは『森林に何が起きているのか』や『戦国日本の生態系』も参照されたい。つけ加えておくと、前回取り上げた『サステナビリティの経済哲学』の冒頭で述べたメガソーラー設置の問題は、環境破壊に関するものであると同時に中間粒度の破壊に関するものでもあるという点をここで強調しておきたい。

 

次に著者は「合作」という概念を取り上げて次のように説明する。「合作は、同時代の人びとだけでなく、歴史的にもつながっています。ヨコ(同時代でのつながり:「共時的」なつながりと言います)だけでなく、タテ(過去の人びととのつながり:「通時的」なつながりとも言います)の関係がそこには介在しています。¶そしてこのタテ=通時的な合作の模様を考えることが、生活を書くうえで重要になります。つまり、生活が継承されたり、再生産され[たりし]ていくものであるとすれば、エスノグラフィの調査研究をする者は、生活の時間的側面に切り込む必要が出てきます(163頁)」。「合作」とは「協働」とも言い換えられるでしょうね。この文章は、中間粒度における「協働」は共時的のみならず通時的にも作用することをみごとに言い表している。その点を絶対に忘れるべきではない。第4章の残りは、時間的側面に注目するエスノグラフィとはいかなるものかが、著者が実施したマニラのボクサーのフィールド調査に基づきつつ解説されている。それについては細かくなるので一点を除いて省略する。その一点とは、「時間的予見の剥奪」が人びとの生活にいかなる影響を及ぼすかに関する記述が興味深かったこと。次のようにある。「貧困とは何か、失業とは何か。さまざまな定義ができますが、私は時間的予見の剥奪がそのポイントだと考えるようになりました。¶仕事や練習など、毎日のルーティンがあれば、人は時間的予見を手にすることができます。ボクサーであれば、一日に何が起こって、一週間がどのような進行をたどり、その先にはどんなボクサーとしてのキャリアの展望が見えてくるのか。(…)しかし失業するとどうでしょうか。お金がなくなるだけでなく、この時間的予見が剥奪されます。¶失業や貧困とはお金をめぐる困難であると同時に、時間をめぐる困難でもあります(172頁)」。私めも、これを書いている今は、次の仕事が決まっていない状態にある。だからのんべんだらりとしていて時間を構造化できずに、やたら不安だけを募らせている。おじぇじぇの問題もあるけど、時間をうまく処理できないとそれだけでも不安が高じてくるのですね。だからこの「ヘタレ翻訳者の読書記録」を書くことで、何とか時間を構造化しようとしているというわけ。

 

残った二章「第5章 対比的に読む」「第6章 事例を通して説明する」は、エスノグラフィの具体的な実践方法のティップスのような内容が書かれていて、理論的な色合いが薄く、個人的にはあまり関心が持てなかった。ただこれからエスノグラフィを専攻しようとする読者には有用だろうと思う。あまりエスノグラフィとは関係ないんだけど、本の読み方のティップスとして「買った本は容赦なく書き込む」とあったのでそれについてだけ一言述べておく。実は私めは、本にゴチャゴチャと書き込むことができないタチなのですね。「神聖なる本に書き込むとは何事じゃ!」と思っているわけではないとしても、貧乏性のせいかどうしても書き込む気にならない。そもそも鉛筆とかペンを携行して書き込むこと自体めんどうくさいのですね(日本語の本は、ガストで朝メシメシを食べているときなど外でしか読まない)。だから付箋貼り貼りを実践している。その際、付箋に書き込むことはしない。実は、この「ヘタレ翻訳者の読書記録」も、ガストで新書本や選書本を読みながら、気に入った箇所に付箋をペタペタ貼って、まるまる一冊読み終わったあとで、家でパソコンの前に座って付箋を貼っている箇所を何度か読み直しながらWord文書にまとめてそれをHTMLに変換し公開するという手順を取っている。また、Word文書にまとめると同時に付箋を順次はがしていっている。付箋がついていると気分が悪しいし、つけたままにしておくとどこまでまとめたかがわからなくなるしね(実のところ、最近ではWord文書で10頁から20頁になる傾向にあるので、一日ではとても書ききれないのですね)。この前お星さまになった松岡正剛氏は独自のマーキングを披露していたけど、ああいうことはようやらんのが貧乏性の私めなのです。

 

ということで、この新書本を読んで、エスノグラフィは私めが言う中間粒度に切り込む道具としてきわめて有効な学問なのだろうという印象と、そこには現象学的な思考様式に近い側面があるのではないかという印象を強く受けたと最後に述べることで、この本については終わりにする。

 

 

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※2024年9月27日