◎船木亨著『倫理学原論』(ちくま新書)
前回は『つなわたりの倫理学』を取り上げたので、倫理学ものの二連発ということになる。これは単なる偶然ではない。というのも『つなわたりの倫理学』を取り上げた際に、最後に「倫理においても直観は軽視すべきではないというのが私めの考えだけど、それについてはまたの機会に取り上げましょう」と書いたわけだけど、『倫理学原論』の副題に「直感的善悪と学問の憂鬱なすれちがい」とあったので、さっそくその機会がやってきたかと思って喜び勇んで買ってきて、他の積読本より先に読んだのですね。ただ新書本の副題には「直感」とあって「直観」ではない点に注意されたい。実を言えば、著者は「直観」と「直感」を明確に区分している。でもその区別をする必要は著書の立場からはあるとしても、個人的には「直観」だけで十分だと思っている(ただし著者の言う「直観」と私めの言う「直観」は意味が異なる)。その理由については、「第四章 身体の倫理学の基礎づけ」を取り上げたときに説明する。
ということで「第一章 倫理とは何か」から参りましょう。章題どおり、この章では、倫理の定義が提示されている。『つなわたりの倫理学』では、まさにこの倫理の定義に焦点を絞って読んだんだけど、ここでは『倫理学原論』の著者船木氏の定義をあげておきましょう。「倫理の諸概念」という節に、それまでの記述をまとめて次のようにある。「それでは、ここまで述べてきた倫理に関わる諸概念を整理しておこう。¶@狭い意味での古来の倫理:団体や組織の精神として法律に準ずるもの¶A狭い意味での最近の「倫理」:社会に生じている問題状況に対する政府の政策や諸個人の行為の正当性を論じるもの¶B狭い意味での「道徳」:中国儒教の教え¶C広い意味での「道徳」:人間行為の正しさや人生の意味についての教え、Bも含みつつ一般化されたもの¶D「修身」:BとCを含む、国家主義的教育のための戦前の道徳¶E「モラル」:上記AとCを合わせたもので、かつ士気や志気といった独特の意味あいを含むもの、F広い意味での「倫理」:上記のすべてを含み、かつ道徳や倫理と意識されないままに人々の行動に圧力をかけ、秩序を作り出そうとするもの全般、これが「倫理的問題」などという語が使用される文脈における、倫理学の対象としての「倫理的なもの」である(47〜8頁)」。うむむ! これだけ細分化されるとかえって見通しが悪くなるような気がするけど、一応著者独自の定義だと思うのでそういうものとして受け取っておきましょう。
この第一章で気になったことが二点あった。一つは「直感」に関してで、ネット空間に関して論じられている箇所に次のようなくだりがあること。「現実空間(リアル)でのトラブルに対する一方的な投稿が自力救済の武器ともなれば、単なる嫉妬や目立ちたがりによる虚偽の投稿がまともな店や創作者に対する悪評を作り出したりもする。具体的な利害も絡むこうした議論の真偽は、しかし論証や証拠によってではなく、ネット民たちの多数決によって決められるので、直感的に分かりやすいだけの意見が勝利する(52〜3頁、下線部は私めによる)」。あるいは次のようにある。「そこ[ネット]では、炎上しても「悪名は無名に勝る」とする猛者たちが、アリーナ(闘技場)に登場する剣闘士よろしく、一般受けしそうな主張を繰り広げ、真理や正義よりも、フェイクであっても構わずに多数派を獲得することを競い合う。もはや専門家の見識に力はない。どんな学問的主張に対しても、自分の直感や耳学問、高校教科書レベルの知識と違うというだけで批判する。人々も、自分がそのようなひとの説によって応援されていると感じられさえすればそれで構わないとする(54頁、下線部は私めによる)」。上記二箇所にある「直感」という言葉の使われ方からして、著者は「直感」を否定的にとらえているように思える。とすると「直感的善悪と学問の憂鬱なすれちがい」という副題や、「胸に手を当てて感じる善悪のほうが哲学的倫理学より正しい!」というオビの文言はどう解釈すればよいのかがわからなくなってきたのですね。著者が「直感」を否定的に捉えているのだとすると、「直感的善悪と学問のすれちがいが憂鬱なのは、直感的善悪がデタラメで学問が絶対的に正しいからなのかな?」という疑問が湧いてくる。「胸に手を当てて感じる善悪のほうが哲学的倫理学より正しい!」に関して言えば、「哲学的倫理学」は間違いなく「学問」なのだから、副題から類推すれば「胸に手を当てて感じる善悪」とは「直感的善悪」を指しているように思える。この見立てが正しいのなら、「胸に手を当てて感じる善悪のほうが哲学的倫理学より正しい!」というオビの文言は、下線を引いた上記引用文内の二つの文章と真っ向から対立しているように見える。この矛盾を解決するには、「オビの文言は、そのように考えるのは一般ピープルだけであって、学者たる著者の観点からすれば、そんな考えはとんでもない間違いだと言わんとしている。そして最後の「!」は、ネットの表現で言えば「キリッ」のようなものでこの文章自体を揶揄している」と考えざるを得ないようにも思えた。刊行した著書をどうしても売りたい出版社は、そういう小細工、つまりネット民の言うところの「見出し詐欺」をときにやることがあるから、この可能性は捨てきれない。いずれにせよ、もし著者が実際に「直感」を否定的にとらえているのだとすると、冒頭で述べた、私めがこの本を喜び勇んで買ったことはみごとな「ぬかよろこび〜〜」であったことになる。いずれにしてもこれに関する著者のほんとうの意図は最後まで読まねば何ともわからないので、この件に関してはあとまわしにする。
さて第一章でもう一点コメしたかったのは、行動経済学で言うところの「バイアス」について書かれた箇所に関して。次のようにある。「行動経済学によると、人間が利益を最大にするように合理的に行動するかと言えば、目先の小さな利益にこだわったり、大きなリスクを無視したりする、それが人間の本性だというのである。そうした非理性的な判断様式を、行動経済学は「バイアス」と呼んで、その事情を経済学の理論に組み込もうとしたのであった。¶それはそれで経済学のひとつの理論なのであったが、しかし、その発想をより一般化して、非理性的判断をバイアスと述べることを通じて、人々の行動を説明するひとたちが出てきた。バイアスというのは偏差という意味であるが、何から偏っているかというと、それは理性的な判断様式からである。とすれば、「バイアス」とは、近代の理性主義的な道徳やモラルに反するものについての批判であり、その意味では復古主義的な倫理的概念であるともいえる(60〜1頁)」。この文章だけでは著者が行動経済学に否定的なのか否かは即断できないとしても、あとで「行動経済学は、現代の常識(ホモ・エコノミクス)こそ正しいとする、いわば{倫理的/傍点}バイアスのもとにあるとはいえないだろうか(62頁)」とあるので、否定的にとらえていると見ていいと思う。かくいう私めは、『〈選択〉の神話』という、行動経済学的な色彩が濃厚な本を訳したこともあるし(カーネマンの例の『ファースト&スロー』やらシーナ・アイエンガーのどれかやらがほぼ同時に出て惨憺たる結果に終わったけど)、昔は興味を持って読んでいたこともあるとはいえ、今では無視できない欠陥があると思っている。それは理性と直観(ここで私めが言う「直観」とは、新書本の著者が言う「直観」とも、あるいは「直感」とも異なるんだけど、それについてはあとで説明する)を対立するものとして捉えている点であり、それに関しては私めは新書本の著者の見解に同意する。私めが行動経済学の見方に疑問を感じるようになった理由は、一つはわが訳書ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』や、ヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』を読んだことにある。詳しくはそちらを参照してほしいが、二人は「合理的思考は直観的推論の一形態である」と見なして独自の理論を展開している。つまり理性と直観は必ずしも対立しないのですね。それからもう一つは、神経科学者ジョセフ・ルドゥーの説を読んだからで、彼はカーネマン流のシステム1(無意識的、直観的)とシステム2(意識的、理性的)という二項区分では不十分であるとして、システム1(非認知的で無意識的)とシステム2(認知的で無意識的)とシステム3(認知的で意識的)という三項区分を提唱している。つまりルドゥーの考えによれば、システム2は認知領域に属しながら意識的な作用ではなく、認知には無意識的なもの(システム2)もあれば、意識的なもの(システム3)もあるということになる。要するに、必ずしも理性ではないとしても認知には、無意識的、つまり直観的に作用するものもあるということ。
新書本に戻りましょう。そのあとで「正常性バイアス」の例があげられているんだけど、ちょっと論理を追いにくい部分があった。次のようにある。「「正常性バイアス」の例としては、災害時に避難しようとしないことが挙げられるが、避難勧告が出て実際に被害が生じる確率が5%以下なら、避難するという労力をその都度とるひとは少ないのが普通であろう。二十回につき十九回は無駄足になるからである。これを「バイアス」と呼ぶなら、ワクチンに深刻な副作用が起きる可能性があるということでワクチンを打たないひとが正常であるということになるだろう(61〜2頁)」。これ最初に読んだときは逆に思えて、「え?」と思って何度か読み直してからようやく論理的に正しいことがわかった。なお内容に関して言えば、ワクチンに深刻な副作用が起きる可能性があるということでワクチンを打たないひとが正常であるか異常であるかは、その人が置かれている状況を考慮しない限りわからないと思う。たとえば何らかの理由で免疫系の働きが低下している人がワクチンを打たなかったとしても、その人を異常だとは言えない。まあ著者も行動経済学の論理のおかしさを指摘しただけなのは確かだとしても。いずれにせよ、ウェイソン選択課題を解くときのように直観にあまり訴えないから、例としては非常にわかりにくいと思う。余計なお世話かもだけど、ここで私めと同じように「え?」と思った人のために、この文章の論理をわかりやすく明示しておきましょうね。著者が言いたいのは、次のようなこと。@行動経済学者は、起こる確率が低い災害に対する非難勧告を真に受けて避難しようとしたりなどしない人を「バイアス」がかかっている、つまり異常だと見なしている。A裏を返せば、行動経済学者は、起こる確率が低い災害に対する非難勧告を真に受けて避難しようとする人を正常と見なしている。Bならば行動経済学者は、起こる確率が低いワクチンの副作用を心配してワクチンを打とうとしない人も正常と見なさなければならないはずだ。こうして順を追って考えてみれば確かに論理の正しさは検証できる。でも新書本の読者ってこの文章を一発で理解できるのだろうか? それとも単にわがオツムが腐っているだけ? え? 後者ですか? す、す、す、すんましぇん。でもまあ一般の読者は「え?」と思ったとしても、特に気にせずに読み進めているのかもしれない。ところが私めは銀河系一のヘタレ引き籠り翻訳者だから、どうしても論理をつきつめないと気が済まなくなる。強迫性障害並みと言ってもいいかも。そうでないとまともな翻訳はできないのですね。
とはいえ実は、そんな些末なことを指摘したかったから、この文章を取り上げたわけではない。取り上げたほんとうの理由は、とりわけコロナが流行り出してから注目されるようになったワクチン問題に関してわが見解を述べておこうと思ったから(え? 他人の本について書いているのに、それをダシにして本筋と関係のない自分の見解を勝手に述べるんじゃないってか? いいの、どうせこれを読む人などほとんどいないんだから)。個人的には、ワクチン問題に関しては公共レベルとそれ以外のレベルに分けて考えるべきだと考えている。公共レベルでは、どうしても功利主義的判断を優先せざるを得ないと思うので、ワクチンによる死者が出たとしても、それ以上の人数が救われることが確実なら、公共政策としてワクチン接種が奨励されることには問題がないと思う。だからたとえばワクチンで死んだ人がいるとして、それを大手メディアなどで大々的に取り上げて、視聴者を情動的に共感するよう仕向け、ワクチン接種それ自体をつぶそうと企図することは誤っている。ポール・ブルームはわが訳書『反共感論』で、情動的共感を公共政策に持ち込むことの危険性を強調しているので、そちらを是非参照してください。いずれにしても、飛行機はたまに落ちて危険だから、その運用を全面的に禁止すべきだなどとは誰も言わないのに、ワクチンの場合に限ってそう主張されることがあるのはなぜかが問われねばならない。
しかしだからと言って、公共レベル以外でワクチンのせいでアレルギー反応を起こしたり、場合によって死んだりした人がいることを訴える人々をとにかく陰謀論者扱いすることも、それと同様に誤りだと思っている。科学的にワクチンと死者のあいだには有意な相関関係がないということが証明されたとしても、それはあくまでも統計的な処理を通じて有意な関係が発見されなかったことを意味するだけであって、ワクチンによって死者が一人も出ないことを意味するわけではない。実際単なるアレルギーでも死ぬ人もいるしね。たとえば、現在読んでいる『感染症の歴史学』(岩波新書)に次のようにある。「ワクチンの影の部分の一つが副反応で、二〇二二年九月初め、新型コロナの各種ワクチンの一回目から四回目の総接種回数が三億回を超える中で、副反応疑いとして厚生労働省に報告された有害事例は約三万件にのぼりました。死亡例も少なくなく、ファイザー製ワクチンでは一六六八件(一〇〇万回あたり七件)、モデルナ製ワクチンでは一八四件(同二・四件)、アストラゼネカ製ワクチンでは一件(同八・五件)、武田/ノババックス製ワクチンでは一件(同五件)の計一八五四件にのぼりました。これは、季節性インフルエンザの副反応疑い死の約一〇〇倍でした(同書65頁)」。いずれにせよ、むしろそのような個々人の訴えを通じて、何が問題だったのかを検証する機会が与えられるわけで、ワクチンの質の向上にも寄与するはず。それを陰謀論扱いしたら、そのような改善が得られる機会が失われる結果になる。『感染症の歴史学』の前述の記述の少しあとに次のようにある。「WHOの新型コロナワクチンをめぐる考え方も変化しています。二〇二三年三月末、ワクチンの接種指針を改定し、高齢者や既往症のあるリスクの高い人を中心に、六から一二か月ごとの定期接種を奨励するようになりました(同書65〜6頁)」。これはまさに「高齢者や既往症のあるリスクの高い人」という、免疫系等の機能が弱体化している人のワクチン接種頻度を減らすということであり、個々の症例の総合的な判断のもとに、WHOによるワクチン接種のあり方が改善されたことを意味しているように思われる。ただしこれは「改善」であって、一部のワクチン反対者(つまりマジもんの陰謀論者)が主張しているような、ワクチン接種という公共政策それ自体の廃止を意味するわけではない点に留意されたい。それからもう一点指摘しておきたいのは、これまでビッグファーマは世間の信用を失うことをやって来たことも忘れるべきではない。その代表例はサリドマイド事件だと思うが、あれってビッグファーマが有害性を認識していたにも関わらず、儲けのために販売し続けていたから犠牲者が増えたのよね(その辺のいきさつは、シッダールタ・ムカージーさんが、どの本だったか忘れたけど、最近の著書でかなり詳しく書いていた)。わかりやすいように再び飛行機事故の例にたとえて言えば、飛行機はたまに落ちて危険だから、その運用を全面的に禁止すべきなどと公的レベルで決定されることはあってはならないとしても、個々の飛行機事故は徹底して調査する必要がある。当然、将来同じような事故が起こるのを防ぐための予防策を講じるためにね。実際、個々の飛行機事故が徹底的に調査されても、事故を調査している人々や、その必要性を訴える人々(てかほぼすべての人々だけど)を陰謀論者扱いすることなどまずないよね。同じことは、ワクチン接種の副反応の問題にも当てはまる。
ということで「第二章 倫理学の歴史」に移りましょう。章題どおり倫理学の歴史が説明されていて、それに関して特にコメントすることはないので、一点だけ「倫理学の歴史」には直接関係のない点を指摘しておくことに留める。それは次の文章に関して。「今日でも人間本性が利己的か利他的かと論じる人はおり、しかも生物学的ないし進化論的に利他的行動が備わっていると論じる進化心理学者もいる。その錯覚は、生物の行動を個体において捉えるところにある(80頁)」。進化論的な観点から人間に利他的行動が備わっていると論じる進化心理学者の代表的な一人にわが訳書『社会はどう進化するのか』の著者デイヴィッド・スローン・ウィルソンさんがいる。でも、彼を含めその手の主張をする進化生物学者の多くは、個体ではなく集団に着目して、グループ選択を含めたマルチレベル選択を根拠にそのような理論を展開している。ところが進化生物学者のあいだでは、彼らがまさに選択の単位を個体ではなく集団に設定したことが批判の対象にされている。だから少なくとも「その錯覚は、生物の行動を個体において捉えるところにある」というくだりは事実誤認としか思えない。それはまあいいとしても、その段落の最後にある次の文章はいくらなんでも、哲学者の文章としては乱暴すぎるような気がする。「しかも、それ[人間には利他的行動が備わっているとする進化心理学者の考え]は裏返しに、利他的な行動をしないひとは淘汰されるべきだとする優生学を主張していることになるのではないだろうか(81頁)」。いや、いや、いや、そんなことを言いだしたら、遺伝学そのものが優生学の主張につながることになってしまうがな。だって遺伝学によってポジティブな形質を発現する遺伝子のバリアントが発見されたら、そのバリアントを持っていない人は淘汰されるべきという、あるいはネガティブな形質を発現する遺伝子のバリアントが発見されたら、そのバリアントを持っている人は淘汰されるべきという優生学の主張につながると言えることになるから。てか、その考えでは、ダイナマイトを発明したノーベル賞のノーベルさんは大悪党だったことになりまへんか? 確かに利他的行動の進化の説明には怪しいものがあるのは確かだろうし、また私め自身、進化心理学には下手をすると簡単に「なぜなぜ物語」に堕する危険があるとは思っているけど、だからと言ってこのような乱暴な批判が妥当だとは、とても思えない。むしろこういうことを言うと逆に言質を取られて、「だから観念をもてあそんでいる文系人間はアカンのや!」とか言われかねない。
ちなみにあとで取り上げることにも関係するので、ここで述べておくと、他の箇所にも進化心理学を批判する発言が散見されるので、著者が進化心理学に批判的なのは確かだと思う。でも進化生物学自体に関してどう考えているのかは正確にはわからない。ただ次のような記述がかなりあとにあるので、まさかキリスト教原理主義者のように全面否定はしないだろうとしても、おそらくあまりよくは見ていないようにも思える。「身体を、デカルトのように他の物体と同様なものとして捉えたり、進化論のように生物の身体の一種として捉えたりしていると、われわれは、われわれのこの身体が経験のただなかで果たしている役割を見失ってしまうだろう(188頁)」。確かに20世紀までの進化生物学にはそういう面があったのかもしらんが、21世紀に入ってからはたとえば遺伝と文化の共進化、さきほどあげたマルチレベル選択(進化生物学者のあいだで論争があることは前述のとおりだとしても)、あるいは進化生物学そのものではないとしても生物(身体)と心理と社会の相互作用という神経科学的、あるいは認知科学的な見方による補完など、進化生物学は単に「身体を、(…)生物の身体の一種として捉えたりしている」だけだとは思えず、著者のこの見立ては極論であるように思える。いずれにしても、なぜ私めにとってはそれが問題になるかというと、私めの「直観」の理解は、まさに進化生物学的な知見に基づくものなので、著者が進化心理学のみならず進化生物学それ自体まで批判的に見ているのであれば、私めの「直観」理解は、著者にとってはまったくナンセンスなものに映るはずだから。
さて次は「第三章 倫理学の根本問題」に参りましょう。この章では著者の提起する倫理学の根本問題がいくつか列挙されている。ただここでは、個人的に興味がある「直観(直感)」に関する記述がある第五の根本問題だけを取り上げるので、あとの問題についてはこの新書本を買って読んでくださいませませ。「5 倫理学は善なのか?」という節に、次のようにある。「世間日用の倫理においては、お年寄りに席を譲るのは善いことであり、相手が怒り出すような例外的なことがあっても気にはしないようにすべきであるということにはならないか。善かれと思ってしたことに反発されることはあるが、それならば謝れば善いだけのことなのだ。善は悪を含んでいて普通である。¶ところがそこに、しばしばあるひとたちが現われ、真に善であるのは善意なのか、相手の意志を尊重することなのか、結果的にひとの体を楽にさせることかなどと論争し始める。善悪の直感的判断に対して倫理的思考、「何が善くて何が悪いか」への問いが発動されるのであるが、かれらは{そうした思考それ自体は善いことなのかどうかについては考えてはいない/傍点}(155頁)」。こうして見ると上記の引用文中にある「あるひとたち」というくだりは、本の副題で言えば「学問(学者)」、オビの文章で言えば「哲学的倫理学(を専攻するひとたち)」であり、彼らの営む「倫理的思考」は「善悪の直感的判断」、すなわち本の副題で言えば「直感的善悪」、オビの文章で言えば「胸に手を当てて感じる善悪」に反しているということであるように読める。そしてそうした「倫理的思考」を営む人々「はそうした思考それ自体は善いことなのかどうかについては考えてはいない」として、非難しているように読める。その見方が正しければ、ここでは一転して「直感」が肯定的に評価されていることになろう。ならば、オビの文章は出版社の「見出し詐欺」ではなかったことになる。
「直感」という言葉は登場しないけど、さらに次のようにある。「しかし、倫理は、倫理学以前に、そして倫理学が存在しなくとも、すでに世間日用の倫理としてある。その世間日用の倫理をこそ主題とする倫理学が、学問の倫理によって「真の善」という、倫理とは別のものへと関心を移し、そこから反転して、{倫理は合理的でなければならないという倫理/傍点}(真の善は論理)を世間に無根拠に強制するようになる。¶学問には、論証によって真理を見出すべきだとの倫理が含まれるが、しかし{倫理的なものが論理的であるとはかぎらない/傍点}。論理によって倫理の{裡/うち}に真の善を見出し得るとはかぎらない。そもそも倫理が論証から成り立っているとはいえない。むしろ倫理は、言説としては不合理で矛盾に満ちている。どんな論証をするにしても、その最初の前提には根拠がない。{だから、倫理はある/傍点}。論証を引き出して、展開させるものこそが倫理なのだからである。したがって倫理学的探究において真の善が見出されたとしても、それが世間日用における倫理からすると悪であるかもしれないのは当然である。これが、倫理学の第五の根本問題である(156〜7頁)」。してみると本の副題にある「直感的善悪」とオビの文章にある「胸に手を当てて感じる善悪」という文言は、「世間日用における倫理」と同義だと思われる。個人的には普遍的な「道徳法則」とは異なる「倫理」は、すべからくして「状況倫理」にならざるを得ないと思っているので、ここに書かれていることは納得がいく。いずれにせよ、その基盤をなすのが、やはり「直感」ということになりそうだけど、この章では著者の言う「直感」とは何なのかはわからない。それがわかるのは次の「第四章 身体の倫理学の基礎づけ」なので、そちらに参りましょう。
第四章の最初のほうに、さっそく次のような記述がある。「従来の倫理学は、善悪というものを、個別的な事例の判断から普遍的な根拠としての超越的な真の善にまで延長しようとしてきた。G・E・ムアが、善悪は「黄色」と同様に直{観/傍点}されると述べたときも(『倫理学原理』)、かれはそれを普遍的なものとしての観念であると見なしていた。¶しかし、もし善が直{観/傍点}されるとしたら、すべてのひとにとって善は同一のはずである。ところが実際は「善いは悪い、悪いは善い」というように、一人ひとりが感じる善悪は、直{感/傍点}的であるだけに相対的であり、状況に左右され、とめどなくひっくり返されていく。ムアはそうしたものとしての善悪を「自然主義的誤謬(自然の経験に還元する誤謬)」として退けたかったのだが、――誤謬とされるのが筋違いであって――、「自然の経験」としての善悪こそが倫理学にとって重要なのではないだろうか(170頁)」。まず指摘しておくと、著者はわざわざ傍点を振って「直観」と「直感」を区別している。この文章を読むと、「直観」は普遍的、つまり誰もが同じものとして持つ能力、「直感」は相対的、つまり個人間で異なりうる能力であることがわかる。それから「「自然の経験」としての善悪こそが倫理学にとって重要なのではないだろうか」という最後の一文は著者の見解を示していると思うけど、ならば、倫理の肝は「直観」ではなく「直感」にあるということになろう。
著者は次に「直感」の起源を「身体」に求める。次のようにある。「直感は身体の状態によって変化する。超越的なものとしての善悪が直{観/傍点}されるのは精神によるが、世間日用の善悪が直感されるのは身体による(175頁)」。ここではまず私めの「直観」の定義を述べておきましょう。著者のように「直観」が普遍的なものであるとする点は同じ。ただし「普遍」のレベルが著者とは大きく異なる。著者は「超越的」だの「精神」だのという難しそうな哲学用語を使っているんだけど、そこまで大上段に構えて言う必要はないと私めは考えている。ではどう考えているか? ここに著者が嫌っていそうな「進化生物学」の知見が登場する。つまり人間や人間の祖先の動物が進化の過程を通じて獲得してきた一つの「能力」として「直観」能力を捉える。したがってほぼすべての人間に「(人類という範囲内で)普遍的に」備わっているのが「直観」能力だということになる。そしてこの進化の過程で獲得された「直観」能力は、遺伝のメカニズムを通じて世代を超えて受け継がれていく。「遺伝」というと、どうしても「遺伝情報」や「遺伝コード」などといった用語を思い出して、情報工学的に、すなわち抽象的、脱身体的に捉えられがちになる。でも実のところ、遺伝子は各身体細胞の染色体内にDNA塩基配列として備わっているのであり、しかもそれが身体の形質として発現するわけだから、きわめて身体的、あるいは身体性そのものだと言える。つまりこのような捉え方をすれば、著者のようにわざわざ「直観」と「直感」を分けて、前者を「精神」の領域に、後者を「身体」の領域に帰属させて、もっぱら後者だけを取り上げる必要はなくなる。ただしもちろん、このような進化生物学的、遺伝学的な捉え方を却下するのであれば話は別だけどね。だから著者が進化生物学をどう捉えているかは、少なくとも私めにとっては非常に重要だと言ったわけ。
新書本に戻りましょう。著者は次のように述べている。「人間精神の発生する現場を身体経験の{裡/うち}に探究する哲学こそが倫理学と呼ばれるべきである(175頁)」。言い切りましたね。次に「哲学者」「身体」とくれば必ずしゃしゃり出て来るメルポンさんが期待にたがわず登場する。そう言えば著者の船木氏は、だいぶ前に同じちくま新書から『メルロ=ポンティ入門』という新書本を刊行していたよね。それも読んだことがある。メルポンについては必ずや別の機会に取り上げることができると思うので、ここではスキップする。また、次に前近代と近代の身体観が説明されているけどそれもスキップして「3 言説としての倫理」という節までワープする。その冒頭に次のようにあり、もう一度著者の見方が再確認される。「身体という概念を、「人体」としての視覚表象や、病院で与えられる臨床的身体に還元することなく、宇宙をも反映するわれわれの生の経験の窓口のようなものとして捉え、倫理学をそうした身体のうえに基礎づけなければならない(191頁)」。それから、やや飛ぶけど次のようにある。「思考しているときに生じてくる言葉の列としての言説は、それ自身の動機と秩序とをもっている。思考は理性の仕事であるから、冷静であって情念(個人的受動的な感情)は関わらないと考えられているが、理性的推論を遂行するのは、夢中になってパズルを解くのと同様の情念である。その情念に{囚/とら}われた結果、当初の問いの目指していたものが忘れられ、公式や図式や表や一覧や見取り図や鳥瞰図や系統樹や曼荼羅のようなものが、その問いの答えに取って代わる。¶それらは、問いの答えではなく、言説によって生産された「理論」に過ぎない。現象学が教えているように、理論は、記述されたものではなく、構築されたものである。知覚された諸経験を透視するかのようにして構想された機械の見取り図ないし設計図にすぎない。それがもし政治的目的のために与えられるのであればイデオロギーであり、宗教的目的のために与えられるのであればドグマである(204頁)」。まさに理性的思考、というか「自分が理性的思考と考えている能力」は、政治的イデオロギーや宗教的ドグマに乗っ取られやすい。理性的であるはずにもかかわらず、そうなってしまうのはなぜか? 著者は「情念」のせいにしているけど、個人的には「情念」あるいは「情動」のせいというより、そもそも人間の合理性(ここではあえて「理性」という言葉を用いないことにする)は、生存や生活に直接的にかかわるものごとに対応するために、進化の過程で獲得されてきたものであって、政治的イデオロギーや宗教的ドグマのような人類が登場してからここ数千年のあいだに人間が発明したものに対して対処する能力ではないからだというものになる。むしろ私めが言う意味での直観や、情動のほうにこそ合理性は宿っているのですね。それは私めが勝手気ままに主張しているのではなく、ここでは詳細に述べないけど、先に上げたメルシエ&スペルベルの認知科学、あるいは情動に関して理性的ではないとしても認知的側面を認める、先にあげたジョセフ・ルドゥーや、わが訳書『情動はこうしてつくられる』のリサ・フェルドマン・バレットの考えに依拠してそう考えているわけ。この点を誤解して、自分は政治的イデオロギーや宗教的ドグマに取り憑かれていながら「理性的思考を完備したエリートたる、俺の言うことを信じないヤツはバカだ」みたいな言説をネットで垂れ流している輩は多い。あとで述べるけど、最初にあったネット空間の問題の原因の一つは、このような勘違い平行棒が幅を利かせていて、それを多くの人が見破れないことにあると思っている。なぜ見破れないかについては、あとで述べる際に一緒に説明する。
次の「4 意識の受動性」では、「身体とは切り離し難いものとしての倫理の考察(206頁)」がなされている。最初に「意識」や「無意識」という概念が、ロックやらライプニッツやらフロイトやらによっていかに定式化されてきたかが説明されているけど、そこに関して特にコメはないので、「5 能動性の経験」という節まで、例によってスキップする。その最初の部分で有名なベンジャミン・リベットの実験に言及しつつ、次のようにあるのは非常に気になった。「脳科学が、精神の原因が脳であると主張するためには、脳の機構によって説明される精神活動を心理学的内容とは別に、独自にそこに見出さなければならない。脳の活動の結果として観察されるものは生理学的現象でしかないのだから、それがどのようにして意識内容に変換されるかについての実証的理論が与えられなければならない。さもなければ脳と心理学的内容については「相関性」をしか見出せないのである(216頁)」。まず一点指摘しておくと、この文章に登場する「精神」は、少し前の引用文中に出てきた「超越的なものとしての善悪が直{観/傍点}されるのは精神による」という場合の「精神」とは違って、単に「心」を指しているのではないかと思われる。だから216頁の文章にある「精神」は、「心」や「心的」に読み替えたほうがわかりやすいと思う。ただちょっと気になるのは、前述した進化論に関してもそうだけど、著者の参照している(脳)科学は少々古くありませんかという印象を受けざるを得ないこと。今の脳科学者で、リベットの実験のような、リベット本人ですら「心の原因が脳である」ことを示唆するものとして受け取られることを嫌っていた実験結果をもとに、「心は脳の働きから生じるにすぎない」と還元主義的に考えている人など、多くはいないのではないだろうか。心と生物(身体や脳を含む)と社会が、脳の可塑性や、それに基づく学習のような事象を通じて、複雑に相互作用することで、心は機能していると考えているのが普通だろうと思う(ブザーキはそのもっとも典型的な例だと思うが、先のバレットを含め他にいくらでもいる)。それどころかわが訳書で言えば、『脳はいかに意識をつくるのか』のゲオルク・ノルトフ氏は、ドイツ出身の脳科学者兼現象学者であって、著者が先の引用で言及していた「現象学」と脳科学を統合しようとしている(ちなみに、近いうちにわが訳でノルトフ氏の小著新刊の訳書が出ますとステマしておきますら)。あるいは同じくわが訳書で言えば『進化の意外な順序』のアントニオ・ダマシオ氏は脳科学者だけど、よく知られているように「身体性」を非常に重視している。
もちろん現在でも徹底した還元主義的言説を弄する科学者もいるにはいる。去年読んだ、ロバート・サポルスキー著『Determined: A Science of Life without Free Will』(Penguin, 2023)はその典型だと言える。ちなみに『Determined』は、最近NHK出版からようやく邦訳が刊行された『善と悪の生物学』(こちらの原題は『Behave: The Biology of Humans at Our Best and Worst』)とは別の、去年(二〇二三年)刊行の最新刊であることに注意されたい。この本では徹底的な科学的還元主義によって、ラプラスの宇宙論ばりの自由否定論、責任虚構論が繰り広げられている。ただそれについては同じちくま新書から刊行されている『人が人を罰するということ』を取り上げたときに述べたのでそちらを参照されたい。いずれにせよ、ここで言いたいのはそのような科学者は例外中の例外である(と個人的には思っている)ということ。だから、私めはその直後にある、同書のサポルスキーなら徹底的に否定するであろう次のような指摘には全面的に同意する。「意識には、みずから判断し、行動しようとする能動的な経験がある。その経験も受動的だと否定しようとするにしても、その否定自体は能動的なのではないだろうか(217頁)」。ちなみに類似の自由否定論、責任虚構論批判は、『人が人を罰するということ』にもあった。
確かにリベットの実験は一時期もてはやされたことがあったとはいえ、ミラーニューロンや右脳左脳の一件と同様、もてはやしていたのはおもに科学ジャーナリストやメディアであって科学者は慎重な態度を取っていた、あるいは少なくとも現在では取っていると思う(ミラーニューロンの件では発見者の一人、リゾラッティだったかが政治的に立ち回ったみたいなことも言われているようだけど、それは例外だと思う)。たとえばリベットの実験に関して言えば・・・、と言いかけたけどあとで干されそうだからやめた。私めはポピュラーサイエンス系の翻訳者なので、あちゃらで新しく刊行されためぼしいサイエンス本はできる限り読むようにしている(ただし科学ジャーナリストが書いた本は除く)。でも、今さらリベットの実験に言及している本など、歴史的な事実に関する記述以外では、否定的であってすらほとんど見かけない。ましてリベットの実験を肯定的に引用している科学者など皆無と言っていいように思える。肯定的にせよ否定的にせよ、見かけるとすれば、この新書本の著者のように日本の文系の学者先生が書いた本だけなんだよね。なので「周回遅れでないかい?」と言いたくなるわけ。まあ、逆に、科学者が書いた本で、文系の学者先生が書いた本の意図を明らかに誤解しているなと思うこともときにあるので、お互い様と言えばお互い様だけどね。
さて著者はその後、能動性や意識に関する独自の考えを述べて倫理に結びつけていくんだけど、正直なところ私めにはよくわからなかった。なので「倫理」という用語が現れる箇所を抜き書きしておくので、各自で読んでみて下さいませませ。次のようにある。「精神が身体とは別の次元において善悪の観念を受け取るとはいい難いにせよ、過去の朦朧としたものが現在の意識において推論されて能動性の経験が生じ、判断や行動の善し悪しが思考される。そこに意志と呼ばれる経験があり、それによって倫理的主体としての善悪の判断や行動に意味が生じるようになる(234頁)」。ならば「意志」が倫理の基盤になるのかと思いきや、それに疑問符をつけるような記述が次に続く。その後「倫理」が登場する箇所には次のようにある。「意識は、科学技術も含めて、朦朧としているときの事故や災害から身体を保全し、病気や飢餓を避けるために生じてくるように思われる。そればかりでなく、人々のあいだで傷つけられることなく、むしろそこから名声や金銭や権力を獲得するために生じてきたに違いない。とすれば思考する、すなわち朦朧としているあいだに起こり得る人間的出来事の諸可能性をあらかじめ推定しておくことが望ましい。倫理学の意義もそこにありそうである(237〜8頁)」。う〜〜〜ん。皆さんはどう思われるでしょうか? 私めにはコメのしようがない。ただ「倫理」という言葉は登場しないけど、次の記述には同意できる。「合理的でない行動とは、身体が十分に統合されていないのに引き受けられた行動のことである。合理的な行動とは、意識が明晰であるかどうかとは別に、当該の行動に関して自分の身体が行動のそうした条件を与えてくれるように準備されているかどうか、行動を成功させるために必要な身体の統合がどのようなもので、どの程度の水準であり、自分の身体の統合がそれに適合するかどうかということが正確に判断された行動である(247頁)」。これはまさに合理性に関して私めが「生存や生活に直接的にかかわるものごとに対応するために、進化の過程で獲得されてきたもの」と言ったこと、また「そのような能力は遺伝の仕組みによって受け継がれ、身体の形質として発現するのだからきわめて身体的、あるいは身体性そのものだと言える」と言ったことに整合する。ただし著者はそのような進化生物学的、遺伝的な説明は却下して、学習(と、あとで「習慣」という概念が出てくる)だけで説明しようとするのかもしれないが。もちろん学習も重要だけど、その学習(や習慣的な行動や動作)を可能にしている脳の可塑性などといった能力も、生物が長い進化の過程を通して獲得し洗練させてきたものだしね。
いずれにしても、「{意識が明晰かどうかということと、合理的に行動できるかどうかということを同一視してはならない/傍点}のである(248頁)」という主張には一〇〇パーセント同意できる。ちなみにこの見方は、最初の方で取り上げた神経科学者ジョセフ・ルドゥーの説、つまりカーネマン流のシステム1(無意識的、直観的)とシステム2(意識的、理性的)という二項区分では不十分であり、システム1(非認知的で無意識的)とシステム2(認知的で無意識的)とシステム3(認知的で意識的)という三項区分によって捉えるべきだとする説にかなり近いように思われる。さらに次のようにある。「意識の明晰さのもとで言説に依拠した思考における理性に対して、自分の身体の統合度と、行動にどの程度の統合度が必要かを判断する別のタイプの理性が必要である。合理的であるためには、(…)行動の目的だけではなく、それに連関しそうな多様な対象を同時に知覚しながら、それらがそれぞれに行動の条件になるか障害になるかと絶えず判断し、身体にとってとりあえず可能なひとつの行動に関連づけて、その行動を開始させる「{ぼんやりした/傍点}意識」も必要なのである(249〜50頁)」。この引用文中にある「別のタイプの理性」や「ぼんやりした意識」は、私めのいう「直観」(著者の定義する「直観」ではない)に近いように思える。「直観」に関する私めの見方は、著者が毛嫌いしていると思しき進化生物学や脳科学、あるいはメルシエ&スペルベルらの認知科学から得たものなのですね。だから余計にそれらの科学に対する著者の態度は残念に思えて仕方がない。むしろ著者の論を補強してくれるはずのものなのだから。
さらに「7 習慣」という節の冒頭に、次のような「倫理」という言葉が含まれる記述がある。「身体の統合度の水準を高めるものとは、ただ一語で述べるなら「習慣」である。行動を成功に導く理性もまた、ヒュームが述べていたように習慣のひとつである。そして倫理がどのようなものかを理解するのに最も重要なものとは、習慣である(251頁)」。フムフム、「習慣」が倫理の理解のカギになるらしい。ちなみに著者の言う「習慣」とは、「ひとが特に意識しなくても反復して行うようになるすべての行動および動作(251頁)」を指すらしい。そしてラヴェッソンという一九世紀のフランスの哲学者に言及したあとで次のように述べている。「{習慣とは、獲得されるときには新たな生活を可能にする自発的な行動でありながら、反復されることによって意識されなくなり、自動的なものになるといった行動である/傍点}。そこで起こっていることは退行なのではなく、人間精神を可能にした自然の自発性に人間が付け加わることだと[ラヴェッソンは]いうのである(260頁)」。これを読んだ私めは、「遺伝子と文化の共進化」という最近の進化生物学の考えにきわめて近いと思ったところ、ここまでは進化科学に否定的なことばかり述べてきた著者が「このことは、その後に現われた進化論に参照するならば、次のような意味になると思われる(260頁)」と書いていた。そこにはさらに次のようにある。「進化のきっかけが地域的隔離や性淘汰、さらには突然変異などに見出されてきたが、子孫の生存可能性は、その種の諸個体がどのような習慣を持つかによって変わるはずである。獲得形質は遺伝しないとはいえ、(…)新たな習慣を形成する個体が生まれ、生き残るのに有利な習慣とそれに都合のよい形態を共有した個体群こそが、同類の個体群から別れて新たな種へと進化していったのではないか。遺伝子が変わったから変化したのではなく、(…)そうした習慣を持つのに都合よい形態を規定する遺伝子が{結果として/傍点}残っていったのではないだろうか(261頁)」。
「ない(だろう)か」も何も(著者はどうも文章の最後を疑問形にしながら疑問符は付加しないで、言説をややあいまいにするというレトリックをけっこう多用している)、次に述べるように習慣とは文化の持つ要素の一つと見なせるだろうから、ここに書かれていることは「遺伝子と文化の共進化」の考えに近いと見なせる。もちろん、「習慣」それ自体は個人の行動に関するものであって集団的な文化に関するものではない。しかし著者自身、少しあとで「習慣は模倣にはじまり、{躾/しつ}けられ、訓練され、教育されるがゆえに、集団において共通したものとして「慣習」と呼ばれるものとなる(261頁)」と書いているように、個人的な「習慣」と集団的、文化的な「慣習」は緊密に相互依存する。卵か鶏かの話にもなりそうだけど、先に「慣習」があってこそ、「習慣は模倣にはじまり、{躾/しつ}けられ、訓練され、教育される」ことが可能になる。当然ながら、有名なチンパンジー?の観察報告で、最初に一頭の個体がイモを洗う習慣を獲得したあとで、その習慣が集団内で伝播して、やがてイモ洗いという集団の慣習が確立していったという話があるように、最初は一個体の「習慣」として始まったものが、二個体目がそれを「模倣」して自己の習慣とし、やがてはその習慣を「模倣」して獲得した多数の個体が、まだ獲得していない少数の個体を「躾け、訓練し、教育していく」ことで慣習がより強固になっていくというような推移があるのは確かだと思う。いずれにせよ、かくして集団的、社会的、文化的な「慣習」が成立することで「新たな習慣を形成する個体が生まれ」て、「生き残るのに有利な習慣とそれに都合のよい形態を共有した個体群こそが、同類の個体群から別れて新たな種へと進化して」いき、「そうした習慣を持つのに都合よい形態を規定する遺伝子が{結果として/傍点}残っていった」のですね。だから著者のこの文章は、独自のあり方ではあれ、「遺伝子と文化の共進化」を説明したものと見なすことができる。
少なくとも2010年代以後の進化生物学は、単に遺伝子だけに焦点を絞っているのではなく、文化との絡みで進化を捉えており、著者が考えているであろうような還元主義に陥っているわけではない。だから著者が参照している科学は少し古すぎませんかという主旨のことを言ったわけ。現代の科学は十年もあれば大きく変わりうるしね。そのことは次のような記述に如実に見て取れる。「先に進化論が形態ばかりを見て行動を見ないと述べたが、同様にして、進化論は個体ばかりを見て群れを見ないと述べなければならない(264頁)」。「あの〜、いつの進化論の話をしているんでしょうか?」と言いたくなってしまう。前述のとおり、群れを見ている進化生物学者が個体しか見ていない進化生物学者に批判されているのは確か。とはいえ現時点ではどちらが正しいかに関するコンセンサスは得られていないのであって、進化生物学者の誰もが群れを見ていないというわけではない。また形態ばかりを見て行動を見ていないというからには、「遺伝子と文化の共進化」を提唱する、たとえばリチャーソン、ボイド、ヘンリックらの業績を知らないのかなと思わざるを得ない。また進化論ではないけど生物と心と社会の相互作用を強調する脳科学者は、ブザーキを始めとして行動を介したフィードバックループを重視している。残念ながら、進化生物学や脳科学の件に関してだけは、哲学者がひとり相撲を取っているようにしか見えない。先の引用箇所に「公式や図式や表や一覧や見取り図や鳥瞰図や系統樹や曼荼羅のようなもの」という表現があったけど、このしつこさには怨念さえ感じてしまった。最後に「曼荼羅」などという宗教的な用語が使われているのにも悪意を感じてしまう。
まあそれは本題には直接関係ないのでそこまでとして、「8 倫理的思考」という節で、倫理に関してここまでのまとめと思しきことが書かれている。次のようにある。「倫理とは人生の意味であり、それは思考の地平線である。人生(人の生)は、誕生から死までの時間のことではない。それは意味の湧出する源泉である。そこにおいて、善と悪とを生成するロゴス、群れ集団と個の意識のダイナミクスが倫理である。倫理のもとでしかひとは人生を思考することはできないし、人生は倫理を探究する旅のようなものである。「なぜこのようであって別のようではないのか?」――ぼんやりとした意識にも、直感しただけの善悪にも、目的なく過ごす人生にも意義がある(267頁)」。こうして見ると、著者はやはり道徳に関しても「直感」を肯定的に捉えていることがわかる。ただし、「それならなぜ著者は最初にネットの問題を取り上げて「直感」を否定的なものとして見なしているように取られる文章を書いたのだろうか?」という点は謎のまま残っている。率直に言って、この問いの答えは私めにはよくわからん。ただ個人的な考えを言わせてもらえば、ネットで飛び交っている言説(と言えるほどのものでもないのかもだけど)のほとんどは、政治的イデオロギーや、宗教的ではなかったとしてもさまざまなドグマに捕らわれている。私めが言う意味での「直観」は、そうしたここ数十世紀のうちに人類が発明したイデオロギーやドグマには無力なのですね。だからたとえばとんでもない陰謀論が、拡散されてしまうわけ。何度か他の本を取り上げたときに引用しているけど、ヒューゴ・メルシエ氏は、先にあげた『人は簡単には騙されない』の「第11章 循環報告から超自然信仰へ」で次のように述べている。「人びとは宗教的信念を受け入れ、それをあたかも自分で見たり実践したりしたかのごとく語るようになるが、忘れてはならないのは、あらゆる信念が認知的に同様なあり方で作用しているわけではないという点だ。宗教的信念は直観的であるより反省的である場合が多い。ここで思い出してほしいのだが、反省的な信念は推論メカニズムや行動を志向するメカニズムの一部と相互作用するにすぎない。ほとんど特定の心の部位に包摂され、直観的信念のように心の中を自由に徘徊することができない(同書233頁)」。ここでは宗教的信念に的が絞られているけど、同じことは政治的イデオロギーにも当てはまる。
ということで、最後に本文の最後の文章を引用しておきましょう。次のようにある。「倫理学の真の主題は、どのタイプの言説を通じて倫理的解決へ向かうべきかというところにあるのではない。理性という習慣を活用して、時間把持を永遠性に措く仮定のもとで問題を解消してみせることではない。倫理学の真の主題は、言説以前の倫理的問題をあきらかにしつつ、言説による解決において起こっている事態を解明するところにあるのであって、それを宗教や政治や経済や法律から切り離して、言語表現へもたらすところにあるのではないかと思う(274頁)」。これはここまでの錯綜した議論の流れと違って、かなり明瞭だし、言わんとしていることにも同意できる。総括すると、特に最後の第四章にややわかりにくい箇所はあったし、何度も指摘したように科学に対する著者の態度がどうにも偏っているように思える。もちろん本筋にはあまり関係ない部分だし、哲学者だけに科学至上主義や、還元主義に対してものを申したいと言うことなのかしれない。科学至上主義の問題については『創造論者vs.無神論者』を取り上げたときに、新無神論者の四騎士をめぐって個人的な見解を述べたことがあるので、ここでは繰り返さない。いずれにせよ、これが倫理学の一般的な見解なのかはと〜しろ〜の私めにはよくわからんけど、一般的な見方からすれば逆張り的なところもあっておもろいし、とりわけ大上段から偉そうに「これが正しい倫理だ!」と言われることを嫌う人なら、一度読んでみる価値はあると思う。
※2024年3月20日