◎太子堂正称著『ハイエク入門』(ちくま新書)
最初にまずお報せから。これまで引用文は「」で括って示していたけど、引用文中にも「」が出現することが多々あり、どこまでが引用なのかがわかりにくいケースがあるので、今後は引用文中で出現することがめったにない≪≫で括ることにした。悪しからず。なおこれまで書いたものについては、面倒っちいので直さない。
さて、このかなりメタボっている(450頁くらいある)新書本の著者は「太子堂正称」という名前らしい。この苗字には、苗字オタクが随喜の涙を流しそうだよね。それはどうでもいいとして、銀河系一の経済音痴の私めでもいちおうハイエクは『隷従の道』と、もう一冊けっこうごつい本(タイトルは忘れてもた)をいずれも英文で読んだことがある。というのもハイエクには経済学的な一面と思想家的な一面があって(この新書本によると『感覚秩序』という心理学的、神経科学的な著作もあるらしいがそれは読んだことはない)思想家としての側面に大いなる関心があったから。ハイエクの魅力は、経済学者ながら経済学のみならず他のさまざまな分野の知見を駆使する学際的なアプローチが顕著に認められる点にあると思っている。その点は新書本でも、「はじめに」で次のように指摘されている。≪さまざまな領域を縦横無尽に横断するハイエクの思想は、{浩瀚/こうかん}な知識に裏打ちされていると同時に、互いに対立し錯綜する同時代の思想家や研究者たちの言説の複雑な網の目が複合的、重層的に折り重なる地点に成立している(第4章)。その点に彼の独創性の源泉がある(9〜10頁)≫。
それに続いて著者は、この新書本の特徴を三点指摘しているので指針としてその箇所を引用しておく。第一点は次の通り。≪これまでのハイエク研究はそれぞれの学問領域にわかれる形で各テーマが議論され、そのうえで相互交流が図られてきた傾向にある。だが本書では、敢えて蛮勇を振るう危険を恐れず、個別の専門書でなければなかなか触れられない彼の経済理論や心理学、法哲学、政治思想等の詳しい内容について大きく章を割いている。¶そもそも、私が専門とする経済哲学(思想)や社会思想はきわめて領域横断的であり、上記のさまざまな分野にまたがりつつ隙間を埋めるという架橋的な性質を持っている。それによって、ハイエクの思想が名実ともに総合的な社会科学であることを示したい(10頁)≫。ということなんだけど、先に述べたように私めは銀河系一の経済音痴なので、経済に関する記述はここでは基本的に取り上げないことにする。「え? 経済学者を扱う入門書なのに、経済に関する記述を無視するってか?」と非難されそうだけど、個人的には思想家としてのハイエクに興味があるので悪く思わないでおくんなまし。というか、その点を残念に思った人はぜひこの本を買って読んでみてみて。
第二点は次の通り。≪ケインズをはじめとするさまざまな魅力的なライバルたちとの論争や対立点を可能な限り詳細に描こうと努めた。そこには数多くの社会主義者たちや、生きた時代は異なれども、ハイエクが全体主義の起源としての「偽の個人主義者」と批判したフランスの思想家ルソーなども含まれる。その過程で私が留意していたのは、単にハイエクを持ちあげてライバルを{貶/おとし}めることではない。むしろ、これまで水と油と思われてきた論者たちとの隠れた共通点を探究すること、少なくとも、論争にあたって共有されていた思考の枠組みや時代背景を強調することであった(10〜1頁)≫。社会主義やルソーについては他の本を取り上げたときに何度か言及してきたので、本書ではそれらについて触れられている箇所はスキップする。ところで、ケインズとハイエクという二〇世紀を代表する二人の経済学者は水と油の関係にあると考えられてきたように思える。でも、『ケインズ』(岩波新書)を読んだときに、むしろ二人には共通点がありそうに思えてきたことを覚えている(ただそちらの新書本にはハイエクに関する記述はなかったかも)。ケインズとハイエクに関しては「第2章 ケインズとハイエク」を取り上げる際にやや詳しく述べる。
さて第三点は次の通り。≪誤解や曲解が流布するハイエク像を刷新したいという意図がある。しばしばハイエクについては、「新自由主義」や「グローバリズム」の{首魁/しゅかい}といった非難がなされる。(…)しかし、基本的にそれらは全くの誤解である。ハイエクは市場を「自由放任」の場とも「万能」とも全く捉えていなかったし、むしろそうした理解に対する強力な批判者であった(第3章)。また、これも意外に思われるかもしれないが、彼は既存の福祉国家を批判しつつ、「国民最低限保障」としての福祉政策の擁護者でもあり、それを「自由の条件」の一環と捉えていた(11〜2頁)≫。先に述べたように『ケインズ』を読んだときにはケインズは意外にハイエクに近いところもあるのだなと思ったのに対し、『ハイエク入門』では、逆にハイエクが意外にケインズに近かったことがわかるのかも。
また、この新書本の通奏低音をなすハイエクの思想をまとめた次の指摘を、重要なので引用しておきましょう。≪ハイエクは、理想的な社会を普遍的な理性によって構築するという考え方を「設計主義」と呼んで生涯にわたって批判した。自由を擁護するルールであっても、それは基本的に理性によって演繹されたものではなく、所有権の絶対性やそのなんらかの本質を称揚するものでもない。ルールそのものも時代や社会によって変化しうる、あくまで慣習を基盤としており、それに従って継続されていること自体に意味がある。こうした「合理主義」への批判はハイエクの思想の大きな特徴でもある。¶ハイエクをなんらかの単一の価値基準のもとに世界の一元化を目指す「グローバリズム」の主唱者と捉えることは正しくない。むしろ第5章や第6章で述べるように、彼は政府権力の増大にきわめて批判的であると同時に、先進諸国の文化的価値をその他の地域に無批判に適用することで、それぞれの多様性を失わせてしまうことに重大な懸念を示している(14頁)≫。要するにハイエクはトップダウン思考に疑義を呈しボトムアップ思考を推進したとも言えるように思える。この新書本を読むと、「トップダウン」や「ボトムアップ」という言葉自体は数回しか使われていないとはいえ、ハイエクがボトムアップの思想家であったことがよくわかる。その点に留意しながら、この新書本を追っていくつもり。ここでは詳細には述べないが、そもそも現代における「理性」の理解は根本的に誤っていると個人的には考えている。啓蒙の弁証法という問題が生じるのも、近代以降における理性をめぐるトップダウン的な理解が完全に的はずれだからだというのが私めの考え。ルールが≪慣習を基盤としており、それに従って継続されていること自体に意味がある≫という考えは、まさに保守主義的な見方の真髄であり(ただしこの新書本によれば、ハイエクは保守主義を批判していたらしいが、その問題については最後に取り上げる)、人間社会は基本的にボトムアップに構成されるべきだという考え方を取れば、保守主義的にならざるを得ないのだろうと思う。それに対してトップダウン思考は断絶を前提とし、分裂を助長する見方だと言えるかもしれない。つまりトップダウンに人間社会を構成しようとするから、上級国民/下級国民などといった分断が生じてしまうのですね。かくしてボトムアップ思考を擁護するハイエクが、トップダウンに≪世界の均一化を目指す「グローバリズムの主唱者」≫であるはずはない。彼がグローバリズムによる各国の多様性の破壊を懸念するのも当然のことなのですね。基本的にボトムアップ思考に基づくべき多様性を叫びながら、トップダウン思考に依拠する国境のない世界を理想とするのは矛盾でしかない。
ということで、ここから本編に入る。ただし若かりし頃のケインズに関する伝記的な記述が続く「第1章 若き日のハイエクとその知的伝統」と、経済学的な説明が続く「第2章 ケインズとハイエク」の多くはスキップする。ただし第2章に関しては、ケインズとハイエクの共通点を指摘した最後のほうの箇所はやや長めに引用しておく。次のようにある。≪(…)世界恐慌や二度の大戦を経て荒廃はしたけれども、両者[ケインズとハイエク]が守りたいと思っていたものそれ自体はそれほど違ってはいなかったことも確かである。それは歴史のなかで生み出され培われてきた自由やそれにともなうさまざまな権利、さらには寛容といった近代的価値、あるいはなんらかの意味での崇高さ、そしてそれらを含む文明といった理念である(間宮 2006)。¶もちろん、それらも歴史性という限定を免れず、絶対的・超越的なものではないことも確かであろう。フランクフルト学派に属する同時代の高名な思想家マックス・ホルクハイマー(1895-1973)とテオドール・アドルノ(1903-69)は『啓蒙の弁証法』において、そうした近代的理念を追い求める過程そのものが、殺戮を含む数多くの悲惨な出来事をもたらしてきたと批判した。彼らが言うように、近代はつねに「野蛮」へと回帰する可能性、あるいは近代そのものが「野蛮」である可能性を持っており、それは大戦後も終わることなく今に至るまで続いているといえるかもしれない。¶しかしそれでもなお、たとえそうした「野蛮」な歴史のなかで形成されたものであろうとも、不確実性の渦のなかで翻弄されながらも、虚無主義や相対主義に陥ることなく、近代を支える理念の重要性をケインズとハイエクは説いた。「科学」や「芸術」といった「知」だけでなく、日常を支える理念を守ろうとする意志が両者の主張に表れていたことは間違いない(123〜4頁)≫。≪日常を支える理念≫とあるように、二人は、「日常」のほうが「理念」を支えなければならないと考え、理念に現実を合わせようとする(革命はその極端な事例だと言える)トップダウン思考者のように「理念」を「日常」に先行させたわけではない。この点は、肝に銘じておくべきでしょう。啓蒙の弁証法のような近現代が野蛮に回帰する状況がもたらされるのは、先に述べたように、そもそも「理性」をトップダウン的に捉える思考様式が根本的に間違っているからなのですね。ハイエク(やケインズ)がその罠にかかっていないのは、彼(ら)がボトムアップに社会を捉えていたからだろうと思う。理念に現実を合わせようとするのですね(革命はその極端な事例だと言える)。
ところでハイエクと同様、ケインズが「理念は日常を支えるためにある」と考えていたことは、冒頭で言及した『ケインズ』を読んでもわかる。ここではこの新書本から一箇所だけ引用しておく(もっと詳しく知りたければ、『ケインズ』もわがお薦め本なのでそちらを参照されたい)。次のようにある。≪革命は、ウェルズが言うように時代遅れである。というのは、革命というものは個人的な権力に反抗するものだからである。今日のイギリスには、個人的権力を持つ者は誰もいない。(…)共産主義は、一九世紀が最適な経済的効果を組織するのに失敗したことに対する反動ではない。それは、その比較的な成功への反動である。(…)理想主義的若者は、共産主義と共に行動する。というのは、それがただ一つ、彼らに現代的と感じさせる精神的アピールをもつがゆえに。しかしその経済学は、彼らを悩ませ、困惑させる。ケンブリッジの学部学生が、ボルシェヴィズムへの避け難い旅路を辿る場合に、それが恐ろしく快適でないのを見出したとき、彼らは幻滅するだろうか? もちろん否である。それこそ、彼らが探し求めているものだから(同書185〜6頁)≫。この文章に対して私めは次のようにコメントした。≪政治とは中間粒度の安定を保つために、さまざまな条件に鑑みて現状に合った最善の手段を考案し実施することであって(そこには妥協も必要になる)、特定の理念や理想をトップダウンに適用することではない。絶対王制を倒すためには革命が必要だったことは認めるとしても、国政レベルで革命家が政治家として居座るととんでもないことが起こることをその後の歴史が証明している。フランスしかり、ロシアしかり、中国しかり。現代の日本にもそのことがまるでわかっていない政治家や自称知識人があまたいるように見受けられる。まさにケインズに学ぶべきだと思う≫。
ということで次は「第3章 ハイエクの「転換」」。まず次のくだりを引用しておきましょう。≪ルーカス[合理的期待形成学派の経済学者]が、経済主体はみな自身の行動に必要な「完全情報」、あるいは将来を見通すことのできる「完全予見」の能力を持ち、それにもとづく将来への「期待」や予測もその名の通りすべて「合理的」であって誤差は確率的ショックに過ぎないと考えたのに対して、ハイエクの市場観には、そうした「合理的個人」という想定への鋭い批判がある。むしろ、どこまでいっても不完全な知識しか持ち合わせていないそれぞれの経済主体や人間、企業の行動が、価格というシグナルを通じて初めて調整され利用可能になるというプロセスについて彼は独創的に論じた(135頁)≫。市場が必要なのは人間が合理的に行動するからではなく、非合理的に行動するからだとハイエクが考えていたのは、よく知られたことだよね。その意味では、現代の行動経済学に近い見方を取っていたとも言えそう。だから次のような考えになる。≪二人の優秀な人物が「完全予見」の能力を持っていたとしても、その結果は最適な均衡解には至らず、永遠の堂々巡りとなることもありうる。むしろ市場とは、そもそも能力に限界を持った人間が、それゆえにこそ新たな場所へと到達する道筋なのである。完全に合理的な人間に市場は必要ない(139頁)≫。ボトムアップ思考で市場を捉えれば、このような見方になるのは当然でしょうね。それに対して合理的期待形成理論などの経済理論は、トップダウン思考に囚われていなければ出て来ないはず。
次に新古典派経済学が拠って立つ一般均衡理論と、市場や競争に関するハイエクの考え方の違いが三点ほど説明されているのでそれを取り上げておきましょう。一点目は次の通り。≪彼[ハイエク]が第一に強調するのは、経済活動に当たってその参加者が持っている情報や知識とはあくまで「個人的」かつ「局所的」に「分散した」、いわば現場のものであり、客観的事実としては捉えることができないということである。(…)消費者として商品を購入する際も、個人にしかわからない主観的な判断にもとづいている。そのように、客観化されたデータやマニュアルとして語ることのできる知識は全体のほんのわずかな、いわば氷山の一角にすぎない(152〜3頁)≫。これに関しては、のちに取り上げられているマイケル・ポランニーの暗黙知の考えにも通じるものがある。二点目は次の通り。≪「均衡」そのものについての考え方の違いがある。ハイエクは、需要と供給が一致し理想的な状態へと達する「均衡」という概念を完全に放棄したわけではない。ただ少なくとも一般均衡理論のように、それを計算の結果としての固定的・静的な状態であるとはもはや考えず、次の均衡への移行のための一時的なもの、あるいは均衡へと向かう「傾向」に過ぎないと捉える(153頁)≫。三点目は一点目と二点目にも関係しそうだけど次の通り。≪市場とは、一般均衡理論が想定しているような、明示化された情報を元にしたたんなる計算のための機械的あるいは道具的な存在ではなく、時間の経過を通じたダイナミックな過程である。とくにハイエクは、市場において最も重要なのは、経済活動を通じて各参加者がそれぞれ持っている前提条件(「与件」)そのものが変化していくことであると考える。先にも述べたように、消費者の好みや生産者の技術といった前提条件はあらかじめ自明でも確定したものでもなく、経済活動のなかで変化していき、かつ参加者自らが「発見」していくものである(153頁)≫。このような見方は、科学で言えば複雑系科学に近いと言えそう。そもそも複雑系科学は、ハイエクの思考と同様にボトムアップの科学と言えるだろうし。なお、ハイエクと複雑系科学の関係については「第4章 「関係性」の心理学」を取り上げたときに検討する。
さらに著者はハイエクの市場に関する考えについて次のように述べている。≪予想された需要と供給が完全に一致して均衡し維持されることはむしろ稀であり、市場はそのこと自体をいつも実現するわけではない。あくまでそれは、「均衡」へと向かっていく「傾向」としてしか表現できないものである。しかし、そうした「均衡への傾向」に合わせて、生産者だけではなく消費者もが、刻一刻と変動する価格や状況をにらみながら、それぞれの生産計画や消費計画を絶えず再検討していくプロセスこそ重要なのである。¶こうして人々は競争に参加することによってのみ、何が今、希少なのか、そもそも何が財とみなされるのか、それはどのくらい価値があるのか、次にどんな準備が必要なのか、目標に対する現時点での自身の立ち位置はどこなのか、といった新たな知識を「発見」することができる。こうした「知識」や「情報」の「発見」的機能こそが市場競争の本質であり、最大の優位性なのである(155〜6頁)≫。上からの押し付けではなく下からの「発見」という発想は、まさにボトムアップの思想家の面目躍如といったところ。この考えが、のちのハイエクの「自生的秩序論」に結実していくのですね。それについて次のようにある。≪それ[自生的秩序論]は、競争的な市場経済を単純な計算過程や道具と見なすのではなく、各個人が根源的な無知のなかで試行錯誤を行なうことで形成される、一つの複雑な有機体としてのシステムについての分析である。こうした数多くの人々に分散し、対立も含みながら相互に連関している「知識」によって成り立っている秩序を、単一の理性が俯瞰的に把握して全体を「設計」することは不可能である。それゆえ、そうした手段で「理性社会」を構築しようとする社会主義やファシズムといった全体主義は、「設計主義」あるいは「集産主義」として厳しく批判されることになる(158〜9頁)≫。
「理性」やそれに由来する「合理性」に関して根本的に考え違いをしている人々は、この「設計主義」に陥りやすい。現代の日本にも、その手のファシスト的な思考様式を持つ人間は政治家や知識人を含めごまんといる。それが現代の悲惨な状況を生んでいると個人的には考えている。だから次のような結果が生じてしまうのですね。≪それらの立場[社会主義やファシズム]は、ハイエクが指摘するような個々人の知識が再発見、再創造されていくプロセスとしての市場が持つ真の合理性にはまったく気づいていなかった。市場過程自体は、(…)「時間」の経過を必要とし、参加者の意志と行動の絶えざる再調整の長い連鎖であるために、景気変動やそれに伴う失業などが発生した場合、それ自体が不合理なシステムであるとの認識が広まってしまう。しかし、社会主義やファシズムといった体制は、あくまで近視眼的な「合理性」だけしか認識できなかったために、仮に、対等の市民同士の連帯にもとづく協同経営といったスローガンを抱えようとも、それらは必然的に少数エリートによる社会の垂直的な管理へと移行し、個人の自由は存在しなくなる。それこそが「隷従の道」という、ハイエクが「集産主義」からの浸食に対して感じていた大きな危機感であった(177頁)≫。このような状況は歴史的な話に限られるわけではなく、古臭く響く社会主義やファシズムという言葉をグローバリズムやポリコレなどのトップダウン的なイデオロギーにまみれた思想信条を意味する用語に置き換えれば、今後も十分に起こり得るばかりでなく率直に言って前述のように日本でも現在すでにその徴候が見られるとさえ言えるかもしれない。
ということで「第4章 「関係性」の心理学」に参りましょう。ところでハイエクはシカゴ大学に移って以後、経済学者から社会哲学者へと転身したのだそうな。よって第4章からは、経済よりそれ以外の学問分野に関する記述が増えてくる。「「関係性」の心理学」という章題も、そのことをよく示している。この章で取り上げられているハイエクの著書は一九五二年に刊行された『感覚秩序』で、この本では心理学はおろか、脳のニューラルネットワークなどの脳科学の知見にさえ言及しているらしい。ここで10頁近くにわたって説明されているハイエクの脳科学的見解を詳しく説明することはしないが、ハイエクの脳科学的見解は決しておままごとのようなものなどではなく、かなり本格的なものであったことが次のような記述からも窺えるという点は指摘しておきたい。≪現代の脳のシナプス構造の理論的基盤はヘッブの法則と呼ばれるものだが、ハイエクの法則は基本的にはそれと同じである(216頁)≫。あるいは次の指摘はどうか。≪脳神経科学の立場から意識が主体のなかで統合され変容していくメカニズムを分析した業績で一九七二年にノーベル生理学・医学賞を受賞したジェラルド・エーデルマン(1929-2014)は、ハイエクがヘッブとほぼ同時期にきわめて類似した仮説を着想したとして、両者を自らの先駆者と位置づけている。とくにエーデルマンは、ハイエクの唱える「分類」という概念が知覚や精神の成り立ちを理解する鍵だと指摘する(216頁)≫。ヘッブの名前は脳科学を少しでもかじったことがある人なら誰でも知っているはずだが、これまた脳科学を少しでもかじったことがある人なら誰でも知っているはずのエーデルマンにそのヘッブとともに先駆者と言われるのはハイエクの提起する脳科学的な見方が並外れたものであったことがよくわかるというもの。
では彼の脳神経科学的な見解がここまで述べてきた経済や市場の話とどう関係するのか? たとえば次のようにある。≪生物あるいは人間の「感覚秩序」とは、「差異化」をもたらす「分類」の過程を経て生まれるが、それはあらかじめ何者かが熟慮のうえで設計したものではない。「分類」が複雑に絡み合い、重なり合うなかでの結果として生じるという意味で、それは「自生的」である。ハイエクの観点において人間や生物が単純な機械と異なるのは、こうした能動的かつ「自生的」な「分類」の機能が備わっている点にある(208頁)≫。かなり牽強付会、我田引水気味ではあるけど、言いたいことは何となくわかる。ただ私めの勝手な印象を言わせてもらえば、「自生的秩序」をうんぬんするのであれば脳神経科学より進化科学に依拠したほうがもっと説得力のある議論になったのではないかと思える。この印象が必ずしも的はずれでないことは、著書も「終章 ハイエクの自由論」で次のように述べていることからもわかる。≪晩年のハイエクは、慣習的秩序であり一歩間違えれば霧散しかねない自由主義の安定を最終的に何に託すかに苦慮していた。彼はその一環として進化論に着目し、生物学とは異なる社会科学独自の理論を打ち立てようとしていた(421頁)≫。とはいえ、≪残念ながら、結局、ハイエクの議論において進化論的な社会科学は未完のまま終わった(422頁)≫のだそう。確かにそれは残念じゃ。
次に取り上げたいのはハイエクと複雑系科学について。それに関して次のようにある。≪この頃[『感覚秩序』が刊行された頃]からハイエクは、経済現象も複雑系の一環として理解するようになる。『感覚秩序』もまた、そうした文脈のなかで書かれたものであり、「自生的秩序論」へと展開されていく以後の彼の著作でも、上記の論者たち[プリゴジン、シュレーディンガー、モルゲンシュタイン、フォン・ノイマンら]の成果を援用する記述が目立つようになる。¶その後一九七〇年代に入ると、理論生物学の分野ではオートポイエーシス(自己創出)と呼ばれる概念が提唱されるようになった。それは、単純な機械とは異なる生物の有機的構成を成立させているものとは何か、という問いに答えるべく誕生したものであり、細胞や神経系、そして生命体といった対象を、構成する要素を絶えず複製しながら、全体をも絶えず再生産、再構成しつづける自己組織的なシステムとして理解する。¶オートポイエーシスもまた、神経システムが生み出す感覚とは外的な物理的世界と直接対応しているわけではなく、それぞれの生態に適したものを選択的に獲得しているという意味で相対的であると理解する。システムの自己組織性も合わせ、ハイエクはこうした二〇世紀後半の新たな生命観の先駆者であった(219〜20頁)≫。複雑系科学に関してはわが訳書ではメラニー・ミッチェル著『ガイドツアー複雑系の世界』で詳しく説明されているのでぜひ参照されたい。ただし上記引用にもあるように経済現象も複雑系科学の対象ではあるが、ミッチェルは経済学者ではないためか経済に関する言及はほとんどない。
さらにはエルンスト・マッハからの影響について≪古典的なニュートン力学への批判を行なったマッハの主張は、(…)ゲシュタルト心理学、そしてハイエクの心理学にも決定的な影響を与えた。(…)ハイエクの思想全般に見られる、個別の要素の単純な積み重ねではなく「関係性」を重視する全体論(ホーリズム)的な特徴は、後年になってからの産物ではなく、むしろマッハの著作に初めて触れた頃の相当に早い時期から持ち続けたものであったと思われる(223頁)≫と述べられている。他にもウィトゲンシュタインやポパー、あるいはメルポンや哲学者ギルバート・ライルらからの影響についても論じられているけど、キリがなくなるのでここではとりわけマイケル・ポランニーが提唱する「暗黙知」との類似性についてだけを取り上げておきましょう。次のようにある。≪「分散した知識」を重視するハイエクの知識論は、むしろマイケル・ポランニー(1891-1976)が提唱した有名な「暗黙知」の概念に接近している。ハイエクが自著において直接その言葉を使用していないことには注意する必要があるが、二人はやはり友人であり互いに影響関係にあった(238〜9頁)≫。また、≪市場過程も含めハイエクが、ポランニーの主張するような知識の「創発」過程に強い関心を示したのはある意味自然なことであった。(…)「自生的秩序」という用語の使用もポランニーからの影響である(240頁)≫とある。「暗黙知」の何たるかはここでは説明しないが(本を持っている人は239頁から240頁にかけてを読まれたい)、ただ一点指摘しておきたいのは「創発」とは複雑系科学の概念であり、「部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が全体として現れる」ことを意味するこの概念は、ボトムアップ思考者たるハイエクの考えにみごとに当てはまると言えるでしょうね。とりわけこの第4章を読んでいると、ハイエクの思想が、肯定的にせよ、あるいは(行動主義者、フロイト主義者、論理実証主義者などに対しては)否定的にせよ、科学を含めたあらゆる分野に属するさまざまな人々の影響を受けて成立していることが非常によくわかる。良く言えば学際的、悪く言えば折衷的と言えるかもね。
ということで「第5章 自由の条件」に参りませふ。まず『自由の条件』という本で提起されているハイエクの自由の定義が、次のように紹介されている。≪それ[自由]は端的には、人々がなんらかの行為を行なうにあたって「他人の恣意的な意志による強制に服していない状態」であると定義される。別の言い方をすれば、「ひとが自分自身の決定と計画にしたがって行動する可能性」、あるいは「一般的ルールに従って禁止されていない限りすべてを許可している状態」となる。いずれにせよ、自由とは個人が自らの行動を自らの意志で行ない、他人からの強制に服従させられない状態を表している(256〜7頁)≫。これはアイザイア・バーリンの消極的自由の概念に類似するように思える。なおバーリンについては、「終章 ハイエクの自由論」の冒頭でちょっとだけ言及されている。
そしてハイエクが消極的自由を擁護する理由が次のように述べられている。かなり重要と思われるので、長めに引用する。≪ではなぜ、そうした自由を擁護せねばならないのか。なによりそれは、人間が根源的に無知な存在であるからだ。自由な社会こそが、絶えず無知な人間を結びつけ、それまで「意図していなかった新奇なもの」を生み出す可能性を秘めている。端的には、資本形成を含む新たな「知識」や情報である。どんなに優れた人間であっても一個人が持っている知識はあくまで個別的であり、人類全体の総量に比べるならば圧倒的に少ない。しかし一方で、個人が置かれている現在の状況や消費や生産にあたっての自らの選好や、あるいは一企業としての技術的・予算的な条件など、完全ではないにせよさまざまな知識や情報をいちばんよく知っており、リスクを取って行動できるのは当事者をおいて他にはない。先の章でも述べたように、各個人に分散、偏在した現場の固有の知識を政府や計画当局が客観的にデータ化して総合的に利用することは不可能である。それらは、主に市場を中心とした自由な試行錯誤を通じて初めて表面に現れ、他者の知識と結びつき、新たな技術、商品やサービス、さらには予想もしなかった自らのあり方を生み出して社会を変化させていく。¶ハイエクはそれを「自由な文明の創造力」と呼ぶ。自由な行動の試行錯誤の過程は、偶然あるいは不確実性に多くを依存しており、われわれがどこに向かって進んでいくのかは全く明らかではない。自由な社会や市場においては、人々の個別の消費計画にせよある企業の生産計画にせよ、つねに事前の期待と結果とが一致して当初の目論見が達成されるわけではない。彼がしばしば指摘するように、そこでは「期待が失望に終わる」ことが避けられない。だが、誤りを避けられないという可謬性こそが人々や社会を成長させる(259〜60頁)≫。なんとなく進化科学の響きが聞き分けられると感じるのは私めだけかな? いずれにせよ、この箇所には、市場にせよ何にせよ、社会的な事象は静態的にトップダウンに統制するものではなく、動態的にボトムアップで形成される、すなわち自生的に生じるものであるとするハイエクの見方がもっともみごとに反映されていると見ることができよう。ちなみにそれに関連して個人的な見解を述べておくと、最近政府、オールドメディアなどの権威筋の機関が(あるいはかつてツイがトランプのアカウントをバンしたようにSNSプロバイダー自身でさえ)、SNSを規制しようとする動きが見られる。もちろんSNSではフェイクが飛び交っているのは事実である(オールドメディアも大差はないが)。とはいえこのようなトップダウンの規制がまずい理由はさまざまあるが、その一つは、この引用文中にある≪誤りを避けられないという可謬性こそが人々や社会を成長させる≫という進化論的な真実をまったく無視している点にある。ハイエクが現在でも生きていたら、現代の日本のこの状況をどう思うだろうか興味があるところ。
またハイエクの考えとは逆のトップダウン思考に起因する問題に関して、次のように述べられている。≪ハイエクが危惧しているように、近代以前の社会や非西欧地域に、市場制度や自由主義にもとづく法体系、民主主義のシステムをトップダウン的な社会の全面的改革によって計画的に「移植」したところで、簡単には根付かない。むしろ、混乱を招き失敗に終わる可能性も高い。自由な社会とは、人々の行動の累積によって新たなルールが生まれ、さらにそれにともない自発的に自分たちの行動を適応させていく長い過程において初めて現れてくる。これは「自由放任」とは全く異なる(266〜7頁)≫。このような見方から、政府と市場の関係に関する次のようなハイエクの考えが出来する。≪問題は、政府が市場に関わるべきかどうかではなく、適切な関わり方はどうあるべきかである。政府が特定の目標を設定し人々に「命令」するのではなく、法を含む人々が自由に振る舞うための「条件」の設定が重要であり、それは国家介入でもなければ、「自由放任」でもない(272頁)≫。≪法を含む人々が自由に振る舞うための「条件」≫というくだりは語順がよろしくなく、おそらく「人々が自由に振る舞うための、法を含む「条件」」という意味なのでしょう。要するにハイエクは、新自由主義的な小さな政府を単純に擁護していたわけでは決してないことになる。それに関しては著者も次のように述べている。≪何より、ハイエクは国家管理型の市場経済を社会主義の一形態であるサン=シモン主義と呼んで嫌悪した。じつはそれは、旧来の「福祉国家」だけではなくいわゆる「新自由主義」的な「統治」のあり方、どちらにせよ上から人々に枠を嵌めるような、国家制度と財政の維持のために国民が労働力として絶えず再生産されるような体制を厳しく批判したフランスの哲学者ミシェル・フーコーの議論とも重なる部分がある(288頁)≫。社会主義であろうが新自由主義であろうが、ハイエクにとってはトップダウンのやり方は基本的に認められなかった。それにしてもとうとう、左派のフーコーさんとも一緒にされちゃいましたね。
ということで次は「第6章 自生的秩序論へ」に参りましょう。この章では、ここまでに数回登場した「自生的秩序」という概念が論じられている。まず次のようにある。≪「複雑現象」あるいは「自生的秩序」の探究においては、結果の完全な予測は不可能であり、「原理の説明」あるいは「パターン予測」しかできないことをハイエクは強調する。これは科学や心理学や経済理論の否定ではなく、限界を見定めたうえでの擁護である(297頁)≫。あるいは次のようにある。≪それ[自生的秩序]は、個々の構成要素が一定の消極的なルールにしたがって振る舞うことで発展していく、結果の詳細な予測が不可能な複雑な現象である。前章でも述べたように、この消極的という言葉に悪い意味は全くない。消極的ルールは、主に「禁止」されている事項を示すことで、人々の自由な行動を保証する。その「意図せざる結果」として生じる「自生的秩序」は、なんらかの積極的な目的の達成のために設計される、単純現象としての閉じた秩序と対照をなす(300頁)≫。このあたりを読んでいると、「自生的秩序」とは複雑系科学で言うところのロジスティック写像におけるアトラクターのようなものなのかなとも思ったりする。この印象が大きな間違いではないであろうことは、それに続く次の記述からもわかる。≪自然現象においても、なんらかの法則に従いながらも結果の予測が困難な現象はしばしば観察される。(…)気象は、初期条件がほんの少し変わっただけでまったく違う軌跡を示し、長期的な予測は困難である。(…)ハイエクはM・ポランニーに倣って、そうした概念を社会現象においても援用し、言語や市場制度、貨幣制度などを「自生的秩序」の例として挙げる(301頁)≫。この記述からも、ハイエクの思想と、複雑系科学やポランニーの「暗黙知」の概念との親近性がよくわかる。
したがってそのような自生的秩序に基づく市場社会というハイエクの見方はおよそ次のようなものになる。≪それ[市場社会]は消極的なルールにもとづく「法の支配」にもとづく人々の自由な行動、自由な市場競争によって不確実な未来へと発展、進化していく流体的な秩序である。第3章で解説したように、人々は将来を完全に予見することが不可能であり、限られた「分散した知識」、現場の知識しか持たない。ただ市場だけが知識の偏在に対応することができる。だがすでに指摘したように、ハイエクにとって市場とは、つねに正しい状態を表しているから、万能だから、すべての結果が期待通りになるから、擁護されるのではなかった。¶むしろそこでは、もともと持っていた「期待」が裏切られることがしばしばである。しかし、だからこそ市場は、問題点を認識し次なる改善へとつなげていくネガティブ・フィードバックの過程により互いの断片的な知識や情報を結びつけ、新たな「意見」を形成する。そうした分権的な統合と「発見」の機能が市場競争の本質であった(301〜2頁)≫。ちなみにハイエクは「秩序」には二種類あって、自生的秩序の他にも、≪明示的かつ意図的な設計によって「つくられた秩序」(308頁)≫が存在し、法理論においては「ノモス」としてのルールによって生じる「自生的秩序」を「コスモス」と、また「つくられた秩序」を「タクシス」と呼び、次のように論じているとのこと。≪自生的秩序としての社会のあり方は地域ごとに異なり、一様ではない。(…)「ノモスのルール自体が、一般的かつ消極的という条件の下で地域や社会ごとに異なる性格や内容を持つことは充分にありうる。同じルールが適用されたとしても、風土や地理的なものを含むさまざまな条件の違いによって、「意図せざる結果」としての自生的秩序はさまざまな相貌を見せるであろう。その意味でハイエクの議論は、世界を単純に均一化しようとするグローバリズムとは異なる(310〜1頁)≫。「その意味」も何も、ここまでの議論すべてにおいて、ハイエクの見方がトップダウン的なグローバリズムとは無縁であることが明らかだよね。
それに続けて次のようにある。「一方「つくられた秩序」=「タクシス」とは、明示的かつ意図的な設計によって生まれた秩序、あるいはその一環としての領域がはっきりとした組織のことを意味する。「タクシス」は、「テシス(thesis)」のルールによってそのあり方が定められる。(…)これらは何々をせよ、という具体的な命令の形をとるという意味で積極的かつ「目的依存的」なルールであり、制定法として示されることが多い(311頁)≫。ノモスのルールが消極的であるのに対し、テシスのルールは積極的であることになる。ただし著者は、ここで留意事項を加えている。≪ここで注意しておきたいのは、ハイエクは、「ノモス」のルール、あるいはそれによって生じる「コスモス」としての秩序だけを肯定して、「テシス」のルールや「タクシス」としての秩序を全面的に否定しているわけではない。確かに彼は、ケインズ型の財政政策や全体主義国家、そして福祉国家における政府権力の肥大化を厳しく批判したが、政府の完全な撤廃を主張する無政府資本主義や、政府の役割を国防、警察、司法に限定する最小国家論とは異なり、福祉制度や社会資本整備など公共財の提供を含むさまざまな政策や行政制度の役割を一定程度認めている。(…)つまり、各種組織としての「タクシス」は「コスモス」=「自生的秩序」に包括される形で、言い換えれば、「テシスの」ルールが「ノモス」のルールの制御下にあるという限りで存在が認められる。あくまでハイエクが批判したのは、社会秩序全体を「タクシス」としての政府の統制下に置き換えようとする試みに対してであり、単純な否定ではない(311〜2頁)≫。私めの勝手な解釈を加えれば、「コスモス」=「自生的秩序」というのは、人々の生存や生活が関与する、私めの用語で言う「中間粒度」の秩序を意味する。だからその秩序の範囲であれば、「テシス」のルールも認められることになる。さもなければ国家も政府もいらないという無政府主義(アナーキズム)に陥らざるを得ない。さすがにハイエクは、そんな無謀なことを主張しているわけではない。
それに続いて「純粋法学」を提唱した法哲学者ケルゼンの法理論に照らしつつ法をめぐるハイエクの見解が説明されているが、それについては次の一点を引用するに留める。≪なによりハイエクは、ケルゼンが法を実定法のみに限定したことや、法から価値理念を徹底的に排除しようとしたことがその原因[ナチスが台頭しワイマール体制が崩壊した原因]だとみなした。ケルゼンが擁護したかった体制も含め、あらゆる社会秩序はなんらかの価値理念に依拠しているゆえに、その排除の試みは不徹底に終わらざるをえず、結果として悪しき理念の侵入と拡大をゆるすことになる(322頁)≫。価値理念を捨象するか否かに関しては、もっとあとの二〇世紀後半になってチャールズ・テイラー、マイケル・サンデル、アラスデア・マッキンタイアらのコミュニタリアンと、かの『正義論』のジョン・ロールズのあいだで繰り広げられた論戦でも繰り返されるわけで、それに関しては本書でも終章でかなり詳しく論じられているが、それについては他の本を取り上げたときにも扱っているので(たとえば最近では仲正昌樹著『アメリカ現代思想』(NHKブックス))、ここでは一切取り上げない。ハイエクの話に戻るとさらに次のようにある。≪むしろ必要なのは、消極的ルールの根幹をなす「自由」を強力な理念として全面に掲げることであり、そうでなければ自由社会は維持できない。また法を立法者による制定に限定することは、その近視眼的な脆弱さに絶えず晒され続けることになり、そうでなくても「設計」の危険性が大きい。むしろ法とは、必ずしも明文化できないような、現世代の立法者の思惑を超えた大きな体系にもとづいており、それを前提とする形で進めていくしかない(322頁)≫。≪現世代の立法者の思惑を超えた大きな体系≫とは「ノモスのルール」のことであり、ハイエクは≪「ノモス」を慣習法の一種と位置づけるとともに、あくまでそれを「憲法」を含む実定法の上位に(321頁)≫置いているのですね。
このように「ノモス」を重視するハイエクは、「社会正義」を批判しているという指摘はなかなかおもろい。それに関して次のようにある。≪『法と立法と自由』第二巻はこう[社会正義の幻想と]題されている。そこでハイエクは、いわゆる「社会正義」の概念を「ノモス」の支配を破壊するものとして徹底的に批判している。(…)[ここで]ハイエクが問題にしているのは、「社会的」という概念の無制限な拡大であり、無条件に「倫理的」や「善」といった言葉を指し示すことである。しかしそれが、結局は自由を抑圧し、「テシス」による「命令」あるいは「タクシス」という閉じた社会による全面的支配に陥ることを彼は危惧する(325〜6頁)≫。ネットスラングの一つに、社会正義としてポリコレを振りかざす人々を指す言葉に「社会正義マン」という言葉がある。個人的にはこの言葉は的はずれではないと思っている。というのも、ポリコレという社会正義を大上段に振りかざす人々は、社会正義を「テシス」に仕立てて振り回し、人々の生存や生活がかかる中間粒度、すなわちハイエクの用語を借りれば「コスモス」やそのルールである「ノモス」を無視したり破壊したりしていることが多いから。彼らはまさに「コスモス」という人々の生存や生活がかかる空間を破壊しているのですね。もちろんネットで「社会正義マン」という言葉を使っている人たちは、何かがおかしいと直観的に感じてそうしているのだろうが、ハイエクはその直観の正しさをある程度言語化して明らかにしているとも言える。あるいは政府がSNSを始めとするネットを規制しようとすることにも、同じことが当てはまる。ネットは、いくらフェイクが溢れていようがある意味で「コスモス」を構成しているのであり、ボトムアップによって特徴づけられる「コスモス」のルール「ノモス」ではなく(たとえばツイがやっているコミュノートなどはそれに近いと思う)、トップダウンによって特徴づけられる「タクシス」のルール「テシス」を強引に適用するのはまったくの間違いだと言える。ましてや≪無条件に「倫理的」や「善」といった言葉≫を持ち出して自己の主張を正当化し始めれば、ファシズムも同然なものと化してしまうことは、あえて言うまでもないだろう。著者自身は「社会正義」についてさらに次のように述べている。≪「社会正義」の主唱者は、それが世界の全ての基準であるがゆえに、しばしば容易に寛容を失う。それどころか、往々にして単に自身の好悪の判断に過ぎないものがその名を僭称する。そうでなくても「社会正義」の観念の内実自体、きわめて多様であり、実際には互いに衝突しあっている。それぞれは限られた範囲にしか通用しないため、一般化しようとすればダブルスタンダードになる。疑問を無理に抑えつけようとすれば、権力的にならざるをえない(331頁)≫。これこそ「社会正義マン」というネットスラングが暗示しているところだと言えるのではないだろうか。一般ピープルはバカではなく、その直観は正しいと言える。
ところでこのような「ノモス」と「テシス」の相違を議会制度に持ち込もうとするハイエクの次のような提案はなかなかおもろい。≪それ[ハイエクが提起する議会改革案]は、「ノモス」の制定のための「立法院」と「テシス」の制定のための「行政院」を峻別し、かつ前者を第一院として優越させる点に特徴がある。簡単にいえば、二院制を前提にした上院の相対的な権限の強化である。¶まず「行政院」とは、普通選挙で選ばれる通常の下院議会のことであり、議員内閣制を取る場合には、多数を占めた政党が政権を構成する。ただそこでの決定は、行政法の制定や予算案の策定、一般的福祉政策を含む財政支出の決定といったあくまで「テシス」に限定される。それらは完全に「裁判官」あるいは次の「立法院」が制定した「ノモス」に拘束されており、それを超える命令を発することはできない。¶ハイエクがはるかに多くの役割を期待する「立法院」は、間接選挙で選ばれる上院議員である。選挙権を持つのは、四五歳から六〇歳までの男女で、なんらかの意味で「日常活動のなかですでに力量を示してきた人々」であり、同世代による互選によって選ばれる。選挙権が四五歳[から]なのはある程度の社会経験の蓄積が求められるからであり、定年が六〇歳なのは老人支配を防ぐためである(338〜9頁)≫。ちなみにこのような制度設計が「共和主義」に近いものになるであろうことは容易に予想されるところで、自生的秩序を扱った第6章の最後で、この共和主義に関する指摘がなされている。次のようにある。≪政体の自己崩壊を防ぐための、有徳で「公的」な事項に関心を抱く市民たちによる積極的な参加、あるいは権力均衡を図るための制度構築の必要性、こうした考えが共和主義である。西欧思想の伝統において民主主義とは必ずしも至上かつ無謬の概念ではなく、つねにその腐敗や崩壊への懸念がつきまとっていた。また近代社会において民主主義とナショナリズムは基本的に不可分であり、両者が一体となって制御不能となることもしばしばある。¶それゆえ「共和主義」は、単に君主だけではなく民主主義を含む、政体の暴走や崩壊に歯止めをかける思想として育まれた(345頁)≫。「ナショナリズム」うんぬんに関しては、結局それをどう定義するかによって評価が大きく変わってくるはずだという点は、他の本を取り上げたときに何度か述べたので(たとえば最近では『外交とは何か』)、ここでは繰り返さない。
ということで本書のしんがりの章「終章 ハイエクの自由論」に参りましょう。とはいえハイエクの言う自由については第5章などで触れてきたので、すでに言及した彼の保守主義批判について述べられた箇所だけを取り上げることにする。ここまでの説明からすると、ハイエクの考えには保守主義の色彩が濃厚に漂っているように思われるが、本人自身は自分を保守主義者とは見なしていなかったらしい。「なぜ私は保守主義者ではないのか」という節に、次のようにある。≪じつは『自由の条件』の最後には、独立した補論として、「なぜ私は保守主義者ではないのか」という挑発的なタイトルの章が置かれている。この論考はハイエクの自意識としても、後世の評価としても微妙な位置付けにあり、それゆえに興味深い存在である(375〜6頁)≫。それにもかかわらず彼は、≪イギリス保守主義の父と呼ばれる政治哲学者、エドマンド・バーク(1729-97)の思想を生涯にわたって敬愛した。彼を自由主義の伝統の担い手としての「真の個人主義者」の一人に分類するとともに、最晩年に至るまで親近感を表明していた(376頁)≫のだそうな。これはかなり奇妙に思える。
ではハイエクは、保守主義の何が問題だと考えていたのか? それについて次のようにある。ハイエクは≪「保守主義」の欠点として主に次の五つを挙げ、自らの立場との違いを強調する。すなわち、@「自生的秩序」を含む社会の変化に対する臆病さや「新しいものに対する臆病なまでの不信」、A「市場の自己調整力」やそのメカニズムへの無理解としての経済学の軽視と権威主義への志向、B原理原則や一貫性にもとづかない便宜主義的な政策の推進、C特定の道徳的信念の強制、C階層的な社会秩序を擁護する傾向、D排他的な「国家主義」(ナショナリズム)的傾向、である(377〜8頁)≫。これを読んで思わず「あの! あの! あの! Cが二つもあるじゃん!」と思ってもた。ケアレスミスなのでそれは置いておいて、率直にいってこれは「保守主義」をどう定義するかにもよるのではないかという印象を受けざるを得ない。Aの後半(権威主義への志向)と二つのCとDは保守というより右翼や国粋主義の特徴に思える。右翼の思考様式は基本的に左翼のそれと同じで(右翼と左翼のあいだには、理念として参照するベクトルの方向が過去を向いているか未来を向いているかの違いしかない)、根本的に保守とは異なることはこれまで何度も述べてきた。@に関しても、保守は現在を重視しているのは確かとしても、それはただ現実の社会を破壊するような過激な行為、たとえば革命のような手段を避けようとしているにすぎず、自生的秩序に基づく変化や改善まで否定しているわけではない。残りのAの前半(経済学の軽視)とBは、「はあ? 何やねんそれ??? そう言える理由はいったい何?」と言いたくなる感じ。
新書本の著者も、それに近い印象を持っているようで、次のように指摘されている。≪こうしたハイエクの保守主義批判は、国家権力への安易な依存や偏狭な排他主義、あるいはアナクロな復古主義への批判という意味ならば、ある程度、的を射ており有効性があるだろう。しかし一方で、学術的にも一定以上の意義や影響力を持つ思想を過度に過小評価している側面も否定できない。ハイエク自身も注意を払ってはいるが、保守主義とファシズムを単純に同一視することは多くの誤解をもたらすであろう。¶なにより、現代の学術的な保守主義とは、因習や陋習、旧弊な価値観の墨守を主張しているわけではまったくない。むしろ過去への深い洞察のもとに急進的な改革を批判し、社会を漸進的に改良、改革していくための思慮深い方策と一般にも見なされており、数多くの思索や研究が蓄積されている(379〜80頁)≫。また次のようにもある。≪近代以降の独断的な合理主義による社会改革や設計の思想は、多くの虐殺を含む無残な結果をもたらした。それへの反発あるいは一種の解毒剤として登場した一九七〇年代後期以降のポストモダニズムとしての現代思想もまた、行き過ぎた相対主義という袋小路に陥った。その点に、日常や慣習、中間組織などの共同体の意義をあらためて再確認し、社会の存続と発展の可能性を見出す穏健な保守主義への期待が高まっている理由がある。¶また共同体主義と同様、保守主義と「リベラル」を含む自由主義は対立する概念ではなく、大きな面で重なりあっている。最近では、後者の正当化のためにも両者の結びつきを積極的に捉える動きとして「保守的自由主義」の概念が提唱されている(佐藤・中澤 2015、桂木 2020)。やはりその意味では、ハイエクには保守主義を過小評価しすぎた側面があると言える(381〜2頁)≫。≪日常や慣習、中間組織などの共同体≫とは、まさに私めが言う人々の生存や生活がかかる中間粒度のことであり、ハイエクの主張する「自生的秩序」とはまさにその中間粒度の発展・維持に貢献する考えだと見ることができる。そう考えれば、ハイエクの思想と保守主義のあいだに、細かな違いはあったとしても大差はないはずであるように思え、新書本の著者もその点を指摘しているものと考えられる。
それから保守主義とともに気になるのが国家に対するハイエクの見方だけど、それに関しては次のようにある。≪彼は生涯、各国家や地域の存在や違いと平和共存を前提に、その枠を超えようとするコスモポリタンであった(385頁)≫。ここで「コスモポリタン」という用語を使うのには、個人的には違和感を覚えざるを得ない。というのも、「コスモポリタン」という言葉には国境をなくした世界という左派的、グローバリスト的な響きがどうしても聞き取れるから。ところがハイエクは≪各国家や地域の存在や違いと平和共存を前提≫にしていたのなら、やはり先に国家が存在している必要があると考えていたことになる。その点はそれに続く次の指摘によってさらにはっきりとわかる。≪ハイエクは一九六三年七月二八日付の『読売新聞』の特集記事において、世界平和のためには、経済開発のための政策なども行なう強力な「世界政府」ではなく、「超国家的立法行為」としての「国際法」の支配の確立が必要だと語っている(385〜6頁)≫。「世界政府」とはグローバリズムやコスモポリタニズム的な発想であるのに対し、「国際法の支配」とは国際主義(インターナショナリズム)に基づく発想だと言える。ここで重要な指摘をしておくと、「国際(インターナショナル)」とあるように、国際主義は国家の存在を前提とする。だから個人的な印象では、ハイエクは国家の存在を必要悪とは考えていたのかもしれないとしても、否定はしていなかったのだろうと思われる。なおハイエクは保守主義の問題として五つ目(Cが二つあるので実際には六つ目だけどね)に≪排他的な「国家主義」(ナショナリズム)的傾向≫をあげているが、保守主義者は、世界政府などといった全体主義のレシピのようなものは否定しても、国際法に基づく国際関係の存在を否定したりはしない。それまで否定するのは、むしろ極右や国粋主義、あるいは極左の特徴なのですね。ということで、最後に次の重要な指摘を引用することでこの新書本の内容の紹介を終えることにしましょう。≪ハイエクにとって「自生的秩序」や市場経済とは、社会から「離床」したものではなく、個人のあり方も含め社会性や「文化的基盤」を背負ったものである。(…)こうした意味でも、ハイエクを戯画化された「新自由主義」や「市場原理主義」の提唱者と捉えることは正しくない(409頁)≫。
ということでこの新書本を読むと、ハイエクがさまざまな分野の知見を学際的に駆使して独自の理論を構築したことが実によくわかる。また一般には彼の思想とは正反対の見方を提示したと考えられている、たとえばケインズやリベラリストのロールズとも、それほど隔たった主張をしたわけではないということも十分にわかる。それらを知るためにだけでも、一読をお勧めしたい。ただ一点だけ指摘しておくと、Cの重複のようなケアレスミスが散見されるのはちょっと残念。ここで一つだけ例をあげておきましょう。204頁に次のような一文がある。≪一つの刺激や感覚の背後には、脳だけではない身体全体の神経細胞のさまざまなネットワークとしての「前感覚的連関(…)」が存在しており、明示的に近くできるのはあくまでその一端である≫。これを読んだ私めは思わず「明示的に近くできる」とはいったい何のこっちゃと思ってもた。おそらくこれは「明示的に知覚できる」の間違いなのでしょう。実はこの例をあげたのには理由がある。その理由とは、これとちょうど逆の漢字変換ミスをわが最新訳書『存在の四次元』でやらかしてもたから。この訳書の119頁に≪ラングリーはビシャと同様、ANSのニューロンが凝集することで神経節になり、知覚の内臓組織を制御するようになったと述べている≫とある。ここで懺悔すると、「知覚の内臓組織」とは、もちろん「近くの内臓組織」の間違いですら。運よく増刷されれば二刷からは直っていることでしょう。何度見直してもこういうのが一つや二つは残ってしまうのですね。新書本の編集者も増刷する際には直しましょうね。いらんお節介かな?
※2025年5月20日