◎佐伯啓思著『神なき時代の「終末論」』(PHP新書)
佐伯啓思氏の本。氏の本は1980年代から読んでいて(『隠された思考』から読んでいる)、最近でも新書本は見つければ必ず買うようにしている。だからPHP新書はほとんど買ったことがないにもかかわらず、この本も買ったというわけ。個人的には佐伯氏は基本的に経済学者だと思っていたんだけど、この本の著者紹介欄には「社会思想家」とあるね。実際この本も、そんな感じがある。内容的には、ひとことで言えばリベラルの価値観に依拠して成立しているグローバリズム批判の本だと言える。だからモノホンのリベラリストではない自称リベラルは、発狂する怖れがあるので佐伯氏の本も、この文章も読まないほうがいいかも(ほんとうは自分をリベラルだと思っている人こそ読むべきではあるんだけどね)。いずれにせよ、グローバリズムは、私めもさんざん批判しているわけなので、同意できる面が多かった。
「第1章 現代によみがえる終末論」から参りましょう。まず著者は、「グローバリズム」「テクノ・イノベーション」「経済成長主義」という三本柱に基づく拡張主義がいつまでも続くと考えている楽観主義者に対するものとして「破局主義」をあげ、次のように述べる。「問題は、「拡張主義」の段階的な抑制、つまり脱グローバリズム、脱成長主義である「スローバリゼーション路線」をとるか、もしくは、人間の理性能力を頼りに可能な限り「拡大路線」をひた走り、後は神に{委/ゆだ}ね、もし破局がくればそれを淡々と受け入れるという方法を取るかであろう。¶そのどちらかしかない。前者は「方法的悲観主義」であり、後者こそは本来の意味での「破局主義(カタストロフィズム)」である。それは破局を覚悟して突き進むからである。そのときまでは満面の笑みで。¶その意味で、われわれは今日、きわめて深刻な分岐点に置かれている。どうするかはわれわれ次第である(21〜2頁)」。「スローバリゼーション」という言い回しは気に入った。佐伯氏の造語なのかな? まあ、それはどうでもいいとして、佐伯氏が前者の「方法的悲観主義」を取るべきだと考えていることは明らかだし、もちろん私めもそう考えている。
ここで気候変動を例に取って、「方法的悲観主義」を取るべき理由について考えてみましょう。人為的な気候変動は科学的に正しいと考えている人は多い。ただこれについては反論も多く(最近読んだ、まともな科学者が書いた本にも、人為的な二酸化炭素排出による地球温暖化は科学的に実証されたわけではないと書かれていた)、そもそも科学者ではない私めは、この件に関しては科学的に正しいか否かの判断を保留するべきだと考えている。気候変動問題は、科学が最終的な審級たるべき案件であったとしても、科学的に正しいか否かをめぐって論争を繰り広げているうちに破局的な事態を招きかねない案件でもあるから、最終的に科学的な答えが出るまでは、「人為的な気候変動は起こっている」とひとまず想定しておくべきだと、言い換えれば佐伯氏の言う「方法的悲観主義」を取るべきだと個人的には考えている。もう少し具体的に言うと、気候変動は、地球の生態系という複雑系が関わる事象だから、二酸化炭素の人為的な排出が原因で気候変動が起こっていることが科学的に実証されるまで待っていて、その間何も対策を講じなかったら、そしてもし現実にその見方が正しかったら、ある日突然、地球という生態系のホメオスタシスを維持するのに必要な何らかのパラメーター値が閾値を超えてしまい、二度と元の状態に戻らないようなカタストロフが発生することが十分に考えられる。個人的な考えでは、気候変動懐疑論者は、科学的な事実を受け入れない陰謀論者だから問題なのではなく、それとは逆に最終的な審級としての科学に徹底的に固執することで、逆に不可逆的な破局をわざわざ招来している可能性が十分にあるから、言い換えれば他の一切の審級を無視する科学絶対主義に陥っているから問題なのですね。だから、彼らには佐伯氏の「本来の意味での「破局主義(カタストロフィズム)」である。破局を覚悟して突き進むからである。そのときまでは満面の笑みで」という言葉がそのまま当てはまる。ここで「方法的悲観主義」を取るべき決定的な根拠として、これまで何度か引用したことのある、『疑似科学入門』(岩波新書)の池内了氏の言葉をもう一度あげておきましょう。「地球が複雑系であるために原因や結果が明確に予測できないとき不可知論に持ち込むのではなく、人間や環境にとっていずれの論拠がプラスになるかマイナスになるかを予想し、危険が予想される場合にはそれが顕在化しないよう予防的な手を打つべきなのである。それが複雑系の未来予測不定性に対する新しい原則で、「予防措置原則」と呼んでいる。たとえその予想が間違っていたとしても、人類にとってマイナス効果を及ぼさない」。まさにその通りだと思う。
それからもう一点指摘しておくと、佐伯氏は拡張主義者に関して「人間の理性能力を頼りに可能な限り「拡大路線」をひた走り」と述べているけど、個人的には、そもそもそのような拡張主義はイデオロギーにすぎず、決して理性的、合理的な思考の産物ではないと思っている。理性的、合理的に考えるのであれば、「方法的悲観主義」を取らざるを得ないことは明確だからね。ということで佐伯氏は、そのような拡張主義の起源を『旧約聖書』の終末論に求め、旧約聖書の世界観の特徴を5項目あげている。ちょっと長くなるけど、章題のみならずこの本のタイトルにも関係するので、その五項目をここに引用しておきましょう。次のようにある。「(1)イスラエル王国の建設が神の導きによる出エジプトから始まったように、ここには、いわば奴隷解放の思想がある。他国で圧政にあえぐもの、使役に使われているものの抑圧からの解放。これはキリスト教でさらに普遍化され、貧しいもの、苦悩にあえぐものの救済というテーマとなる。¶(2)契約の思想。神とイスラエルの民は何度か契約を交わす。そしてその契約履行、とりわけ律法の履行こそが神と人をつなぐ決定的な結節点になる。契約は絶対なのである。ユダヤ教のもつ、「法=神との約束」という思想、それゆえ人の支配ではなく、法の支配を上位に置く思想が生みだされる。¶(3)奴隷であるもの、弱者であるもの、支配されていたもの、彼らが神に対する義と律法の遵守によって、最終的に救済されるという救済史観は、今日的にいえば一種の革命思想ともいえる。「神による救済」において「神」が沈黙するとき、「人による自己救済」という革命思想が登場してくる。¶(4)歴史はいずれ終末を迎えるという終末論的歴史観。(…)真の信者は世界の破局のなかから救済される。¶(5)一種の選民思想。イスラエルの民は神によって選ばれたという思想が根底にある。すると、律法の遵守、正義の実行、道徳的な正しさ、悪との戦い、といった「正義」の実践こそ、人が神に近づく道だという思想がでてくるであろう。「人が神になる」という人間の思い上がりは強く神の戒めるところであった。しかし、人と人の関係において、神に対する義をなしているものの選民意識がでてきても不思議ではない。これはキリスト教においても同様である。世俗化していえば、正義を実行するもののエリート意識である(37〜9頁)」。とりわけ(3)〜(5)は、現代のさまざまな問題を引き起こしているように思われるが、それは以下の章を見ていくうちに徐々にわかってくるはず。そのことを予告するかのごとく、佐伯氏は第1章を次のような文章で締め括っている。「私は、旧約聖書的世界が、今日、われわれの目の前で再現されている、などといっているわけではない。今日のグローバル文明を論じるには、それなりの事実の検証や知見が必要であることはいうまでもない。今日、生じている様々な争いにしても、歴史的経緯、国益の対立、同盟関係などという具体的事情が作動していることはいうまでもない。¶しかしそうであっても、「旧約聖書的世界観」が、とりわけ欧米思想の根底に流れているという印象を{払拭/ふっしょく}できない。というよりも、私自身の関心は、今日のグローバル文明のあちこちに見られる亀裂を題材にしつつ、欧米思想の根底にあるものを探りだしたいのである(39〜40頁)」。
次の「第2章 「はじめの人間」と「おわりの人間」」は、グローバリズムに関する説明から始まる。世界史のなかでグローバリゼーションが進展した時期がこれまで三回あるとのことだが(@15世紀末の地理上の発見から18世紀にかけての重商主義の時代、A19世紀から20世紀にかけての植民地主義、帝国主義の時代、B20世紀末の冷戦終了から現在まで)、三番目の現在進行中のグローバリゼーションには、以前にはなかった特有の性格があることが次のように述べられている。「現代の第三の波は過去のものとは決定的に異なった特有の性格をもっている。それは何かといえば、現代のグローバリズムは、ある種の理想主義的な歴史意識によって作りだされ、また正当化されてきた、という点である。それは、人間の観念が歴史を動かすという独特の信念を{胚胎/はいたい}しているのだ(45頁)」。私めが現代のグローバリズムを批判する第一の理由も、理想主義や普遍主義を現実世界にトップダウンに強引に適用しようとするからであることはこれまでも何度も述べてきた。そこにはまさに、「観念が歴史を動かすという独特の信念」が働いているのですね。「観念」は、「理性」や「合理性」とは異なる。「観念」の典型は「イデオロギー」であり、わが訳書『人は簡単には騙されない』の著者ヒューゴ・メルシエ氏の言葉を借りれば、「イデオロギー」を代表とする「観念」は、直観的にではなく反省的に保たれている。そして反省的に保たれている観念は、メルシエ氏の言う「開かれた警戒メカニズム」のチェックを受けない。だから、直観的に捉えればまったくおかしな考えが本人にとってはおかしくは思えず、「自分は正しい」「自分は正義を行なっている」と独断的に信じ込むようになる。個人的には、現代の大きな問題はすべて、根本的にそこに還元されると思っている。
佐伯氏も似たような点を次のように指摘している。「「近代」とは、「進歩」の観念に支えられ、また「進歩」を作りだす人間の革新的能力によって突き動かされる。前方へ前方へとわれわれをせかし、押しやるものは、変化の先にはよき世界が現れてくるという信念であり、その信念に根拠を与えるものは、ある種の歴史意識なのである。まだみぬ未来にはよいことがあるという歴史意識こそが近代主義のイデオロギーにほかならない(46頁)」。「まだみぬ未来にはよいことがあるという歴史意識」とは、「ユートピア思想」に他ならない。「ユートピア思想」が左派的であるのに対し、「はるか昔に夢のようなすばらしい時代があったと見なす歴史意識」は右派的な国粋主義だと言える。これら両者は、時間的なベクトルは互いに逆向きになっている点では異なるものの、現実よりも理想的な未来、もしくは過去を絶対視して、それを現在に強引に適用し、革命という手段を用いて現実を変えようとする点ではまったく変わらないのですね(革命は左派の専売特許ではなく、右派も行使することは国粋主義者の青年将校が昭和天皇に昭和維新の実現を訴えた二・二六事件を考えてみればわかる)。それに対して、現実を最重要視する保守主義者の歴史意識は、左派の「ユートピア思想」とも、右派の国粋主義ともまったく異なる。この点を理解していない人は多く、大手メディアに至っては保守派=右派とする印象操作に余念がないように思われる。
さらに佐伯氏は次のように述べる。「今日のグローバリズムを正当化する歴史意識とは何か。それは、(…)「自由」や「富」や「人間の活動条件」の拡大こそが人を幸せにする、というあくなき欲望の全面肯定であり、しかもそれがいずれは実現可能だという強烈な信念である。¶もう少し具体的にいえば、自由で平等な政治制度、つまり民主主義、公正で自由な市場競争、科学と技術の絶え間ない革新、それこそが人々の幸福を増進する、という信念である。¶端的にいってしまえば、「自由」と「富」である。この二つを可能にする制度を作ればいいのである。そうすれば、この制度や価値の世界化によって、世界中の人々が同じように幸福を{享受/きょうじゅ}できるであろう。その結果、自動的に世界平和も達成されるであろう(48頁)」。まあ現在の世界を眺めてみれば、そのようなバラ色の社会が実現していないことは一目瞭然でわかる。次に、このような楽観的な歴史観を提示した代表的な人物として、フランシス・フクヤマが取り上げられる。ただ佐伯氏は、単純に批判をするのではなく次のように述べている。「この本[『歴史の終わりと最後の人間』]は、見かけほど楽観的でもなければ単純な歴史観を説いたものでもない。私には、いまだに、この書物の基調をなしているきわめて重要なテーマが十分に論じられているとは思えないのである(51頁)」。フクヤマのこの本は一度だけ読んだことがあるけど、内容は、彼の議論に関するよくある解説以上にはよく覚えていない。佐伯氏の言う「きわめて重要なテーマ」とはいったい何だろうか?
その問題はどうやらフクヤマの最新刊にも関係しているらしい。実はフクヤマは2023年になって『リベラリズムへの不満』という、「自ら唱えてきた「自由・民主主義、人間の権利、法の支配」という「リベラルな価値」の現状を再考(68頁)」する本を書いているのだそうな。この本に関して次のようにある。「この書物のなかで、フクヤマは、自らを相変わらず「リベラリズム」の信奉者だと述べ、基本的態度は崩さないと述べている。にもかかわらず、実際には、彼は今日のリベラリズムを強く批判し、ほとんどリベラリズムに絶望しているかのようにみえるのだ。確かに、書名の通り「リベラリズムへの不満」がこの本を貫いている(68頁)」。余談だけど、このくだりを読んだとき、バリバリのリベラリストである井上達夫氏が『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』という本を書いていることを思い出した(読んだことはないけど)。このフクヤマの最新刊に対して、佐伯氏は次のようにコメントしている。「彼は、自らを「古い伝統的なリベラリスト」と規定してその立場を{擁護/ようご}する。いや、そこへ回帰しようとさえする。しかし、今日のいわゆるリベラリズムが、たとえばポリティカル・コレクトネス(もともと、人種や宗教、性別などについて、偏見を含まず中立に立とうとする立場をさすが、実際には、差別的言説や権力行動を、政治的、法的に「誤り」とする左翼リベラル派の主張をさす)のような主張に行き着いた様をみてみよう。そこには、あまりに過激な自己主張、異なった意見への不寛容、事態の性急な政治化という{殺伐/さつばつ}たる光景が広がっている。¶確かにこれはもはや、多様な意見と寛容を旨とする古いリベラルとは決定的に違っている。(…)だがここで、相互信頼と寛容にもとづく古いリベラルの復活を求めても仕方ない。¶なぜなら、今日の過剰なまでの政治的で不寛容なリベラリズムを生みだしたものは、まさしくフクヤマがかつて描いた「歴史の終わり」に実現される「リベラルな価値」だったからである(68〜9頁)」。
このようなリベラルに対する印象は、私めも持っている。佐伯氏も私めも、あるいは元来リベラリストであったはずのフクヤマも井上氏も(さらに言えばおそらくは後述するジョナサン・ハイト氏も)、同じような印象を抱いているのであれば、現代のリベラリズム(というかリベラル)には相当な問題が鬱積していることに間違いはないはず。たとえば多様性を連呼しながら、異なった意見には徹底的に不寛容で、ことあるごとにそれを政治化するリベラルは、まさに矛盾の塊でしかない。佐伯氏はさらに次のように続ける。「この矛盾は何も特別な考察を必要とするものではない。つまり、承認や尊厳を求める闘争、つまり「自由を求める闘争」というリベラルの思想は、やがては、自由に対するいっさいの障害を排除し、あらゆる抑圧や不合理からの解放を主張し、いかなる差別的取り扱いにも苦情を申し立てるという一種の狂気じみた自動運動に行き着くであろう。「抑圧からの解放」は永遠に続く。しかしこの解放の自動運動は、その車輪を回すのに、多大なエネルギーを必要とし、潤滑油が切れてくれば車輪はきしみ、社会的な支持を失っていく(69〜70頁)」。「一種の狂気じみた自動運動」というくだりを読んで、ファシズムについて論じたハンナ・アーレントの著書にあった「ファシズムにはつねに動き続けていなければならないという宿命がある」というくだりを思い出した。そこからもわかるように、今のリベラルの考えはファシズムと大きくは変わらない。「あまりに過激な自己主張」「異なった意見への不寛容」「事態の性急な政治化」というのは、そもそもファシズムの特徴でもあるしね。
ではなぜそうなってしまうのか? 個人的には、今のリベラルは合理的、理性的な思考力を失って、イデオロギーに完全に絡み取られているにもかかわらず、それを合理的、理性的な思考と取り違えているからだと考えている。イデオロギーがメルシエ氏の言う「開かれた警戒メカニズム」のチェックを受けないことはすでに述べた。ここには合理性や理性に対する根本的な誤解が存在するのですね。次のようなリベラルの批判主義に対する佐伯氏の批判は、まさにリベラルにおける合理性や理性の欠如を浮き彫りにしている。「批判主義は、常に「敵」を外部に求め、自らのあり方を問おうとはしない。こうして、それは、自らの批判のみを正義とみなし、批判に対する批判を受け付けなくなる。その結果、批判主義こそがリベラルを裏切ることになる。だがその理由は、もともとリベラリズムが胚胎した{自家撞着/じかどうちゃく}にあった。内に潜む矛盾のゆえに「リベラルな価値」がその内部から崩壊していくのである(71頁)」。つまり批判の対象をつねに見出していかなければ、言い換えると「一種の狂気じみた自動運動」を続けていかなければ、今のリベラルは存続できないのですね。この佐伯氏の文章をもし自称リベラルが読んだら、必ずや「佐伯氏って、ねとうよだったのか」というレッテルを貼って済ませるだろうね。まさにその行為こそが、佐伯氏の見解の正しさを証明することになるということにすら気づきもせずに。ただ「内に潜む矛盾のゆえに「リベラルな価値」がその内部から崩壊していく」という氏の見立ては、実に厳しい。というのも、リベラリズムはその内在的な論理によって失敗が運命づけられているということを意味するのだから。
では、リベラルが抱えているこのような問題の根源はどこにあるのか? その理由の一つがよくわかるのが次の「第3章 文明の四層構造」なのですね。第3章では、文明、文化、社会に浸透している認知的な側面を四つの階層に分けて捉えるという、非常に興味深い提案がなされている。次のようにある。「われわれが歴史や世界に関わるとき、もっとも表層では、ある種の理念や思想や何らかの高い価値を掲げる。自由・民主主義の勝利という歴史像もそうであるし、マルクス主義の唯物史観もそうである。あるいは、世界のすべての人々が一人残らず平等で平和に暮らせる世界構築などという国連的な理想主義もあるだろう。¶その次の中層にあるのは、現実的なあり方で、個人でいえば、自己利益や生存の確保、仲間との信頼関係などがあり、国家の場合は、国益や勢力圏や生存圏や同盟関係や敵対関係、戦争や紛争などがある。その下の深層にあるのが、ほとんど無意識のうちに人々の思考様式の型を与える文化であり、歴史的経験である。宗教的なものが大きな意味をもつのは、さしあたっては、このレベルである。¶そしてさらにその底の基層まで降りれば、いっそう深いレベルでひとつの集団のあり方を根本的なレベルで支えているものがある。それを「風土的基層」と呼んでおきたい。(…)改めて確認しておけば、「表層」における理念、思想、イデオロギー、「中層」における自己利益、権力など、「深層」における歴史・文化・宗教、「基層」における風土的条件。およそこの四層構造で、この現実へ向き合うわれわれの姿勢を捉えておきたい(108〜10頁)」。ここでは表層、中層、深層、(風土的)基層という四つの階層、私めの言い方では粒度が定義されている。深層と基層の区別はちょっとあいまいに思えるけど、それはよしとしましょう。最後に「われわれの姿勢」とあるものの、実のところこの四階層すべてを考慮に入れてものごとを考えられる人は非常に少ないと思う。たとえば私めの印象では、リベラルは最初の表層だけを捉えて、他の三つの層(粒度)を無視している。だから多くのものごとが見えていないのですね。しかも「表層」しか見ていないと、個々の事象が表面的には個別的に見えても、実は「中層」「深層」「基層」において、たとえば文化などを通じて、深いところでは結びついていることが見えなくなる。だから、現実的に見て恐ろしく的はずれの判断を下すようになる。
ここで一例をあげておきましょう。それは移民問題に関して。大手メディア(左派が多い)やリベラルは、移民問題を右傾化のせいにしているように思われる。彼らが移民問題を右傾化のせいにする理由は、彼らが佐伯氏の言う表層のレベルでしかものごとを見ていないからなのですね。『文化はいかに情動をつくるのか』の訳者あとがきにやや詳しく書いたけど、移民問題は右か左かなどといったイデオロギー、つまり表層の問題ではない。そうではなく、人々の生活と、それを担保している宗教や文化が深く関わる中層、深層、基層の問題なのですね。だから大手メディアやリベラルには移民問題の本質がまったく見えていない。私めは、表層しか見ようとしない、あるいは見ることができない大手メディアやリベラルの言うことを聞いていたら、移民問題は絶対に解決できないと思っている。なお移民問題については、『ナショナリズムと政治意識』でも取り上げたのでそちらも参照されたい。
そのような表層しか見ようとしない現代のリベラルの問題については、佐伯氏も次のように指摘している。「今日、現象の「表層」において、われわれはグローバリズムの進展を自由の拡大として理解し、「リベラルな価値」の普遍性を唱えている。しかしそれは一皮むけば、「中層」の国益の対立や、時には戦争という厳しい現実が姿を現す。しかし、より重要なのは、その調和や対立をもたらす背後をみれば「深層」の歴史・文化、そして思考の祖型としての宗教意識があるということだ。そして、さらにその先には「基層」としての「風土」が広がる。¶少し簡単にして、「価値観」に焦点を絞れば、価値にも「表層」と「深層」があり、われわれは、この価値の二重構造の世界に住んでいる。一方で、「表層」では、グローバル化が進展し、「リベラルな価値」が唱えられ、フクヤマのいう「歴史の終わり」がグローバル・イデオロギーとなって、なかなか見栄えのよい「表層的価値」を掲げることはできる。¶しかし他方で、それがうまく機能しない場所では、その背後に隠された文化や風土がもたらす独自の価値観が鎌首をもたげてくる。現象の「深層」にはどこまでいっても文化や宗教が横たわっており、そこには、いわば「無意識の価値」が潜んでいる(110〜1頁)」。まさに移民問題が噴出するのは、「表層的価値」によっては解決のできない、「中層」「深層」「基層」における齟齬が移民と受け入れ住民のあいだで生じるからなのですね。
ただし、表層的価値は無視してしかるべきだと主張したいのではない。表層的価値はとりわけ未来における「中層」の維持を可能にしてくれる。前述の気候変動を考えてみればよい。最大でも国家単位である「中層」に留まっていては、気候変動に対処することはできない。何度も述べていることだけど、トランプの「自国中心主義」はそれ自体としては何も間違っていない。しかし、パリ協定のような国際条約からの離脱を見てもわかるように、彼は本来未来の中層を守ってくれるはずの「表層」の決まり事を無視する点で間違っている。トランプを憎悪しまくる左派メディアが佐伯氏の言う「中層」「深層」「基層」を無視して「表層」しか見ていないのに対して、彼は前者の三つの層、とりわけ「中層」だけを見て、「表層」を完全に無視している。どちらのあり方も間違いなのですね。ちなみにアカラサマ、もといステマを兼ねてつけ加えておくと、『文化はいかに情動をつくるのか』では、欧米文化を支配しているのがMINE型インサイド・アウト情動であるのに対し、非欧米文化を支配しているのはOURS型アウトサイド・イン情動であると論じられている。MINE型インサイド・アウト情動とOURS型アウトサイド・イン情動とは何かについては同書を参照して頂きたいが、ここではとりあえず前者は個人を重視するのに対し、後者は文脈(文化、宗教、人間関係)を重視するとだけ述べておく。ここで重要なのは情動でさえ文化によって規定されている点であり、情動すら文化の影響を受けるのであれば、異文化間で発生した、移民問題のような軋轢が余計にエグくなることは少し考えてみればわかるはず。移民問題とはそういう問題なのであり、右傾化などまったく関係ない。
ところでリベラルには表層しか見ない傾向があるという点に関しては、別の観点からほぼ同じことを指摘している本がある。その本とは、そう、わが訳書、ジョナサン・ハイト著『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のことね。ちなみに佐伯氏はようわからんとしても、私めは実証的な証拠に基づいて議論しているわけではないのに対し、ハイト氏はインターネットを介した大規模なアンケート調査を実施し、それを通じて得られたデータをもとに系統的に立論している点に留意されたい。氏は道徳が人の心に訴えるいくつかの基本要素から構成されると見なす道徳基盤理論を同書で提起している。そしてそのような道徳基盤の候補として、〈ケア〉〈公正〉〈忠誠〉〈権威〉〈神聖〉、そして〈自由〉をあげている。ここではその内容をいちいち紹介することはしないが(ぜひ同書を読んでね!)、保守はそれらの道徳基盤のすべてに依拠するのに対し、リベラルは〈ケア〉基盤と〈公正〉基盤にしか依拠していないことを、アンケート調査から得られたデータをもとに発見している。ここで留意すべきは、〈ケア〉基盤と〈公正〉基盤が、佐伯氏の分類による「表層」に相当し、〈忠誠〉基盤と〈権威〉基盤が「中層」に、また〈神聖〉基盤が「深層」もしくは「基層」に属すると考えられる点である(〈自由〉基盤は「表層」に属すると考えられるが、この基盤はハイト氏自身からして、もてあまし気味の部分がある)。そう考えてみると、ハイト氏の道徳基盤理論からも、リベラルは「表層」に拘泥するのに対し、保守は「表層」「中層」「深層」「基層」のすべてに依拠していることがわかる。ハイト氏の理論についてはここではこれ以上触れないので、興味を感じた人はぜひぜひ読んでみてね!
佐伯氏は第3章を次のように述べることで締め括っている。「結局のところ、各文明の根源感情を無視して、西側の普遍的価値によるグローバリズムを推進するには無理があるのだ。世界がそう単純な構造でできていないことはロシア・ウクライナ戦争で痛感したはずなのである。¶その意味では、われわれは、面白い時代に生きているともいえる。表層にある「理想的な価値」は剥がれ落ちつつあり、それぞれの国や地域の利害によって世界は動揺させられるが、それを動かすものは何かといえば、深層にある無意識の宗教的なるものであり、また、「根源感情」なのである(144頁)」。ここにある「根源感情」とは、まさにOURS型アウトサイド・イン情動なのですね。その点を理解しない限り、移民問題を始めとして、現代において全世界で噴出している数々の問題は、絶対に解決できないだろうというのが私めの考え。
ところで佐伯氏は「第4章 アメリカとロシアを動かすメシアニズム」の冒頭でシュペングラーに言及しつつ文化と文明の違いについて語っている。実は私めは、「文化」に言及することは多々あっても、「文明」に言及することはまずない。ところが、その理由をよく考えたことはなかった。でも佐伯氏の記述を読んで、その理由がわかった気になった。次のようにある。「西欧文化の{絢爛/けんらん}たる成果とは、何よりも合理的な科学と技術、産業と生産、貨幣による市場経済、都市的生活と大衆、民主的な政治などといった近代的価値観の普遍性にある。西欧という長い歴史と豊かな創造性をふんだんに盛り込んだ土壌にはぐくまれた文化は、その高度化の極みにいたって「普遍的なもの」となってゆく。¶だからそれは必然的にヨーロッパの手を離れる。合理化され、客観化され、形式化され、土地や歴史や文化のもとを脱し、世界中へ伝播されるだろう。そのとき、それはもはや土壌の刻印を押された「文化」ではなく、特定の土地から離陸して世界へ飛翔する「文明」となる。¶かくて「文化」と「文明」の違いは次のようになる。「文化」は、具体的な場所(大地)と時間(歴史)との深い結びつきのなかで試行錯誤を重ねながら、ちょうど土地を耕すように時間をかけて新たな作品を作りだす。それは、多面的で持続的かつ創造的なダイナミズムを有す。それに対して、「文明」はすでに「成ったもの」であり、その「成ったもの」の高度な応用であり拡張であり広範な伝播である。¶「文化」には、大地や歴史を背負って何かをなそうとする生命力、あるいは「魂」が強く作用する。これに対し、「文明」にあるのは、普遍的合理性や整った抽象的形式であり、大地や歴史から遊離した形式的な理性のもつ広い世界性なのである(146〜7頁)」。要するに文明は普遍的、抽象的であるのに対し、文化は特定の場所や歴史に結びついた、まさに私めが言う中間粒度に属するものだということになる。中間粒度をとりわけ重視する私めが、「文明」という言葉をほとんど使わないのには、そういう理由があったのかと自ら気づいたというわけ。
むしろ「文明」は、世界に拡大していこうとする世界性、というと聞こえがいいが、実のところ拡張主義、言い換えると帝国主義と強い関係があると見なすことができる。この観点から、佐伯氏はアメリカとロシア(ソ連)に関して次のように述べている。「シュペングラーの「予言」通り、第一次世界大戦後の世界は、西欧が生みだした近代文明の時代となった。しかもそれは、二つの文明へと枝分かれした複数の近代である。ところが、この枝分かれは米ソ冷戦という深刻な亀裂を{孕/はら}んでいた。亀裂を生みだしたものの一方は「自由と民主主義の共和国」と称し、他方は「労働者の共和国」を{標榜/ひょうぼう}する、ともに強力な理念(イデオロギー)を掲げた。¶理念の脱場所性、脱歴史性は、またいいかえれば、{汎/はん}場所性、汎歴史性でもある。特定の場所と歴史に拘束されないがゆえに、それはあらゆる場所で歴史を超えて普遍的とみなされる。それゆえ、アメリカの「自由・民主主義の理念」もソ連の「社会主義の理念」もきわめて広範な世界性を要求することとなる(150頁)」。しかし、この世界性は一皮剥けば実は帝国主義であることが、次のように指摘される。「アメリカの「自由と民主主義の共和国」とソ連の「労働者の共和国」という宣伝に騙されてはならない。ともに、「共和国」というよりも「帝国」というほうがふさわしいからだ。一方は「自由と民主主義の帝国」であり、他方は「労働者の帝国(万国の労働者よ、団結せよ!)」であった。両者の衝突は二つの普遍主義の衝突である。¶少なくとも、この二つの巨大な「共和国」は地球上の地図を塗りつぶすように自己を延長する。共和国を形作る「力」が、そのまま自らを外へ向けて展延して「帝国」になる(151頁)」。このように見てくると、普遍主義的、拡張主義的な「文明」に基づく「帝国主義」が、いかに特定の場所や歴史に限定された「文化」を背景とした国民国家やそれを擁護するナショナリズムとは無縁であるかがわかる。その点については、これまでも繰り返し述べてきたことではあるけどね。
次に語られるグローバリズム批判は、傾聴に値するものなので、やや長くなるけど引用しておきましょう。「確かに、西欧の近代文明は、絶対王政や専制君主との闘争のあげくに「自由」や「平等」をそれなりに実現した。人権思想も富の増大を可能とする生産体制も実現した。だがその結果、生命以上の価値を失ってしまったのである。人が生命を賭して実現しようとする至高の価値をもてなくなったのである。そこに「西洋の没落」がある。(…)人々は、己の存在を賭してまで何かを実現するという生命力に満ちた躍動性を失ってしまう。ニヒリズムがひたひたと近代文明を{蝕/むしば}んでいく。自由と平等という理想が人々に生命を与え、生の目的と死の意味づけさえ与える歴史は、まさしくヨーロッパの「文化」にほかならなかった。しかし、それが、一定程度実現し、政治思想のなかに普遍的なものとして、教科書に書かれた知識になってしまうと、自由からも平等からも人を鼓舞するエネルギーは失われてゆく。それは普遍的で形式的でさして新鮮味のない「文明」となるのである。(…)これでは、非西欧圏が西欧文化や欧米の政治経済を模範にする理由はない。グローバリズムの理想へ向けたアメリカの夢想は永遠に見果てぬ夢に終わるだろう。それにもかかわらず、西欧発の「リベラルな価値」を看板にした世界秩序構想に頼るほか、「グローバリズム」を支える思想はないのである。グローバリズムは現実であるが、その価値観は宙に浮いた{蜃気楼/しんきろう}のようなものになりつつある(156〜8頁)」。蜃気楼になるのは当然だよね。だって普遍性に固執するグローバリズムは、場所性や歴史性から浮遊しているんだから。それにつけても、日本にはなんと出羽の守が多いことよ。彼らは、このような事態を真剣に考えているのかと思わざるを得ない。第4章の残りは、ロシア・ウクライナ戦争にも関連づけながらロシアを突き動かしている意識や精神性が論じられているけど、その部分はやや特殊に思えるのでカットする。ただし「第4節 『旧約聖書』の影響下にある世界」では、ロシアやアメリカにおける終末論やメシアニズムの影響が論じられていて、『旧約聖書』を扱った冒頭の章の主題が回帰してくるとだけ指摘しておきましょう。
最後の「終章 もうひとつの歴史観」はまとめ的な章。まず現代におけるリベラルの問題が次のように繰り返される。「今日、日本や欧米のようないわゆる西側の先進国にあって、社会をきわめて不安定にし、生活のなかにあって様々なストレスを生みだしているものは、「リベラルな価値」に対する障害というよりも、むしろ、「リベラルな価値」による「伝統的価値」の破壊であろう。(…)本当は、「リベラルな価値」の真価は、その抽象的な理念にあるのでも、またそれを理想の旗として掲げる社会運動にあるのでもない。そうではなく、それが具体的な場所や場面で、伝統的な価値や文化に立脚し、人々の生き様や死に様などとしっかりとつながりつつ、人々の生活や精神を豊かにしてゆくその作用にこそあるはずだ(199〜200頁)」。まさにその通りでしょう。人々の生活がかかる中間粒度を無視した「リベラルの価値」など、本来あり得ないはず。ところが現状のリベラルは次のような体たらくに陥っている。「しかしながら、「リベラルな価値」の普遍性や絶対性を唱えるものは、敵は支配層にある、敵は既得権益層にある、敵は伝統を墨守する守旧派にある、といい、最後には、敵はこの私を苦しめている社会そのものにある、といいだす。¶だが、それは無限の社会変革を唱えるだけで、何も生みはしない。そこにあるのは、永遠に成熟しない革命もどきの気分と、延々と続く改革主義・変革主義である。そしてそのことが、われわれをいっそう窮屈な社会へと追いやり、さらに不満と不安を増幅させることになろう。(…)社会変革を、歴史の必然の流れに竿さすものとして固定化し、批判を受け入れなくなると、逆に、このリベラルな価値こそが、人々の精神の健全性を蝕み、やがては、ハーメルンの笛吹きのように、予想もしなかった抑圧の海へとわれわれを連れてゆくであろう。われわれが生活している、この、いわゆる西側先進国はすでにそういう回路にはまり込んでいるのではなかろうか(200〜1頁)」。私めは、昨今のリベラルの言説にはファシズムに近いものがあるという印象を抱いている。だから、「リベラルな価値こそが、人々の精神の健全性を蝕み、やがては、ハーメルンの笛吹きのように、予想もしなかったような抑圧の海へとわれわれを連れてゆく」という佐伯氏の見立ては正鵠を射ていると思っている。「表層」しか見ない彼らは、「中層」「深層」「基層」に存在する多くのものを見落としているのですね。そんな人々が権力を握ったら、これほど危険なことはない。なぜなら、人々の現実的な生活が破壊されるからね。
佐伯氏は、この終章でようやく保守主義の御大将エドマンド・バークを引き合いに出したうえで次のように述べる。「歴史は、革命や変革を繰り返しながら、「リベラルな価値」を実現すべき時間軸を一直線に走りゆくようなものではない。宗教や非合理的な信条から脱して、すべてを世俗的な合理的理性によって照らし出すことを文明の進歩とみる歴史観はここにはない(207頁)」。前回取り上げた『国家はなぜ存在するのか』で、私めはパリ五輪の開会式の問題に言及した。あの開会式にこれ見よがしに提示されていたものこそが、「革命や変革を繰り返しながら、「リベラルな価値」を実現すべき時間軸を一直線に走り」、そして「宗教や非合理的な信条から脱して、すべてを世俗的な合理的理性によって照らし出すことを文明の進歩とみる歴史観」を抱くリベラルのあり方を象徴的に表しているように思われる。佐伯氏は、このような「リベラルな価値」に基づくグローバリズムの根源には『旧約聖書』の一神教的価値観があると述べている。次のようにある。「グローバリズムが、結局は、富と力をめぐる人々の、そして国家間の激しい競争になり、それが、いくつかの戦争や領土争い、資源争奪戦などをもたらした。あくまでその背景には、このグローバリズムを先導し、かつ扇動した欧米の深層の価値観が横たわっている。それは、もとをただせば、『旧約聖書』に行き着く一神教的価値観である(211頁)」。グローバリズムの起源を『旧約聖書』の一神教的価値観に見出すことがどの程度妥当なのかは私めにはよくわからん。そもそもイスラム教徒は『旧約聖書』を信奉しているにもかかわらず、グローバリズムとは対極にあるように思えるしね。とはいえ一つだけ言えるのは、ここには強烈な皮肉が込められているということ。というのも、表層しか見ないグローバリストが依拠する「リベラルの価値」の深層に盤踞する根源的な価値観が、彼らが信奉するグローバリズムを駆動しているというのだから。つまり彼らは、自分たちが見ようとしていないものに無意識的に突き動かされていることになる。要するに彼らは、合理的、理性的ではまったくなく、非合理的、非理性的に思考し行動しているのですね。だから、あのパリ五輪開会式の体たらくになるわけ。
本書には終章のあとに、著者の佐伯氏と斎藤幸平氏の対談が収録されている。斎藤氏の著書は一冊も読んだことがないけど、マルクス主義者のようだから何か過激なことを言うのかと思っていた。でも、年齢がちょうど倍ほどある保守主義者の佐伯氏が相手だからか、それほど過激なことは言っていなかった。なのでちょっと拍子抜けした。ということで、冒頭で述べたようにほんとうのところ、この本はむしろ自分はリベラルだと思っている人が読むべきかもしれない。現在のリベラルの問題がどこにあるかがよくわかるからね。この本を読んで発狂するリベラルは、エセリベラル、自称リベラルと呼ばれても文句を言えないと思う。本来のリベラルは、多様な見解を受け入れる度量があるはずだからね。
※2024年8月23日